深大寺城の第二郭跡からは九棟の掘立柱建物が発見され一部が平面復元されていた

関東平野南部に広がる武蔵野台地の南縁辺部[a]読みは「みなみ・えんぺん・ぶ」。台地を囲む外周のうち南側の縁(へり)の部分のこと。で標高50mほどの舌状(ぜつじょう)台地上に築かれていた深大寺城は現在の東京都調布市深大寺元町にあり、三つの郭(くるわ)が直線的に連なった連郭式平山城であった。戦国時代初期、関東の覇権を巡って小田原北条氏と争っていた扇ヶ谷上杉氏が南武蔵の防衛ラインを強化するため、往時「深大寺のふるき郭」と呼ばれていた砦跡を修築し、重臣の難波田憲重(なんばだのりしげ)[b]弾正とも。憲重は武蔵松山城代でもある。を城主として反抗拠点とした。城の西側を除く三方は開折谷(かいせきだに)[c]地形が侵食などにより小さな谷が複数形成され、地形面が細分化される現象のこと。によって形成された沼沢地(しょうたくち)が広がり、その西側にも湧水を集めた支谷(しこく)を持ち、南側はさらに比高15mをほどの国分寺崖線(こくぶんじ・がいせん)によって多摩川と画され、その対岸をも望見することができたと云う。城内は横矢掛(よこやがかり)の虎口や郭を囲む土塁、郭を分断する空堀など防衛設備が強化されていた。戦国時代初期にあって名将の誉高く、扇ヶ谷上杉氏の勢力拡大の先鋒を担っていた太田道灌が謀殺されて以来、扇ヶ谷上杉氏の権勢は振るわず、山内上杉氏・古河公方との三つ巴の争いで互いに疲弊しきっていた間隙をついて三浦道寸[d]相模三浦氏の最後の当主で、北条早雲との戦いに敗北し自刃した。を滅ぼし相模国を奪った小田原北条氏による武蔵国への侵攻が始まった。

今となっては一昨昨年(さおととし)は平成27(2015)年の暮れに、「深大寺そば」でも有名な深大寺近くの国指定史跡である深大寺城跡へ行って来た。城跡と云っても現在は復元を含む遺構が神代植物公園なる敷地の一部として残っているといった具合で、空堀や二重土塁、そして発掘調査で確認した建物跡を見ることができる。観光客が多い深大寺界隈に比べると少し寂しい感も拭えなくもないが、その分だけゆっくりと散策できる都内の「オアシス的」な城跡の一つである。

こちらはGoogle Earth 3D を利用して、現在の深大寺城跡周辺の俯瞰図に往時の城域を重畳させたもの。ちなみに舌状台地上に築いた城の縄張りとしては崖側の一番終端に本丸に相当する重要な郭を配置するのが古来からの常識とされる:

下側を横切るのが中央自動車道で、真ん中の杜が深大寺城跡と神代植物公園、その北側が深大寺境内

東京都調布市深大寺元町の周辺(Google Earthより)

赤破線内が往時の城域であり、武蔵野台地の南縁辺部の舌状台地で、その周囲は湿地帯だった

深大寺城の城域(推定)

この武蔵野台地の舌状台地は周囲が湿地帯であったらしく、その名残りが東側にある神代植物公園の水生植物園であろう:

上半分が深大寺城跡の第一郭跡と第二郭跡に相当し、下半分が水生植物公園で共に遊歩道がある

神代植物公園・水生植物園の案内図

この案内図(右下が北方向)を見ても判るとおり、城跡を含めて公園全体に遊歩道が設けられていることから部分的に改変されているものと推測できるが、この遊歩道に従って深大寺城の第一郭跡と第二郭跡を一通り観察することができた。第三郭跡は園外で現在はテニススクールや民家が建っていた。

植物園の出入口は案内図の右下にあるので、城攻めはそこからのスタートとなる。トイレや駐輪場を正面に見て右手の遊歩道を進んで行くと第二郭跡に入り、さらに進んで左手に土橋跡が見えてきたら、その先が第一郭跡になる。

同じくGoogle Earth 3Dを利用して作成した推定縄張図[e]一応は水生植物園の案内図と同じ向き(すなわ右下が北方面)で作成してみた。

右下が北側で、城址の東側が地勢を利用した水生植物園、西側は宅地化されていた

水生植物園と深大寺城跡(Google Earth より)

三方を沼沢地に囲まれた舌状台地の南端から三つの郭が一直線に連なる連郭式平山城であった

深大寺城縄張図(推定)

往時、それぞれの郭(緑色破線)はほぼ土塁で囲まれていたようであるが、現在はその一部のみ確認できた(水色太線)。同様に郭の間に設けられていた空堀(朱色太線)も第一郭虎口辺りは復元されていたが、それ以外は藪化しているか改変されてしまっているかのどちらかだった。

そういうことで、今回の城攻めルートは水生植物園内から行くことが可能な第一郭・ニ郭跡、そして腰郭跡で、第三郭跡や帯郭跡は公園の中から眺めるだけにとどめた:

(水生植物園の出入口) → ①第一郭北側の虎口跡 → ②第二郭南側の虎口跡 → ③帯郭(馬出し状平場)跡(フェンス越しに) → ④二重土塁 → ⑤第三郭跡(フェンス越しに) → ⑥第二郭西側の虎口跡 → ⑦第二郭跡 → ⑧第一郭跡 → ⑨第一郭南側の虎口跡 → ⑩腰郭跡 → 水生植物園 → (水生植物園の出入り口)

これが第一郭(左手)と第二郭(右手)との間にある①第一郭北側の虎口跡。虎口の囲む土塁と空堀が復元されていた:

空堀の向こう側の杜は櫓台跡とされる

第一郭の虎口

こちらは土塁と空堀ごしに復元された土橋を見たところ。土橋を渡って右手の土塁上は櫓台跡とされている:

手前の第二郭と奥の第一郭とをつなぐ土橋が復元されていた

第一郭の虎口と土橋

手前が第二郭跡で土橋を渡った先が第一郭跡、右手奥の杜は櫓台跡

土橋(復元)

第一郭と第二郭との間の空堀は、往時はもっと深く傾斜も急であった上に、土橋の幅は1.6m程と狭かった。実際の土橋は復元されたものの下に埋没保存されている:

往時の空堀の幅は上が6m以上、堀底が2m以上、深さは3mの規模だったという

土橋から眺めた空堀(拡大版)

それから空堀沿いを進んで第二郭の南側へ向かった。

この虎口から続く空堀と土塁は第一郭を囲むように設けられていた。空堀の左手は第一郭の北西隅にあたり、往時は櫓台だったとされる:

虎口から続く空堀と土塁は第一郭の西側を囲むように復元されていた

第一郭を囲む空堀と土塁

これは第ニ郭の西側の土塁。第一郭(左手)との間に設けられていた空堀はかなり藪化していて状態は不明だった:

左手は第一郭との間の空堀であるが藪化していた

第二郭を囲む土塁

左手が第一郭跡、右手が第二郭跡

第二郭を囲む土塁

さらに第二郭跡の南側へ向かって行くと、馬出し状平場とも帯郭ともとれる郭との間に②第二郭南側の虎口が復元されていた。但し、城跡との間はフェンスで仕切られていた;

左手のフェンスの向こう側は馬出し状平場(帯郭)跡だった

第二郭南側の土塁

虎口の先、フェンスの向こう側は馬出し状平場(帯郭)だったらしい

第二郭南側の虎口

こちらもフェンス越しに眺めた馬出状平場に相当する③帯郭跡

城跡との間にはフェンスがあるが遊歩道のようなものがあった

帯郭(馬出し状平場)跡

そして第二郭跡の東側、すなわち第三郭との間には④二重土塁と空堀が復元されていた:

右手が第二郭跡で、二つの土塁と空堀の先(左手)は城跡との境界線としてフェンスが建てられ宅地化などで改変されていた

第二郭東側に残る二重土塁と空堀(拡大版)

土塁と土塁の間に空堀をもつ

二重土塁と空堀(復元)

実際の遺構は埋没保存され、その上に復元されていた

二重土塁と空堀

そして⑤第三郭跡。現在はテニスクラブや住宅の敷地に改変されていた。また、この郭の大手道はそのまま車道になっていた。この郭は東西約100m、南北は土地の改変があり不明とのこと。郭内に土塁・堀が確認され、南西付近に虎口があったものと考えられる:

城内で最も広い郭は、当然のごとく現在は宅地化されていた

第三郭跡

現在はそのまま車道として利用されていた

第三郭の大手道跡

第三郭の大手道に対する⑥第二郭西側の虎口跡も改変されて存在せず、ベンチが置かれるのみであった:

往時は手前の第二郭から奥にある第三郭の大手道へ向かう虎口だった

第二郭西側の虎口跡

そして⑦第二郭跡の全景。この郭跡からは9棟の掘立柱建物(ほったてばしら・たてもの)の痕跡が発掘調査で発見されたとかで、石柱で建物跡を示していた:

郭内から虎口が復元された南側の眺めで、周囲が土塁で囲まれていたことがわかる

第二郭跡(拡大版)

発見されたのは戦国時代中期までの掘立柱建物だとか

建物跡の石柱

第二郭の規模は南北約120m、東西約50mで、掘立柱建物の他、二時期の堀跡が確認されたと云う。

このあとは再び①第一郭北側の虎口跡へ戻り、そこから⑧第一郭跡へ。土橋を渡って郭内へ入ると櫓台跡と思われる土塁の前に城址の碑が建っていた:

この背後の土塁は第一郭北西隅で虎口前の櫓台跡

「都旧跡・深大寺城跡」の石碑

こちらが第一郭の内部:

郭のほぼ全周に土塁が廻らされ、北東から南東にかけては崖地、北西から南西までの第二郭との間には空堀が設けられていた

第一郭跡(拡大版)

この郭はほぼ全周に土塁が廻らされ、第二郭と接する北西から南西に至っては空堀が設けられた他に北西部で土塁が屈曲して西側に張り出し、そこには虎口を保守する櫓台があった。また舌状台地の南端である北東から南東にかけては自然の崖地であり、北と南の二箇所に崖に堀り落としたように虎口があった。郭内の規模は東西約50m、南北約90mとされ、中央には郭内を仕切る土塁が設けられていた:

第一郭を北と南に分割する土塁で櫓台とも

郭内を仕切る土塁跡

こちらは⑨第一郭南側の虎口跡。往時は、この虎口の先に細い犬走りが設けられ、第一郭との比高差が大きい腰郭へ通じていた:

往時はこの先に設けられていた犬走りを経て腰曲輪へ通じていた

第一郭南側の虎口跡

比高差の大きな東側の腰郭へはここを通って降りた

犬走り跡

実際のところ腰郭跡へはこの犬走り跡を降って行ったが結構な藪化具合だった。

ということで、こちらが⑩腰郭跡。広さが適当だったのか、簡易休憩所になっていた:

単なる郭の追加ではなく、第一郭の切岸を高く険しくすることが目的

腰郭跡

そもそも腰郭は郭として陣地を確保するという他に、この上にある第一郭の切岸を高く険しくすることで東側からの侵入を一層難しくさせることが目的でもあるらしい[f]何も設けなければ自然の急崖で侵入も難しくないが、直角に切り抜くと険しい切岸が連続することになる。その際、ついでに郭を確保できたと云う感じ。

腰郭を追加することで、左上にある郭の切岸が一層険しくなっていた

腰郭跡と第一郭の切岸

以上で城攻めは終了。このあとは腰郭跡から水生植物園へ下りて出口へ向かった。

こちらは水生植物園から眺めた深大寺城の東側。ちょうど正面上が第一郭跡になる:

水生植物園から舌状台地南端に築かれた深大寺城東側の眺望

深大寺城東側

水生植物園から舌状台地南端に築かれた深大寺城東側の眺望

深大寺城東側

これだけの規模を持つ城郭ではあったが、武蔵国へ侵攻した小田原北条氏の氏綱氏康父子は深大寺城には「目も来れず」、そのまま扇ヶ谷上杉氏の居城である河越城を一気に攻め、時の当主・朝定はたまらず武蔵松山城へ敗走した。これにより関東の勢力図は塗り替えられることになり、深大寺城の軍事的意義も失い、北条氏の時代に廃城になったと云う。

See Also深大寺城攻め (フォト集)

【参考情報】

参照

参照
a 読みは「みなみ・えんぺん・ぶ」。台地を囲む外周のうち南側の縁(へり)の部分のこと。
b 弾正とも。憲重は武蔵松山城代でもある。
c 地形が侵食などにより小さな谷が複数形成され、地形面が細分化される現象のこと。
d 相模三浦氏の最後の当主で、北条早雲との戦いに敗北し自刃した。
e 一応は水生植物園の案内図と同じ向き(すなわ右下が北方面)で作成してみた。
f 何も設けなければ自然の急崖で侵入も難しくないが、直角に切り抜くと険しい切岸が連続することになる。その際、ついでに郭を確保できたと云う感じ。