水戸城跡で唯一現存する薬医門は本丸跡地の高校の敷地内に移設されていた

鎌倉幕府で源頼朝に重用された御家人の一人・馬場小次郎資幹(ばば・こじろう・すけもと)が常陸国の大掾職(だいじょうしき)に任じられると、常陸府中を中心に勢力を広げ[a]この時から大掾資幹(だいじょう・すけもと)と称した。、水戸の地にあって北は那珂川(なかがわ)、南は千波湖(せんばこ)に挟まれ、東西に長い台地の東端に居館を築いて馬場城とした。室町・戦国時代にかけては常陸江戸氏が城主となって支配を続けていたが、天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原仕置時に九代当主の重通(しげみち)は小田原北條方について馬場城に籠城したが、秀吉方についていた佐竹義重(さたけ・よししげ)・義宣(よしのぶ)父子[b]往時の佐竹氏は北に伊達氏、南に北條氏を敵に回して常陸統一を掲げていた。によって落城した。仕置後に常陸国54万石を賜った義宣は、文禄2(1593)年から城と城下町の普請を開始し、東端の一段低い丘を下の丸、その上の段丘に本丸、堀を越えて二の丸、その西側に三の丸の郭を造るなどして水戸城に改め、それまでの常陸太田城からここへ居城を移した。この時、城下町は武家地と町人地が入り交じるような町割りを採用した。佐竹氏は関ヶ原の戦後に出羽国秋田へ転封となったが、後に徳川頼房[c]読みは「とくがわ・よりふさ」。徳川家康の末子で十一男。徳川御三家の一つ水戸徳川家の祖で常陸水戸藩の初代藩主。が修築した近世城郭は佐竹氏が築いたものが基礎となって現在に至る。

一昨年は平成28(2016)年の正月明けの連休を利用して、自身としては初となる茨城県にある城攻めに行って来た。最終日は宿泊先のJR常磐線・水戸駅近くから徒歩で行ける距離で、茨城県水戸市三の丸に遺る水戸城跡へ。
かって水戸徳川家の居城であった城内の建築物は、幕末の水戸藩で起こった天狗党の乱によって焼失したのに加え、廃藩置県による廃城を経て、太平洋戦争の水戸空襲のために殆ど残っていない[d]おまけに二の丸と本丸との間の堀切跡にはJR水郡線が走っている。が、三の丸の空堀や藩校だった弘道館、そして本丸の表門だったとも云われる薬医門が現存している。

江戸幕府が正保元(1644)年に城と城下町の絵図を作成するよう諸藩に命じて完成させた『正保城絵図』[e]命じられた各藩は数年で絵図を提出し、幕府はこれを江戸城内の紅葉山文庫(もみじやま・ぶんこ)に収蔵した。昭和61(1986)年に国の重要文化財に指定された。には、往時の水戸藩が作成した絵図が現存しており、国立公文書館のデジタルアーカイブ閲覧やダウンロードが可能になっている。
こちらはダウンロードした画像の一部に注釈を入れたもの:

城郭を囲む北の那珂川や南の千波湖の形勢の他に城下町の町割りについて寸法などの子細まで記されていた

常陸国水戸城絵図

現在、黄色線で囲った本丸跡と二の丸跡の大部分は学校の敷地[f]本丸跡は県立水戸第一高等学校、二の丸跡は県立水戸第三高等学校と市立第二中学校。となっており、その西側の三の丸跡には特別史跡の旧・弘道館と茨城県庁三の丸庁舎が建っている。また城下町跡は佐竹氏による武家地と町人地が入り混じった町割りが江戸時代を経て継承され、現在の市街地になっているのが見て取れた。

これは城絵図から拡大した城域と、その上に現在の地図を重畳させたもの:

天然の外堀である那珂川と千波湖に挟まれ、東西に長い台地の東端に築かれた本丸と二の丸は内堀が巡らされていた

常陸国水戸城絵図で城域を拡大したもの

長い歴史の中で焼失した建築物の他に、現代の土地開発で埋め立てられた改変されてしまった城域

城域と現代の平面図を重畳したもの

ということで、今回巡ってきた水戸城跡は三の丸跡に建てられた弘道館と、正保絵図の黄色線で囲まれた二の丸跡と本丸跡の一部のエリアの現存・復元遺構である:

櫓・門・蔵などの位置や大きさ、水堀・空堀・土塁など詳細に記載されている図

水戸城実測図(コメント付き)

こちらが今回の城攻めルート:

(JR水戸駅北口) → 柵門跡(市立三の丸小学校) → 三の丸空堀 → 水戸東武館 → 旧・弘道館 → 大手橋 → 大手門跡 → 二の丸土塁・二の丸御殿跡 → 御三階櫓跡 → 杉山坂・杉山門 → 本城橋 → 本丸土塁 → 本丸跡 → 薬医門 → 大堀切跡 → 坂下門 → 水戸黄門神社 → 水戸黄門・助さん格さんの像 → (JR水戸駅北口)

朝9時過ぎから攻めて昼の11時近くまでたっぷり城跡を巡ってきた。


まずはJR水戸駅北口を北上して国道R51を渡り、銀杏坂のオオイチョウのあたりから三の丸歴史ロード[g]旧・弘道館と三の丸跡をぐるりと一周するようなルートのこと。に入って水戸市立三の丸小学校を目指していくと、なんとも立派な冠木門が見えてきた。なお小学校は弘道館の南側に位置している:

現在は市立三の丸小学校の校門になっていた

旧・弘道館の柵門跡

明治時代に水戸元白銀町[h]現在の大町の一部と南町の一部。に建っていた東茨城高等小学校が水戸市高等小学校となり、さらに弘道館の敷地であった現在の場所に移転して三の丸小学校となったらしい。そういうことで、この冠木門はダミーであるが門が建つ場所は旧・弘道館の柵門跡となる。

ここから三の丸歴史ロードに沿って地方裁判所方面へ向かっていくと水戸警察署の建物を過ぎたところから[i]実際は茨城県立図書館の駐車場を横切るとショートカットできる。巨大な三の丸の空堀が見えてくる:

茨城県水戸警察署の隣にある三の丸空堀の一つの南堀

三の丸空堀−南堀

三の丸西側にあった空堀は台地を掘削して造成された水戸城の外堀にあたり、ここを境に城内と城下町を区分していた:

幕末には藩校である弘道館の敷地となった三の丸の外堀で、『常陸国水戸城絵図』にも空堀として描かれていた

三の丸空堀−中堀(拡大版)

また城の塁壁は全体が土塁と土の堀で、石垣造りではなかった。但し、徳川家康と家光の時代に二度ほど石垣構築の命がだされ、石材も準備されたが実現をみなかった:

水戸城の外郭の累積は土塁と堀で石垣造りではなかった

中堀上の土塁

この堀の深さは本丸堀や二の丸堀と比べると少し見劣りするが、堀幅では引けをとらない規模である:

往時はこの堀の西側(左手)に上市(うわいち)と呼ばれた武家屋敷があった

三の丸空堀−北堀

三の丸の空堀が北堀と中堀、そして南堀の三つからなっていたのは、往時家老らの屋敷が建っていた三の丸が北と中と南の三地区に分かれていたからである。

空堀沿いに三の丸歴史ロードを北上していくと正面に水戸東武館が見えてくるが、これは水戸城とは直接は関係のない明治初期の頃の建造物:

明治時代に開館した武道(剣道・なぎなた道・居合道)の修練場

水戸東武館

そして三の丸歴史ロードの終点となる旧・弘道館前へ:

弘道館創立の天保12(1841)年に建てられた本瓦葺き四脚門で、藩主の来館や諸儀式を執り行う時にのみ開門した

正門(拡大版)

本瓦葺き四脚門の屋根瓦には徳川家の家紋があしらわれていた

屋根瓦の葵の紋

弘道館は、天保12(1841)年に水戸藩第九代藩主・徳川斉昭(とくがわ・なりあき)により中三の丸の地に創立された藩校である。往時の藩校としては国内最大に規模を有した。
敷地内には政庁及び至善堂(しぜんどう)・文館・武館・医学館・鹿島神社・孔子廟・八卦堂・馬場・調練場などがあり、それらの配置は建学精神にそって独特の工夫がこらされていたと云う。のちの戊辰戦争や大戦中の水戸空襲などで多くの建物が焼失したが、現在は一部の区域と正門、正庁、至善堂といった現存建築物が国の特別史跡に指定されている。

弘道館創立時に建てられた正門は本瓦葺き四脚門で、屋根瓦に葵の紋があしらわれ、藩主の来館や諸儀式を執り行うときにのみ開門したと云う。また門の脇に設けられて附塀(つけべい)を含めて重要文化財に指定されている。

なお、門柱や扉などに見られる傷跡は、明治元(1868)年の天狗党の乱が水戸城下にまでおよび、弘道館に立て籠もった水戸藩保守派の諸生党(しょせいとう)を天狗党が激しく銃撃した際にできた弾痕とのこと:

弘道館の戦いは藩内の天狗党と諸生党との勢力争いだった

弾痕跡

城郭の一部らしく盛っているが、後世の造物

弘道館の土塁

こちらは通用門と番所。現在は入場券売り場となっていた。この特別史跡への入館料は大人200円(当時)だった:

現在は弘道館事務所兼入場券売り場だった

通用門と番所

通用門を抜けた先が国指定重要文化財である正庁(せいちょう)の東側正面:

正庁は藩主の臨席のもとで大試験や諸儀式が行われる場、至善堂は藩主の休息所や将軍の勉学の場

正庁の東側正面(拡大版)

正庁は藩主が臨席のもとで大試験や諸儀式が執り行われる場で、その裏手にある至善堂(しぜんどう)は藩主の御座所(居間、休息場)であり、また将軍をはじめとする諸公子の勉学の場でもあった。

政庁の正面には九代藩主・斉昭(烈)公御手植えの黒松と、夫人登美宮様[j]江戸時代の皇族の一人である有栖川宮織仁親王(ありすがわのみや・おりひと・しんのう)の第十二王女。が嫁いだ際に仁孝天皇(にんこう・てんのう)から下賜された鉢植えの桜を植えたことに因んで三代目の左近桜[k]初代は長い年月で枯朽したが、現在の桜は昭和の時代の弘道館修理完了を記念して宮内庁から贈られたものが立っていた:

水戸第九代藩主・徳川斉昭(烈公)の手によるもの

御手植の黒松

現在の桜は三代目で、弘道館の修理が完了したことを記念して植えられた

左近桜(三代目)

正庁玄関から見た諸役会所(しょやくかいしょ)。床の間には斉昭の命により、水戸藩医で能書家である松延年(まつのべねん)が書いた『尊攘』の掛軸が掲げられていた。また五年前(当時)の東日本大震災によって大きく被害を受けた場所でもある:

会所の床の間には「尊攘」が掲げられていた

玄関と諸役会所

平成23(2011)年の東日本大震災の被害状況

東日本大震災直後の玄関

こちらは正庁南側の入側(いりがわ)。手前角の部屋が二の間、その左手奥が藩主が臨席する正席:

正庁正面に向かって左手奥側に正席の間と二の間が並び、その周囲を入間が巡っている

正庁の南側(拡大版)

内廊下にあたる入側は、こんな感じ。右手手前は二の間、その先が正席の間:

左手は対試場、右手奥が正席の間、手前が二の間

入側

ここに藩主が臨席して試験や諸儀式が行われた他、対試場をご覧になった

正庁正席の間

これは対試場(たいしじょう)ごしに眺めた正庁南側。正席には藩主が臨席して試験や諸儀式が執り行われた。また対試場での武術の試験もご覧になっていたとされる:

正庁南の入側からみた対試場は武技を競う場所だった

対試場

手前が対試場で、入側の奥左手が正席、右手が二の間

正庁の南側

さらに回り込んで正庁西側の眺め。この隅部屋が藩主の御座所だった至善堂(しぜんどう):

手前の板廊下から右手へ至善堂、二の間、三の間と続き、十間畳廊下へ至る

正庁の西側

至善堂の御座の間は明治元年の江戸城開城後、徳川第十五代征夷大将軍であった一橋慶喜公が恭順謹慎した部屋でもある:

明治元年に徳川慶喜が恭順謹慎した部屋でもある休息の場

至善堂御座の間

床の間の掛軸の拓本『要石歌碑(かなめいし・かひ)』は、古い昔から我国に伝わる大和の道は、いつまでも変わらない大道であるから、これを堅く信じ迷い惑わされることなく信念をもって正しく歩むようにと教えた斉昭(烈)公自作の和歌である。

このあとは正庁から離れて他の建物を見て回ることにした。
まずは孔子廟。孔子の教えは最も中正を得た道徳なので、その教義を採用するとともに、その御廟を安政4(1857)年に建立し、孔子神位を安置して祀ったと云う:

弘道館では最も中正を得た道徳である孔子の教えを教義とした

孔子廟門(復元)

この廟門は水戸空襲により正門とその左右の土塀を残して焼失したが、昭和45(1970)年に復元された。

これは至善堂の床の間に掛かっていた拓本と同じ要石歌碑の石碑:

斉昭公自筆の歌文が刻まれた要石の歌碑

要石歌碑

水戸市指定文化財の鹿島神社と境内の古井戸。社殿は水戸空襲で焼失したが、のちに再建された。神儒一致の建学精神のもと、鹿島神宮から分祀した武甕槌神(たけみかづちのかみ)が祀られている:

大戦中の水戸空襲で社殿が焼失したが昭和50(1975)年に再建された

鹿島神社(復元)

江戸時代の古井戸

古井戸

これは八卦堂(はっけどう)。敷地の中央に位置し、建学精神の象徴である「弘道館記碑」(非公開)が納められている:

納められている弘道館記碑も東日本大震災の被害を受けたらしい

八卦堂

納めれている記碑は東日本大震災でかなり被害を受けてヒビが入り、一部は粉々になっていたが手作業で復元したらしい。

現存の鐘楼である学生警鐘(がくせい・けいしょう)には斉昭公が自鋳の鐘を復元したものが吊り下げられていた:

弘道館の学生に時を告げたり、事を知らせる際に使われていた

学生警鐘

このあとは旧・弘道館が建つ三の丸跡を出て二の丸跡へ。

これは二の丸堀跡の県道R232(市毛水戸線)に架けられている大手橋:

弘道館の正面に二の丸へ通じる大手口がある

現在の大手橋

佐竹氏が城郭拡張の際に設けた橋で、徳川氏の時代に大手橋と呼ばれた

往時の大手橋

慶長元(1596)年に佐竹義宣が三の丸と二の丸を築いた際に架けられた橋は、のちに徳川頼房(とくがわ・よりふさ)によって修築されると大手橋と呼ばれるようになった。明治元(1868)年の天狗党の乱では、この橋を挟んで戦闘が行われたと云う。大戦中の水戸空襲を経て橋は何度となく修復され、昭和10(1935)年には現在のようなコンクリート製になった。

そして大手橋を渡ったところが大手門跡:

ここに大手橋に接して二階建て櫓門が建っていた

大手門跡

佐竹氏が建てたものが、徳川氏の時代でも大手口として使われた

往時の大手門

そして大手門土塁跡:

佐竹氏の時代に造られ、徳川氏の時代に改修された

大手門跡の土塁

こちらも佐竹義宣が慶長6(1601)年に建てた二階建ての櫓門で、徳川氏の代になっても水戸城の大手口の門として番屋が置かれた。明治の廃城令で取り壊されたが、平成30(2018)年から大手門の復元整備工事が進んでいる[l]完成予定は令和元(2019)年9月なのだとか。

大手門跡を過ぎて水戸城跡通りを市立第二中学校へ向かって行くと、学校の敷地に二の丸土塁が残っていた:

現在は水戸市立第二中学校の敷地内にある

二の丸土塁

第二中学校脇が史館「彰考館(しょうこうかん)」跡。現在は二の丸展示館が建っていた:

左手奥が水戸黄門で知られる徳川光圀公が建てた彰考館

二の丸展示館

徳川家の時代の二の丸は二の丸御殿が建ち、本丸ではないが「本城」扱いであった。また「水戸の黄門さま」として知られた水戸藩第二代藩主の徳川光圀公が「大日本史」編纂のため江戸藩邸内に設けた彰考館は、公の隠居により元禄11(1698)年に水戸城内に移築された。

これは県立水戸第三高等学校の敷地内に建っていた御三階櫓(ごさんかいやぐら)の説明板[m]櫓跡の実際の場所は学校の敷地内である。

徳川頼房が城郭の整備を行った際に三階建ての物見櫓を建てたの始まり

水戸城御三階櫓跡の説明板

こちらが往時の御三階櫓を写した写真:

徳川頼房が築いた天守を兼ねた御三階櫓は明治元年の天狗党の乱では焼失を免れたが水戸空襲で焼失した

往時の御三階櫓(拡大版)

御三階櫓は、寛永2(1625)年に水戸藩主・徳川頼房が開始した水戸城大改修の折に、本丸ではなく二の丸の御殿脇に建てられた物見櫓[n]一説に、政庁の中心が本丸ではなく二の丸御殿に移っていたことが、二の丸に建てられた理由と云われている。であるにも関わらず、水戸城の天守として使われていたと云う。この櫓は明和元(1764)年の火災で焼失したが、明和3(1766)年には第五代藩主・徳川宗翰(とくがわ・むねもと)が再建した。再建された櫓は姫路城天守を参考に、規模を4分の1にしたと伝わる。一階壁面下部は土蔵のような海鼠壁(なまこ・かべ)で、銅瓦葺の屋根には破風などの装飾は一切設けず、外部は三階でありながら内部は五階建てであった。焼失前は「三階物見櫓」、再建後は「御三階櫓」と呼ばれた:

一階の壁面下部を海鼠壁にし、銅瓦葺の屋根には破風は無い

御三階櫓復元立体図

その後、明治時代の天狗党の乱では焼失は免れ廃城を迎えたが、大戦中の水戸空襲で焼失した。

ここは祠堂跡。明の儒学者である朱舜水(しゅしゅんすい)の祠堂があった所で、朱舜水の没後に江戸駒込邸内に建てられたが後に水戸城内に移された:

儒学者・朱舜水(しゅすんすい)の祠堂があった所

祠堂跡

さらに水戸城跡通りを本丸方面へ向かって移動して行くと左手に巨大な椎ノ木が見えてくるが、これが天然記念物に指定されている大シイ(スダジイ):

水戸城旧城郭の中に位置するこの大シイは戦国時代から自生していたと伝えられ、その樹齢は約四百年と推定される

水戸城跡の大シイ(拡大版)

引き続き水戸城跡通りを本丸方面へ向かって行くと二の丸の北虎口にあたる場所に杉山門が復元されていた:

徳川頼房による大改修で整備された坂で、二の丸へ通じる重要な通路だった

杉山坂

二の丸北虎口跡で、往時は土塁と共に枡形が形成されていた

杉山門(復元)

二の丸跡を出てさらに本丸方面へ向かうと水戸城跡通りの分岐点に到達する。高架を渡って直進すると本丸跡に建つ県立水戸第一高校へ向かうことができるが、この本城橋が二の丸と本丸との間の大堀切跡に架かっている:

ここから先は高校の敷地になるが本丸跡へ向かう人は通行可能だった

本城橋(高校入口)

本丸と二の丸との間にある大堀切跡で、現在はJR水郡線が通っている

大堀切跡

本城橋を渡った先の高校の校門は橋詰門跡で、ここには屈曲した土塁による枡形が残っていた:

高校の校門から敷地へ向かう間に土塁で形成された枡形跡が残る

本丸枡形跡

左手の校門を過ぎた所には土塁で形成された枡形跡が残る

本丸枡形の土塁

ここから先は学校の敷地になるが史跡見学が目的ならば、県指定有形文化財である薬医門を見ることができる。佐竹氏の時代の遺構で、廃城後に城下の祇園寺に移築されていたが、昭和56(1981)年に本丸跡の入口に近い現在の場所に移築・復元された:

水戸城で現存するただ一つの遺構で、本丸虎口の橋詰門と云われ、正面の柱の間が三つの薬医門形式で、潜戸を二つ持つ

旧水戸城薬医門一棟(拡大版)

水戸城跡の現存するただ一つの建造物で、正面の柱の間が三つあり、そのうち出入口は中央だけの三間一戸(さんげんいっこ)の薬医門形式[o]扉を支える本柱とその背後にある控柱で支えられた屋根の棟の位置を中心からずらした造り。そのため横から見ると対称になっていない。で、両脇に潜戸が付いている。

こちらは門の内側と内部。この場所に移築された際、部分的に補修され切妻造の屋根をもとの茅葺に変えて銅板葺きとしたらしい:

構造や技法からみて安土・桃山期の建立と推定されている

薬医門の内側

佐竹氏が在城中に創建され、徳川氏に引き継がれたものと推定される

門の梁

この門があった位置は諸説あるが、城門の風格からみて本丸の表門にあたる橋詰御門[p]本城橋を渡ってすぐの本丸入口で、現在の校門があるあたり。であったと考えられている。

この後は再び水戸城跡通りに戻り国道R51へ向かった。その途中に復元された柵町坂下門が建っていた:

この門は二の丸の南虎口に建っていた高麗門形式の門

柵町坂下門(二の丸側)

この門の先が二の丸跡で、右手は大堀切の向こうが本丸跡

柵町坂下門

こちらは大堀切ごしに見た本丸の隅櫓跡。往時の本丸は城米を貯蔵した四棟の板蔵が建てられ、北西と南西の隅には物見櫓が建っていたと云う:

二の丸跡から大堀切ごしに眺めた本丸南西隅には二階三間四面の物見櫓が建っていたと云う

本丸南西隅の物見櫓跡(拡大版)

以上で水戸城攻めは終了。
このまま国道R51を経由してJR水戸駅へ向かったが、その途中に徳川光圀公の生誕地に建てられた義公祠堂(水戸黄門神社)にも立ち寄ってきた:

義公誕生の地(水戸黄門神社)の参道入口に建っていた黄門様の像

参道入口に建つ水戸黄門様の銅像

ここが水戸が生んだ不朽の傑人「水戸黄門光圀」(義公)が生誕した場所

水戸黄門神社

光圀公は初代水戸藩主・徳川頼房の第三子で寛永5(1628)年に家老・三木仁兵衛之次の家に生まれ:

光圀公の生誕の地に建てられた神社

義公祠堂(水戸黄門神社)



ここからは城攻め中に目撃した水戸藩ゆかりの傑人らの銅像を紹介する。

まずは旧・弘道館の正庁玄関に置かれていた第九代水戸藩主・徳川斉昭公と江戸幕府は第十五代征夷大将軍・徳川慶喜公の銅像。慶喜公は斉昭公の七男にあたる:

旧・弘道館は正庁の玄関先に置かれていたもの

徳川斉昭公と徳川慶喜公の像

こちらは大手門跡付近に建っていた徳川頼房公の銅像。常陸水戸藩の初代藩主で、水戸徳川家の祖にあたる:

徳川家康の十一男で、常陸水戸藩の初代藩主、水戸徳川家の祖にあたる

徳川頼房公像

最後はJR水戸駅北口に建っていた水戸黄門と助さん格さんの銅像:

「黄門」とは昔の朝廷から任命された中納言のこと

水戸黄門と助さん格さん像

光圀公が大日本史の史料収集のために全国を旅した際に共をした学者の「助さん」こと佐々木介三郎と「格さん」こと安積覚兵衛がそれぞれモデルとなって漫遊物語へと発展したらしい。

See Also水戸城攻め (フォト集)

【参考情報】

参照

参照
a この時から大掾資幹(だいじょう・すけもと)と称した。
b 往時の佐竹氏は北に伊達氏、南に北條氏を敵に回して常陸統一を掲げていた。
c 読みは「とくがわ・よりふさ」。徳川家康の末子で十一男。徳川御三家の一つ水戸徳川家の祖で常陸水戸藩の初代藩主。
d おまけに二の丸と本丸との間の堀切跡にはJR水郡線が走っている。
e 命じられた各藩は数年で絵図を提出し、幕府はこれを江戸城内の紅葉山文庫(もみじやま・ぶんこ)に収蔵した。昭和61(1986)年に国の重要文化財に指定された。
f 本丸跡は県立水戸第一高等学校、二の丸跡は県立水戸第三高等学校と市立第二中学校。
g 旧・弘道館と三の丸跡をぐるりと一周するようなルートのこと。
h 現在の大町の一部と南町の一部。
i 実際は茨城県立図書館の駐車場を横切るとショートカットできる。
j 江戸時代の皇族の一人である有栖川宮織仁親王(ありすがわのみや・おりひと・しんのう)の第十二王女。
k 初代は長い年月で枯朽したが、現在の桜は昭和の時代の弘道館修理完了を記念して宮内庁から贈られたもの
l 完成予定は令和元(2019)年9月なのだとか。
m 櫓跡の実際の場所は学校の敷地内である。
n 一説に、政庁の中心が本丸ではなく二の丸御殿に移っていたことが、二の丸に建てられた理由と云われている。
o 扉を支える本柱とその背後にある控柱で支えられた屋根の棟の位置を中心からずらした造り。そのため横から見ると対称になっていない。
p 本城橋を渡ってすぐの本丸入口で、現在の校門があるあたり。