戦国時代を経て江戸時代は慶長6(1601)年に近世城郭として大規模に整備された土浦城は、霞ヶ浦(かすみがうら)に注ぐ桜川河口の低地に築かれていた輪郭式平城であるが、本丸を含む主要な郭が幾重にも巡らされた水堀や周囲の沼地によって防御された「水城」としての一面をも持つ珍しい城である。周囲に特に高い遮蔽物がなかったこともあり、城の姿が水に浮かぶ亀に例えられたことから亀城(きじょう)とも呼ばれ関東でも代表的な土造りの城であった。現在は茨城県土浦市中央1丁目13番地で樹齢500年とも云われる県指定天然記念物のシイの木と芝生広場を有す亀城公園として市民の憩いの場となっている。江戸時代初期に結城秀康[a]読みは「ゆうき・ひでやす」。徳川家康の次男。母は正妻・築山殿の奥女中の一人で後に側室となった於万の方。長兄・信康亡きあと後継者とも云われたが、小牧長久手の戦の和睦条件として豊臣秀吉への養子兼人質として出され、後に北関東の大名・結城氏の婿養子となった。が城主となると、それ以降は土浦藩として松平氏・西尾氏・朽木氏[b]城主・朽木稙綱(くつき・たねつな)の実父は織田信長の朽木越えを助けた近江朽木城の朽木元綱(くつき・もとつな)。が継ぎ、明治時代に廃城となるまで、甲斐武田氏に最後まで従った忠臣・土屋昌恒(つちや・まさつね)を祖とする土屋氏が藩主を務めた[c]藩主・土屋数直(つちや・かずなお)の父・土屋忠直(つちや・ただなお)は土屋正恒の長男で、のちに徳川秀忠の小姓になり、上総国久留里藩の初代藩主となった。。城下に水戸街道[d]江戸時代の五街道に準ずる脇街道の一つで、江戸と水戸を結んでいた。を引き込み、本丸には東西2基の二重櫓が建ち、搦手口の霞門(かすみもん)、そして大手口の太鼓門は明暦2(1656)年に改築されたと伝わる櫓門で、現在は関東地方で唯一本丸に現存する遺構となっている。
一昨年は平成28(2016)年の正月明けの連休を利用して、自身としては初となる茨城県にある城攻めに行って来た。初日の午前中はJR常磐線の土浦駅から徒歩15分ほどのところにある土浦城跡で、現在は本丸と二の丸跡が亀城公園となっている。
通説では、この城は室町時代後期に小田氏の配下にあった若泉三郎(わかいずみ・さぶろう)なる豪族が永享(えいきょう)年間(1429〜1441)に築いた砦が始まりとされており、戦国時代に至っては同じく小田氏の家臣であった菅谷氏が城主となり、主郭・ニ郭・三郭からなる輪郭式平城に拡張した。ただし、現在、県指定史跡としてのこる遺構の殆どは江戸時代以降のもので、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦後に土浦城主・結城秀康が下総国結城10万石から越前国北庄68万石に加増移封されると、藤井松平氏[e]三河国碧海郡藤井(現在の愛知県安城市藤井町)を領した松平長親の五男・利長を祖とする松平氏の庶流。の松平信一(まつだいら・のぶかず)が入封し、子の信吉(のぶよし)と共に近世城郭の基礎を築いた。続いて入封した西尾忠永(にしお・ただなが)・忠照(ただてる)父子が本丸の西と東に二重櫓を建立し、大手門を櫓門に改めたと云う。その後は朽木稙綱(くつき・たねつな)が櫓門を太鼓門に改築した他に土塀を瓦葺きにするなど各部を改修し、さらに土屋氏を数代はさんで城主となった松平信興(まつだいら・のぶおき)[f]『知恵伊豆』の別称で知られる松平伊豆守信綱(まつだいら・いずのかみ・のぶつな)の五男。の時代に土浦城としての城郭が確立したのだと云う。
こちらが江戸時代に完成した土浦城郭図:
石垣を使わず周囲を土塀と水堀で囲まれ「楕円形」をした本丸には敷地一杯に本丸御殿が建てられ、その四方を二の丸が囲み、さらに三方から二の丸を 三の丸が囲んでいた。二の丸北側は亀井郭(かめい・くるわ)、三の丸東側は外丸・巽郭(たつみ・くるわ)、三の丸南側は西郭と呼ばれていた。二の丸は寄せ手に対して死角を作るため、その塁線は屏風折れになっていた。
こちらが現在の亀城公園案内図。本丸跡と二の丸跡の一部が公園の敷地で、それ以外は水堀が埋め立てられた上に宅地化されていた:
①櫓門(太鼓門) ②東櫓 ③西櫓 ④土屋神社 ⑤本丸土塀 ⑥本丸跡 ⑦霞門 ⑧霞橋 ⑨聖徳太子堂 ⑩旧前川口門 ⑪忠魂碑 ⑫ひょうたん池 ⑬山村才助贈位紀恩の碑 ⑭原脩次郎銅像 ⑮ぶらりひょうたんの碑 ⑯亀城のシイ ⑰二の丸跡 ⑱管理事務所
JR土浦駅西口(亀城公園口)から市役所前を国道R125に沿って北上し、県道R263を越えると旧水戸街道[g]現在は国道R354旧道である。があり、さらに進んで国道R354の手前に本丸跡に建てられた亀城公園がある:
現在の公園の外は外丸跡、または三の丸跡に相当し、往時の幾重もの水堀を埋め立てて国道R125や住宅が建っていた。幕末の土浦藩は土屋氏による藩政が10代続き、戊辰戦争では早くから新政府軍に恭順して會津や秋田に転戦した。その結果、土浦城は明治4(1871)年の廃藩置県まで残り、廃城後は本丸御殿は新治(にいはり)県[h]現在の茨城県南部と千葉県東部に相当するエリアで、県庁所在地が土浦だった。それから二年後の再統合により茨城県と千葉県にそれぞれ編入された。の県庁と郡役所として使われていたらしい。二の丸以下の郭とその建物は、外丸御殿を除いて全て取り壊され水堀も埋め立てられた。
こちらが今回の城攻めルート。その途中に、東櫓内部と公園の脇にある土浦市立博物館に立ち寄ってきた[i]東櫓と博物館の共通入場券が105円(当時)だった。:
JR土浦駅 → ①二の丸(亀井郭)跡 → 亀城公園 → ②東櫓 → ③霞門 → ④本丸土塀 → ⑤本丸(本丸御殿)跡 → ⑥西櫓 → ⑦内堀 → ⑧櫓門 → 土浦市立博物館 → ⑨二の丸跡 → ⑩二の丸堀 → ⑪旧・前川口門 → ⑫外丸(外丸御殿)跡 → ・・・ → ⑬大手門跡 → ・・・ → JR土浦駅
まず搦手門跡。旧水戸街道を越え、国道R125に沿って亀城公園へ向かう一つ手前の路地脇に石碑が建っていた:
再び国道R125沿いへ戻って公園へ向かって行くと左手に本丸堀(東側)と復元された東櫓が見えてくる:
そのまま公園入口である本丸北側虎口へ。ここには、往時は①二の丸(亀井郭)と本丸をつなぐ木橋が架かっていた:
この本丸北側虎口跡から現在の公園石橋を渡った先は枡形になっており、そこから②東櫓を見上げることができる[j]これは、逆に本丸を攻撃する寄せ手は東櫓から横矢掛けを受けるということであるが。:
東櫓は、元和6(1620)年から七年の歳月をかけて西櫓と共に西尾忠照が城主の時代に建造したものであるが、廃城後の明治17(1884)年に発生した火災で本丸御殿・鐘楼などと一緒に焼失した。その後、平成10(1998)年に廃城前に撮影された古写真や発掘調査の成果などを元に復元された。また平成23(2011)年の東日本大震災では東櫓の他、西櫓と太鼓櫓門といった建造物が全て破損したが、翌24(2012)年には修復工事が完了しており、今回自分が攻めた際は特に制限なしで観ることができた 。
公園になっている本丸跡や二の丸跡はその過程で堀や土居などが改変されてしまっているようだが、明治時代初期の頃の写真などと比較すると高い土塁や櫓下の犬走りなどがちゃんと再現されていたりして、市の城郭復元の努力が伺い知れた:
こちらは、後で二の丸跡に建つ聖徳太子堂へ行った際に振り返って眺めた東櫓。甲州流築城術の影響を受けた高い土塁も特徴の一つになっている:
新しい東櫓は江戸時代の建築よ技術を継承し現代工法を取り入れながら再建されたもので、構造は木造本瓦葺き、二階建て(二層二階)の入母屋造り、白漆喰総塗籠(しろしっくい・そうぬりごめ)で破風は無く、二階の窓の上部にある長押(なげし)のみが唯一の装飾という簡素な建物を忠実に再現していた。一階は20坪、二階は12坪の規模[k]メートル法だと一階は66.1㎡、二階は39.7㎡となる。。西櫓と比較すると少し大きい。
東櫓は南側へ向かって土塀が建ち、こちらも鉄砲狭間・大筒狭間などが復元されていた。珍しいところでは石落としが櫓ではなく土塀に設けられていた。これも甲州流築城術の影響を受けて高い土塁にあってこそ機能していたと思われる。この石落としは袴の広がりを想わせる傾斜を持って突き出た「袴腰(はかまごし)」と呼ばれる型らしい:
こちらは本丸は搦手口にあたる③霞門(かすみ・もん)で、明治の火災を免れた現存建築遺構。枡形の一ノ門にあたり、高麗門ではなく格調高い薬医門形式だった。そして霞門と東櫓で二方を固めて外枡形を形成していた:
東櫓は西櫓と共に二代将軍秀忠が日光東照宮参拝の帰途に立ち寄るとのことで、城の威容を整えると云う意味でも重要な役目を果たした。外観意匠は東西共に窓の数を除けば共通しており、石垣は無く、土塁に埋め込まれた礎石上に建ち、入口は塗籠の引戸である:
東櫓は、西櫓と共に江戸時代の頃は城内の貴重品などを格納する文庫蔵の役割を果たしていた。廃城後に焼失したが平成の世に復元された東櫓は、現在は土浦市立博物館の一部として櫓内を見学できる他に史料などが展示されていた(有料):
そして東櫓二階。一階の半分ほどの広さであり、往時は霞ヶ浦を望むことができたという:
こちらは本丸の南土塁上から見た東櫓。右手に見えるのが土塀に設けられた石落としで、櫓の前に展示されているのは往時の礎石(そせき)。また壁は二重木舞(にじゅうこまい)下地の土壁と内部に板壁が張った丈夫な造りになっている:
土塁の上に残されていた礎石の表面には土台や壁の跡が残されていたそうで、これを東櫓復元の手がかりとしたのだと云う。また発掘調査では、東西の櫓の礎石下の作りがそれぞれ異なっていたことが判明した。西櫓は地盤を掘りくぼめ、小石などを入れて叩き固められていたが、東櫓は更に下に丸太材が打ち込まれていたと云う。現在、復元された東櫓には既存の礎石をできるだけ再利用し、礎石と礎石をつなぐ布石は小田原産の小松石を使用しているとのこと。
そして東櫓から土塁に沿って控え柱付きの④本丸土塀が巡らされていた:
江戸時代の古絵図には塀の高さ(七尺から七尺半)に加えて、大筒狭間や石落としなどが塀に付属していたことが記されていたと云う。また発掘調査で塀の構造や厚さなども判明し、それらを元に漆喰仕上げの土塀には防御装置として東櫓の脇に石落とし、そして櫓門の脇には大筒狭間が復元されている:
こちらが⑤本丸跡。広さは東西約90m、南北約50mの楕円形で南側に大手口、北側に搦手口を設け、それぞれ城門が建てられていた。さらに周囲に堀と土塁を巡らし土塀を建てた:
本丸の敷地一杯に書院造りの本丸館(ほんまる・やかた)が建ち、土浦藩の藩政をを執り行う大広間や、数寄屋造りの御居間や御寝間があった。館は畳部分だけで合わせて400畳もあったと云う:
これは「常州土浦城図(国立公文書館内閣文庫蔵)」の本丸部分。上に西櫓、下に東櫓と鐘楼が、そして左下に大手口の太鼓櫓(櫓門)、右下に搦手口の加枚味之門(霞門)が描かれているのが分かる:
本丸御殿跡を挟んで東櫓と反対側にあるのが⑥西櫓:
東櫓と同じく西尾氏の時代に建てられた二層二階の櫓で、東櫓よりもひと回りほど小さい。本丸側には扉を設けているが窓は塞がれて存在しない。また廃城後の焼失を免れたが老朽化と昭和24(1949)年のキティ台風により小破したため、翌25(1950)年に復元を前提に解体された。その後は復元を見ずに土塁の上に礎石のみが残されたままだったが、市民の寄付もあって平成3(1991)年に復元された。但し内部は未公開である:
復元された西櫓は東櫓とほぼ外観・構造は同じであるが一階が12坪、二階が6坪という規模[l]メートル法だと一階は39.7㎡、二階19.8㎡となる。であり、窓は無い。
こちらは本丸西側の⑦内堀。往時の堀幅は15mほどだった:
本丸南側に建っている⑧櫓門は、今から360年以上前の明暦2(1656)年に改築された現存遺構[m]昭和61(1986)年から二年かがかりで解体修理されている。で、関東地方で「本丸にある櫓門」としては唯一現存するものとして貴重な遺構となっている:
二階には太鼓を置き、時を知らせていたことから太鼓櫓(たいこやぐら)とも呼ばれていた。ちなみに櫓門の左右に構える土塀は後世の造物であり、古絵図によっては手前の内堀跡に架かっている土橋は木橋として描かれていた[n]実際、上で紹介した「常州土浦城図」も内堀に架かっているのは木橋である。ものもある。
木造本瓦葺きの入母屋造りで、櫓内は11.1坪の規模[o]メートル法だと38.5㎡となる。である。珍しいところで階上の四面に窓が設けられている:
櫓門から出た先は⑨二の丸跡。往時、この辺りには馬場があった:
これは茨城県指定天然記念物で「亀城のシイ」と呼ばれている椎の木[p]樹種名は「スダジイ」。椎の木は福島県と新潟県以南の暖地に自生するブナ科の常緑高木で、種子は食用になる。。樹高は16m、枝張り21mの大木で、樹齢は約500年と推定されている:
⑩二の丸堀を渡ると公園外の三の丸跡となり、こちらは現在は宅地化されている。また往時の二の丸南側の堀は屏風折れの塁線になっていたが、現在はこちらも公園化による土塁の改変で一直線になってしまった:
こちらは二の丸の御用米蔵(ごよう・こめぐら)[q]千俵蔵(せんびょうぐら)または城米蔵(じょうまいぐら)とも。跡から内堀越しに本丸東側を眺めたところ。奥に見えるのが櫓門。ここには聖徳太子を祀る聖徳太子堂が建っていた:
そして、二の丸跡から外丸跡へ向かうところに高麗門が建っているが、これは昭和56(1981)年に前川口門を二の丸門跡へ移築した現存遺構である:
⑪前川口門は文久2(1862)年に多斗郭(たけ・ぐるわ)と町屋を仕切る場所に建てられた門と云われ、廃城後は役場や寺の山門として移築保存されていたもの。高麗門形式ながら脇戸が設けられているのが特徴。
ということで、この土浦城跡には薬医門形式、櫓門形式、高麗門形式と近世城郭の特徴を持つ全三種の門が現存しているというなんとも贅沢な公園だった 。
旧・前川口門を境界として公園内は二の丸跡、公園外は⑫外丸(そとまる)跡になる:
外丸は本丸東櫓から内堀を挟んで東側にある郭で、往時は外丸御殿が建ち庭園があった。現在は裁判所が建っている:
江戸時代に建てられた御殿は藩主の居住区であり、また藩政を行う場所でもあった。土屋氏が藩主を務めた文久2(1862)年には大規模に改築されたことが記録に残っている。廃城後は裁判所として使用されていたが明治38(1905)年に火災で焼失した。
以上で亀城公園の散策は終了で、現在は宅地化されている三の丸跡を通って土浦小学校の校門前に建つ⑬大手門跡へ:
現在は石碑のみであるが、往時は一ノ門(単層の門)と二ノ門(二層の櫓門)を備えた内枡形であり、周囲には土塁と土塀が巡らされていたと云う。ここにあった櫓門は本丸の太鼓門よりも大きかったと伝えられている。
亀城公園の旧・前川口門から大手門跡、そして大手門跡から西へ向かったところにある南門跡まで歩くと分かるが、その途中の道は鈎の手に屈曲している箇所が多く、どれも垂直に交差することがない城下街の名残りがあった。
土浦城攻め (フォト集)
【参考情報】
- 日本の城探訪(土浦城)
- 亀城公園に建っていた説明板・案内図
- 「県指定史跡・土浦城跡および櫓門・土浦城」(土浦市立博物館編)のパンフレット
- 埋もれた古城(土浦城)
- Wikipedia(土浦城)
- 週刊・日本の城<改訂版>(DeAGOSTINE刊)
参照
↑a | 読みは「ゆうき・ひでやす」。徳川家康の次男。母は正妻・築山殿の奥女中の一人で後に側室となった於万の方。長兄・信康亡きあと後継者とも云われたが、小牧長久手の戦の和睦条件として豊臣秀吉への養子兼人質として出され、後に北関東の大名・結城氏の婿養子となった。 |
---|---|
↑b | 城主・朽木稙綱(くつき・たねつな)の実父は織田信長の朽木越えを助けた近江朽木城の朽木元綱(くつき・もとつな)。 |
↑c | 藩主・土屋数直(つちや・かずなお)の父・土屋忠直(つちや・ただなお)は土屋正恒の長男で、のちに徳川秀忠の小姓になり、上総国久留里藩の初代藩主となった。 |
↑d | 江戸時代の五街道に準ずる脇街道の一つで、江戸と水戸を結んでいた。 |
↑e | 三河国碧海郡藤井(現在の愛知県安城市藤井町)を領した松平長親の五男・利長を祖とする松平氏の庶流。 |
↑f | 『知恵伊豆』の別称で知られる松平伊豆守信綱(まつだいら・いずのかみ・のぶつな)の五男。 |
↑g | 現在は国道R354旧道である。 |
↑h | 現在の茨城県南部と千葉県東部に相当するエリアで、県庁所在地が土浦だった。それから二年後の再統合により茨城県と千葉県にそれぞれ編入された。 |
↑i | 東櫓と博物館の共通入場券が105円(当時)だった。 |
↑j | これは、逆に本丸を攻撃する寄せ手は東櫓から横矢掛けを受けるということであるが。 |
↑k | メートル法だと一階は66.1㎡、二階は39.7㎡となる。 |
↑l | メートル法だと一階は39.7㎡、二階19.8㎡となる。 |
↑m | 昭和61(1986)年から二年かがかりで解体修理されている。 |
↑n | 実際、上で紹介した「常州土浦城図」も内堀に架かっているのは木橋である。 |
↑o | メートル法だと38.5㎡となる。 |
↑p | 樹種名は「スダジイ」。椎の木は福島県と新潟県以南の暖地に自生するブナ科の常緑高木で、種子は食用になる。 |
↑q | 千俵蔵(せんびょうぐら)または城米蔵(じょうまいぐら)とも。 |
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