茨城県笠間市笠間3616に遺る笠間城は関東地方にある山城としては珍しく石垣を多用し二層の天守を持つ近世城郭であった。この地を治めていたのは鎌倉時代初めから18代続く下野守護・宇都宮氏の一族の常陸笠間氏[a]他には下野国から安芸国に下向した安芸笠間氏、九州は筑前国の筑前笠間氏がいる。で、標高182mほどの佐白山(さしろさん)の頂上に堅固な砦を築いたのが笠間城の始まりとされている。しかし天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原仕置後に宗家である宇都宮国綱との対立が表面化し、18代当主・綱家が討たれて笠間一族が滅亡[b]この説の他に、小田原仕置で豊臣方についた宗家・宇都宮氏に対し、小田原方についた笠間氏は敗戦後に宇都宮国綱に攻められて滅亡したと云う説あり。すると国綱の側近が城主となった。その後、伊勢国から會津・仙道十一郡42万石で移封された蒲生氏郷の嫡子・秀行は、父亡きあとに起こった家中の騒動[c]俗に云う「蒲生騒動」。氏郷が朝鮮出兵のため留守にしていた會津若松で家臣らが対立した。その後、氏郷が急死すると死人が出るお家騒動に発展した。を収めることができなかったため、秀吉により下野国宇都宮へ減封となったが、その際に家老の一人であった蒲生郷成(がもう・さとなり)が笠間城主となった。郷成はそれまでの砦から天然の地形を巧みに利用した近世城郭へと改修した。その実際は三の丸、二の丸、帯曲輪、そして天守曲輪を設け、各曲輪には白壁の土塀をまわし、虎口には城門を、そして要所には櫓を配置して、のちに「桂城」と称えるにふさわしい要害堅固な名城となった。
一昨年は平成28(2016)年の正月明けの連休を利用して、自身としては初となる茨城県にある城攻めに行って来た。初日の午後は笠間城跡へ移動するため、お昼を摂った土浦からJR常磐線・いわき行きに乗車し友部からJR水戸線・小山(おやま)行きに乗り換えて笠間駅で下車した。駅舎を出た右手に観光案内所があるので、そこで自転車をレンタルした[d]料金は一日300円(当時)で、営業が終了する17:30までに返却する必要あり。。電動アシストもレンタルできるようだが、この時は既に出払っていて電動アシストなしをレンタルした。たしか自転車だと駅前から「大黒石」手前までおよそ30分くらいだったと思う。大抵の人たちは「千人溜り」跡にある駐車場まで車で向かっていたようだ。ちなみに観光協会で笠間城跡までのルートについはこちらからダウンロードできる『かさま観光周遊バスルートマップ』を頂いて教えてもらった[e]公衆トイレの場所も記載されているので案内所で入手することをオススメする。。
こちらは Google Earth 3D を利用した笠間城跡周辺の俯瞰図:
JR笠間駅前の観光案内所から自転車で佐白山(さしろさん)山頂付近に築かれた城跡へ向かったが、下屋敷(したやしき)跡を過ぎたところから杜になり、側道を入った★あたりに自転車を停めて、あとは徒歩で移動した。
左上を流れるのは茨城県・那珂川水系で一級河川の涸沼川(ひぬまがわ)。往時は西から北にかけて高橋川・福田川が、そして北から東へ逆川(さかさがわ)が流れ天然の外堀であったが、現在は高橋川が涸沼川となり、逆川は埋め立てられて道路になっている。
また当時は天守曲輪の天守台が五年前の東日本大震災の影響を大きく受けて補修中で立入り禁止であった他、時間の都合で三の丸跡や玉滴ノ井(ぎょくてきのい)と云う井戸を観てまわることができなかった:
(観光案内所) → (笠間稲荷神社前) → 大石邸跡 → (下屋敷跡) → 大黒石 → 笠間百坊旧跡 → 的場丸跡/千人溜り跡 → 大手門跡 → 二の丸・玄関門跡 →本丸跡 → 八幡台櫓跡 → 天守曲輪跡 → 天守台石垣 → 佐志能神社 → ・・・ → 真浄寺 → 笠間藩校跡 → (観光案内所)
江戸幕府が正保元(1644)年に城と城下町の絵図を作成するよう諸藩に命じて完成させた『正保城絵図』[f]命じられた各藩は数年で絵図を提出し、幕府はこれを江戸城内の紅葉山文庫(もみじやま・ぶんこ)に収蔵した。昭和61(1986)年に国の重要文化財に指定された。には、往時の笠間藩が作成した絵図が現存しており、国立公文書館のデジタルアーカイブで閲覧やダウンロードが可能になっている。
こちらはダウンロードした画像の一部に注釈を入れたもの。笠間城内の建造物や城下町の町割などが詳細に記されているのが分かる:
ちなみに、この絵図に描かれている城下町から城へ続く大手道は現在の車道の位置とほぼ同じであったことには納得した。往時は道路沿いに侍屋敷や侍町が建っていたようである。
これは大手道沿いに建つ下屋敷の手前にあった「史蹟・大石邸址」。外様大名で初代の播磨赤穂藩主でもあった浅野長直(あさの・ながなお)が笠間藩主だった時代、後世に「赤穂浪士」で知られる大石内蔵助良雄(おおいし・くらのすけ・よしお)の曽祖父である大石良勝(おおうち・よしかつ)と祖父の大石良欽(おおうち・よしたか)が藩の筆頭家老を務めていたらしい。ちなみに、この敷地には大石良雄の銅像が建っていたが笠間藩とは全く関係はない:
次に下屋敷へ向かってみると観光バスが止まって大勢の観光客が居たのでこちらは外からみるだけにとどめ、先を急ぐことにした。緩やかな傾斜の大手道跡を登って行くと杜が深くなってくるが、歌手の坂本九氏の旧家を通り過ぎた先に分岐点があり、そこから城跡方面に折れて進んで行くと左手にちょっとした側道があったのでそこに自転車を停めた。
城跡へ向かう途中には「大黒石」なる巨石が横たわっていた。これは鎌倉時代に佐白山の麓に勢力をはっていた寺の僧兵同士が争い、一方の僧兵が山頂から転がした石がここまでころげ落ちてきたものらしい:
ちなみに正面左の中ほどに見える小穴は「大黒のへそ」と呼ばれ、小石を三度つづけて投げて、そのうち一つでも小穴に入れば幸せになると伝えられているのだとか。
このまま道なりに城跡方面へ向かうと再び分岐点となり、右手に折れると笠間城の的場丸跡地に造られた笠間県立自然公園の駐車場がある。
ちなにみ分岐点の左手上は笠間百坊(かさま・ひゃくぼう)旧跡。ここ佐白山には鎌倉時代から正福寺(しょうふくじ)や徳蔵寺(とjくぞうじ)などの宗教勢力が多くあり、それぞれの寺院が僧兵を囲っていたとされるが、この百坊もその一つであった:
鎌倉時代後期は建保2(1214)年に、この正福寺と徳蔵寺との間で勢力争いが起こり、下野国守護の宇都宮氏が正福寺の後ろ盾になって佐白山の麓に砦を築いたが、これに危惧した正福寺も宇都宮氏に反抗したため当主の頼綱(よりつな)は甥の笠間時朝(かさま・ときとも)[g]鎌倉武士・塩谷朝業(しおのや・ともなり)の次男で宇都宮頼綱の養子となり、僧兵らを滅ぼして常陸国笠間を拠点とした。を派遣して両寺を焼き討ちして滅ぼし、16年もの歳月をかけて山頂に笠間城を築いたと伝わる。
こちらは本丸跡に建つ説明版に描かれていた笠間城の想像図に加筆したもの[h]加筆に加えて、本稿に合わせて名称を一部変更している。例えば「殿主櫓」は天守櫓、「二ノ丸」は二の丸など。:
まずは千人溜り跡。今は駐車場になっているが、ここは的場丸跡でもあり、この駐車場入口は黒門跡でもある:
そのまま駐車場奥にある屈曲した大手道を進んで行くと、蔀(しとみ)の構えと呼ばれる目隠し用土塁が張り出していた:
そして大手門前には堀切と木橋跡(現在は土橋)が残っていた。正保城絵図によると堀の深さは3間、幅は8間あったという[i]メートル法だと堀の深さは約5.5m、幅は約14.5mとなる。:
大手口は枡形虎口であった。向かって右手には石垣が残っていた:
こちらが正保城絵図にも描かれている大手枡形虎口の一部であった石垣:
大手門を過ぎると中門跡がある:
中門跡を過ぎると二の丸へ登る石段が続き、その上が二の門虎口跡:
こちらが二の門跡。下から見ると石段上の一段目が二の丸跡で、二段目に見えるのが本丸跡になる:
二の丸跡から本丸跡の向かう途中にあるのが玄関門跡:
大手道は大手門から幾重にも折れつつ幾つかの門を潜って本丸に至る:
本丸は東西78間、南北40間の規模を持ち、城下町からの比高差は67間[j]メートル法だと東西約141.8m、南北約72.7m、比高差は約121.8mとなる。で、東西隅にはそれぞれ二重櫓が設けられていた他に、南側の八幡台と呼ばれた大土塁があり、その上にも二重櫓が建っていた:
また本丸よりも16間ほど高い場所[k]メートル法だと約29m。に天守を持つ天守曲輪があるので、ここ本丸は御殿といった居館が建つ、いわゆる中世城郭でいう二の丸に相当する郭であったと予想される:
天正18(1590)年に小田原北條氏を征伐した豊臣秀吉は、その勢いを持って下野国の宇都宮城へ入城して北関東と奥州の諸大名に対しても仕置を行い、伊勢国から會津蘆名氏の旧領・會津黒川42万石で移封された蒲生飛騨守氏郷は、翌年の九戸政実(くのへ・まさざね)の乱の平定後にさらに加増されて92万石となる。しかし氏郷が文禄4(1595)年に急死すると嫡男の秀行が家督を相続するが、幼少のため家中を掌握できず、ついには重臣同士の対立が起こり御家騒動へと発展する。そして慶長3(1598)年に秀吉より會津92万石から宇都宮18万石に減封され、宇都宮氏から没収された笠間城には重臣の一人である蒲生源左衛門郷成(がもう・げんざえもん・さとなり)が城主として入城した。
郷成は初め坂源次郎と名乗って織田家四天王筆頭であった柴田修理亮勝家の家臣であったが、天正11(1583)年の賤ヶ岳の戦いで主家が滅亡した後に蒲生家に仕えるようになった。天正15(1587)年の豊臣秀吉による九州仕置の際、北九州に上陸した秀吉麾下で九番隊の蒲生氏郷と十番隊の前田利長は、島津方の秋月種実が城代とした熊井越中守らが籠もる巌石(がんじゃく)城を攻略することになった。氏郷自ら源左衛門郷成、横山喜内(よこやま・きない)[l]後に蒲生姓を賜り、蒲生頼郷(がもう・よりさと)と名乗る。秀行の宇都宮移封後に出奔し石田三成に仕え、関ヶ原の戦いでは島左近とともに奮戦するも討ち死にした。、寺井半左衛門、門屋助右衛門(かどや・すけうえもん)、そして岡左内定俊(おか・さない・さだとし)といった家中でも名のある勇士らを率いて攻め上がった。序盤は手こずったが、義父・信長譲りで勇猛な氏郷が陣頭指揮をとってついに巖石城は落城した。
この城攻めの一部始終を向かいの山から金の千成瓢(せんなりひさご)の馬印を打ちふらせて観ていた秀吉は愛馬を氏郷の許へひき行かせ「この馬に乗って本陣へ参れ」と口上させて氏郷の他に攻め込んだ勇士らも呼び寄せて城攻めを激賞した。特に郷成は、秀吉から「おぉ、おぉ、この指し物こそ、最も敵のかたまった中に飛び込み、四角八面に敵を追い散らしておったわ。」と褒めたてられた上に陣羽織を賜ったと云う。こうして難攻不落と謳われた巌石城の即時陥落は、九州で孤軍奮闘していた立花宗茂らを勇気づけた上に島津勢の肝を奪うことになった。
なお「蒲生郷成」の名は、こののちに氏郷から蒲生姓と偏諱を賜ったものである。
氏郷亡きあとに家老の一人として笠間城に入城した郷成は城郭の整備拡張を行い、現在観ることができる規模の近世城郭へ改修したと云う。
こちらが本丸南側にある大土塁の八幡台跡:
そして、この大土塁の上に建てられた八幡台櫓跡の石碑。本丸に三基あった二重櫓の一つである八幡台櫓は、廃城後に麓にある真浄寺(しんじょうじ)の七面堂として移築され現存している:
八幡台の土塁上と、そこから見下ろした本丸跡。土塁の南側には土塀が巡らされていた:
八幡台跡の土塁上を西へ向かうと宍ヶ崎櫓跡がある:
その脇には門跡があり、本丸・二の丸下の三の丸へ下りていくことが可能のようだったが、時間の都合で本丸東側の天守曲輪へ移動することにした:
本丸跡へ戻って更に進んでいくと城址の碑が建っていたが、この辺りが本丸東端で、その奥には東櫓門が建っていた:
本丸から30mほど高い小丘上に天守曲輪があったが、その前には東櫓門と堀切が設けられていた:
こちらは東櫓門と天守曲輪南側中腹との間にあった堀切で、正保城絵図によると堀の深さは3間、幅は6間あったという[m]メートル法だと堀の深さは約5.5m、幅は約10.9mとなる。。下には石垣も残っていた:
堀切を渡るとやや急な石段が天守曲輪跡へ続いていた:
石段を登った先に天守台石垣が見えてきた:
天守台石垣は打込み接ぎで、おそらく蒲生氏の會津若松城の築造で畿内から呼んだ穴太衆らの技術が生かされていると思われる:
そして虎口跡を過ぎた天守台上には、現在は佐志能(さしのう)神社の社殿が建っているが、そこへの立入りは禁止になっていた(当時):
この佐志能神社の社殿は廃城後の天守の廃材を利用して造られているとのことだが、近づいて観ることができず残念だった :
他にも天守台周辺には巨石がゴロゴロしていたが、これらが震災の影響なのかは不明。脇に建っていた案内版には天守想像図が描かれていた:
このあとはレンタサイクルに乗って真浄寺(しんじょうじ)へ:
笠間城廃城後の明治13(1880)年に本丸にあった八幡台櫓(県指定文化財)が八面堂へ移築された:
他にも裏門や東門などが市内の民家へ移築されているのだとか。
最後はJR笠間駅へ戻る途中に通った笠間藩校・時習館跡。藩校跡は笠間小学校の敷地になっている:
笠間城攻め (フォト集)
【参考情報】
- 日本の城探訪(笠間城)
- 常陸国笠間之城絵図 (国立公文書館デジタルアーカイブ)
- 笠間城跡に建っていた説明板・案内図
- 埋もれた古城(笠間城)
- Wikipedia(笠間城)
- 海音寺潮五郎『武将列伝 〜 戦国終末編』(文春文庫刊)
- 週刊・日本の城<改訂版>(DeAGOSTINE刊)
参照
↑a | 他には下野国から安芸国に下向した安芸笠間氏、九州は筑前国の筑前笠間氏がいる。 |
---|---|
↑b | この説の他に、小田原仕置で豊臣方についた宗家・宇都宮氏に対し、小田原方についた笠間氏は敗戦後に宇都宮国綱に攻められて滅亡したと云う説あり。 |
↑c | 俗に云う「蒲生騒動」。氏郷が朝鮮出兵のため留守にしていた會津若松で家臣らが対立した。その後、氏郷が急死すると死人が出るお家騒動に発展した。 |
↑d | 料金は一日300円(当時)で、営業が終了する17:30までに返却する必要あり。 |
↑e | 公衆トイレの場所も記載されているので案内所で入手することをオススメする。 |
↑f | 命じられた各藩は数年で絵図を提出し、幕府はこれを江戸城内の紅葉山文庫(もみじやま・ぶんこ)に収蔵した。昭和61(1986)年に国の重要文化財に指定された。 |
↑g | 鎌倉武士・塩谷朝業(しおのや・ともなり)の次男で宇都宮頼綱の養子となり、僧兵らを滅ぼして常陸国笠間を拠点とした。 |
↑h | 加筆に加えて、本稿に合わせて名称を一部変更している。例えば「殿主櫓」は天守櫓、「二ノ丸」は二の丸など。 |
↑i | メートル法だと堀の深さは約5.5m、幅は約14.5mとなる。 |
↑j | メートル法だと東西約141.8m、南北約72.7m、比高差は約121.8mとなる。 |
↑k | メートル法だと約29m。 |
↑l | 後に蒲生姓を賜り、蒲生頼郷(がもう・よりさと)と名乗る。秀行の宇都宮移封後に出奔し石田三成に仕え、関ヶ原の戦いでは島左近とともに奮戦するも討ち死にした。 |
↑m | メートル法だと堀の深さは約5.5m、幅は約10.9mとなる。 |
0 個のコメント
1 個のピンバック