天正3(1575)年5月8日[a]これは旧暦。新暦でいうと1575年6月16日にあたる。以後、本稿での日付は旧暦で記す。、武田四郎勝頼は1万5千の兵を動員して奥平貞昌《オクダイラ・サダマサ》が僅か500の兵で守備する三河国長篠城を包囲した。勝頼は、寒狭川《カンサガワ》と三輪川[b]現在の呼び名はそれぞれ豊川と宇連川《ウレガワ》。が合流する断崖に築かれた城を真北から見下ろすことができる医王寺山に陣城を築いて本陣とし、その前衛の大通寺と天神山と岩代に攻城勢、そして寒狭川対岸の有海村《アルミムラ》と篠場野に遊軍、さらに三輪川の対岸は乗本《ノリモト》周辺の尾根筋に五つの砦を配置して城を四方から包囲した。寡兵とはいえ城内には200丁もの鉄砲があったため、大通寺勢は巴城《ハジョウ》郭から、天神山勢と岩代勢が大手口から同時に正面攻撃するも苦戦を強いられた。ここで、前年に高天神城を落城させて勝気に逸る[c]父である武田信玄でさえも陥とせなかった遠江国の山城。勝頼は守備側の不意をついて、寒狭川と三輪川の激流によって削られた渡合《トアイ》あたりに攻撃隊を渡河させ、城の搦手にある野牛《ヤギュウ》郭を攻撃する陽動作戦を敢行、城正面の守備隊を分散させることに成功し巴城郭と弾正郭を制圧した。これにより残るは本郭と二郭のみとなり、まさに風前の灯《トモシビ》となった長篠城を見下ろす勝頼の下に宿敵「信長来る」の一報が届いた。
今年は令和元(2019)年の連休中[d]正確には史上初の国民の祝日「10連休」。いわゆる「ゴールデンウィーク」の更に上を行く大型連休である。、新しい時代最初の城攻めとして一泊二日の日程で愛知県と静岡県へ。当初の目的地は静岡県浜松市の山奥だけだったけど、宿泊地の都合もあって、せっかくなので初日は四年前に初めて訪れながらも時間の都合で巡りきれなかった史跡が残る愛知県新城市にも足を伸ばしてきたという次第である。
こちらはGoogle Earth 3Dから、今回巡ってきた長篠城跡周辺の地形の一部を抜き出したもの。往時の長篠城は豊川(旧・寒狭川)と宇連川(旧・三輪川)が合流した付近の河岸段丘を利用して築かれた天然の要害であったが、現在でもその特異な地形の名残りが見て取れる:
一度は武田方に従属した長篠城主・奥平氏が信玄の急死を疑って離反すると、新たに甲斐武田家第20代当主となった勝頼は遠江・三河の掌握のため大軍をもって長篠城を包囲したが、まずは兵糧攻めするにあたり二つの川の対岸を含め多くの陣地を築いたとされ、それらの陣地跡(推測)を周辺地形図に重畳してみたのがこちら:
河岸段丘が二つの川によって削り取られてできた断崖のため城の搦手を攻めることは困難であり、攻め手は北側の台地続きとなった大手方面からの攻撃が主になると思われるが、往時は複数の堀が設けられてなかなかの要害になっていたようだ。ただ城の南側には川の対岸から橋が架かっていたと云う説もある[e]例えば『長篠合戦絵巻』などに描かれているらしい。他には本稿で紹介した『諸国古城図』にも橋が描かれていた。ようで、この図には推測した橋(紫色)を二カ所描いたが、もちろん現存はしていないし、位置も不明である。ただ対岸に陣地や砦が築かれていた云うことから搦手からの攻撃や城内監視を意図した包囲網であった可能性は高いと思われる。
また広島県は浅野文庫所蔵の『諸国古城図』(広島市立図書館蔵)[f]旧広島藩浅野家に伝えられた城絵図集で、江戸時代前期には既に廃城となっていたもので、ありがたいことにインターネットから閲覧できるようになっていた。には「長篠城」の古絵図が残されていた(右図はこれに加筆したもの)。長篠城の北側には幾重もの堀と土塁が、そして北西側の大手口あたりには大きな土塁が描かれている:
今回は、晴天の下をJR飯田線の鳥居駅からスタートし、鳥居強右衛門《トリイ・スネエモン》と移設された武田方の将士の墓碑がある新昌寺を経由して豊川を渡り、鳶ヶ巣山《トビガスヤマ》砦跡と姥ヶ懐《ウバガフトコロ》砦跡付近、それから宇連川を渡って大通寺陣地跡、医王寺山本陣跡、天神山陣地跡を巡ってきた:
鳥居駅 → 新昌寺 → (有海村陣地跡) → <中山砦跡・久間山砦跡> → 篠場野陣地跡 → 鳴子網架設地 → 高岩辯財天 → 鳶ヶ巣山砦跡 → <姥ヶ懐砦跡> → 三枝守友・守義戦死之地 → <君ヶ伏床砦跡> → 大通寺の盃井戸 → 大通寺陣地跡 → 医王寺 → 医王寺山本陣跡 → <中山砦跡・久間山砦跡> → 展望台 → <岩代陣地跡・有海村陣地跡> → 天神山砦跡 → 長篠城跡 → 長篠城駅
()内は間接、<>内は遠望
それでも中山砦、久間山《ヒサマヤマ》砦、君ヶ伏床《キミガフシド》砦、岩代陣地、有海村陣地といった陣地・砦跡を実際に巡ってくることができなかったのは残念であるが一部は遠望することができたので、またいつか機会があれば実際に行ってみようと思う 。
こちらは今回の経路と実際のGPSアクティビティのトレース結果[g]但し、トレースの終点は大通寺前で、長篠城跡と長篠城駅までの経路は含まれない。。Garmin Instinct® で計測した総移動距離は10.66㎞(24:20分/㎞)、所要時間は4時間20分(うち移動時間は2時間32分)ほど、消費カロリーは1,424Cだった:
「鳴子網架設地《ナルコアミ・カセツチ》」とされる場所は、豊川に架かる牛渕橋の橋脚近くの「 高岩辯財天《タカイワ・ベンザイテン》」が祀られている辺りまで降りて見てきた。あと姥ヶ懐砦跡近くにある「 三枝守友・守義戦死之地」へは途中、道に迷ってしまったが最後はなんとか見つけることができた[h]まさか金網のゲートをくぐるとは思わなかった。何も案内板が無いので。。
朝11:40くらいにJR飯田線の鳥居駅に到着。ここからスタートした:
無人駅をおりて新東名高速道路がある方角へ歩いて行くと新昌寺がある:
境内を横切って県道R443(富岡大海線)へ。この新東名高速道路の向こう側が武田軍の有海村陣地跡である:
この有海村陣地には山縣昌景と高坂昌澄《コウサカ・マサズミ》ら1千が遊軍として豊川の対岸に陣を置いた。この陣地前から豊川に架かる橋があった云う説があるようだが真偽は不明。甲斐武田四天王の一人とされる山縣昌景は長篠城攻城戦のあとは設楽原合戦で赤備えを率いて徳川家康らに対し左翼に展開して一番に突撃したが無念にも討ち死にした。高坂昌澄は、こちらも四天王の一人である海津城主・高坂弾正昌信の嫡男。長篠城包囲戦時、父が越後勢を監視するために留守居したため昌澄が父の代理として参陣した。設楽原合戦時は長篠城監視部隊として有海村陣地に残ったが、敗退時の乱戦で討ち死にしたと云う。
このまま県道R443沿いを進むと今度は県道R439と合流する。こちらは、この道沿いから中山砦跡と久間山砦跡を眺めたところ:
天正3(1575)年5月20日に、勝頼率いる本隊は設楽原へ進出し、三輪川(現・宇連川)対岸に築かれた五つの砦は風前の灯火となった長篠城の抑えとして残ったが、そのうちの中山砦には那波無理之介《ナワ・ムリノスケ》率いる野州浪人衆2百余と五味与惣兵衛率いる2百余が、そして久間山砦には和気善兵衛宗勝《ワケ・ゼンベエ・ムネカツ》率いる上州浪人衆6百余がそれぞれ陣を置いた。
設楽原合戦に先立って徳川方の酒井忠次、織田方の金森長近らが率いる別働隊4千により、鳶ヶ巣山砦をはじめとする砦が奇襲にあい、中山砦・久間山砦を含め多くの将士らが討ち死にし陥落した。
このあとは県道R439を東へ道なりに進み高速道路の下をくぐると踏切の手前に「鳥居強右衛門磔死之址」の入口が見えてくるが、その先が篠場野陣地跡である:
ここ篠場野陣地には信玄の実弟・武田信廉《タケダ・ノブカド》、信玄の義弟で勝頼の従弟にあたる穴山信君《アナヤマ・ノブタダ》、譜代家老で陣場奉行の原昌胤《ハラ・マサタネ》、そして地元新城の土豪である菅沼定直ら1千5百が長篠城搦手にある野牛郭攻めのため、ここ豊川の対岸に陣を置いた。また豊川に鳴子網を架設して城外からの脱出者を厳しく監視していた。その中で、城から脱出し岡崎城にいる家康に援軍要請をして、その返答を持ち帰えろうと戻ってきた鳥居強右衛門を捕らえたのも篠場野勢である。
信廉は、設楽原合戦では山縣昌景隊に並んで織田・徳川勢に対し左翼を受け持って二番手に槍合わせしたが敗戦濃厚となると勝頼を退陣させたあとに戦線を離脱した。信君は、勝頼が才ノ神へ本陣を移した際に付き従うが織田・徳川勢とは一戦も交えることはなく、こちらも敗戦が濃厚となると戦線を離脱した。そして、「事務方」であった昌胤は中央の内藤昌豊隊に合流し、最後は戦働きを所望して家康の本陣であった弾正山を目指して突撃するも馬防柵にたどり着く前に銃弾に斃れたと云う。
それからJR飯田線の踏切を渡り、一級河川の豊川に架かる牛渕《ウシブチ》橋へ:
こちらは牛渕橋の上から眺めた長篠城址。豊川と宇連川によって削られた断崖上の幟が立っているところが本丸跡:
同じく牛渕橋の上から橋下に見える豊川の川の瀬(長走)には往時、武田軍が触れると音が出る「鳴子網《ナルコ・アミ》」を仕掛けていたとされる。強右衛門は救援来るの知らせを手に城へと戻る時、ここで捕縛された:
向こう岸へ渡った後、牛渕橋下の橋脚あたりには高岩辯財天《タカイワ・ベンザイテン》さまが鎮座しているということで、鳴子網架設地と併せて見てみることにした。こちらがその入口:
ちょっと急な坂道を下りていくと豊川の川の瀬が見えてくるので橋脚方向へ移動する:
こちらが川の守り神と言われる高岩弁財天さま。いつの時代に置かれたものかは不明である。そして豊川の川の瀬から遠望した長篠城本丸跡。この当時は「長篠合戦のぼりまつり」が開催されると云うことで沢山の幟が立っていた[i]そのおかげで遠くからでも長篠城跡の位置を発見しやすかった 😉 :
そして鳶ヶ巣山砦跡へ向かうため「高岩辯財天入口」まで戻り、目の前にある県道R69から乗本集落へ向かう道を上って行く:
途中置かれた案内板に従って道なりの上って行くと5分ほどで二股に別れる場所に到達するので、集会所らしき建物がある方へ上って行く。手前の脇には「鳶ヶ巣山案内図」も建っていた:
こんな登り坂を登っていくことになるが、この先の砦跡入口には駐車場があるので車でも行くことは可能のようだ:
こちらは農道を上って行くと右手に幟が見えてくるが、これが鳶ヶ巣山砦跡。この砦は他の四つの砦とは異なり、結構な規模があったようで、複数の削平地を郭《クルワ》として利用していたらしい。そのため現在、慰霊碑が建つ場所は砦の一部(5郭跡)である:
さらに農道から眺めた長篠城と武田勢の陣地跡方面をパノラマで:
そして砦跡入口の駐車場から右手にある農道へ入る。この入口すぐ脇に建つ金毘羅神社の土壇は鳶ヶ巣山砦の7郭跡であるらしい:
砦跡へ向かって農道を進んでいくと左手下の谷津へ向かて落ち込む竪堀跡のようなものがあった:
左手に谷津、右手に6郭跡を見ながら進む:
6郭跡を過ぎ小さな堀切の先には案内図や慰霊碑などが建つ5郭跡がある:
5郭跡に建つ「長篠城之役・鳶ヶ巣山陣・戦歿将士之墓」と「鳶ヶ巣の戦い」の案内図:
この砦は鳶ヶ巣山の尾根に従って麓側の1郭から最高所の7郭まで複数の小さい削平地から構成されていると推測され、他の四つの砦の中でも最も規模が大きかった。ここには信玄の異母弟で、勝頼の叔父にあたる武田兵庫介信実《タケダ・ヒョウゴノスケ・ノブザネ》・と小宮山隼人介信近(コミヤマ・ハヤトノスケ・ノブチカ)が率いる5百が配置された。5月20日に勝頼をはじめとする本隊1万2千が寒狭川を渡河して設楽原へ進出した際、長篠城監視の主力としてここに残った。
翌5月21日の夜明け、一日以上かけ吉川の松山峠から大きく迂回してきた徳川家重臣・酒井忠次率いる別働隊4千の奇襲を受けた。この時、砦の背後は全くの無警戒であった信実らは狼狽し大混乱となり緒戦からかなり劣勢となったが、それでも4度も押し返す奮闘を見せた。しかし衆寡敵せず信実と信近はことごごく討ち取られたと云う:
五つの砦を守備していた長篠城監視隊は、その立地上、個々に守備・警戒するしかなく、他の砦の様子を伺うことができない状態であったため全ての砦が連鎖的に壊滅してしまう結果となった。そして、鉄砲隊5百を含む酒井ら別働隊の鬨の声と銃声は、設楽原で対峙していた織田・徳川と武田両軍の衝突の合図ともなった。
これは「天正の杉」と呼ばれる枯れ木。樹齢は不明であるが300年以上はたっているとされ、逆算すると設楽原合戦当時は生存していたと考えられることが由来なのだとか:
ここ5郭跡からは長篠城はもとより、隣の砦である姥ヶ懐砦や中山砦さえも樹木に遮られて観ることはできなかった:
このあとは姥ヶ懐砦で討ち死にした三枝守友・守義兄弟の墓所を参拝するため登ってきた農道を降りて、本久集会所下の二股から今度は東へ移動した:
県道R69と合流する手前に「史跡・三枝兄弟墓入口」の案内があるので、この脇道を上って行く:
するとカギの閉まっていないフェンス扉があるので、ここを開けて中に入り鉄塔が建つ方角へ向かう:
道なりに進んでいくと山道の外れに墓碑が見えてくるが、ここが三枝守友・守義戦死之地とされる:
墓碑が建つ場所が姥ヶ懐砦であろう。この砦は他の四つの砦とは異なり、山頂や尾根筋に構えられた陣ではなかったと云う:
この砦には信玄の奥近習衆[j]世に云う『奥近習六人衆』。三枝守友の他に曽根昌世(のちに蒲生氏郷に仕え會津若松城を縄張した)、武藤喜兵衛(眞田昌幸)、甘利昌忠、長坂昌国(父は奸臣・長坂釣閑斎光堅)。から足軽大将へ出世し、のちに山縣昌景の娘を妻に娶った三枝守友《サイグサ・モリトモ》こと三枝勘解由昌貞[k]文書には山縣勘解由左衛門尉昌貞《ヤマガタ・カゲユ・サエモンノジョウ・マササダ》を称していたことが確認されている。が率いる350が配置され長篠城監視の任についていた。この中には守友の二人の弟である守義(昌吉)・守光(昌次)も含まれ、三枝三兄弟と呼ばれていた。
酒井忠次・金森長近らが率いる別働隊4千が砦を強襲した際、山頂や尾根ではない谷にあったことから敵勢の発見で遅れをとったが、数で劣りながらも三兄弟の奮戦は目覚ましく一進一退が続いた。しかし隣の君ヶ臥床砦を落とした部隊が増援としてやってくると、ついに三兄弟は皆討ち死にした。
なお守友(昌貞)と守義(昌吉)はここに眠っているが、守光(昌次)は赤備えの勇将・山縣昌景の横に眠っている。
このあとは宇連川対岸へ移動するため、まず県道R69へ出て宇連川に架かる文化橋を渡る。ここがまた結構な絶景ポイントだった :
文化橋から振り返って見た君ヶ臥床砦跡方面:
この砦には和田業繁《ワダ・ナリシゲ》が率いる上州勢3百が配置された。和田は上野和田城主で、箕輪城主・長野業政の娘聟で片腕でもあったが、長野氏が滅亡したあとに武田に降伏、上野先方衆として信玄の主要な合戦に参陣した。酒井忠次率いる別働隊の強襲を受けて討ち死にした。
文化橋を渡ったあとはJR飯田線・長篠城駅前を長篠城址方面へ進み、巴城郭跡の手前あたりから国道R257へ向かって、その先の小高い岡の上に建つ大通寺へ。創建は応永18(1411)年で、のちに曹洞宗に改宗した:
往時の本堂や伽藍は設楽原合戦で武田勢が退陣し、織田・徳川勢による追討戦の最中に焼失してしまい、現在の本堂は後世の再建である。また境内の背後には、長篠城包囲戦で武田信豊・馬場信房・小山田昌行らが陣を置いた大通寺陣地跡があり、四年前に初めて訪れた場所でもある。加えて大通寺は地元の団体が歴史遺産を活用する目的で案内している『「長篠の戦」歴史探訪コース』に含まれているようで、モデルコースを含む案内板が建っていた:
この案内板にあるとおり、大通寺陣地跡を抜けた先には勝頼が陣城を築いた医王寺山や土屋昌続・真田信綱・昌輝兄弟らが陣を置いた天神山へ通じている。おそらく往時も陣地間を行き来することができたと思われる。
陣地跡を巡る前に、まずは四年前にも訪問した盃井戸《サカズキ・イド》へ:
ここには、設楽原決戦前夜の軍議で撤退策が退けられた武田家重臣の馬場美濃守信房《ババ・ミノノカミ・ノブフサ》、山縣三郎兵衛尉昌景《ヤマガタ・サブロウヒョウエノジョウ・マサカゲ》、内藤修理亮昌豊《ナイトウ・シュリノスケ・マサトヨ》、土屋右衛門尉昌続《ツチヤ・ウエモンノジョウ・マサツグ》らは落胆し、明日の決戦では一命と賭して戦うだけであると覚悟を決め、水を交わし合って決別の盃としたと云う湧き水が残っている:
この杯井の前には大通寺陣地跡へ向かう案内板が建っていた:
大通寺陣地跡へ向かう山道。往時は、この道を百足衆《ムカデシュウ》らが「信長来る」の伝令を持って駆け巡っていたのかもしれない:
ここ大通寺山は長篠城の瓢郭《フクベ・クルワ》と隣接した場所にあり、この山が武田方の陣地となった時点で包囲された城内の徳川方は兵数差もあってかなりの劣勢であった。現在も竹林の合間から長篠城跡を見下ろすことができるほどである:
こちらは土壇脇に残っていた石積遺構:
しばらく登った先にある削平地が大通寺陣地跡:
この陣地には武田典厩信豊《タケダ・テンキュウ・ノブトヨ》と馬場美濃守信房、小山田備中守昌行《オヤマダ・ビッチュウノカミ・マサユキ》[l]同姓ながら岩殿城主の郡内小山田氏とは別の一族で、石田小山田氏の名跡を継いだ信濃国の国人衆の一人。ら2千が配置され長篠城攻城勢の主力となった。
ここにあった説明板によると:
- 5月13日、長篠城の北側にある瓢郭を攻めて兵糧庫を奪う
- 5月14日、長篠城を総攻撃したあとは長囲みして兵糧攻めの構えに入る
- 5月18日、織田・徳川勢が設楽原へ着陣との報せが入る
- 5月19日、医王寺山本陣で軍議。馬場らの撤退策が退けられ設楽原へ出撃が決定する
- 馬場ら四将が大通寺の井戸で別れの水杯を交わす
- 5月20日、勝頼率いる本隊が寒狭川(現・豊川)を渡河し連吾川を挟んで対陣する
- 小山田昌行は長篠城監視部隊として大通寺陣地に残る
- 5月22日、設楽原決戦
- 典厩信豊は勝頼の退陣に合流して撤退する
- 勝頼の退陣を見届けた馬場は暴れまわってから首を差し出す
この削平地の谷側へ下りてみた:
このまま陣地跡を北上して大通寺山を抜けると:
医王寺方面の案内板が建つ林道に出た:
林道を進んでいくと、まず天神山が見えてくる。写真中の展望台からは豊川の対岸にある陣地跡を眺めることができた:
こちらが医王寺、その背後に小さく見える物見櫓が建っているのが医王寺山:
ここ長篠山・医王寺は永正11(1514)年に創建された曹洞宗の寺院で、薬師如来を御本尊とする。武田四郎勝頼が設楽原合戦に先立って長篠城を包囲した際に境内裏の医王寺山に陣城を築いて本陣としたことで知られる:
境内には山門・本堂・庫裡、蓮池、そして墓地がある他、『片葉の葦』の伝説が残る弥陀池《ミダイケ》、昭和初めの骨董品が展示されている民俗資料館(無料)がある。庫裡の二階には長篠の戦で使用されたとされる槍の穂先や矢尻、陣茶釜などが展示されているのだとか。
そして境内の裏手にそびえている標高は120mほどの丘陵が医王寺山で、比高差は約30m。その場所は600mほど南方にある長篠城全域のみならず自軍の陣地もくまなく展望できる他、長篠城救援のため豊川の下流から寄せ上がってくる敵勢さえも視野にいれることができる立地であったとされる。
境内を歩いて気づいたのが古井戸が多かったこと。これも本陣跡の名残りなのだろうか :
こちらが山門と本堂:
本堂前に建つ「長篠山醫王寺・武田勝頼公本陣址」の石碑:
こちらが弥陀池。「信長来る」の報せを受け、ここ医王寺山本陣に重臣らを集めて軍議を開き撤退策を退けて設楽原への進撃を強引に決めたその夜、眠りについた勝頼の枕元に設楽原決戦を諌めようと葦の精が老人の姿となって現れると、勝頼の勘気《カンキ》を被って斬りつけられた。翌朝、池には生えていた久葦は全て片葉となってしまっていたのだとか。この当時は、残念ながら見頃の季節でなかった[m]イネ科の葦の見頃は10月上旬から中旬らしい。ということは勝頼が滞在していた時期は葦は生えていなかったのでは!?:
このあとは医王寺境内から片道10分ほどの山登りをしながら勝頼が築いた陣城跡を巡ってきた。
ちなみに、この陣城は先に紹介した『諸国古城図』(広島市立図書館蔵)にも「医王寺・勝頼陣城」という絵図が残っていた(右図はこれに加筆したもの):
こちらは医王寺山頂の本曲輪跡に建っていた予想縄張図:
医王寺山の丘陵頂部に築かれた城には、東西方向に三つの郭《クルワ》が連なるように設けられ、主たる防衛施設は堀切と切岸で構成される。本曲輪の西側虎口に土塁状の高まりと狭い通路があり、西曲輪から敵の侵入に対して防衛能力を高めた造りになっていたと推測される。東曲輪は兵を駐屯できるほど広い平坦地であったことから、「甲州流築城術」の特徴である馬出になっていたとも考えられる。
境内の西側と東側にそれぞれ登り口があったので登りは東側から本陣跡へ向かった:
登山道(大手道)は途中まで整備され階段になっていた:
ここが東曲輪跡。この先の堀切と土橋を渡った先が物見櫓が建つ本曲輪跡:
こちらが東曲輪と本曲輪の間にある堀切と土橋跡:
そして東曲輪との間にある土橋から幾段か高い本曲輪跡を見上げたところ。平成26(2014)年に改築された「二代目」物見櫓が建っていた:
こちらが本曲輪跡に復元されていた物見櫓。この上からの眺めは素晴らしく、まるで勝頼になった気分にしたることができた :
天正3(1575)年4月、長篠城攻略のために1万5千の大軍を率いて甲斐国を出陣した武田四郎勝頼は、4月20日から5月1日の間に軍勢を四つに分けて三河国に侵攻、長篠城周辺に包囲網を敷き、ここ医王寺山に本陣を置いた。
ここにあった説明板によると:
- 5月8日、包囲を強め集中攻撃を始める
- 5月11日、野牛門(野牛郭南側に設けられた門)で攻撃を開始(陽動作戦)
- 5月14日、(城方の)鳥居強右衛門と鈴木金七郎が長篠城を脱出して岡崎城へ走る
- 二の丸と兵糧庫を奪う
5月18日に織田・徳川勢が設楽原に着陣したとの報せがあり、5月19日に軍議を開いて設楽原へ進軍を開始する。勝頼も医王寺山本陣を進発して寒狭川を渡河し、まずは清井田へ、そして才ノ神へ本陣を移した。
ということで、まずは物見櫓に昇って本陣跡からの眺望(パノラマ):
ここから各拠点をズームアップしてみる。まずは長篠城跡:
こちらは大通寺陣地跡・長篠城跡・天神山陣地跡(荏柄天神社)方面。正面奥に見える新東名高速道路脇にも小さな物見櫓が建っているが、そこが中山砦跡である:
そして三輪川(現・宇連川)を挟んで長篠城を監視した五つの砦跡方面:
最後は本曲輪跡を見下ろす。なお勝頼本陣の背後を固めたのは小山田信茂・甘利信康ら2千:
帰りは西曲輪跡から下山した。こちらは本曲輪と西曲輪の間にある堀切跡で、堀底道が登城道になっていた:
こちらが西曲輪跡。三つある郭のうち一番小さい:
西曲輪虎口あとから搦手道を下って下山した:
搦手道を降りた先は医王寺の墓所裏だった:
この後は、ここから天神山陣地跡方面へ向かう。こちらが、その登山口で、医王寺山から荏柄天神社が建つ天神山との間には幾つか丘陵があるようで、その一つが見晴台になっていた。そのため、ここから天神山陣地跡までは登り降りが続くことになる:
ここから登った先が見晴台で、医王寺山を眺めるだけの平場なので陣城とは関係はなさそうだが、勝頼本陣は3千もの兵が駐屯していたことから武者溜まりであったのかもしれない:
見晴台から振り返って医王寺山本陣跡を眺めたところ:
見晴台を降りた先には空堀跡と土壇が残っていた。この堀底道を「医王寺・荏柄天神」方面へ進む:
すると天神山陣地跡へ向かう登山口がある:
こちらは天神山陣地跡の手前、医王寺方面との分岐点近くにある展望台:
ここからは長篠城包囲戦では城攻めに加わった岩代陣地跡、そして豊川の対岸に有海村陣地方面を見ることができた他に、設楽原決戦で討ち死にした武田方・馬場美濃守の墓碑や徳川勢で唯一「城持ち」の侍大将クラスで討ち死にした松平伊忠《マツダイラ・コレタダ》の墓碑がある方面を眺めることができる:
天神山陣地の南に置かれた岩代陣地には、「甲軍副将」を継承した内藤修理亮昌豊と西上野先方衆・小幡憲重《オバタ・ノリシゲ》ら2千が配置され、長篠城の攻め手に加わった。信長着到の報せを受けて勝頼が主力1万2千を設楽原へ押し出させた際、同じ西上野経営で見知った間柄の二将は勝頼の才ノ神本陣前の中央に布陣、連吾川正面の織田勢(柴田・丹羽・滝川ら)と激しく攻防戦を広げ、ついに内藤・小幡は鉄砲の銃弾に斃れた。
一方の松平伊忠は酒井忠次・金森長近率いる別働隊に所属して鳶ヶ巣山砦を急襲し武田信実を討ち取ると云う功をあげたが、さらに余勢をかって長篠城を包囲する敵を追撃した際に深追いしすぎて、武田の小山田昌行勢から猛反撃を受けて討ち死にした。
このあとは医王寺方面ではなく荏柄天神社方面へ下っていくと天神山陣地跡が見えてくる:
こちらが荏柄天神社の本殿。この神社は源頼朝が勧進創立し、足利氏を経て一色氏の守護神となった。本殿は一間社流造《イッケンシャナガレ・ヅクリ》の杮葺《コケラブキ》、正面は唐破風付の建築物で、新城市指定文化財である:
この本殿が建つ小高い山の頂上にある削平地が天神山陣地跡:
ここには信玄の異母弟である一条右衛門大夫信龍《イチジョウ・ウエモンダユウ・ノブタツ》と武田家中では『譜代衆同意』の位にあった真田源太左衛門信綱・兵部丞昌輝兄弟、そして信玄の奥近習の一人で譜代家老衆であった土屋右衛門尉昌続ら2千5百が配置され、長篠城の寄せ手に加わって激しく攻め立てた。
ここにあった説明板によると:
- 5月13日夜、大手門の前に望楼を建て城中を見下そうとすると城中から鉄砲の射撃にあって倒壊した
- 5月20日、豊川を渡って設楽原へ進出し、連吾川上流付近の右翼に布陣
- 5月21日、織田・徳川との決戦で眞田兄弟・土屋昌続は討ち死にした
設楽原決戦では、土屋昌続は銃弾を掻い潜って馬防柵にたどり着き柵前で奮闘し、次の柵に取り付くや大声で「我こそは土屋右衛門尉なるぞ。首を獲って功名にせよ!」叫んだところを、信長麾下の母衣衆(前田・佐々ら)の一斉射撃を浴びた。まるで死に場所を探しての自決に近い討ち死にだった[n]昌続は信玄が亡くなった際に追腹(殉死)をするつもりであったが、介錯を依頼した高坂弾正に「死にたいなら戦場で死ね」と諌められたのだと云う。。
眞田信綱は三尺三寸の陣太刀・青江貞を振り回し、馬防柵を次々に薙ぎ倒しながら敵陣に迫るが織田勢の鉄砲隊の銃撃で討ち死にした。弟・昌輝は西の連吾川、東の五反田川に挟まれた丘陵の丸山砦を奪い合う局地戦の中で奮戦するが、奮闘虚しく鉄砲の銃弾に斃れた。
一条信龍は織田勢の佐久間信盛に突撃を繰り返し、馬防柵を凪倒す活躍を見せたが、戦線が膠着した後、勝頼の戦線離脱が完了するまで馬場信房と戦場に残り、のちに甲斐国へ退却した。
こちらは荏柄天神社の鳥居と参詣口:
天神山陣地跡の遠望。その背後が医王寺山勝頼本陣跡:
さらに大通寺陣地跡の遠景(パノラマ):
最後はJR長篠城駅へ向かう途中に立ち寄った長篠城本丸跡。この当時は「長篠合戦のぼりまつり」開催中で、色とりどりの幟が立っていた:
こちらは大通寺陣地跡で見かけた注意書き:
以上で武田軍の陣地めぐりは終了。
武田軍・長篠城包囲陣地めぐり (フォト集)
長篠城 (訪問記)
【参考情報】
- 長篠城址周辺マップ (愛知県新城市HP)
- 砦跡・陣地跡・寺社に建っていた説明板(新城市教育委員会)
- 余湖図コレクション(長篠城と周辺遺跡)
- 広島市立図書館 (ホーム > 広島を知る > Webギャラリー > 『諸国古城之図』より)
- 東三河を歩こう (HOME > 長篠・設楽ヶ原の戦い)
- 武田家の史跡探訪 (愛知県 > 新城市)
- 伊藤潤『天地雷動』(角川書店刊)
- Wikipedia(長篠の戦い) (#鳶ヶ巣山攻防戦)
参照
↑a | これは旧暦。新暦でいうと1575年6月16日にあたる。以後、本稿での日付は旧暦で記す。 |
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↑b | 現在の呼び名はそれぞれ豊川と宇連川《ウレガワ》。 |
↑c | 父である武田信玄でさえも陥とせなかった遠江国の山城。 |
↑d | 正確には史上初の国民の祝日「10連休」。いわゆる「ゴールデンウィーク」の更に上を行く大型連休である。 |
↑e | 例えば『長篠合戦絵巻』などに描かれているらしい。他には本稿で紹介した『諸国古城図』にも橋が描かれていた。 |
↑f | 旧広島藩浅野家に伝えられた城絵図集で、江戸時代前期には既に廃城となっていたもので、ありがたいことにインターネットから閲覧できるようになっていた。 |
↑g | 但し、トレースの終点は大通寺前で、長篠城跡と長篠城駅までの経路は含まれない。 |
↑h | まさか金網のゲートをくぐるとは思わなかった。何も案内板が無いので。 |
↑i | そのおかげで遠くからでも長篠城跡の位置を発見しやすかった 😉 |
↑j | 世に云う『奥近習六人衆』。三枝守友の他に曽根昌世(のちに蒲生氏郷に仕え會津若松城を縄張した)、武藤喜兵衛(眞田昌幸)、甘利昌忠、長坂昌国(父は奸臣・長坂釣閑斎光堅)。 |
↑k | 文書には山縣勘解由左衛門尉昌貞《ヤマガタ・カゲユ・サエモンノジョウ・マササダ》を称していたことが確認されている。 |
↑l | 同姓ながら岩殿城主の郡内小山田氏とは別の一族で、石田小山田氏の名跡を継いだ信濃国の国人衆の一人。 |
↑m | イネ科の葦の見頃は10月上旬から中旬らしい。ということは勝頼が滞在していた時期は葦は生えていなかったのでは!? |
↑n | 昌続は信玄が亡くなった際に追腹(殉死)をするつもりであったが、介錯を依頼した高坂弾正に「死にたいなら戦場で死ね」と諌められたのだと云う。 |
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