早雲旗揚げの城とされる興国寺城本丸北側の高土塁は江戸時代以降のものである

静岡県沼津市根古屋248にある興国寺城跡には、室町時代後期に駿河国の守護・今川義忠(いまがわ・よしただ)の食客であった伊勢新九郎盛時(いせ・しんくろう・もりとき)がこの時の今川家内紛を収めた[a]新九郎の姉(あるいは妹と云う説あり)が義忠の側室で北川殿と呼ばれ、今川義元の父である今川氏親を産んで家督争いに巻き込まれていた。功により、長享元(1487)年に幕府より伊豆国は富士下方十二郷を下賜されて入城したと云う記録が残る[b]但し、江戸時代に書かれた『今川記』や『北條五代記』であることから信憑性には疑問が投げられている。。この新九郎こそが、のちの伊勢宗瑞(いせ・そうずい)または早雲庵宗瑞(そううんあん・そうずい)、あるいは小田原北條[c]これは旧字体。現代使う新字体だと「北条」であるが、本稿では旧字体で統一する。5代の祖で、日ノ本初の戦国大名と云われるようになった北條早雲である。早雲の旗揚げの城ともいえる興国寺城は、愛鷹山(あしたかやま)の山裾が浮島沼に向かって張り出した低い尾根の上に築かれ、山の根を通る根方道(ねがたみち)[d]現在の県道R22三島富士線で、根方街道とも。と浮島沼を縦断して千本浜へ至る江道・竹田道との分岐点に当たり、往時は伊豆国と甲斐国とを結ぶ交通の要衝でもあった。そのため戦国期は駿河今川氏・甲斐武田氏・小田原北條氏による争奪戦の渦中にあったと云う。武田氏が滅びると、三河徳川氏が小田原北條氏の滅亡まで治めたのちに豊臣氏を経て、再び徳川氏が興国寺藩を立藩するも城主・天野康景(あまの・やすかげ)が出奔すると改易の上に廃城となった。

一昨年は平成28(2016)年立春のとある週末に静岡県沼津市内にある城跡を攻めてきた。午前中は、JR新幹線こだまで三島まで移動してJR東海道本線・富士行きに乗り換えて10分ほどのところにある原駅を最寄りとした興国寺城跡である。城跡までは駅から徒歩40分弱といったところ[e]当時は知らなかったが、JR原駅やJR沼津駅からはバスも出ているらしい。
こちらが沼津市のホームページに掲載されていた興国寺城跡案内図(図中下がJR原駅方面):

沼津市のHPより(HP>市政情報>沼津の文化財>城跡編)

「興国寺城跡案内図」

また興国寺城は、徳川秀忠が将軍であった江戸時代初期の慶長12(1607)年に廃城になっているが、広島県は浅野文庫所蔵の『諸国古城図』(広島市立図書館蔵)[f]旧広島藩浅野家に伝えられた城絵図集で、江戸時代前期には既に廃城となっていたもので、ありがたいことにインターネットから閲覧できるようになっていた。に廃城前後の縄張図が残されていた(右図はこれに加筆したもの)。なお右図中で二ノ丸の枡形虎口付近の青色点線で囲んだ矩形は、当時開催していた「平成27年度・興国寺城跡発掘調査」で展示されていた遺構の位置を示す:

浅野文庫所蔵の天野康景が城主の時代の縄張図

『駿州興国寺城絵図 − 諸国古城図』

二ノ丸虎口あたりの青点線矩形部が発掘調査の場所

コメント付き

絵図にある通り、廃城時の縄張は本丸と二ノ丸、そして三ノ丸が直線状に並び、本丸の北には石垣と礎石建物を持つ天守台、さらに大堀切を挟んで北曲輪が配置されていた。また本丸の東側は外郭で、内堀であった蓮池を挟んで清水曲輪があった。

一方、北条早雲が駿河国守護職の家督争いの最中に姉である北川殿とのちの今川家9代当主・氏親(幼名・龍王丸)を駿州丸子城に保護し、堀越公方(ほりごえくぼう)・足利政和に与した小鹿範満(おしか・のりみつ)を誅殺した功により賜った当時の興国寺城はこれほど大規模な城郭ではなかった。諸説あるが、早雲が入城する以前から砦規模の城館があり、その近くにあった興国寺という寺院が烏谷に移った跡地でもあったので興国寺城と呼ばれたのだとか。

その早雲が伊豆国の韮山(にらやま)城に本拠を移した後は、甲・相・駿三国の争いの中心となった争奪戦が幾度かあり、今川氏から小田原北條氏、そして武田氏が支配するところとなり、各氏によって改修が施されてきたと云う。そして古絵図に残る縄張は、最後の城主で徳川氏の功臣・天野康景(あまの・やすかげ)の普請とされている。

そして興国寺城が築かれていた尾根の両脇にもそれぞれ低い尾根があり、そこは侍屋敷があったのだと云う。実際のところ、城西側の尾根上に建つ本法寺(ほんぽうじ)周辺の小字(こあざ)名は「大上畑」とあり、もとは家老屋敷を含む城域の一部であったと云われ、その寺内には土塁や堀跡が残っていた:

現在はR22と平行して東海道新幹線が横断し、城の東西にある低い尾根も確認できる

興国寺城周辺地形図(Google Earth より)

また城攻めした当日、運良く沼津市教育委員会主催の「平成27年度・興国寺城跡発掘調査現地説明会」に立ち会うことができた。知らずに現地へ行ってみたら沢山の車と人が集まっていたので何事かと思ったけど :)

ということで、今回はこの説明会に参加してから城攻めをすることにした:

(JR原駅) → 根古屋交差点 → 三ノ丸跡 → (興国寺城跡発掘調査現地説明会) → 二ノ丸跡 → 本丸跡 → 穂見神社 → 本丸土塁 → 大堀切 → 北曲輪跡 → 清水曲輪跡 → 本法寺 → (JR原駅)


JR原駅から県道R165沿いをひたすら北上すると根方街道(県道R22)とのT字路(根古屋交差点)が見えてくる:

手前の根方街道こと県道R22の向こう側が城跡になる

根古屋交差点と三ノ丸跡

R22を含めてこの辺りが三ノ丸跡。
往時の興国寺城は浮島沼と谷戸に三方を囲まれ、特に三ノ丸は深田足入(ふけだ・あしいり)と呼ばれた天然の泥田堀に守られていたらしく、その名残りだろうか、交差点脇には弁天社が建っていた:

三ノ丸南側の水堀の名残りを残す水の守護神の弁財天を祀る

三ノ丸水堀跡に建つ弁天社

その泥田堀沿いに設けられていた三ノ丸南側の土塁もまた部分的に残っていた:

手前の根方街道越しに三の丸跡の南側を眺めると堀沿いに設けられた土塁が残っていた

三ノ丸跡と土塁(拡大版)

こちらは根古屋交差点の正面に建っていた「国指定史跡・興国寺城跡整備計画図」なる案内図(一部加筆あり)。もちろん城攻め当時はこんな状態ではなかったが :|

(こんな風な絵を掲げられてしまうと、本当にこんな感じになっているのか期待してしまいそうだけど・・・)

国指定 興国寺城跡整備計画図(拡大版)

そしてR22に面し三の丸跡にある出入口から城跡へ。車が通れるほどの道幅がある登城道を進むことなるが、少し上って行くと二ノ丸の枡形虎口跡となる。この付近で発掘調査の結果が展示され、説明会が開催された:

手前が三の丸跡(西側)で、その先にある土塁が二ノ丸虎口と堀跡(そして発掘調査の現地説明会場所)

三の丸跡と二ノ丸の枡形虎口跡(拡大版)

登城道を挟んだ東側でも発掘結果の一部が展示されていた

三ノ丸跡(東側)

そして虎口跡の先が二ノ丸跡。往時は(手前側の)三ノ丸とは土塁で区切られていたようだが、現在はちょっとだけ高い平坦地だった。また二ノ丸跡の先に見える一段高い郭が本丸跡で、往時は土塁と水堀で仕切られていた。:

三ノ丸と二ノ丸との間には土塁があったが存在していなかった

二ノ丸跡

こちらは二ノ丸跡から振り返って三ノ丸跡を見たところ。緩やかな傾斜を持つ尾根上に郭が築かれていたことが分かる:

手前右手に少し見えるのが二ノ丸土塁跡(かなり低い)で、往時この先には土塁と枡形状の虎口、そして空堀が設けられていた

二ノ丸跡から見下ろした三ノ丸跡(拡大版)

対して、こちらは二ノ丸跡から本丸虎口跡を見たところ(右図は想像図)。往時は二ノ丸よりも一段高い位置にあって高い土塁で囲まれた郭が本丸跡であるが、虎口のある二ノ丸側には本丸堀(空堀)が設けられていた。現在は土塁が破壊され、本丸堀も埋められてしまっていた:

二ノ丸跡から見た現在の本丸跡は高土塁が部分的に残っているだけである

本丸虎口跡

発掘調査の結果から想像した本丸虎口

本丸虎口の想像図

なお発掘調査では、本丸堀の前に破壊された状態の三日月堀跡が発見されたとのこと。おそらくは武田氏が改修した際に設けられたものと考えられるが、のちに本丸堀を作った際に不要になったため破棄されて埋められてしまったと考えられている。

こちらが現在残っている本丸土塁の一部。一部とはいえ10mほどのかなり高い土塁だった:

往時の本丸は四方が土塁に囲まれていた

本丸跡に残る土塁

現在は一部が残るのみ

本丸跡に残る土塁

北面の土塁は10m以上の高さと見る

本丸跡に残る土塁

四方を土塁によって囲まれた往時の本丸は東西約100m、南北約130mでほぼ矩形をした郭であるが、廃城後に南側の土塁は崩され本丸堀(空堀)も埋められてしまった。そのため現在の本丸跡はコの字型になっている:

穂見神社の裏に残る本丸北側の高土塁の上は天守台と伝わる

本丸跡

ここ興国寺城が緩やかな尾根の端に築かれ周囲にはこれといって高い場所がなかったと云うことから、よりいっそう城の内部を見透かせないようにするために高い土塁を設けたと考えられている:

本丸西側と北側に残る土塁と、右奥には穂見神社が建つ

本丸跡

本来は南側にも土塁があったが廃城後に破壊されてしまった

本丸跡

西側の土塁と北側の土塁の連結部分(土塁の北西隅)には狭いながらも平坦部が設けられ西櫓台なる建物があったとされる:

土塁西端に設けられた狭い平坦部

西櫓台跡

一段高い北側の土塁上から見下ろしたところ

本丸西側の土塁

また本丸跡に建つ穂見神社の裏にそびえているのが北側の土塁で、その中央南面には石垣が積まれ、上面には(伝)天守台とされる平坦部になっていた:

東西にあった土塁よりも一段高く築かれ、中央部には石積みがあり、頂部には天守台と呼ばれる平坦部がある

本丸北側の土塁(拡大版)

こちらは本丸土塁の北西隅から対角線上に見た本丸土塁の南東隅。こちらの頂部も平坦になっており、発掘調査では石火矢なる大砲がおかれていた場所で、周囲は土塁で囲まれていたらしい:

奥に見える土塁が本丸東南隅で、その上が石火矢台跡

本丸跡と石火矢台跡

「石火矢」とは戦国時代に火縄銃と共に伝来した大砲の一種

石火矢台跡

なお本丸東側の土塁は一部が切れており、往時は土塁の裾(すそ)を通って北側の大堀切に抜ける小道が通っていたらしい。ただ現在は本丸北側の土塁に遊歩道(階段)が設けられているので土塁の裏を通らなくても大堀切や北曲輪方面へ移動することは可能であった:

土塁を切断して喰違いして、右手奥から本丸北へ周れるようにした

東側の土塁

喰違い跡から本丸東側土塁の断面を見たところ

東側土塁の喰違い跡

ここで本丸北側へ向かう前にお昼を兼ねて穂見(ほみ)神社あたりで一休み[g]当時はベンチや簡易トイレもあった。。社のすぐ裏が本丸北側の土塁である:

江戸時代初めに山梨県高尾の本社「高尾山穂見神社」から分祀したとのこと

本丸跡に建つ穂見神社

こちらは興国寺城の「初代城主・北条早雲」碑:

伊勢宗瑞(のちの北条早雲)が初めて城主となった旗揚げの城と云われる

「初代城主・北条早雲碑」

長享元(1487)年に駿河今川氏の家督争いをまとめた功績により室町幕府から下賜された興国寺城は、早雲の旗揚げの城として知られるところであるが、実際の在城年数は不明である。というのも興国寺城と早雲のつながりは江戸時代の軍記物にのみ記されているらしく、諸説あるが、この時期の早雲は京都で活動しているとのことで、幕府から下賜されたのは善徳寺城と云う別の館であり、興国寺城は天文18(1549)年に今川氏が築城したと云うものがある。そもそも早雲の出自や前半生が全く不明という謎の人物であることからも、興国寺城の城主説には懐疑的な人が多いのも事実である。

その後の早雲は伊豆国を治めていた堀越公方の内紛に乗じて、足利政和の嫡子・茶々丸を討伐して韮山(にらやま)城に本拠を移し、さらに相模大森氏の居城であった小田原城を奪取し、その後の小田原北條氏五代の礎を築いたことは史実にある通りで、早雲の人物像としては三浦氏滅亡と相模国平定、そして武蔵国・上総国へ侵攻して両上杉氏ら旧勢力の打破といった晩年のものが確かなものとされている。


一方の興国寺城の方は、小田原北條第2代当主の氏綱は敵対関係にあった武田と今川の急接近に危機感を抱き、往時は今川の属城であった興国寺城を支配下に収めた。それから数十年は小田原北條氏が西の要衝として城代を置いていたが、その城代が武田信虎に寝返り、信虎が自分の娘を今川家第11代当主・義元に輿入れした際の引き出物にこの城を譲与して今川家が支配するものとなった。

そういうことで西の小田原北條氏に備えて義元が改修したのが、現在の興国寺城の基となったと云う。
しかし義元が桶狭間で斃れると、永禄11(1568)年に信虎の嫡男で甲斐武田家第19代当主・信玄が当時の甲相駿三国同盟を破棄して駿河に侵攻した。自分の娘を義元の嫡男・氏真に嫁がせていた小田原北條家第3代当主・氏康は援軍として今川領へ進軍し、その際に興国寺城を接収した。氏康は塀和氏続(はが・うじつぐ)[h]武州松山衆の一人で、興国寺城に入るまでは上田氏と共に武蔵松山城を守備していた。を城代に置き、信玄の攻撃を退けることに成功した。

父・氏康亡きあと小田原北條家第4代当主・氏政は越後の上杉謙信と対立するにあたり、西上作戦を進めていた信玄と再び甲相同盟を結び、興国寺城は武田に引き渡されることになった。

甲斐武田家第20代当主・四郎勝頼の代には再び小田原北條氏と敵対することになったが、武田家が滅亡するまでの10年近くは武田水軍を率いた向井正重(むかい・まさしげ)、信玄の『奥近習六人衆』の一人だった曽根下野守昌世(そね・しもつけのかみ・まさただ)らが城代として興国寺城を守備した。曽根は土屋昌続らと信玄の側小姓を務め、同輩の武藤喜兵衛(のちの真田昌幸)と共に、信玄をして『我が両目の如き者なり』と云わしめた人物である。主家滅亡後は蒲生飛騨守氏郷に仕え、陸奥国で會津若松城を普請した[i]會津若松城こと鶴ヶ城が馬出を主体とした縄張になっているのは曽根による甲州流築城術が用いられたからである。


こちらは興国寺城の最後の城主である天野三郎兵衛康景(あまの・さぶろうびょうえ・やすかげ)の碑:

家康の側小姓で、岡崎三奉行の一人で興国寺城最後の城主

「興国寺城主・天野康景碑」

天野康景こと天野景能(あまの・かげよし)は天文6(1537)年に三河国で生まれ、幼少期から松平元康(徳川家康)の側小姓として、今川家に人質であった時代も行動を共にした。若輩20歳の元康にとって最大の危機と云われた三河一向一揆では、一向宗門徒であった天野一族の中にありながらも元康について戦功をあげた。元康が岡崎城在城時には奉行としても活躍し、高力清長(こうりき・きよなが)、本多重次(ほんだ・しげつぐ)らと合わせて岡崎三奉行と呼ばれた[j]この時に『仏高力、鬼作左、彼是偏無(どちへんな)きは三郎兵衛』(高力清長は寛大、本多重次は剛毅、天野康景は慎重公平)と云う唄が流行ったと云う。。後に元康から偏諱を拝領して「康景」と名乗った。
そして関ヶ原の戦後の慶長6(1601)年に一万石を拝領して大名となり、興国寺城の城主として興国寺藩を立藩し、農政や治水工事に尽力した。現在みる興国寺城の姿は、康景が改修した一部である。

しかし慶長12(1607)年、康景の家臣が城の保全用の竹木を盗もうとした天領の領民を討つという事件が発生。天領地の代官・井手志摩守政次(いで・しまのかみ・まさつぐ)が下手人の引き渡しを強引に要求してきたため御公儀が仲裁に出ることになった。この時、家康の意向を受けた本多正純が興国寺城へ派遣され康景を説得するも効果はなく、再三に渡って下手人引き渡しを求めたことに穏健な康景もついに激怒し嫡男と共に城を逐電して行方をくらました。
これにより天野氏は改易、興国寺城は廃城となった。

その後、行方をくらました康景は徳川家中で親しかった大久保忠隣(おおくぼ・ただちか)が城主を務める小田原城下の沼田村[k]現在の神奈川県南足柄市沼田。にある西念寺で余生を送り、家康より三年早い慶長18(1613)年に没した。享年77。康景の嫡男はのちに赦免されて旗本に取り立てられたと云う。


一休みした後は、本丸東側の土塁に設けられた階段を登って大堀切・北曲輪跡へ向かった:

本丸東側の土塁へ上がる階段で、ここから大堀切方面へ行ける

土塁へ上がる階段

こちらが穂見神社の背後にある本丸北側の土塁。この先が本丸西側の土塁:

本丸東側の土塁から北側の土塁を眺めたところ

本丸北側の土塁

さらに階段を上って行くと、荒々しい野面積みの天守台石垣が見えてきた:

野面積みの石垣の上には礎石が残る天守台跡がある

天守台石垣

こちらが天守台石垣の上に残る二層の礎石建物のものとされる石列。瓦などは出土していないらしい:

東西23m、南北15m程度の平坦地に残るもので礎石建物跡とされる

伝・天守台跡

こちらは天守台跡から手前にある大堀切を隔てた北曲輪跡を見下ろしたところ。北曲輪からは土塁に遮られて本丸内部をみることはできない。この先には東海道新幹線があり、さらに背後にそびえているのが愛鷹山:

手前の大規模な谷が大堀切で、北曲輪跡の北に新幹線が通っていた

大堀切と北曲輪跡

そして土塁上を歩いて本丸西側の土塁へ向かう。最西端の平坦部が西櫓台跡となる:

土塁中央の天守台の西側にも櫓が建っていた

本丸北側の土塁上

北側土塁の最西端に櫓台跡とされる平坦地が残っていた

西櫓台跡

ここで本丸北側の土塁上から南側へ連なる本丸跡、二ノ丸跡、三ノ丸跡、そして外郭の根古屋方面を眺めたところ(パノラマ)。空気が澄み渡っていたので伊豆半島の天城山を拝むことができた:

中央手前から順に本丸跡・二ノ丸跡・三ノ丸跡、左手は本丸東側土塁、右手の平場が西櫓台跡

本丸北側土塁上からの眺め(パノラマ)

このあとは本丸東側の土塁へ戻り:

東側の土塁は南側の土塁とは連結しておらず、喰違い状態になっていた

東側の土塁と本丸跡

本丸と北曲輪の間に設けられた大堀切へ向かった。:

本丸北側の土塁と北曲輪との間にある幅約30m、深さ約20の薬研堀

本丸跡から見下ろした大堀切

東側の土塁を降りて大堀切の堀底道を進む。手前右手にある階段を登っていくと北曲輪跡がある:

左手上が本丸北側土塁・天守台跡、それよりも低い右手の土居が北曲輪跡、その間を這うようにして走っているのが大堀切

大堀切の堀底道(拡大版)

幅は最大で約30m、深さは最大で約20mという規模を持つ大堀切には屏風折が設けられているかのように、本丸と北曲輪の間を這うようにして東から西へ走っていた:

戦国時代に拡張され、屏風折も見ることができる

大堀切

深さ最大20mにも及ぶ堀底から本丸北側土塁上を見上げたところ

堀底から天守台跡

途中、土塁に掘られた横穴を見かけたが、そのまま薬研堀の堀底道を西へ進んだ:

何のためのものなのか不明

土塁に残る横穴

往時、この先は低湿地帯(沼地)だった

大堀切の西端

大堀切を抜けた西側は、往時は沼地・水堀といった低湿地帯で、船着場が置かれていたと云う:

現在は整地されているが、往時は奥の白い建物あたりに西船着場があった

城址東側の低湿地跡

R22側から見た城址西側で、左奥の白い建物あたりに西船着場があった

低湿地跡

このあとは堀底道を戻って北曲輪跡へ。ちなみに「北曲輪」は仮称である:

「北曲輪」は仮称で、南北約30m、東西約50mの長方形をした郭である

北曲輪跡

長方形をした平坦な郭であるが大堀切へ向かって緩やかに傾いていた。そのため本丸北側の土塁が予想以上に高く見えた:

天守台跡を見上げるような角度なので本丸内部を垣間見ることはできない

天守台跡

北曲輪から大堀切に向かって緩やかな傾斜がついていた

大堀切と北曲輪跡

北曲輪跡の先にはJR東海道新幹線が走っていた:

(通過する本数も多いし、意外と穴場な撮影ポイントかも)

城址北側を走る新幹線

この北曲輪跡と新幹線との間は武田氏が設けたとされる三日月堀の存在が発掘調査で判明しているのだとか。本丸虎口前に埋められていたものと同様に、徳川氏の時代に破却された可能性がある:

左手下が新幹線、右手が北曲輪跡で、この下に三日月堀が眠っている

三日月堀跡

そして最後は北曲輪跡から城址東側の清水曲輪方面へ。まずは大堀切へ降りて本丸跡ではなく堀底道の東端へ向かう:

この先に水堀・蓮池跡があり、さらに奥に清水曲輪跡がある

大堀切の東端

すると水堀跡があり、藪化していて立入りできなかったが、その先には清水曲輪跡があった:

手前の水堀跡を隔てて、奥にある低い丘陵上にあった外郭である

清水曲輪跡

西側同様に低湿地帯で蓮池や船着場があった

水堀跡

以上で興国寺城攻めは終了。

See Also興国寺城攻め (フォト集)

【参考情報】

平成27年度 興国寺城跡発掘調査現地説明会

この当時は何も知らずに城攻めにきたのだけれど、現地に着いてみたら予想外に大勢の人たちがいたのでちょっと驚いた。そして、近くで準備をしていた人(沼津市教育委員会の方)に聞いて、この日が現地説明会の開催日であることを知った。まったくの偶然ながらも貴重な場に参加できてとてもラッキーだった 8)

この時に説明があった発掘現場はR22に面した出入口すぐの二ノ丸跡と三ノ丸跡の間にある空堀と土橋跡と反対側の三ノ丸東大手口付近だった(右手は加筆あり):

出典は「平成27年度西側発掘調査現地説明会」で配布されたいた資料より

調査地全景

赤色実線が二ノ丸の空堀で、今回は青色破線で囲ったエリアで説明会が開催された

コメント付き

この時の発掘展示物は三ノ丸跡の西側と三ノ丸東大手口跡であった。これは西側発掘調査地の平面図:

三ノ丸(下側)と二ノ丸(上側)の間に設けられた空堀と石垣ありの土橋

平成27年度西側発掘調査地平面図(拡大版)

こちらが西側発掘調査地で展示されていた二ノ丸堀(空堀)と土橋跡。左手の三ノ丸と右手の二ノ丸との間に設けられた空堀(手前から奥)の中央に土橋が設けられ、なおかつその側面には3列からなる石垣が検出された:

諸国古城図の駿州興国寺城絵図にも描かれていた土橋には、絵図には無かった石垣が存在していた

三ノ丸と二ノ丸の間の土橋と東側石垣(拡大版)

3列からなる石垣のうち、西側と東側にある2列(それぞれ西石垣と東石垣)については二ノ丸堀の堀底から積み上げられたもので、それらの間に挟まれた1列(中石垣)は堀底からある程度盛土された上に積まれていたと云う:

手前から奥へ延びているのが発掘した空堀跡の一部で、その東側に石垣が積まれていた

土橋側面の石垣(拡大図)

こちらが西石垣と中石垣の南端部分:

西側の石垣は堀底から、中の1列は盛土した上から積まれていた

西・中石垣南端部分

手前が西側石垣、その先にあるのが中石垣

西・中石垣南端部分

ぐるりと周って、こちらは反対側から見た西石垣と中石垣。これら一連の石垣は興国寺城の最終段階の遺構であるとされ、天野康景が城主であった頃のものとされている:

この石垣の奥に土橋があり、その裏側にも東側の石垣が確認された

西・中石垣

左手上の三ノ丸と右手の二ノ丸との間にあった土橋は埋没保存されている:

土橋の実体は土中に埋没保存されているが、この説明会では空堀と土橋を平面復元風に展示を演出していた

土橋跡(拡大版)

そして、こちらが今回の発掘調査説明会の風景。ざっとみて60人ほどの見学者が興味深く沼津市教育委員会の方の話を聞いていた:

大勢の人たちが興味深く話を聞き、いろいろ質問していた

現地説明会の様子

講師は沼津市教育委員会の方

現地説明会の様子

発掘調査で検出された土橋・石垣などの規模は次のとおり(説明会資料より)。「名称」は全て発掘時の便宜上のもの:

  • 「西石垣」: 南北約8.7m、幅約1m、高さ約0.7m、検出部想定土橋幅約5m、使用されている石がはほぼ同じもの
  • 「中央石垣」: 南北約9.8m、幅約0.5m、高さ約0.8m、検出部想定土橋幅約7m、西石垣と同規模の石材を使用で、ほぼ西石垣と平行に構築されている
  • 「東石垣」: 南北の上面約3.7m、下面約2.5m、東西の上面約3.7m以上、下面約3m以上、屈曲約90度、前面の石積と裏込石で構築されている

今回は三ノ丸跡西側の他に東側にあった大手口跡の発掘調査結果も展示されていたが、廃城後はかなり大規模に削平を受けていたとされ二ノ丸堀の東側の境界が確認できたが、土塁の痕跡といった顕著な遺構は確認できなかったとのこと:

トレンチ調査の結果、顕著な遺構の検出には至らなかった

三ノ丸東大手口跡の発掘結果

トレンチ調査の結果、顕著な遺構の検出には至らなかった

三ノ丸東大手口跡の発掘結果

ただし将来的には再調査したいとのことだが、遺構がR22と交差している可能性もあり、実施には課題が多いと考えられている。

こちらは発掘された愛知県美濃大窯の一部。二ノ丸堀の堀底からは瀬戸・美濃焼きといった土器も出土しており、この時代を推測するのに貴重な史料である:

地質学で云ういわゆる「トレンチ調査」の成果で、愛知県美濃大窪の一部で、往時の時代を推測するための貴重な史料である

発掘された土器(拡大版)

個人的に発掘調査の現場を見るのは初めてだったので大変ラッキーな機会であり、貴重な時間だった。

See Also興国寺城攻め (フォト集)

【参考情報】

  • 「平成27年度興国寺城跡発掘調査現地説明会資料」(沼津教育委員会)
  • 説明員の方のお話

本法寺

このあとは午後の城攻めへ向かう前に、興国寺城を挟むようにして存在する尾根のうち西側の尾根上に建つ本法寺を参拝してきた。往時、これらの尾根上には家臣らの侍屋敷があった他に出郭も設けられていたとされる。

この法華宗のお寺は、豊臣秀吉の時代に興国寺城主だった河毛惣左衛門尉重次(かわげ・そうざえもんのじょう・しげつぐ)の菩提寺でもある:

家康の国替え後に入封した中村一氏の家臣である

河毛惣左衛門の墓

秀吉による小田原仕置後に関東八州を賜って国替となった家康に代り、織田・羽柴の家臣で中老の一人である中村一氏(なかむら・かずうじ)に駿河府中・駿府城が与えられ、旧・近江浅井家の家臣であった河毛重次が興国寺城の城代となった。関ヶ原の戦で主人の一氏・一忠(かずただ)父子が徳川方についたため、戦後[l]一氏は関ヶ原の戦前に病死した。享年不明。そのため関ヶ原の合戦には弟の一栄(かずしげ)が陣代として嫡男の一忠と共に参戦した。はその功績により伯耆国の米子城に移封となり、その際は重次も一忠に従ったと云う。この墓は重次が在城中に建立したものだという。
なお重次に代って入城したのが天野康景である。

こちらは本法寺境内から西側の谷津を挟んで眺めた興国寺城跡:

興国寺城の西側にあった低い尾根に建つ本法寺からの眺め

興国寺城遠景

本堂裏手の墓地手前には出郭跡を想わせる見事な土塁が残っていた:

興国寺城の出郭であったことを伺わせる土塁が残っていた

土塁

こちらは本法寺の参道であるが、いかにも掘跡っぽい形をしていた:

いかにも空堀だった面影を残す参道

空堀跡

本法寺
静岡県沼津市根古屋579

See Also興国寺城攻め (フォト集)

【参考情報】

参照   [ + ]

a. 新九郎の姉(あるいは妹と云う説あり)が義忠の側室で北川殿と呼ばれ、今川義元の父である今川氏親を産んで家督争いに巻き込まれていた。
b. 但し、江戸時代に書かれた『今川記』や『北條五代記』であることから信憑性には疑問が投げられている。
c. これは旧字体。現代使う新字体だと「北条」であるが、本稿では旧字体で統一する。
d. 現在の県道R22三島富士線で、根方街道とも。
e. 当時は知らなかったが、JR原駅やJR沼津駅からはバスも出ているらしい。
f. 旧広島藩浅野家に伝えられた城絵図集で、江戸時代前期には既に廃城となっていたもので、ありがたいことにインターネットから閲覧できるようになっていた。
g. 当時はベンチや簡易トイレもあった。
h. 武州松山衆の一人で、興国寺城に入るまでは上田氏と共に武蔵松山城を守備していた。
i. 會津若松城こと鶴ヶ城が馬出を主体とした縄張になっているのは曽根による甲州流築城術が用いられたからである。
j. この時に『仏高力、鬼作左、彼是偏無(どちへんな)きは三郎兵衛』(高力清長は寛大、本多重次は剛毅、天野康景は慎重公平)と云う唄が流行ったと云う。
k. 現在の神奈川県南足柄市沼田。
l. 一氏は関ヶ原の戦前に病死した。享年不明。そのため関ヶ原の合戦には弟の一栄(かずしげ)が陣代として嫡男の一忠と共に参戦した。