天正18(1590)年に豊臣秀吉がおこした奥州仕置の功により伊勢国松坂から陸奥国會津へ入封した蒲生飛騨守氏郷は、それまで伊達政宗の居城であった黒川城をより本格的な近世城郭へと改修した際に実戦に向けた縄張の見直しを行った[a]縄張を担当したのは氏郷の家臣・曽根内匠昌世《ソネ・タクミ・マサッタダ》で元は武田信玄の『奥近習六人衆』の一人。會津若松城が馬出を主体とする甲州流築城術の縄張になっているのは曽根が武田家出身たったから。。その際には郭内に相当する武家地を外郭[b]外堀と土塁、あるいは郭門などを組み合わた境界のこと。で囲む惣構えに改めて、町人地を郭外へ移動した。一説に、氏郷は秀吉が築いた巨大で絢爛豪華な大坂城に匹敵するような城郭を築き、その威容を奥州各国に知らしめようとしていたとも云われている。氏郷亡きあと、この會津若松城は會津中納言・上杉景勝と氏郷の嫡子・秀行による小規模な改修の他、加藤嘉明・明成らによって石垣を多用した郭門などの防衛施設が強化され、最終的に會津中将・保科正之を藩祖とする會津松平家の居城として東北一の難攻不落の要塞として完成に至った。その最後は、慶応4(1868)年の會津戦争で新政府軍による力攻めでも落城せず開城後に廃城となったが、明治時代に個人に払い下げられて[c]のちに旧藩主・松平家に寄付されたという。以来、一部を軍が使用していたものの大部分の史跡は保存され、昭和の時代に福島県会津若松市追手町にて現在観ることができる状態へと復元された[d]天守は昭和40(1965)年に鉄筋コンクリート造で外観復元されたものである。。
今年は平成31(2019)年4月末に『平成』の世の最後の城攻めとして、二泊三日の日程で福島県内[e]一応は福島県の浜通りから中通り、そして会津の各地にある城跡を巡ることができた。にある城跡を巡ってきた。初日の天気は良かったのだけど二日目は全国的に大荒れで、この日の目的地であった会津地方は雨が降ったり止んだりの不安定な天気だった。今回も四年前に利用したJR駅のレンタサイクルを調達し、まずは會津中納言・上杉景勝が築き最終的には未完のまま廃城となった神指《コウザシ》城跡へ。途中、雨が本降りになったので雨宿りしながらの城攻めとなったが、未完ということもあって遺構はさほど多くなかったので早々に切り上げて、次の目的地である会津若松城の外郭跡へ向かった。
現在の外郭跡は、往時の堀が埋め立てられて宅地化されてしまっているが、それでも氏郷が縄張した時代にゆかりのある遺構が国指定史跡として一部現存しているとのこと。四年前に城攻めした時は勉強不足で巡れなかったので、今回は事前に位置を確認してじっくりと観てきた[f]ありがたいことに、午後を過ぎた頃には雨は完全にあがってくれた。それでも曇空だったけど。。
會津若松城は、東を奥羽山脈、西を越後山脈、北を飯豊《イイデ》山脈、そして南を会津高原によって囲まれた会津盆地[g]南北約35㎞、東西約12㎞、標高は約170〜220mの規模を持ち、現在の福島県の西半分を占める。南東部の扇状地段丘上に築かれていた黒川城が元になっている。城域南側には東山渓谷から流れ出る黒川(現・湯川)が天然の外堀になった。
ちなみに會津若松城を「鶴ヶ城」と呼ぶのは、最初にこの地に城を構えた會津蘆名氏以来のことであり、氏郷が命名したものではない。その城の守護神を亀ノ宮というから、それに対して鶴ヶ城と呼ぶのである。
まずは會津若松城の外郭跡の遺構などを、正保城絵図《ショウホウ・シロエズ》の『陸奥之内会津城絵図』(福島県立博物館蔵)に追記したのがこちら。総延長6㎞に及ぶ外堀や土塁、そして郭門《クルワモン》などからなる外郭を境界として、外側が町人地の郭外、内側が武家地(上級武士の侍屋敷他)の郭内として地割されていたのが分かる。また、外郭にあたる城内16ヶ所の出入口には郭門を設けて郭外から郭内への通行を監視していたのだと云う:
なお、この城絵図は正保2(1645)年に幕府の命を受けて會津初代藩主・保科正之が提出した会津若松城の縄張図であるが、この地割は文禄元(1592)年に蒲生氏郷が行ったもので、それから50年後の寛永16(1639)年に加藤明成によって改修された城郭に相当する。
そして、こちらが今回巡ってきた外郭の一部として残っている遺構の位置(★)をGoogle Earth 3D上に重畳させたもの。ここは先に示した城絵図の北側の一部に該当する:
これが今回の城攻めルート。外郭の遺構の他に、四年前にも訪問した蒲生氏郷公の五輪塔がある興徳寺《コウトクジ》を再訪し、さらに今回は會津蘆名家[h]會津松平家、加藤家、上杉家、蒲生家、伊達家よりも前に會津の支配者だった家柄。ちなみに、その始祖は神奈川県三浦市である。のゆかりの場所として八角神社と蘆名家花見ヶ森廟所を訪問してきた。また予定では会津若松城南東にあった小田山城跡も攻めたかったのだけど、予定がずれ込んでタイムアップとなってしまったので湯川(旧・黒川)越しに眺めるだけとした。あと鶴ヶ城公園にも入ってみたけど大変な数の観光客で混雑していたので早々に退散した:
(神指城跡) → ①甲賀町口郭門跡 → ②三の丸堀跡 → ③天寧寺町土塁 → (蘆名家花見ヶ森廟所) → (小田山城跡の望遠) → (鶴ヶ城公園) → 八角神社 → 興徳寺 → (会津若松駅でレンタサイクル返却)
ちなみに移動は全てレンタサイクルで、所要時間は2時間ほど。
まずは現在の大手門通り/甲賀町通りの境界に建つ①甲賀町口郭門跡:
甲賀町口は特に城の大手口として扱われていたため、ここに建っていた郭門は追手門として他の出入口よりも厳重な構えを持っていたとされる:
往時は通りを挟んで東西二基の石垣があったが、現在は西側の石垣のみ残っていた。さらに、その石垣の手前に外堀があり、郭外と郭内の境界線になっていた:
郭門は既に無く、台座石垣も片側のみ残り、その周辺には土塁も無いが、埋め立てられた外堀は現在の道路にその面影を残していた:
一方、町人地が地割されていた郭外跡は現在は宅地化されているが、実際に通ってみると四辻[i]道路が十文字に交差している所。のうち東西の通りが鈎型に屈折しているのに気づく。これは、城下町と云うことで侵入者をすんなり直進させない造りであることに加え、市中を走っていた水路の水を効率良く流すための工夫とも云われている。
ここ若松の町は湯川(旧・黒川)によって造られた扇状地の末端にあるので、南北の路はほぼ平坦であるが、東西の路はかなりの勾配をもつ坂になっていた。すると水が届かないエリアができてしまうため、東から西へ流れる水を鈎型の角《カド》にぶつけて水流を横にスライドさせながら水を均一に渡していたのだと云う。
このあとは甲賀町口郭門跡から郭内跡へ入り、次の目的地がある福島県立博物館方面へ移動した:
「北出丸」の交差点から福島県立博物館へ向かい、その駐車場脇に埋没保存された②三の丸堀跡を観てきた。と云っても堀跡が残っているわけではないけど :
この堀跡は県立博物館の建設に先立って発掘調査が実施された際に発見されたとのこと。現在は埋め立てられ、その上に植えた「さつきの花」の列を堀の輪郭に見立てていた:
蒲生氏郷が城主の時代は二の丸まで存在し、三の丸は加藤嘉明・明成父子の時代に設けられた郭であるが、ともに重臣らの屋敷があった。また会津藩二代藩主の保科正経は三の丸御殿を建てて、時には本丸御殿よりも多用したのだという。幕末には軍の練兵所も置かれていたとか:
このあとは博物館の敷地から出て③天寧寺町土塁へ。県道R64[j]通称は会津若松裏磐梯線。とその手前の道路との間に残っていた:
この土塁は、陸奥国會津へ入部した蒲生氏郷が黒川城を改修した際に築造したものと考えられている:
現存する土塁は鈎型に折れた一部分が保存されていた。こちらが、上で見た場所と反対側にある県道R64側から見た土塁:
この土塁の手前が外堀で、その幅は16〜20m、深さは4〜6mだったとされる。また、ここ天寧寺町口南側の外堀は畝堀になっていたことが発掘調査で分かったのだと云う。
ここ天寧寺口は他の郭内とは異なり、武家地と町人地が雑居していた。またお隣の徒之町口から出た格外には郭内に入りきれなかった下級武士の「徒士《カチ》」が多く住んでいたことが名前の由来である。このように郭内に入居できなかった身分の低い武士らは郭外に住んでいたと云う。
ここでちょっと面白かったのが、鈎型に折れた土塁の外側、すなわち外堀跡の土地は史跡にはなっておらず、なんと売りに出されていた。ここにビルなんかが建てられたら遺構が見づらくなってしまうと思うのだが :
このあとは會津蘆名家の廟所を参拝し、遠くから小田山城公園を眺め、鶴ヶ城に少しだけ寄って、蒲生氏郷公が眠る興徳寺に立ち寄った:
こちらは、その途中に立ち寄った際の鶴ヶ城公園に残る二の丸南門の台座石垣:
そして、この門の外側にあるのが二の丸堀:
以上で外郭の遺構巡りは終了。会津若松城の難攻不落の由縁を知ることが出来てよかった。
會津若松城外郭攻め(蒲生氏時代) (フォト集)
會津若松城 (攻城記)
【参考情報】
蒲生氏郷公・忠郷公墓所
現在の會津若松の礎を築き、文武に優れた名将と謳われたものの、四十歳という若さで早世《ソウセイ》した蒲生飛騨守氏郷は、近江国日野城主で六角承禎《ロッカク・ジョウテイ》の重臣の一人であった蒲生賢秀《ガモウ・カタヒデ》の三男として弘治二(1556)年に誕生した。幼名は鶴千代。父・賢秀は、織田信長の上洛戦[k]信長は流浪していた足利義秋らの要請により彼を奉じて上洛し、のちに将軍の座を与えた。である観音寺城の戦いで主家の六角氏が滅亡すると鶴千代を人質として差し出して臣従した。
はじめ鶴千代は近習の一人として信長の側にあったが、程なくして西美濃三人衆筆頭の稲葉一鉄に武将としての才能を認められた上に、元服時は信長自らが烏帽子親《エボシオヤ》)をつとめ、「弾正忠信長」の一文字を与えて忠三郎賦秀《チュウザブロウ・ヤスヒデ》と名乗らせた。この時、信長は「この少年の骨柄、世の常ではない。成長の後が楽しみじゃ。やがて俺が娘の聟にしよう」と云った。
そして南伊勢で初陣を飾ると、信長の次女でのちの相応院殿[l]氏郷公の正室を「冬姫」と称する記事があるが、これは古文書の誤読とするのが通説である。を妻に娶って日野城主となった。その後は柴田勝家の与力として姉川の戦い、伊勢長島の戦い、小谷城攻め、長篠・設楽原の戦い、天正伊賀の戦いなど信長の主要な戦に従軍して武功をあげた。
忠三郎が「氏郷」に改名した正確な時期は伝わっていないが、本䏻寺の変後の家督相続時ではないかと想像する。
こちらは、今回も参拝してきた興徳寺が所蔵する氏郷公の肖像画:
興徳寺へは市街地を縦断する国道R121沿いに建つ石碑が入口の目印となっていた:
この臨済宗妙心寺派・興徳寺は、その昔は大寺院であり、若松が黒川と呼ばれていた頃、會津蘆名家を滅ぼした伊達政宗が會津へ入部するや一時的に政庁を置いたところで、また秀吉がおこした奥州仕置の際は御座所が置かれたとも。あるいは幕末の会津戦争の際は藩主・松平容保の御舎弟で桑名藩主・松平定敬《マツダイラ・サダアキ》らの宿舎でもあった。
天正10(1582)年に岳父・信長が本䏻寺で横死すると、生前の信長より安土城二の丸の留守居役を命じられていた父の要請で日野城に居た氏郷自らが手勢500騎を率いて信長夫人以下を救出し保護した。その後は信長の覇業を継承した秀吉に従い、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、九州仕置、小田原仕置、奥州仕置、そして九戸政実の乱鎮圧などに参陣し、つど無双の武功をあげて伊勢国松坂、そして陸奥国會津へと大領で移封されることになった。
明治の文豪・幸田露伴や昭和の作家・海音寺潮五郎が記した史伝にあるように、會津入部直後は隣国の伊達政宗との確執が大きく影響した。後の世で公の毒殺・暗殺説はこれをネタとしたものが多い。
そして日の本を統一した秀吉が大陸支配へと動き出した文禄元(1592)年、氏郷も肥前名護屋城へ参陣するが、翌年に体調を崩し下血したため、年末には国元の會津へ帰国したものの病状はさらに悪化し、翌3(1594)年に高名な医者に見てもらうため再び上洛した。
しかし診察・養生の甲斐なく、文禄4(1595)年の春に伏見の蒲生屋敷において亡くなった。享年40。
興徳寺の門をくぐった正面に蒲生氏郷公の墓所がある:
こちらが公の五輪塔。没後の翌年に嫡子・秀行によって建塔されたもので、この塔の中に氏郷公の遺髪が納められている。また、往時は御霊屋が脇に建っていたが會津戦争の兵火で焼失したらしい:
この五輪塔には「空・風・火・水・地」と云う五大文字が刻まれている。万物を構成する要素、宇宙の元素を表現しているとも:
法名は「昌林院殿・前参議従三位・高岩宗忠大禅定門・居士」。京都・紫野の大徳寺塔頭・黄梅院に葬られ[m]近年の発掘調査によると、刀を抱いた形で埋葬されていたことが判明している。、遺髪がここ興徳寺に分納された。
こちらが有名な辞世の句碑:
限りあれば 吹かねど花は散るものを 心みじかき春の山風
この句には「風など吹かなくても、花の一生には限りがあるのだから、いつかは散ることとなろう。それなのに春の山風は何故こんなにも短気に花を散らせてしまうのか」と云う、我が一生の無情迅速を嘆く公の思いが込められているものと評釈されている。
これは七層天守顕彰碑。公が築城した七層の天守をモデルとしている:
現在に観る天守は、加藤明成が再建した五層五階の層塔型建築物を白漆喰総塗籠と赤瓦葺[n]寒さが厳しい奥州の地に暖かい気候の畿内で使用していた黒瓦はその寿命が短くコストが高かったが、會津初代藩主の保科正之公が改良して赤瓦を生み出したのだと云う。なお復元当初は黒瓦葺。で外観復元したものであるが、氏郷公が築いた望楼型七層七階の天守は、秀吉が築いた大坂城の天守同様に、黒下見板張りと黒瓦葺の建物であったと想像されている:
氏郷公の和歌碑。公は勇猛な戦国武人であった傍ら、出色《シュッショク》の歌人としての才能も持ち合わせていた。まさに文武両道の士である:
こちらは墓所の説明板と肖像画、そして公のシンボルとしても有名な黒漆塗燕尾形兜《クロウルシヌリ・エンビナリ・カブト》の写真。この兜は公の娘・武姫が南部利直に嫁いだ際の引き出物として贈ったものらしく、実物は岩手県博物館蔵とのこと:
墓所前脇には氏郷公の父・蒲生賢秀が詠んだ歌が松の木と共にあった:
氏郷公はキリシタン大名としても有名で、伊勢国松坂城主の時代に友人である高山右近の勧めで大坂にてキリスト教の洗礼を受け、「レオン」の霊名を称した。
また岳父・信長の影響を受けて茶の湯に深い理解を持ち、千利休に師事して、高山右近や細川忠興らと共に利休七哲《リキュウシチテツ》の高弟の一人となり、その筆頭でもあった。
ここで氏郷公が早世せずに長寿であったと仮定すると、のちの関ヶ原の戦いは起こりえず、秀吉亡き後の天下は家康ではなく公に委ねられた可能性は否定できないと云うのが通説である。歴史に『if』を持ち込むのは禁じ手ではあるが、その非凡な才能を持つ名将であるがゆえに想いを馳せたくなるものである。
ここに徳川家康が蒲生氏郷に心底、恐れていたことを示す逸話がある。あるとき江戸城にいた家康が家臣らと東海道をどこまで切り従えることができるかといった雑談をしていた際に、家康はきっぱりと『おそらく江戸を一歩も動けまい』と厳しく答えた。その理由は家康の背後に蒲生氏郷が居たからである。
最後は氏郷公の孫にあたる蒲生忠郷《ガモウ・タダサト》公の五輪塔。興徳寺より北に離れた高厳寺境内北にある:
忠郷は、慶長17(1612)年に蒲生秀行と徳川家康の三女・振姫との間に生まれ、父が早世したため僅か10歳で會津60万石を継いだ。母が二代将軍・秀忠の妹であることから偏諱を与えられ、祖父・氏郷の一字を取って「忠郷」と名乗った。蒲生三代目の城主となったが疱瘡を患って寛永4(1627)年に没した。享年25。嫡子がいなかったため蒲生家は断絶しそうになったが、母が家康の娘ということで弟の忠知《タダトモ》を後嗣として存続した[o]しかし疱瘡により31歳の若さで急死する。こちらも嗣子が居なかったため、この代で蒲生家は断絶した。。
蒲生家墓所(会津若松の興徳寺) (フォト集)
蒲生氏郷公墓所 (フォト集)
【参考情報】
- 興徳寺に建っていた説明板(会津若松市教育委員会)
- 海音寺潮五郎『武将列伝 〜 戦国終末篇』(文春文庫刊)
- 『会津繁栄の礎を築いた武将・蒲生氏郷』(会津若松観光ビューロー刊)
- Wikipedia(蒲生氏郷)
- 加来耕三『戦国軍師列伝』(人物文庫刊)
参照
↑a | 縄張を担当したのは氏郷の家臣・曽根内匠昌世《ソネ・タクミ・マサッタダ》で元は武田信玄の『奥近習六人衆』の一人。會津若松城が馬出を主体とする甲州流築城術の縄張になっているのは曽根が武田家出身たったから。 |
---|---|
↑b | 外堀と土塁、あるいは郭門などを組み合わた境界のこと。 |
↑c | のちに旧藩主・松平家に寄付されたという。 |
↑d | 天守は昭和40(1965)年に鉄筋コンクリート造で外観復元されたものである。 |
↑e | 一応は福島県の浜通りから中通り、そして会津の各地にある城跡を巡ることができた。 |
↑f | ありがたいことに、午後を過ぎた頃には雨は完全にあがってくれた。それでも曇空だったけど。 |
↑g | 南北約35㎞、東西約12㎞、標高は約170〜220mの規模を持ち、現在の福島県の西半分を占める。 |
↑h | 會津松平家、加藤家、上杉家、蒲生家、伊達家よりも前に會津の支配者だった家柄。ちなみに、その始祖は神奈川県三浦市である。 |
↑i | 道路が十文字に交差している所。 |
↑j | 通称は会津若松裏磐梯線。 |
↑k | 信長は流浪していた足利義秋らの要請により彼を奉じて上洛し、のちに将軍の座を与えた。 |
↑l | 氏郷公の正室を「冬姫」と称する記事があるが、これは古文書の誤読とするのが通説である。 |
↑m | 近年の発掘調査によると、刀を抱いた形で埋葬されていたことが判明している。 |
↑n | 寒さが厳しい奥州の地に暖かい気候の畿内で使用していた黒瓦はその寿命が短くコストが高かったが、會津初代藩主の保科正之公が改良して赤瓦を生み出したのだと云う。なお復元当初は黒瓦葺。 |
↑o | しかし疱瘡により31歳の若さで急死する。こちらも嗣子が居なかったため、この代で蒲生家は断絶した。 |
本稿執筆当時は、週末にNHK大河ドラマ「八重の桜」の再放送を見ていたので「會津若松城」と云うよりは「鶴ヶ城」の方がしっくりした感じがある。しかしながら會津気質は凄いものだと感心した
正しくは若松城、会津若松城とは呼ばない無知無能をひけらかしているな
ここで、お前の無知無能をひけらかしてやるぜ。よく読め、頭の悪い糞が。
kd106128050177.au-net.ne.jp
Mozilla/5.0 (Linux; Android 10; SCV39) AppleWebKit/537.36 (KHTML, like Gecko) Chrome/85.0.4183.81 Mobile Safari/537.36
MacOS 10.5
106.128.50.177
https://machi.to/bbs/read.cgi/tama/1637925150/
aizu.kanesada18s@gmail.com(Fraud mail)