福岡県・筑紫地方南西部に位置する柳川市は、明治の初めまで12万石の柳河藩[a]本稿では藩名を「柳河」、城や町を「柳川」と記す。柳河藩は廃藩置県で柳川県、そして三瀦《ミズマ》県を経て福岡県に編入された。にあたり、その起藩にあたっては今から430年以上前の天正15(1587)年に豊臣秀吉が九州平定に功績のあった立花宗茂に下筑後四郡13万余石を与え、山門郡柳川を城地として定めたところまで遡る。しかし宗茂は、秀吉死後におこった関ヶ原の戦いでは豊臣恩顧の一人として西軍について敗戦、徳川家康により改易・牢人となる。あとを継いだのが石田三成捕縛の功により筑後一国を拝領した田中吉政で、同じく柳川で領内統治を行った。吉政は掘割と用水路、そして街道[b]田中街道とも呼ばれた福岡県道R23など。を整備し、現代の柳川市の基礎となる町作りに貢献したと云う。その後、田中家は無嗣断絶のために二代で改易となり、元和7(1621)年に奥州棚倉の赤館で大名に復帰していた宗茂が20年ぶりに10万石余で柳川の領主に返り咲くと、明治まで柳河藩・立花家12代が治めるに至った。宗茂はその翌年に二代将軍・秀忠への御礼言上のため江戸へ参府し、併せて江戸藩邸の普請を開始した。この藩邸は上屋敷・中屋敷・下屋敷から成り、それらは現在の東京都台東区千束《センゾク》から下谷《シタヤ》、そして三筋《ミスジ》周辺にあたる。
今年は平成31(2019)年の正月明けは恒例の浅草寺参拝に行って来たが、そのあとは同じ台東区内にあった柳河藩立花家の江戸藩邸跡を巡ってきた。藩邸跡と云っても特に何か遺構が残っている訳ではないが、立花家の鎮守として広大な屋敷内で祀られていた「太郎稲荷」は現在でも場所を移しながらも残っていた。さらに江戸藩邸で亡くなった宗茂公の母・宋雲院殿の菩提を弔うために建てられた香華所《コウゲショ》はのちに宋雲院となって現在に至っている。また東京都がところどころに設けてくれた「旧町名由来案内板(下町まちしるべ)」にも立花家について説明があった。
こちらはGoogle Earth 3Dで俯瞰した東京都台東区上に柳河藩立花家の江戸藩邸跡を示したもの:
徳川二代将軍・秀忠の時代になると幕藩体勢が確立し、参勤交代制で藩主が江戸に滞在するための屋敷地が与えられていた。原則的に藩の江戸屋敷は、江戸城からの距離に応じて上屋敷《カミヤシキ》・中屋敷《ナカヤシキ》・下屋敷《シモヤシキ》に分かれており、柳河藩の場合は上屋敷が下谷御徒町(現在の台東区東上野)、中屋敷が浅草鳥越(現在の台東区三筋・鳥越)、そして下屋敷が浅草末(現在の台東区入谷・千束)にあった。
今回の屋敷跡巡りは徒歩で浅草寺からスタートして、下屋敷跡から上屋敷跡、最後は中屋敷跡の順で巡ってきた。また、その途中にあった廣徳寺跡や宋雲院、そして下谷神社にも立ち寄ってきた:
浅草寺(浅草観音堂裏交差点) → 千束 → 一葉桜・光月通り → ①【下屋敷跡】太郎稲荷 → かっぱ橋道具街 → ②廣徳寺跡 → 台東区役所前 → ③宋雲院 → 下谷神社 → 西町公園 → ④【上屋敷跡】西町太郎稲荷 → ⑤【中屋敷跡】三筋一丁目交差点付近
こちらが今回の散策経路と実際のGPSアクティビティのトレース。ちなみに Garmin Instinct[c]昨年は平成30(2018)年の年末から城攻めに投入した『新兵器』。とにかく電池の持ちが良くて他の類似系とは一線を画す性能が素晴らしい。 で計測した移動距離は計6.78km(19:15分/km)、所要時間は2時間10分ほど、消費カロリーは791Cだった:
①太郎稲荷
浅草は浅草寺の北側にある言問通り《コトトイドオリ》を西へ向かい、国際通りを北上していくと台東区千束に入る。ちなみに国際通りを挟んで東側は、その昔に江戸幕府公認で遊女屋が集まった新吉原遊廓であった[d]「新」と呼ぶからには「旧」もあって、現在の日本橋人形町周辺で江戸時代には葺屋町《フキヤチョウ》という場所にあったのが旧吉原遊廓。江戸城の天守が焼失した明暦の大火により、現在の場所に移転してできたのが新吉原遊郭。。その新吉原遊廓とは反対側の入谷に、柳河藩立花家の下屋敷があった。寛永6(1629)年、宗茂公が62歳の時に普請された下屋敷は、現在の番地で云うと千束二丁目から入谷二丁目までの台形型のエリアになる:
ここにあった下屋敷は東側の新吉原遊廓の賑いとは対照的に、田んぼに囲まれて閑散とした場所であったと云う。ただ下屋敷は、藩主の別荘地としての機能も持ち合わせおり、さらに菜園などを設けて江戸在住の藩士の食料を賄っていたという説が専ららしい:
下屋敷跡は明治の世に入って光月町《コウゲツチョウ》と呼ばれていた。そのいわれは、近くにあった東光院の「光」と燈明寺の「明」から付けられたものと云われている。
この光月町の片隅には、かって新堀川沿いの下屋敷で立花家の鎮守として祀られていた太郎稲荷[e]明治時代には町名を冠して「光月町太郎稲荷」と呼ばれていた。が残っていた:
通常、町人らは江戸大名屋敷に立ち入ることはできないが、藩の中には屋敷内の鎮守を公開し参詣を許していたところもあった。柳河藩立花家もその一つで、下屋敷に祀られていた太郎稲荷は疱瘡[f]現代の麻疹《ハシカ》といった流行病。を治してくれる神として人々の信仰を集めていたらしい。現在は地元の人達により祀られ、祭礼などが行われているのだとか:
下屋敷は明治22(1889)年頃には売却されたが、太郎稲荷は人々の要望で据え置かれていたものの、大正12(1923)年の関東大震災後の区画整理などで社殿がたびたび別の場所に移されたらしい。昭和の時代に入ると二社あった太郎稲荷は一つだけになってしまったと云う。
太郎稲荷大明神
東京都台東区入谷2丁目19-2
②廣徳寺跡
江戸の下町で流行った洒落言葉『恐れ入谷の鬼子母神』[g]「恐れ入りやした」という江戸弁で「入りや」と「入谷」を掛け、入谷にあった真源寺(現在の台東区下谷1丁目)に祀られている鬼子母神《キシボジン》を続けて云った地口《ジグチ》の一つ。に対して『びっくり下谷の廣徳寺』[h]「したや」と「下谷」を掛け、その下谷にあった廣徳寺の境内の広さに驚くさまを続けて云った地口の一つ。と云う文句にも登場する廣徳寺は、もともとは小田原北條氏の菩提寺・早雲寺の子院として、岩付城主・北條氏房[i]小田原北條氏の第四代当主・北條氏政の四男。五代当主・北條氏直の異母弟にあたる。が義父の太田三楽斎資正《オオタ・サンラクサイ・スケマサ》の菩提を弔うために小田原城近くに建立した寺院である。しかし天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置によって寺域を焼失し、のちに関八州を賜った徳川家康が江戸の神田昌平橋の内に寄進して再建した。その後、寛永12(1635)年に下谷へ移転すると、加賀前田氏や柏原《カイバラ》織田氏、會津松平氏や柳生但馬守の一族など名だたる諸藩主や旗本を檀家とする大寺院になると共に、宿院として塔頭が15院も建立され、江戸屈指の名刹となるに至った。
しかし幕末を経て明治時代の神仏分離《シンブツ・ブンリ》・廃仏毀釈《ハイブツ・キシャク》によって廃院同様にまで衰退した上に、大正時代の関東大震災で堂宇をことごとく焼失した。その後、昭和から平成にかけて長い時間を要したものの[j]移転先の用地買収に時間がかかったという。逆に云うと、それだけ寺域の規模が大きかったと云える。、残った墓地や塔頭が東京・練馬へ移転された(『練馬・廣徳寺』)。一方、『下谷・廣徳寺』跡地は現在の台東区役所・上野警察署・上野消防署一帯とされており、区役所脇の広徳公園には遺趾が建っていた:
こちらが「廣徳禅寺遺趾」の碑。廣徳寺は昭和45(1970)年9月、東京都より跡地を台東区役所の新庁舎建設用地として懇望され、時代の流れを鑑みて、これを受諾し練馬への移転を決定した(『練馬・廣徳寺』)。そして、この地を去るにあたり先人達の深い恩に感謝して石碑を建てたのだと云う:
こちらは廣徳寺の境内全景(江戸時代)と左甚五郎作の表門と鐘楼(関東大震災前):
また宋雲院の隣には「廣徳寺上野別院・徳雲禅院」があった:
柳河藩初代藩主・立花宗茂公の晩年は、徳川二代将軍秀忠と三代将軍家光に近侍し、彼らに重用されたことで殆ど国元の柳河へは戻ることなく江戸の屋敷で生活した。寛永14(1637)年には天草・島原の乱が勃発するが、これが初陣であった養嗣子・忠茂[k]宗茂公の実弟・高橋統増《タカハシ・ムネマス》の四男で、誕生したその日から嫡子のいない伯父・宗茂の養嗣子となった。「忠」の字は徳川秀忠からの偏諱。の苦戦の報告に「中々夜も寝られ申さず候…」と子を思う父の心情を老臣・十時雪斎[l]宗茂公の片腕でもあった重臣・十時摂津守も、この時代には雪斎と号していた。に宛てた手紙に書き残している。そして、翌年には公も原城討伐隊に加わり、総大将の松平信綱を補佐した上に有馬城攻めでは一番乗りするなどして、72歳の老体にして諸大名からは「武神再来」と驚きと共に賞賛された。乱鎮圧後、忠茂に家督を譲り、自分は致仕・剃髪して立斎《リッサイ》と号した。しかし寛永19(1642)年7月ころより死の床に臥し、同年11月末に江戸の下屋敷にて死去した。享年76。
宗茂公の亡骸は、往時の下谷・廣徳寺に葬られた。戒名は「大円院殿松陰宗茂大居士」。現在、移転した練馬・廣徳寺に墓碑がある他、遺骨は柳河・福厳寺に送られて供養されたと云う。
広徳公園
東京都台東区東上野4丁目5-1
③宋雲院
台東区役所前から浅草通りへ向かう途中に立花宗茂公が創建した塔頭院である臨済宗・宋雲院がある:
立花宗茂公の実母である宋雲院殿[m]氏名不詳で、俗名は立花飛騨守宗茂実母。豊後大友家の家臣・斎藤鎮実《サイトウ・シゲザネ》の妹と伝わる。戒名は「宋雲院殿花岳紹春大姉」。は慶長16(1611)年4月に柳河藩江戸藩邸で逝去となり、公は母の菩提を弔うために下谷・廣徳寺の参道西に香華所を建てたと云う。その後、菩提寺の廣徳寺は関東大震災を経て練馬へ移転し、その跡地も売却されてしまったので、廣徳寺本坊にあった旧堂を引き継いで本堂とし、庫裡と山門を新築して移転したのが現在の宋雲院である。なお宋雲院殿の墓所は、現在は移転先の練馬・廣徳寺境内にある大名家墓地にて宗茂公の隣に建てられ公とともに眠っている。
その山門をくぐった本堂前の庭園には、立花家11代で最後の藩主である立花鑑寛《タチバナ・アキトモ》の長男・鑑良《アキヨシ》の供養碑が建っている。鑑良は、立花家と交流があり当時は静岡に在住していた元幕臣・勝安房守海舟の助力で静岡まで遊学していたが、そこで熱病にかかって17歳で死去した。勝もその死を惜しみ、彼の行跡が石碑に刻まれ、宋雲院の庭に建てられていた:
こちらは後年に新築された本堂の中。正面に拝所があり、その扉には立花家の家紋「祇園守紋」が描かれていた:
宋雲院
東京都台東区東上野4丁目1-12
④西町太郎稲荷
宋雲院側から見て浅草通りを挟んだ向こう側に大きな鳥居があるが、これは東京で一番古い稲荷神社である下谷神社(下谷稲荷)。ちなみに大鳥居の扁額は東郷平八郎の書:
創建は天平2(730)年というから1200年以上の歴史がある。江戸時代に一度移転したがのちに廣徳寺前に戻ってきて現在に至る。その頃には多くの寺社と町屋が建ち並んだことから門前町屋が形成されていた。明治の時代には下谷稲荷町と改められ、あらたに浅草通りによって南北に別れたことから(下谷)南稲荷町となった:
この下谷神社の西脇の通りをさらに南へ向かっていくと右手に西町公園が見えてくる。この辺りは江戸初期の寛永期(1624〜1643年)から柳河藩主・立花邸と下級武士屋敷からなる上屋敷があったところで、その南側には旗本屋敷や秋田藩・佐竹氏の江戸屋敷が建ち、さらに元禄期(1688〜1703年)になると下谷辻番屋敷や大番屋敷ができて、その後は大きな変化も無く明治を迎えたと云う:
西町公園を越えて一本通りを挟んだところのビルの間に西町太郎稲荷神社がある:
説明板によると、この神社は立花左近将監[n]「左近将監《サコンショウゲン》」の官位は立花家代々が使用したものなので、何代目の立花氏かは不明である。の御母堂みほ姫の守り本尊として上屋敷邸内に建立されたものらしい。屋敷図によると東と西にそれぞれ稲荷があった。
東西に長い方形をした上屋敷の総面積は1万坪を超える(約四万㎡の)広さを持ち、周囲には濠をうがち、板塀や長屋で囲まれていたと云う。東側が表御門、搦手の西側が裏御門が建ち、不忍池から引き込んだ水を使って如意亭と呼ばれた庭園があり、長局・御台所・客間などの奥御殿が建っていたと云う。
太郎稲荷は諸々の祈願事を叶え給い、特に商売繁昌にご利益あらたかなところから、江戸・明治・大正時代を通して広くその名が知られ、多くの善男善女に厚く信仰されてきたと云う。昭和の時代には下谷西町の区画整理があって稲荷神社も移転することになったが、町内の人たちが立花家に懇願して現在地に社殿を建立するに至ったのだとか:
西町太郎稲荷神社
東京都台東区東上野1丁目23
⑤三筋一丁目交差点
西町太郎稲荷神社から南へ移動して春日通りを渡り、さら東にある清洲橋通りを越え、蔵前小学校通りを東へ進んだ先にある小島二丁目と三筋一丁目との境界にあたる交差点が柳河藩の中屋敷があったところ:
中屋敷は24百坪(約7900㎡)ということで上屋敷ほど広くはないが、江戸古絵図には大きな池が描かれているのだそうだ。この近くにあった秋田藩・佐竹氏の上屋敷にあった濠の名前をとって三味線濠中屋敷《シャミセンボリ・ナカヤシキ》とも呼ばれていた:
三筋一丁目交差点
東京都台東区三筋1丁目10-9
柳河藩江戸屋敷跡巡り (フォト集)
【参考情報】
- 東京都台東区が設置した説明板・案内版
- 立花家十七代が語る立花宗茂と柳河 〜 立花宗茂年表
- 「庄福BICサイト」 (ジオ・アーカイブ 〜 古地図に見る立花藩の江戸屋敷)
- 臨済宗大徳寺派・宋雲院 (HOME→宋雲院の歴史→立花家ゆかりの地を訪ねて)
- 圓満山・廣徳寺のパンフレット
- 猫の足あと・東京都寺社案内 (HOME→練馬区の寺社→練馬区の寺院→広徳寺)
- 特別展「立花宗茂」図録(御花史料館刊)
- Wikipedia(立花宗茂)
参照
↑a | 本稿では藩名を「柳河」、城や町を「柳川」と記す。柳河藩は廃藩置県で柳川県、そして三瀦《ミズマ》県を経て福岡県に編入された。 |
---|---|
↑b | 田中街道とも呼ばれた福岡県道R23など。 |
↑c | 昨年は平成30(2018)年の年末から城攻めに投入した『新兵器』。とにかく電池の持ちが良くて他の類似系とは一線を画す性能が素晴らしい。 |
↑d | 「新」と呼ぶからには「旧」もあって、現在の日本橋人形町周辺で江戸時代には葺屋町《フキヤチョウ》という場所にあったのが旧吉原遊廓。江戸城の天守が焼失した明暦の大火により、現在の場所に移転してできたのが新吉原遊郭。 |
↑e | 明治時代には町名を冠して「光月町太郎稲荷」と呼ばれていた。 |
↑f | 現代の麻疹《ハシカ》といった流行病。 |
↑g | 「恐れ入りやした」という江戸弁で「入りや」と「入谷」を掛け、入谷にあった真源寺(現在の台東区下谷1丁目)に祀られている鬼子母神《キシボジン》を続けて云った地口《ジグチ》の一つ。 |
↑h | 「したや」と「下谷」を掛け、その下谷にあった廣徳寺の境内の広さに驚くさまを続けて云った地口の一つ。 |
↑i | 小田原北條氏の第四代当主・北條氏政の四男。五代当主・北條氏直の異母弟にあたる。 |
↑j | 移転先の用地買収に時間がかかったという。逆に云うと、それだけ寺域の規模が大きかったと云える。 |
↑k | 宗茂公の実弟・高橋統増《タカハシ・ムネマス》の四男で、誕生したその日から嫡子のいない伯父・宗茂の養嗣子となった。「忠」の字は徳川秀忠からの偏諱。 |
↑l | 宗茂公の片腕でもあった重臣・十時摂津守も、この時代には雪斎と号していた。 |
↑m | 氏名不詳で、俗名は立花飛騨守宗茂実母。豊後大友家の家臣・斎藤鎮実《サイトウ・シゲザネ》の妹と伝わる。戒名は「宋雲院殿花岳紹春大姉」。 |
↑n | 「左近将監《サコンショウゲン》」の官位は立花家代々が使用したものなので、何代目の立花氏かは不明である。 |
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