信綱寺は真田信綱が開基し、のちに弟の昌幸が長兄の牌所として改築した

真田源太左衛門尉信綱(さなだ・げんた・さえもんのじょう・のぶつな)は、「六連銭(むつれんせん)」を旗印にして戦国時代から江戸時代に渡って[a]真田家は明治時代以降も華族として名は残るが、松代藩祖の真田信之の血は江戸時代まで。明治以降は伊予宇和島藩主・伊達家から養嗣子を迎えているため。勇名を馳せた信濃国は小県(ちいさがた)郡の国衆の一つで、外様ながらも甲斐武田家中では『譜代衆同意』の立場まで上りつめ[b]牢人出身の身分で譜代衆扱いされた国衆は他に、上野の小幡氏と越後の大熊氏がいる。、その中興の祖と云われた真田弾正忠幸綱(さなだ・だんじょうのじょう・ゆきつな)[c]一般的には「幸隆」の名で知られ、江戸幕府が編纂した家系図にも幸隆と記されているが、壮年期まで幸隆と記された史料は存在しておらず、「幸綱」は出家を契機に幸隆に改名したという説が有力である。隠居後は一徳斎とも。の嫡男として天文6(1537)年に真田郷で生まれた。母は重臣・河原隆正(かわはら・たかまさ)の妹で、のちの恭雲院(きょううんいん)殿。兄弟は六つ下に昌輝(まさてる)、さらに四つ下に昌幸と信尹(のぶただ)、その下に信春[d]生誕は不明。のちに金井高勝(かない・たかかつ)を名乗る。と清鏡(きよあき)[e]幸綱の庶子とされるが詳細は不明。一説に次男であり、信綱の弟で昌輝の兄にあたるとも。羽黒山の修験者となったと云う説あり。が居た。父子ともに武田信玄と勝頼の二代に仕え、信濃先方衆(しなの・さきがたしゅう)[f]先方衆とは信玄の本拠地である甲斐以外に領地を認められていた家臣のこと。でありながら独立した軍団をも擁していた御先衆(おさきしゅう)の筆頭として、最後は騎馬200騎持ちの侍大将になった。父が海野平合戦に敗れた幼少時は、上野国は箕輪城主・長野業政の下で過ごし、のちに武田家に臣従すると上野攻略や川中島合戦、そして西上作戦にいたる武田家の主要な戦に参陣した。しかし、元亀4(1573)年に信玄が死去、その翌年には父・幸綱が亡くなり、そしてその一年後に信綱も弟の昌輝と共に設楽原合戦で討ち死にした。

続きを読む

参照

参照
a 真田家は明治時代以降も華族として名は残るが、松代藩祖の真田信之の血は江戸時代まで。明治以降は伊予宇和島藩主・伊達家から養嗣子を迎えているため。
b 牢人出身の身分で譜代衆扱いされた国衆は他に、上野の小幡氏と越後の大熊氏がいる。
c 一般的には「幸隆」の名で知られ、江戸幕府が編纂した家系図にも幸隆と記されているが、壮年期まで幸隆と記された史料は存在しておらず、「幸綱」は出家を契機に幸隆に改名したという説が有力である。隠居後は一徳斎とも。
d 生誕は不明。のちに金井高勝(かない・たかかつ)を名乗る。
e 幸綱の庶子とされるが詳細は不明。一説に次男であり、信綱の弟で昌輝の兄にあたるとも。羽黒山の修験者となったと云う説あり。
f 先方衆とは信玄の本拠地である甲斐以外に領地を認められていた家臣のこと。