天正3(1575)年5月8日[a]これは旧暦。新暦でいうと1575年6月16日にあたる。以後、本稿での日付は旧暦で記す。、武田四郎勝頼は1万5千の兵を動員して奥平貞昌(おくだいら・さだまさ)が僅か500の兵で守備する三河国長篠城を包囲した。勝頼は、寒狭川(かんさがわ)と三輪川[b]現在の呼び名はそれぞれ豊川と宇連川(うれがわ)。が合流する断崖に築かれた城を真北から見下ろすことができる医王寺山に陣城を築いて本陣とし、その前衛の大通寺と天神山と岩代に攻城勢、そして寒狭川対岸の有海村(あるみむら)と篠場野に遊軍、さらに三輪川の対岸は乗本(のりもと)周辺の尾根筋に五つの砦を配置して城を四方から包囲した。寡兵とはいえ城内には200丁もの鉄砲があったため、大通寺勢は巴城(はじょう)郭から、天神山勢と岩代勢が大手口から同時に正面攻撃するも苦戦を強いられた。ここで、前年に高天神城を落城させて勝気に逸る[c]父である武田信玄でさえも陥とせなかった遠江国の山城。勝頼は守備側の不意をついて、寒狭川と三輪川の激流によって削られた渡合(どあい)あたりに攻撃隊を渡河させ、城の搦手にある野牛(やぎゅう)郭を攻撃する陽動作戦を敢行、城正面の守備隊を分散させることに成功し巴城郭と弾正郭を制圧した。これにより残るは本郭と二郭のみとなり、まさに風前の灯(ともしび)となった長篠城を見下ろす勝頼の下に宿敵「信長来る」の一報が届いた。
日別: 2019年6月14日
カテゴリー
- 三河国 (3)
- 上総国 (3)
- 上野国 (8)
- 下総国 (8)
- 下野国 (6)
- 伊予国 (4)
- 伊豆国 (4)
- 伯耆国 (2)
- 信濃国 (10)
- 備中国 (2)
- 備後国 (2)
- 出雲国 (2)
- 北海道・東北地方 (17)
- 北陸・東海地方 (25)
- 周防国 (1)
- 和泉国 (1)
- 四国・九州地方 (19)
- 土佐国 (1)
- 城攻め管理 (1)
- 墓所・菩提寺 (49)
- 外観復元天守 (7)
- 天守あり (51)
- 天守不明 (18)
- 安芸国 (6)
- 山城国 (3)
- 常陸国 (3)
- 復興天守 (7)
- 戦国大名居城 (52)
- 戦国武将 (35)
- 摂津国 (5)
- 播磨国 (1)
- 書籍 (2)
- 木造復元天守 (5)
- 模擬天守 (7)
- 武蔵国 (34)
- 現存12天守 (8)
- 甲斐国 (6)
- 相模国 (8)
- 石見国 (1)
- 筑前国 (2)
- 筑後国 (1)
- 紀伊国 (1)
- 美作国 (1)
- 美濃国 (1)
- 肥前国 (3)
- 肥後国 (3)
- 蝦夷国 (1)
- 讃岐国 (2)
- 越後国 (9)
- 近畿・中国地方 (29)
- 遠江国 (9)
- 関東・甲信越地方 (95)
- 阿波国 (1)
- 陸奥国 (16)
- 非現存 (24)
- 駿河国 (9)
アーカイブ
COPYRIGHTS
このサイトにあるコンテンツは全てクリエイティブ・コモンズでライセンスされています。出典付きでリソースを公開する場合も著作権を行使します。直リンクを含む無断使用を目視またはログ等で確認した際は掲載料として一画像につき2万円(日本円)をアクセス数分請求させていただきます。
最近のコメント