東京都港区台場1丁目10番1号にある台場公園は、品川御台場(しながわおだいば)の一つであった第三台場の跡地を利用して昭和3(1928)年に開園し、さらに昭和50(1975)年には有明側に陸続きで連結されて、現在は砂浜や磯が広がるお台場海浜公園の一部として都会のオアシス的な憩いの場になっている[a]海のある公園という側面の他に、ドラマや映画の撮影地や花火大会の会場、都心からの充実したアクセスなどが年齢を問わず多くの人たちを呼び込む空間ともなっている。。かっての品川御台場は、江戸時代は嘉永6(1853)年に米国合衆国海軍のペリー提督[b]マシュー・ペリーは米海軍の東インド艦隊総司令官であり、蒸気船海軍の父と呼ばれた。が「黒船」を率いて来航したことに危機感を持った幕府が江戸防衛のために建造した西洋式の海上砲台[c]「台場」とは砲台を意味し、「お上」である幕府に敬意を払って「御」の字を付けて「御台場」(おだいば)と称した。廃城となった後は「お台場」と呼ばれているのはご存知のとおり。だった。ペリーが開国の猶予のために日本を去ったあと、江戸湾の品川沖に11基[d]海上は11基だが、陸上に品川の高輪台地の最南端に位置する御殿山(ごてんやま)の麓に1基を建造すると云う計画だったので合計12基となる。の台場建設を、伊豆韮山で反射炉の建造に携わった江川太郎左衛門栄達(えがわ・たろうざえもん・ひでたつ)に命じ、およそ8ヶ月で第一・第二・第三の台場が竣工、江戸湾防衛を任されていた川越藩、会津藩、忍藩がそれぞれ守備に着いた。すると翌7(1854)年に江戸湾に再来したペリーは砲台のために横浜まで引き返して上陸せざるを得なくなったと云う。同年には第五・第六の台場の他、御殿山下台場も竣工し、さらに第七台場も工事が進んでいたが、日米和親条約が締結されて以降は工事が中止となり、第七台場は未完成、第八台場以降は未着手で終わった。
今となっては一昨昨年(さおととし)は平成27(2015)年の暮れに、東京臨海副都心でご存知「お台場」と云う名で親しまれている台場公園へ行って来た。かって「鎖国」だった時代に築造された江戸湾防衛のための海上砲台の一つの第三台場が、現在は台場公園となっており、一応は国指定史跡の文化財扱いとして残っている 。また、実際に立ち入ることはできないが第三台場跡の近くにある第六台場跡も文化財指定になっている。ということで、今回は台場公園こと第三台場跡を中心に徒歩で巡ってきた。
ちなみに都心を経由してお台場へ行く公共機関は色々あるが、今回は田町駅東口から南下し、芝浦側入口からレインボーブリッジの南側遊歩道(サウスルート)を徒歩で渡って、橋桁の上から第六台場跡を眺めつつ台場公園がある第三台場跡へ向かった:
田町駅東口からレインボーブリッジの芝浦アンカレイジ[e]「アンカレイジ」とは橋のケーブルの端を固定する大きなブロックのことで、アンカーブロックとも。実際はブロックを囲う建物を含めて呼ぶようだ。までは徒歩で20分ほど。芝浦側のアプローチはループ状になっているが下から見上げるとなかなか迫力がある建造物だった :
こんな通路を登った先から東京湾を挟んだ東側の晴海埠頭や豊洲埠頭方面を眺めることができた:
こちらが芝浦側の入口で、館内に入ると向かって左手に南側遊歩道(サウスルート)へのエレベータがある。ちなみ右手にあるエレベータは東京スカイツリーや東京タワーを見渡すことができるノースルート(北側遊歩道)用:
これはホールにあったレインボーブリッジと横浜ベイブリッジの比較図。橋長はベイブリッジの方が長く、橋桁もベイブリッジの方が高いが、これは橋の構造の違い[f]レインボーブリッジは吊橋式、横浜ベイブリッジは斜張橋(しゃちょうきょう)式である。:
サウスルート用のエレベータに乗って7Fまで上がると車道脇の遊歩道に出る。ちなみに車道の反対側にはゆりかもめの線路と北側遊歩道(ノースルート)があり、この上は首都高速11号台場線:
このまま台場方面へ移動するのだけれど、密閉された場所でもないのに排気ガスがけっこう強烈だった[g]溜まっているのか、染み付いているのか不明だが、自分は風邪防止でマスクを持参していたのですかさず着用した。。
しばらくすると台場側の橋脚部に辿りくが、ここには橋の外側に少し出っ張ったスペースがあって展望台を兼ねていたので、そこから第六台場跡を眺めてみた:
さらに進んで台場アンカレイジへ。丁度、この下が第六台場跡である。後にも先にも第六台場を上から俯瞰できるのは、この場所しかないのでしっかりと眺めてきた:
現在、第六台場跡は無人島化しており上陸することはできない。そのためか台場内は学術的にも東京湾の貴重な自然環境になっているのだとか。あと船着場なるものが確認できた。おそらく学者らが上陸することがあるのだろう:
台場アンカレイジを通過すると鳥の島が見えてくる。こちらは全長300mほどの細長い島のような形をしているが、昭和初期まで防波堤として使われたれっきとした人工建造物である[h]現在は立入りできない無人島状態になっている。:
さらに進んで行くと段々と下り坂になってくるので台場公園になっている第三台場跡を横目に見つつ台場入口へ向かう:
現在の都立台場公園は、それまで「独立で浮いていた」第三台場跡を台場・有明側と人工的に連結して造られたもの:
そしてレインボーブリッジの台場側入口から長いデッキの遊歩道を通って、今となっては陸繋島(りくけいとう)のようになった第三台場跡へ向かった:
こちらは台場入口に建っていた公園の案内図:
このあたりは都会の中のオアシス的な演出がされた遊歩道だった。この先に砲台があったなんて思わないのも無理もない :
こちらは品川歴史館作成図面(リンクはPDF)を参考に、江戸幕府が築造および計画していた御台場を現代のGoogle Earth 3Dに重畳させたもの。凡例として、現存は青色、撤去・埋没は赤色、未完成・未着工は灰色とした:
今から160年以上前の江戸時代後期には現代の芝浦埠頭とか晴海埠頭といった埋め立てエリアは存在していないので、江戸幕府が築造または計画した十一基の御台場は陸地の御殿山下台場から始まって江戸湾を封鎖するような形で一列に並んでいたのが判る。
第一台場跡と第五台場跡は東京湾沿岸の埋め立てに併せて現在は品川埠頭の一部となっている。第二台場跡には大正時代に品川燈台が建っていたが現在は海中に埋没している。第三と第六台場跡は大正時代に東京府に払い下げられ、のちに国指定史跡として現在に残る。途中で工事が中止となった第四台場跡も埋め立ての一部となり、護岸に石垣が流用されているのだとか。同じく工事が中止になった第七台場跡は海中に埋没している。
そして遊歩道を抜けた、ここから先が第三台場跡である。脇に国指定史跡としての説明板が建っていた:
これは第三台場跡の中に建っていた案内図:
御台場の外周は石垣で囲まれ、槹出(はねだし)工法による武者返しが設けられていた。内部は砲台を配置したと思われる土塁が外周を巡り、石積みの弾薬庫がいくつか残っていた他、中央にある野球場一面ほどの規模の芝生広場が江戸時代の陣屋跡に相当するらしい。しかし実際に残っていた建物の礎石等は、大正時代に国指定史跡に指定されてのちに建てられたコンクリート製の休憩所跡とのこと。ということで大正時代以降にいろいろ改変されてしまっていることから、築造当時の遺構はあまり期待できないところではある 。
まずは入口付近の石垣:
台場外周の石垣は外湾側と内湾側とでは異なる積み方をしていた。外湾側は江戸城の天守台と同じく布積(ぬのづみ)で、内湾側は落とし積である。また、その上部に設けられた通称「武者返し」は近世城郭ではよく観ることができるものであるが、五稜郭の半月堡などで見たものの二倍近い厚さだった:
そして御台場の内部へ。出入り口にある階段を登って土塁上へ:
土塁は遊歩道向けに一部が改変されていた:
下から周囲の土塁を見ると意外と綺麗に整備されていたが、別の意味で芸術的でもあった :
このあとは東側の土塁下から遺構をそれぞれ観ていくことに。
まずは溜池跡。こちらは全く枯れた状態だったが、このあとに向かった西側の溜池跡には水が残っていた:
東側の石積みで造られた弾薬庫跡:
東側弾薬庫の隣には石垣がむき出しになった建物跡があったが詳細は不明。こちらも布積みだった:
御台場跡の中央へ向かうと「陣屋跡」とされる場所に礎石のようなものが並んでいたが、これは江戸時代のものではなく、大正時代に東京府へ払い下げされた後に国指定史跡になったが、その際に建てられた休憩所跡(コンクリート製)である:
最終的に完成した6基の台場からなる品川御台場は、江戸湾防備の拠点として、それぞれ徳川将軍家に近い親藩・譜代とそれに準ずる家格(かかく)を持つ大名らによって警備されることになったという。最初に警備を命じられたのは河越、會津、忍、鳥取、庄内、松代の六藩で、警備は安政2(1855)年から本格化し、のちに大名家を交代させながら慶応4(1868)年の幕府崩壊直前まで、江戸湾防備の拠点として警備が続けられたという。
次は台場西側へ。こちらにも土塁に囲われた弾薬庫跡や溜池跡が残っていた:
南側にも弾薬庫跡の他に竈(かまど)跡と呼ばれる遺物があった。ただし弾薬庫跡は他とは異なり建物跡であったこと、そして竈は江戸時代には無かったことから、両方ともに大正時代に国の史跡に指定された後に造られたものと思われる:
この後は南側の階段を登って土塁の上へ:
こちらが西側土塁上:
土塁の上には砲台風のオブジェクトが残っていたが、これも国指定史跡に指定された後に造られたダミーである。おそらく江戸時代に築造された際も、同じように土塁の上に砲台が置かれていたと想像する:
土塁上を北側へ向かって歩いていると第六台場跡とレインボーブリッジが見えてきた:
そのまま台場北側の縁へ向かうと「史蹟・品川臺場」の石碑が建っていた。これこそ国指定史蹟になった大正時代のもの:
台場の北端には波止場が残っているが、波止場への出入り口は閉鎖されて立入禁止だった:
そのため石垣の上の土塁から眺めることにした:
ちなみに来るときにレインボーブリッジの上から波止場跡を見下ろしたのがこちら:
遠くからみてもわかるようにコンクリート製の波止場であるから、やはり大正時代の造物のようだ。おそらく江戸時代は砂浜までであったろう:
このあとは土塁上を歩いて、最初に上ってきた東側の入口へ戻ることにした。これは、その途中に見下ろした台場跡の中央部:
そして第三台場跡とお台場海浜公園の接続部:
以上で第三台場跡の散策は終了。台場を築造した当時の遺構がほとんど残っていなかったのが残念だった。
品川台場攻め (フォト集)
【参考情報】
- 日本の城探訪(品川台場)
- 海上公園なび(お台場海浜公園&台場公園)(台場の歴史)
- 品川歴史館解説シート(品川台場)(リンクはPDF)
- 伝統の日本紀行(TOP > 東京 > 港区 中・南部、台場)
- タクジローの日本全国お城めぐり(東京 > 武蔵 品川台場(品川区))
- Wikipedia(台場公園)
- 東京都港湾局のパンフレット(TOP > 港湾局発行パンフレット等 > レインボーブリッジ)
参照
↑a | 海のある公園という側面の他に、ドラマや映画の撮影地や花火大会の会場、都心からの充実したアクセスなどが年齢を問わず多くの人たちを呼び込む空間ともなっている。 |
---|---|
↑b | マシュー・ペリーは米海軍の東インド艦隊総司令官であり、蒸気船海軍の父と呼ばれた。 |
↑c | 「台場」とは砲台を意味し、「お上」である幕府に敬意を払って「御」の字を付けて「御台場」(おだいば)と称した。廃城となった後は「お台場」と呼ばれているのはご存知のとおり。 |
↑d | 海上は11基だが、陸上に品川の高輪台地の最南端に位置する御殿山(ごてんやま)の麓に1基を建造すると云う計画だったので合計12基となる。 |
↑e | 「アンカレイジ」とは橋のケーブルの端を固定する大きなブロックのことで、アンカーブロックとも。実際はブロックを囲う建物を含めて呼ぶようだ。 |
↑f | レインボーブリッジは吊橋式、横浜ベイブリッジは斜張橋(しゃちょうきょう)式である。 |
↑g | 溜まっているのか、染み付いているのか不明だが、自分は風邪防止でマスクを持参していたのですかさず着用した。 |
↑h | 現在は立入りできない無人島状態になっている。 |
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