鎌倉幕府で源頼朝に重用された御家人の一人・馬場小次郎資幹(ばば・こじろう・すけもと)が常陸国の大掾職(だいじょうしき)に任じられると、常陸府中を中心に勢力を広げ[a]この時から大掾資幹(だいじょう・すけもと)と称した。、水戸の地にあって北は那珂川(なかがわ)、南は千波湖(せんばこ)に挟まれ、東西に長い台地の東端に居館を築いて馬場城とした。室町・戦国時代にかけては常陸江戸氏が城主となって支配を続けていたが、天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原仕置時に九代当主の重通(しげみち)は小田原北條方について馬場城に籠城したが、秀吉方についていた佐竹義重(さたけ・よししげ)・義宣(よしのぶ)父子[b]往時の佐竹氏は北に伊達氏、南に北條氏を敵に回して常陸統一を掲げていた。によって落城した。仕置後に常陸国54万石を賜った義宣は、文禄2(1593)年から城と城下町の普請を開始し、東端の一段低い丘を下の丸、その上の段丘に本丸、堀を越えて二の丸、その西側に三の丸の郭を造るなどして水戸城に改め、それまでの常陸太田城からここへ居城を移した。この時、城下町は武家地と町人地が入り交じるような町割りを採用した。佐竹氏は関ヶ原の戦後に出羽国秋田へ転封となったが、後に徳川頼房[c]読みは「とくがわ・よりふさ」。徳川家康の末子で十一男。徳川御三家の一つ水戸徳川家の祖で常陸水戸藩の初代藩主。が修築した近世城郭は佐竹氏が築いたものが基礎となって現在に至る。
一昨年は平成28(2016)年の正月明けの連休を利用して、自身としては初となる茨城県にある城攻めに行って来た。最終日は宿泊先のJR常磐線・水戸駅近くから徒歩で行ける距離で、茨城県水戸市三の丸に遺る水戸城跡へ。
かって水戸徳川家の居城であった城内の建築物は、幕末の水戸藩で起こった天狗党の乱によって焼失したのに加え、廃藩置県による廃城を経て、太平洋戦争の水戸空襲のために殆ど残っていない[d]おまけに二の丸と本丸との間の堀切跡にはJR水郡線が走っている。が、三の丸の空堀や藩校だった弘道館、そして本丸の表門だったとも云われる薬医門が現存している。
江戸幕府が正保元(1644)年に城と城下町の絵図を作成するよう諸藩に命じて完成させた『正保城絵図』[e]命じられた各藩は数年で絵図を提出し、幕府はこれを江戸城内の紅葉山文庫(もみじやま・ぶんこ)に収蔵した。昭和61(1986)年に国の重要文化財に指定された。には、往時の水戸藩が作成した絵図が現存しており、国立公文書館のデジタルアーカイブで閲覧やダウンロードが可能になっている。
こちらはダウンロードした画像の一部に注釈を入れたもの:
現在、黄色線で囲った本丸跡と二の丸跡の大部分は学校の敷地[f]本丸跡は県立水戸第一高等学校、二の丸跡は県立水戸第三高等学校と市立第二中学校。となっており、その西側の三の丸跡には特別史跡の旧・弘道館と茨城県庁三の丸庁舎が建っている。また城下町跡は佐竹氏による武家地と町人地が入り混じった町割りが江戸時代を経て継承され、現在の市街地になっているのが見て取れた。
これは城絵図から拡大した城域と、その上に現在の地図を重畳させたもの:
ということで、今回巡ってきた水戸城跡は三の丸跡に建てられた弘道館と、正保絵図の黄色線で囲まれた二の丸跡と本丸跡の一部のエリアの現存・復元遺構である:
こちらが今回の城攻めルート:
(JR水戸駅北口) → 柵門跡(市立三の丸小学校) → 三の丸空堀 → 水戸東武館 → 旧・弘道館 → 大手橋 → 大手門跡 → 二の丸土塁・二の丸御殿跡 → 御三階櫓跡 → 杉山坂・杉山門 → 本城橋 → 本丸土塁 → 本丸跡 → 薬医門 → 大堀切跡 → 坂下門 → 水戸黄門神社 → 水戸黄門・助さん格さんの像 → (JR水戸駅北口)
朝9時過ぎから攻めて昼の11時近くまでたっぷり城跡を巡ってきた。
まずはJR水戸駅北口を北上して国道R51を渡り、銀杏坂のオオイチョウのあたりから三の丸歴史ロード[g]旧・弘道館と三の丸跡をぐるりと一周するようなルートのこと。に入って水戸市立三の丸小学校を目指していくと、なんとも立派な冠木門が見えてきた。なお小学校は弘道館の南側に位置している:
明治時代に水戸元白銀町[h]現在の大町の一部と南町の一部。に建っていた東茨城高等小学校が水戸市高等小学校となり、さらに弘道館の敷地であった現在の場所に移転して三の丸小学校となったらしい。そういうことで、この冠木門はダミーであるが門が建つ場所は旧・弘道館の柵門跡となる。
ここから三の丸歴史ロードに沿って地方裁判所方面へ向かっていくと水戸警察署の建物を過ぎたところから[i]実際は茨城県立図書館の駐車場を横切るとショートカットできる。巨大な三の丸の空堀が見えてくる:
三の丸西側にあった空堀は台地を掘削して造成された水戸城の外堀にあたり、ここを境に城内と城下町を区分していた:
また城の塁壁は全体が土塁と土の堀で、石垣造りではなかった。但し、徳川家康と家光の時代に二度ほど石垣構築の命がだされ、石材も準備されたが実現をみなかった:
この堀の深さは本丸堀や二の丸堀と比べると少し見劣りするが、堀幅では引けをとらない規模である:
三の丸の空堀が北堀と中堀、そして南堀の三つからなっていたのは、往時家老らの屋敷が建っていた三の丸が北と中と南の三地区に分かれていたからである。
空堀沿いに三の丸歴史ロードを北上していくと正面に水戸東武館が見えてくるが、これは水戸城とは直接は関係のない明治初期の頃の建造物:
そして三の丸歴史ロードの終点となる旧・弘道館前へ:
弘道館は、天保12(1841)年に水戸藩第九代藩主・徳川斉昭(とくがわ・なりあき)により中三の丸の地に創立された藩校である。往時の藩校としては国内最大に規模を有した。
敷地内には政庁及び至善堂(しぜんどう)・文館・武館・医学館・鹿島神社・孔子廟・八卦堂・馬場・調練場などがあり、それらの配置は建学精神にそって独特の工夫がこらされていたと云う。のちの戊辰戦争や大戦中の水戸空襲などで多くの建物が焼失したが、現在は一部の区域と正門、正庁、至善堂といった現存建築物が国の特別史跡に指定されている。
弘道館創立時に建てられた正門は本瓦葺き四脚門で、屋根瓦に葵の紋があしらわれ、藩主の来館や諸儀式を執り行うときにのみ開門したと云う。また門の脇に設けられて附塀(つけべい)を含めて重要文化財に指定されている。
なお、門柱や扉などに見られる傷跡は、明治元(1868)年の天狗党の乱が水戸城下にまでおよび、弘道館に立て籠もった水戸藩保守派の諸生党(しょせいとう)を天狗党が激しく銃撃した際にできた弾痕とのこと:
こちらは通用門と番所。現在は入場券売り場となっていた。この特別史跡への入館料は大人200円(当時)だった:
通用門を抜けた先が国指定重要文化財である正庁(せいちょう)の東側正面:
正庁は藩主が臨席のもとで大試験や諸儀式が執り行われる場で、その裏手にある至善堂(しぜんどう)は藩主の御座所(居間、休息場)であり、また将軍をはじめとする諸公子の勉学の場でもあった。
政庁の正面には九代藩主・斉昭(烈)公御手植えの黒松と、夫人登美宮様[j]江戸時代の皇族の一人である有栖川宮織仁親王(ありすがわのみや・おりひと・しんのう)の第十二王女。が嫁いだ際に仁孝天皇(にんこう・てんのう)から下賜された鉢植えの桜を植えたことに因んで三代目の左近桜[k]初代は長い年月で枯朽したが、現在の桜は昭和の時代の弘道館修理完了を記念して宮内庁から贈られたものが立っていた:
正庁玄関から見た諸役会所(しょやくかいしょ)。床の間には斉昭の命により、水戸藩医で能書家である松延年(まつのべねん)が書いた『尊攘』の掛軸が掲げられていた。また五年前(当時)の東日本大震災によって大きく被害を受けた場所でもある:
こちらは正庁南側の入側(いりがわ)。手前角の部屋が二の間、その左手奥が藩主が臨席する正席:
内廊下にあたる入側は、こんな感じ。右手手前は二の間、その先が正席の間:
これは対試場(たいしじょう)ごしに眺めた正庁南側。正席には藩主が臨席して試験や諸儀式が執り行われた。また対試場での武術の試験もご覧になっていたとされる:
さらに回り込んで正庁西側の眺め。この隅部屋が藩主の御座所だった至善堂(しぜんどう):
至善堂の御座の間は明治元年の江戸城開城後、徳川第十五代征夷大将軍であった一橋慶喜公が恭順謹慎した部屋でもある:
床の間の掛軸の拓本『要石歌碑(かなめいし・かひ)』は、古い昔から我国に伝わる大和の道は、いつまでも変わらない大道であるから、これを堅く信じ迷い惑わされることなく信念をもって正しく歩むようにと教えた斉昭(烈)公自作の和歌である。
このあとは正庁から離れて他の建物を見て回ることにした。
まずは孔子廟。孔子の教えは最も中正を得た道徳なので、その教義を採用するとともに、その御廟を安政4(1857)年に建立し、孔子神位を安置して祀ったと云う:
この廟門は水戸空襲により正門とその左右の土塀を残して焼失したが、昭和45(1970)年に復元された。
これは至善堂の床の間に掛かっていた拓本と同じ要石歌碑の石碑:
水戸市指定文化財の鹿島神社と境内の古井戸。社殿は水戸空襲で焼失したが、のちに再建された。神儒一致の建学精神のもと、鹿島神宮から分祀した武甕槌神(たけみかづちのかみ)が祀られている:
これは八卦堂(はっけどう)。敷地の中央に位置し、建学精神の象徴である「弘道館記碑」(非公開)が納められている:
納めれている記碑は東日本大震災でかなり被害を受けてヒビが入り、一部は粉々になっていたが手作業で復元したらしい。
現存の鐘楼である学生警鐘(がくせい・けいしょう)には斉昭公が自鋳の鐘を復元したものが吊り下げられていた:
このあとは旧・弘道館が建つ三の丸跡を出て二の丸跡へ。
これは二の丸堀跡の県道R232(市毛水戸線)に架けられている大手橋:
慶長元(1596)年に佐竹義宣が三の丸と二の丸を築いた際に架けられた橋は、のちに徳川頼房(とくがわ・よりふさ)によって修築されると大手橋と呼ばれるようになった。明治元(1868)年の天狗党の乱では、この橋を挟んで戦闘が行われたと云う。大戦中の水戸空襲を経て橋は何度となく修復され、昭和10(1935)年には現在のようなコンクリート製になった。
そして大手橋を渡ったところが大手門跡:
そして大手門土塁跡:
こちらも佐竹義宣が慶長6(1601)年に建てた二階建ての櫓門で、徳川氏の代になっても水戸城の大手口の門として番屋が置かれた。明治の廃城令で取り壊されたが、平成30(2018)年から大手門の復元整備工事が進んでいる[l]完成予定は令和元(2019)年9月なのだとか。。
大手門跡を過ぎて水戸城跡通りを市立第二中学校へ向かって行くと、学校の敷地に二の丸土塁が残っていた:
第二中学校脇が史館「彰考館(しょうこうかん)」跡。現在は二の丸展示館が建っていた:
徳川家の時代の二の丸は二の丸御殿が建ち、本丸ではないが「本城」扱いであった。また「水戸の黄門さま」として知られた水戸藩第二代藩主の徳川光圀公が「大日本史」編纂のため江戸藩邸内に設けた彰考館は、公の隠居により元禄11(1698)年に水戸城内に移築された。
これは県立水戸第三高等学校の敷地内に建っていた御三階櫓(ごさんかいやぐら)の説明板[m]櫓跡の実際の場所は学校の敷地内である。:
こちらが往時の御三階櫓を写した写真:
御三階櫓は、寛永2(1625)年に水戸藩主・徳川頼房が開始した水戸城大改修の折に、本丸ではなく二の丸の御殿脇に建てられた物見櫓[n]一説に、政庁の中心が本丸ではなく二の丸御殿に移っていたことが、二の丸に建てられた理由と云われている。であるにも関わらず、水戸城の天守として使われていたと云う。この櫓は明和元(1764)年の火災で焼失したが、明和3(1766)年には第五代藩主・徳川宗翰(とくがわ・むねもと)が再建した。再建された櫓は姫路城天守を参考に、規模を4分の1にしたと伝わる。一階壁面下部は土蔵のような海鼠壁(なまこ・かべ)で、銅瓦葺の屋根には破風などの装飾は一切設けず、外部は三階でありながら内部は五階建てであった。焼失前は「三階物見櫓」、再建後は「御三階櫓」と呼ばれた:
その後、明治時代の天狗党の乱では焼失は免れ廃城を迎えたが、大戦中の水戸空襲で焼失した。
ここは祠堂跡。明の儒学者である朱舜水(しゅしゅんすい)の祠堂があった所で、朱舜水の没後に江戸駒込邸内に建てられたが後に水戸城内に移された:
さらに水戸城跡通りを本丸方面へ向かって移動して行くと左手に巨大な椎ノ木が見えてくるが、これが天然記念物に指定されている大シイ(スダジイ):
引き続き水戸城跡通りを本丸方面へ向かって行くと二の丸の北虎口にあたる場所に杉山門が復元されていた:
二の丸跡を出てさらに本丸方面へ向かうと水戸城跡通りの分岐点に到達する。高架を渡って直進すると本丸跡に建つ県立水戸第一高校へ向かうことができるが、この本城橋が二の丸と本丸との間の大堀切跡に架かっている:
本城橋を渡った先の高校の校門は橋詰門跡で、ここには屈曲した土塁による枡形が残っていた:
ここから先は学校の敷地になるが史跡見学が目的ならば、県指定有形文化財である薬医門を見ることができる。佐竹氏の時代の遺構で、廃城後に城下の祇園寺に移築されていたが、昭和56(1981)年に本丸跡の入口に近い現在の場所に移築・復元された:
水戸城跡の現存するただ一つの建造物で、正面の柱の間が三つあり、そのうち出入口は中央だけの三間一戸(さんげんいっこ)の薬医門形式[o]扉を支える本柱とその背後にある控柱で支えられた屋根の棟の位置を中心からずらした造り。そのため横から見ると対称になっていない。で、両脇に潜戸が付いている。
こちらは門の内側と内部。この場所に移築された際、部分的に補修され切妻造の屋根をもとの茅葺に変えて銅板葺きとしたらしい:
この門があった位置は諸説あるが、城門の風格からみて本丸の表門にあたる橋詰御門[p]本城橋を渡ってすぐの本丸入口で、現在の校門があるあたり。であったと考えられている。
この後は再び水戸城跡通りに戻り国道R51へ向かった。その途中に復元された柵町坂下門が建っていた:
こちらは大堀切ごしに見た本丸の隅櫓跡。往時の本丸は城米を貯蔵した四棟の板蔵が建てられ、北西と南西の隅には物見櫓が建っていたと云う:
以上で水戸城攻めは終了。
このまま国道R51を経由してJR水戸駅へ向かったが、その途中に徳川光圀公の生誕地に建てられた義公祠堂(水戸黄門神社)にも立ち寄ってきた:
光圀公は初代水戸藩主・徳川頼房の第三子で寛永5(1628)年に家老・三木仁兵衛之次の家に生まれ:
ここからは城攻め中に目撃した水戸藩ゆかりの傑人らの銅像を紹介する。
まずは旧・弘道館の正庁玄関に置かれていた第九代水戸藩主・徳川斉昭公と江戸幕府は第十五代征夷大将軍・徳川慶喜公の銅像。慶喜公は斉昭公の七男にあたる:
こちらは大手門跡付近に建っていた徳川頼房公の銅像。常陸水戸藩の初代藩主で、水戸徳川家の祖にあたる:
最後はJR水戸駅北口に建っていた水戸黄門と助さん格さんの銅像:
光圀公が大日本史の史料収集のために全国を旅した際に共をした学者の「助さん」こと佐々木介三郎と「格さん」こと安積覚兵衛がそれぞれモデルとなって漫遊物語へと発展したらしい。
水戸城攻め (フォト集)
【参考情報】
- 日本の城探訪(水戸城)
- 常陸国水戸城絵図 (国立公文書館デジタル・アーカイブ)
- 『弘道館〜おすすめ散策ルート』(弘道館事務所・刊行)
- 『弘道館館内案内シート』(弘道館事務所・刊行)
- 水戸城跡と旧・弘道館に建っていた説明板・案内板
- 埋もれた古城(水戸城)
- Wikipedia(水戸城)
- 週刊・日本の城<改訂版> (DeAGOSTINE刊)
参照
↑a | この時から大掾資幹(だいじょう・すけもと)と称した。 |
---|---|
↑b | 往時の佐竹氏は北に伊達氏、南に北條氏を敵に回して常陸統一を掲げていた。 |
↑c | 読みは「とくがわ・よりふさ」。徳川家康の末子で十一男。徳川御三家の一つ水戸徳川家の祖で常陸水戸藩の初代藩主。 |
↑d | おまけに二の丸と本丸との間の堀切跡にはJR水郡線が走っている。 |
↑e | 命じられた各藩は数年で絵図を提出し、幕府はこれを江戸城内の紅葉山文庫(もみじやま・ぶんこ)に収蔵した。昭和61(1986)年に国の重要文化財に指定された。 |
↑f | 本丸跡は県立水戸第一高等学校、二の丸跡は県立水戸第三高等学校と市立第二中学校。 |
↑g | 旧・弘道館と三の丸跡をぐるりと一周するようなルートのこと。 |
↑h | 現在の大町の一部と南町の一部。 |
↑i | 実際は茨城県立図書館の駐車場を横切るとショートカットできる。 |
↑j | 江戸時代の皇族の一人である有栖川宮織仁親王(ありすがわのみや・おりひと・しんのう)の第十二王女。 |
↑k | 初代は長い年月で枯朽したが、現在の桜は昭和の時代の弘道館修理完了を記念して宮内庁から贈られたもの |
↑l | 完成予定は令和元(2019)年9月なのだとか。 |
↑m | 櫓跡の実際の場所は学校の敷地内である。 |
↑n | 一説に、政庁の中心が本丸ではなく二の丸御殿に移っていたことが、二の丸に建てられた理由と云われている。 |
↑o | 扉を支える本柱とその背後にある控柱で支えられた屋根の棟の位置を中心からずらした造り。そのため横から見ると対称になっていない。 |
↑p | 本城橋を渡ってすぐの本丸入口で、現在の校門があるあたり。 |
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