菅谷館には坂東武者・畠山重忠の居館があったが、現在の遺構は戦国時代の城跡である

埼玉県は比企郡嵐山(ひきぐん・らんざん)町菅谷757にある県立嵐山史跡の博物館は、鎌倉幕府で源頼朝の有力御家人の一人として重用された畠山重忠(はたけやま・しげただ)が文治2(1187)年まで居住していたと伝わる菅谷館の跡地に建っている。この館跡について築城年や築城者といった起源については明らかではなく、重忠が文久2(1205)年の武蔵国二俣川の戦い[a]この戦では、同じ有力御家人であった北条時政に謀反の疑いをかけられて重忠は討ち死にした。の際にこの小衾郡菅谷館(おぶすまぐん・すがやのたち)から出陣したと云うのが『吾妻鏡(あづまかがみ)』に記録されているのみである。その後は戦国時代初期で太田道灌亡き後に、山内・扇ヶ谷上杉両氏が18年もの間争った長享の乱の際に城郭として改修されたと云う。この時、山内上杉氏が「河越城に対し、須賀谷旧城を再興して鉢形城の守りを固めるように」と道灌の嫡男・太田資康(おおた・すけやす)に命令したとされるが、この「須賀谷旧城」が菅谷館跡にあたるとされ、現在、博物館周辺に残る土塁や堀といった遺構はこの時代のものとするのが通説である。この城跡は、平成20(2008)年には松山城跡杉山城跡、小倉城跡と共に比企城館跡群(ひきじょうかんあとぐん)として国指定史跡となった[b]それに伴い菅谷館の正式名称は「比企城館群菅谷館跡」に変更された。

一昨年は平成28(2016)年の大寒、関東地方はまだまだ寒く、山間部には雪が残っていた週末に埼玉県大里郡寄居町にある正龍寺で北條氏邦夫妻・藤田康邦夫妻の墓所を詣でた後に、近くにあった山城跡を攻めたのだけれど、これがまた登山道が見つからないほど藪化がひどく、途中大木が折れて倒れていたり、スネ辺りまで埋まりそうな落ち葉と腐葉土があったりで、とてもではないけど山頂まで行くことは叶わず、帰りは遭難寸前で下山する羽目になった :$
せっかく早起きしてやってきたのに、このまま「撤退」するのは心残りであったので急遽、近場に攻めることが可能な場所がないか探してみたら、この菅谷館跡が見つかったので、寄居駅から東武東上線に乗って武蔵嵐山駅へ移動した。駅の西口からは県道R251沿いを南下し、小中学校を横目に嵐山バイパスこと国道R254へ向った所にある「大妻嵐山高校入口」交差点からバイパスを渡った先が県立嵐山史跡の博物館が建つ菅谷館跡である。武蔵嵐山駅から(信号待ち抜きで)徒歩およそ15分といったところ:

「嵐山史跡の博物館」(観覧料は100円/当時)で貰った見学のしおりより

比企城館跡群・菅谷館跡の案内図(拡大版)

ということで何の予習もなくやってきた菅谷館跡。城攻めの間、館跡にしては大袈裟な縄張りだなぁと思ったが、あとで戦国時代初期のものだったと分かって納得した。それでもなかなかに良好な遺構が残っていたし、坂東武者の鑑とも呼ばれた畠山重忠公について知る機会ができて良かった。初めどうせなら「菅谷城跡」にでも改名すればよいのではとは思ったが、ここは公の忠節を後世に残すための配慮であろうと(勝手に)推察した。

こちらは博物館作成の菅谷館跡の縄張図に一部加筆したもの:

博物館が作成した中世城郭の縄張図に現在の状況を重畳したもの

菅谷館跡の縄張図(拡大版)

ここの遺構は面積が約13万㎡[c]東京ドーム約3個分らしい。しかし、なぜ「東京ドーム」が基準なんだろうか。東京ドームの大きさをぱっとイメージできる人って、そんなに居ないと思うが。ある複郭式の平城で、東西は台地に直行して深い谷が形成され、城の南を流れる都幾川(ときがわ)の流れで切り立った崖となった台地の縁辺部(えんぺんぶ)をたくみに利用し、その南端に配置した本郭を包み込むようにして複数の郭を配置した複雑な縄張りになっている。

今回の城攻めルートはこちら。博物館が建つ搦手方面から攻めた:

①嵐山バイパス (外堀跡) → ②二重土塁 → ③搦手門と土橋跡 → ④三ノ郭跡 → ⑤三ノ郭東側の外堀跡 → ⑥井戸跡と居館跡 → ⑦空堀道 → ⑧二ノ郭跡 → ⑨二ノ郭の堀 → ⑩畠山重忠公像 → ⑪二ノ郭門跡 → ⑫本郭虎口と土塁 → ⑬本郭堀と出枡形土塁 → ⑭本郭跡 → ⑮本郭土塁 → ⑯本郭堀の堀底 → ⑰南郭跡 → ⑱南郭虎口 → (二ノ郭跡・三ノ郭跡) → ⑲蔀土塁 → ⑳正拈門跡 → ㉑西ノ郭堀 → ㉒西ノ郭跡 → ㉓大手門跡 → ・・・ 博物館

現在の遺構は、高い土塁と深い堀に囲まれ、二ノ郭、三ノ郭、本郭、西ノ郭、そして南郭の五つの郭跡に分かれ、本郭からは二ノ郭と南ノ郭、西ノ郭の全体をそれぞれ見渡せるように高くなっていた。土塁には戦国時代特有の防備設備である「折(おり)」や「横矢掛かり」、そして「出枡(でます)形土塁」が設けられ、城内の堀は全て空堀であるが、一部は水堀または泥田(どろた)堀になっていたと云う。


まずは①嵐山バイパスこと国道R254から搦手口へ。このバイパスの一部は外堀にあたり、自然の谷を利用した泥田堀だった:

城の搦手側の外堀に相当し、往時は泥田堀だった

嵐山バイパスは外堀跡

現在の菅谷館跡及び博物館の出入口となっている場所が搦手口跡で、二つの土塁に挟まれた堀が設けられ②二重土塁で守られていた:

調査では堀を挟んで左手と右手に土塁があることが判明した

二重土塁と堀

ここが博物館の出入口であるが、搦手側の虎口でもある

「国指定史跡・菅谷館跡」の石碑

こちらが三ノ郭跡である博物館駐車場からみた③搦手門と土橋跡。外堀である嵐山バイパスから手前の虎口へ向かって上り坂になっており、外から城内を見と通すことを防ぐ坂虎口を形成していた:

ここに搦手門が建ち、空堀に架かる土橋が坂虎口になっていた

坂虎口である搦手口跡

また左右に延びた土塁は3mほどずれて設けられていたことから喰違い虎口とも考えられ、搦手門の幅は約4間[d]メートル法だと7.28m。だった。土橋は空堀を築いた際に掘り残し、盛土して造られた。

なお博物館への出入口は「大妻嵐山高校入口」交差点近くにもう一つあり、三ノ郭へ虎口の雰囲気を醸し出していたが、こちらは遺構ではなく、後世の造物である。しかしながら土塁は立派である:

もう一つの登城口から眺めた堀と土塁

外堀跡

両脇の土塁が虎口ぽさを演出していたが後世の造物である

もう一つの虎口(?)

こちらが④三ノ郭跡。東西約260m、南房約130mの長方形をした城内で一番広い郭(くるわ)だった:

この東西に広がる平地は武士や騎馬の集合地(馬出)だった

三ノ郭跡

県立嵐山史跡の博物館は三ノ郭跡に建っている:

比企地域に遺る重要な文化財の維持管理の他調査研究を行っている

県立嵐山史跡の博物館

この博物館は菅谷館跡を含む比企地域に遺る文化財を将来にわたって確実に維持・管理するとともに、関係資料の収集・保管や調査研究を行い、その成果を公開することを目的として埼玉県嵐山町が運営しているとのこと。

ここで博物館には入らずに左手に回り、城址東側の遺構を見ることにした。
こちらは⑤三ノ郭の東側土塁。この郭は二ノ郭へ至る重要な郭であるため折や横矢掛かりが可能な土塁になっていた:

博物館の脇へ入っていくと土塁が続いていた

三ノ郭の東側土塁

この土塁の奥は外郭(民家)であるが、その間には外堀跡が残っていた:

手前が三ノ郭跡、堀の向こうが外郭で現在は民家

外堀跡

このようにして博物館の背後に廻ると⑥井戸跡と居館跡がある:

史料館の建設に伴う発掘調査で建物跡、溝跡、井戸跡のうち二ヶ所の建物跡と一ヶ所の井戸跡を保存している

井戸跡と建物跡(拡大版)

ここには大小の掘立柱の建物を丸太を立てて標示している他に、深さ2〜3mの素掘りの井戸跡がのこる。井戸の中からは板碑(いたび)[e]板石塔婆(いたいしとうば)とも。石でできた供養塔とされる。や土器、陶磁器などが発見されたと云う。

三ノ郭の南側には二ノ郭があり、左手にある説明板の奥が双方の郭の連絡路とされる ⑦空堀道

説明板が建っている場所が空堀道で、その奥に二ノ郭がある

空堀道跡と堀跡

空堀道は幅が狭く入り組んでいたため侵入が容易ではなかった

空堀道跡と堀跡(コメント付き)

ここで三ノ郭に侵入した寄せ手は本郭を目指すため、右手の堀を避けるように空堀道へ侵入することになるが、この道は幅が狭く入り組んでいて簡単には進めないように工夫されていたと云う。

こちらが三ノ郭と二ノ郭にあった堀跡。二つの郭は3.5m~6mもある土塁によって隔てられていたが、現在は道路脇の土塁として復元されていた:

左手が三ノ郭跡、車道となった空堀途、右手がニノ郭跡である

堀跡

そして⑧二ノ郭跡。本郭の北側と西側を囲むように配置された郭で、こちらは北側で、右手奥が西側となる:

こちらは本郭北側にあたり、向こうに見えている高い土塁が本郭の土塁である

二ノ郭跡(拡大版)

ここは城跡の中央部分にあたり、東西約250m、南北約20〜50mの細長い郭であった。

そして、この背後には三ノ郭が二ノ郭に鈎型状に食い込んで出来たかのようにみえる⑨二ノ郭の堀と土塁がある:

左手が二ノ郭方面、正面奥には二ノ郭門、右手が三の郭方面

二ノ郭の堀

二ノ郭跡から堀を挟んで三ノ郭の土塁を見たところ

二ノ郭の堀

鈎型になった土塁と池のようになった水堀、そして三ノ郭跡

二ノ郭の堀

この堀の脇には直垂(ひたたれ)をまとい、烏帽子をつけた⑩畠山重忠公像が鎌倉の方を向いて立っていた:

地元の有志が竹を芯にした「竹筋コンクリート」製で、直垂をまとい烏帽子をつけて鎌倉の方向を向いている

畠山重忠像(拡大版)

鎌倉幕府の有力御家人の一人であった重忠は初めは平氏の郎党であった[f]畠山氏が桓武平氏の流れを汲む秩父氏の一族である上に、父の重能(しげよし)が平家に仕えてため。。平安時代末期の治承4(1180)年から6年間にわたって清和源氏と伊勢平氏が対立した源平争乱で弱冠17歳の重忠は平氏方につき、源氏方の相模国三浦郡衣笠(さがみのくに・みうらぐん・きぬがさ)城主で、実母の祖父でもあった三浦義明(みうら・よしあき)を討った。伊豆国で挙兵し石橋山の戦いで敗れた頼朝はのちに亥鼻城主・千葉常胤(ちば・つねたね)らの大軍に助けられ再挙したが、この時に重忠は白旗を持って頼朝に帰伏した。そして鎌倉入り、富士川の戦いでは先陣を務め、宇治川や一ノ谷合戦、あるいは奥州藤原氏討伐などで多くの手柄をたてた。

その後は頼朝から厚く信頼され、坂東武者の中心的人物として、そして鎌倉幕府創業の功臣として重きをなしたと云う。頼朝死後も和田義盛(わだ・よしもり)らとともに御家人の実力者として活躍したが、三代将軍・実朝(さねとも)の代に幕府内の勢力争いに巻き込まれると、幼少の実朝に代わって実権を握った執権・北条時政[g]源頼朝の正室・北条政子の実父。鎌倉幕府の初代執権。畠山重忠は時政の娘婿にあたる。の謀略により虚偽の命に従って、わずかな軍勢で鎌倉へ向かう途中、武蔵国二俣川で時政の次男・義時(よしとき)らの大軍に待ち伏せされた。
最後は覚悟を決め、わずかな兵で踏みとどまって大軍を相手に奮戦したが衆寡敵せず、ついに討ち死にした。享年42。

存命中から武勇の誉れ高く、その誠実潔白な人柄は「坂東武者の鑑」と称された。


こちらは重忠公の像の脇から見下ろした二ノ郭の堀:

重忠公の像が建つニノ郭跡から水堀ごしに三ノ郭の鈎型をした土塁を見下ろしたところ

二ノ郭の堀(拡大版)

この土塁と堀の奥が⑪二ノ郭門跡。往時、ここには三ノ郭(右手)から二ノ郭(左手)へ渡る木橋が架かっていたと云う:

右手の三ノ郭から左手の二ノ郭へ渡る木橋が架かっていた

二ノ郭門跡

二ノ郭西側へ行く前に本郭跡を攻めるため⑫本郭虎口と土塁へ:

空堀を挟んで左手がニノ郭跡、土塁がある右手が本郭跡である

本郭虎口横の空堀(拡大版)

土橋の手前の空堀はさらに出枡形土塁へと繋がる

本郭虎口と土橋

四方を深い堀と高い土塁で囲まれた本郭の虎口は他の郭のものと比べて狭く、寄せ手の侵入を困難にさせていた:

二ノ郭(手前)から本郭(奥)へ延びる土橋の両脇は深い空堀である

本郭虎口と土橋

本郭には、この土橋がある虎口の他に「生門」と呼ばれた虎口が東側にあり、そちらが元々の畠山氏居館の正門であったと云われている。

そして、この本郭土橋の右手を固める ⑬本郭堀と出枡形土塁

この土塁によって本郭虎口の土橋を渡る寄せ手は横矢を受けることになる

出枡形土塁

屈曲した堀底を進む寄手の視界を奪い、強烈な横矢を浴びせることが可能だった

出枡形土塁と本郭堀(拡大版)

この枡形状に張り出した土塁から本郭虎口に寄せた敵勢に横矢を浴びせることができた上に、屈曲した堀を進む敵勢の視界を奪うことができる巧妙な防御施設であった:

幾重にも屈曲した堀底道は寄せ手の視界を奪い、痛烈な横矢を仕掛けることができた

屈曲した本郭堀(拡大版)

こちらが⑭本郭跡。東西約150m、南北約60mの長方形をした郭で、広さは約9,000㎡。郭の東側にある土塁が途切れたところが生門(しょうもん)跡で、本郭のもう一つの虎口であった:

郭の中から振り返って虎口と土橋を見たところ

本郭虎口

広さは9,000㎡もあり、奥に見える土塁の切れ目が生門跡(しょうもんあと)と伝えられる

本郭跡(拡大版)

戦国時代に入ると関東各地で衝突が起こり、約18年間にも及んだ長享(ちょうきょう)の乱では鉢形城を本拠とする山内上杉(やまのうち・うえすぎ)氏と河越城を本拠とする扇ヶ谷上杉(おうぎがやつ・うえすぎ)氏らの軍勢が、この館跡周辺を主戦場としてたびたび衝突した(「須賀谷原合戦」)。この時に山内上杉方の太田資康が館跡を改修して城郭化し、拠点の一つとしたとされる。

こちらは現代の比企郡に点在する主な城郭分布図である。須賀谷(菅谷)城や杉山城は、この乱世の時代に整備された城郭と云われている:

現在の埼玉県比企郡を中心として数多くの中世城郭が残っており、まさに城跡の宝庫である

比企地区を中心とした主な城郭分布図(拡大版)

長享の乱が山内上杉氏の勝利で終わった後、敗れた扇ヶ谷上杉氏の当主・朝良(ともよし)[h]養父は名将・太田道灌を暗殺した伯父の上杉定正。は一時期、この須賀谷城に幽閉されていたと云う。

さらに伊豆国の新興勢力であった伊勢宗瑞[i]伊勢新九郎または早雲庵宗瑞(そううんあん・そうずい)とも。のちの北條早雲で、小田原北條家の始祖となる。が武蔵国へ侵攻すると、またたくまに上杉氏ら旧勢力は追いやられることとなった。また天文15(1546)年の河越夜戦から比企郡を含む北関東は越後の長尾景虎と小田原の北條氏との間で新たな軍事的緊張を生み出す舞台ともなった。

この時期から菅谷(須賀谷)城は小田原北條氏の支城となり北條流築城術が随所に盛り込まれ、天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原仕置後に廃城になったとの説が有力ではあるが、発掘調査では小田原北條氏の時代の遺物は一切出土していないため、杉山城と同様に北條氏の支配下に入る前に廃城になっていた可能性も指摘されている。


これは西側の⑮本郭土塁。土塁の高さは現在でも3〜4mの規模を誇る:

土塁は長方形をした本郭の外周を巡っていた(南側を除く)

本郭土塁

そして⑯本郭堀の堀底。堀幅は8〜9m、深さは6〜7mほどで、土塁を加えると現在でも10mほどの比高差を持つ:

土塁や堀には北條流築城術の特徴が伺える

本郭の堀底

本郭跡の南端から⑰南郭跡へ。本郭よりも一段低い場所に設けられた腰郭に相当する:

本郭の南側に位置し、周囲にある他の郭よりも一段低くなった腰郭である

南郭跡(拡大版)

この郭は東西約110m、南北約30mの小さな郭で、都幾川の崖上にあり、天然の外堀であった都幾川から本郭へ直接侵攻できないようにするための郭でもある。

このあとは南郭跡から二ノ郭西側へ移動した。
こちらは南郭の⑱南郭虎口。この先は館跡の南を流れる都幾川(ときがわ)の河川敷にあるホタルの里にでられる:

この先は館跡の南を流れる都幾川の河川敷に出る

南郭の虎口跡

堀の向こうが南郭跡になる

二ノ郭南側の虎口

二ノ郭西側には西ノ郭があるが、その間には見応えのある深い堀があった:

手前が二ノ郭跡で、堀を挟んだ向こうが西ノ郭跡である

二ノ郭と西ノ郭の間にある堀

そして、このまま三ノ郭跡まで戻って西ノ郭跡へ向かった。

これは ⑲蔀土塁。「蔀」とは衝立(ついたて)のことで、蔀土塁は郭の中を垣間見ることができないよう目隠しするための土塁である:

奥にある西ノ郭から手前の三ノ郭の内部を直接見通せないようにするための物

蔀土塁

この土塁の脇にあるのが⑳正拈門跡(しょうてんもん・あと)で、現在は木橋が推定復元されていた:

三ノ郭西側の虎口で幅が5間(約9m)の門が建ち、傾斜を持つ坂虎口だった

正拈門(しょうてんもん)跡

ここから橋脚を立てていたとされる石積みが発見された

復元された木橋

三ノ郭西側の虎口にあたるこの場所には幅が約5間[j]メートル法だと9.09m。の門が建っていた。さらに発掘調査の結果、橋の向こうの西ノ郭よりも手前の三ノ郭側を約1m高く盛土して傾斜をつけて坂虎口にしていたと云う。

また木橋が架かっている㉑西ノ郭堀の中段からは橋脚を建てていたとされる石積みが発見された:

何段にもなった複雑な形状の堀底と高い土塁から構成されていた

西ノ郭堀

調査によって堀の中段から橋脚を載せていたとされる石積みが発見された

西ノ郭(コメント付き)

虎口の抜けた先が㉒西ノ郭跡。館跡の北西部分で、本郭から一番離れたところにある郭である:

本郭から一番離れた場所にある郭である

西ノ郭跡

東西約130m、南北約70mの長方形をした郭で、北から南へかけて緩やかに傾斜しており、西端には大手門跡と伝えられる虎口がある。

こちらが西ノ郭跡から大手門方面を見下ろしたところ:

左手の二ノ郭西側の深い切岸と、手前の西ノ郭から傾斜がついた大手道になっていた

大手道跡(拡大版)

以上で城攻めは終了。このあとは博物館で史料を観てきた。
ということで急遽、予定を変更した城攻めではあったが予想以上に見どころがあってよかった。ちなみに最初に攻め落とせなかった山城は一年後にしっかりとリベンジしてきた :$

See Also菅谷館攻め (フォト集)

【参考情報】

参照   [ + ]

a. この戦では、同じ有力御家人であった北条時政に謀反の疑いをかけられて重忠は討ち死にした。
b. それに伴い菅谷館の正式名称は「比企城館群菅谷館跡」に変更された。
c. 東京ドーム約3個分らしい。しかし、なぜ「東京ドーム」が基準なんだろうか。東京ドームの大きさをぱっとイメージできる人って、そんなに居ないと思うが。
d. メートル法だと7.28m。
e. 板石塔婆(いたいしとうば)とも。石でできた供養塔とされる。
f. 畠山氏が桓武平氏の流れを汲む秩父氏の一族である上に、父の重能(しげよし)が平家に仕えてため。
g. 源頼朝の正室・北条政子の実父。鎌倉幕府の初代執権。畠山重忠は時政の娘婿にあたる。
h. 養父は名将・太田道灌を暗殺した伯父の上杉定正。
i. 伊勢新九郎または早雲庵宗瑞(そううんあん・そうずい)とも。のちの北條早雲で、小田原北條家の始祖となる。
j. メートル法だと9.09m。