長野県上田市二の丸6263番地イにあった上田城は、天正11(1583)年に信濃の戦国大名・真田昌幸が千曲川を南に望む河岸段丘上に築いた城である。しかし現在、上田城跡公園の城跡に残る櫓や堀、石垣といった遺構は、江戸時代初期の元和8(1622)年に小諸から移封された仙石忠政[a]父は秀吉・家康に仕えた仙石権兵衛秀久。忠政は三男。が改修した時のものである。関ヶ原前哨戦で昌幸が徳川本隊を足止めした第二次上田合戦後、手塩に掛けて整備した城は徳川の手で徹底的に破却され堀も埋められたままであったが、忠政は幕府に城の普請を請い、小諸城のように櫓や石垣を多用し質実剛健な近世城郭として新たに再建しようとした。従って現在の城跡は真田氏時代の縄張が一部流用されているものの、城郭そのものは全く別物である。また再建中に忠政が死去したため普請は中断となり、未完のまま仙石氏は転封、のちに藤井松平家[b]三河国碧海郡藤井(現在の愛知県安城市藤井町)を領した松平長親の五男・利長を祖とする松平氏の庶流。が入城し、そのまま幕末を迎えた。上田城は明治時代の廃城令で破却され、建物は民間に売却されるなどして、七棟あった櫓は西櫓が残るのみとなった[c]北櫓と南櫓は遊郭に払い下げられてお座敷として利用されていたとか。。しかしながら昭和24(1949)年には、上田市民の寄付により北櫓と南櫓の二棟が元の場所に移築復元され、平成6(1994)年には本丸東虎口櫓門と土塀が復元されるに至り、今後も二の丸土塁などの復元が予定されている。
先月末は平成30(2018)年11月末の連休に、長野県上田市の「真田郷(さなだのさと)」にある城跡と、武田信玄の数少ない負け戦だった上田原古戦場跡を巡ってきた。この時に宿泊したホテルが上田城跡公園の近くであったので、朝食を摂ったあとホテルをチェックアウトするまでの時間を利用して、前回攻めた際に見忘れた二の丸跡や櫓内史料館[d]観覧料は大人300円(当時)。朝8:30から。などを巡ってきた。早朝ということもあって、上田城跡の目玉である南櫓・北櫓・東虎口櫓門を人が少ない時間帯で写真に収めることができた 。
こちらは南櫓内に展示されていた上田城と城下町のジオラマ(右側が北)。梯郭式平城である:
寛永3(1626)年に仙石忠政よって一から「改修」された時代の上田城のジオラマで、本丸周辺を拡大したのがこちら。正方形をした本丸を中心に、それを取り巻くように本丸堀と二の丸堀が設けられ、それを境界に二の丸と城下町が広がっていた:
天然の外堀とされた千曲川の尼ヶ淵(あまがふち)のある本丸南側(写真左手)を除き、本丸の北・西・東の三方には土塁が巡らされ、その土塁上に七棟の二重櫓がそれぞれ建っていた。現在は西櫓(現存)、南櫓と北櫓(共に復元)が残っている。
こちらは南櫓内に展示されていた『上田城下町絵図』。仙石氏が城主だった元禄年間(1688〜1704年)のもの:
これは上田城の本丸と二の丸、そして武家屋敷の屋敷割を中心に描かれた絵図であるが、本丸は「御本丸」と書かれているだけで縄張りは省略されている上に、「二御丸」と書かれた二の丸には櫓や門などの建築物が無い。全体的に城下町と屋敷が本丸の東側に偏っていたのが分かる。絵中、赤く塗られた矩形の印は、いわゆる「番所」にあたり、武家屋敷と町屋の境界、藩主屋敷と城の虎口とった要所に設置されていたのが分かる。
こちらも南櫓内に展示されていた絵図の一つで、元和年間(1615〜1623年)の『上田城絵図』。関ヶ原の戦後に真田信之が統治した元和2(1616)年から松代移封の同8(1622)年の間の絵図と云われている:
真田昌幸が上田城を築く前年の天正10(1582)年には主家であった甲斐武田氏が滅亡し、続いて従属していた織田信長が本䏻寺で横死したあと、「空き地」になった信濃国での争乱[e]越後上杉氏、相模北条氏、三河徳川氏らによる争奪戦で、いわゆる天正壬午の乱。ではやむなく北条氏に身を寄せていたが、すぐさま時期到来と大胆にもこの北条氏と対立していた徳川氏への鞍替えを画策する。しかし予想外にも両氏が和睦したことで、この争乱の最中ドサクサに紛れて自領としていた上野国の沼田・吾妻を手放さなければならない窮地にたつ[f]が、しばらくの間はなんだかんだ理由を付けて断り続けるも、これが後々までの紛争の種となる。。その一方で、今度は上杉景勝との間で緊張が高まると、昌幸はこれを利用して徳川の対上杉前線基地を名目として城の普請を申し入れた。すると家康は築城を許可した上に資材や人足を提供[g]往時、徳川家康は東信濃まで勢力を伸ばし、佐久勢を大久保忠世の指揮下に置いていた。して恩を売り、その立場を利用して昌幸に沼田引き渡しを命じたが、昌幸はそれを拒否し逆に景勝に接近して家康を牽制した。家康は北条との同盟を鑑みて昌幸に何度も引き渡しを要求したが、ついに手切れとなり上田合戦を迎えることになる。
天正13(1585)年に徳川勢を迎撃した第一次上田合戦の後、真田昌幸は三の丸の各所に櫓や門を増設するなどして近世的な構えに改修していたと考えられ、その後の関ヶ原の前哨戦にあたる第二次上田合戦の折には、昌幸と信繁父子が籠城して再び徳川勢に抵抗したが関ヶ原の合戦後には城郭が破却された。その際、本丸堀や二の丸堀などは全て埋められたため絵中には「ウメホリ」と記されている。
さらにリアルな仕上がりのジオラマも展示されていた。こちらは尼ヶ淵のある本丸南側から見たところ:
こちらは本丸を上から見下ろしたところ(下側が南):
本丸には合わせて七棟の二重櫓が立ち、東西の虎口にそれぞれ櫓門が設けられていた。また二の丸には大手口にあたる東虎口の他に、北と西にそれぞれ虎口が構えられていた。このジオラマの右手下あたりは本丸の東虎口と二の丸の西虎口との間に三十間堀と巨大な枡形をした武者溜まり[h]現在は上田市役所の市民会館が建っている。を設け、本丸の防御を強固なものにしていたと考えられている。
こちらが二の丸にあった大手門跡。城の正面口にあたり、往時は二の丸の東側に設けられていた枡形門だったが、現在もその名残があった。そして、この大手門脇の路地は三の丸堀だった:
大手門跡から本丸方面へ向かった先にある長野県立上田高校の敷地は、往時の上田藩主屋敷跡である:
この「御屋形」(おやかた)と呼ばれた居館は、その四囲に堀と土塁を巡らした陣屋の構えを取っていた。ちなにみ真田氏の時代は出城の役割を果たしていたとされる。
これは仙石氏時代は元禄15(1702)年の『上田城及城下町之図』に描かれていた居館。ちなみに御屋形の北にも出城が描かれているが、現在は上田市立清明小学校の敷地になっており、往時は「御作事(中屋敷)」と呼ばれていた:
真田信之が城主の時代もまた本丸や二の丸ではなく三の丸の家臣敷地の一角の、父・昌幸の居宅があったとされる常田(ときだ)御屋敷地に営まれていたとされ、それ以降も御屋形のある三の丸には城主の他に重臣らの武家屋敷が多数あったと云う:
これは最後の藩主である松平氏時代の御屋形の古図で、堀を含めて広さは東西135.5m、南北135.0mの方形をした敷地で、御表(おんおもて)、勝手、御奥(おんおく)の三つの殿舎(でんしゃ)群に分けれらていた:
表門も藩主・松平忠済(まつだいら・ただまさ)時代の寛政2(1790)年に、その前年に焼失した居館とともに再建されたもので、現在は上田高校の校門になっていた:
二の丸橋がある公園出口1から上田城跡公園へ入る。往時は二の丸堀に架かる土橋だった。そして、この先が二の丸の東虎口になる:
二の丸橋の上から見下ろした二の丸堀跡。昭和中頃まで上田温電北東線が走っていた:
そして、明治初期に撮影された写真や発掘調査の結果を参考に平成6(1994)年に木造で復元された本丸東虎口櫓門と、虎口前の土橋から眺めた本丸堀:
中央の本丸東虎口櫓門、その左右に南櫓と北櫓[i]ちなみに櫓には「南」とか「北」などの冠詞がついているが、全て後世に便宜上付けられたものであって正式な名称ではないらしい。、そしてそれらをつなぐ土塀から構成される:
明治のはじめに廃城となった城内の建物のうち本丸にあった七棟の二重櫓は現存の西櫓を除いて解体・売却された。このうち本丸東虎口にある北櫓と南櫓は明治11(1878)年に遊郭に払い下げられ、金秋楼(きんしゅうろう)と万豊楼(まんぽうろう)と云う貸座敷として使われていたらしい。そして昭和の時代に入ると貸座敷は廃業となり、東京の料亭に転売されるかどうかと云うときに上田市民の熱意によって買い戻され昭和19〜24(1944〜49)年に城内へ移築復元された。一時期は徴古館(ちょうこかん)と云う博物館になっていたらしい。両方の櫓は西櫓と同様に外装は下見板張である。
そして平成の時代に入り、解体前の古写真と発掘調査の結果を元に櫓門が木造復元された。櫓門は入母屋造、本瓦葺きの重厚な作りである。
これは本丸東虎口石垣にある『鏡石』で、真田石と呼ばれているもの。石垣そのものは仙石忠政の時代のものであるが、真田氏人気による伝承も残っている。なお上田城の石垣の石材は太郎山産の緑色凝灰岩(りょくしょく・ぎょうかいがん)である:
これらは本丸から振り返って見た本丸東虎口櫓門:
このあとは櫓内の史料館を鑑賞してきた。
まずは南櫓資料館前から本丸南側にあった尼ヶ淵跡。現在は公園化されているが急崖の名残があった:
そして櫓門に展示されていた真田氏時代の「上田城金箔鯱瓦」(きんぱく・しゃちがわら)。発掘調査で城跡から出土したものらしい:
そして櫓門の武者窓:
櫓門と北櫓との間には土塀に加えて石落としも設けられていた:
渡櫓門内の廊下を北へ進むと二重櫓の北櫓が建っていた:
当時、北櫓内では真田・徳川との間で二度あった上田合戦についてのプロジェクション・マッピングの他に、上田城に関連する品々が展示されていた:
そして南櫓へ:
南櫓には前述のジオラマや各時代の絵図などが展示されていた。また格子窓や狭間などが復元されていた:
こちらは南櫓の中から西櫓方面の眺望。往時、この下に見える公園広場は千曲川の支流で尼ヶ淵と云う川が崖とぶつかって深い淵になっていた。そのため上田城の別名は「尼ヶ淵城」とも:
最後は、ここ本丸北虎口前に建っていた真田神社。この神社は、幕末の藩主・藤井松平氏を祀る松平神社として廃城後にこの地に建立された。戦後に上田神社と改名し、真田氏と仙石氏の藩主もまた合祀されて上田藩代々の藩主を祀る真田神社と改名した。特に十数倍の大軍を二度に亘り撃退し智将と謳われた真田幸村の神霊は、今も知恵の神様として崇められているのだとか:
そろそろチェックアウトの時間が近づいてきたので公園前の観光協会へよってから宿泊先へ戻ることにした。
上田城攻め(2) (フォト集)
上田城攻め (フォト集)
上田城 (訪問記)
【参考情報】
- 上田藩主居館跡に建っていた説明板
- 上田城櫓・櫓門内の史料館に展示されていた史料や復元物の説明板・案内板
- Wikipedia(上田城)
- 週刊・日本の城<改訂版>(DeAGOSTINE刊)
参照
↑a | 父は秀吉・家康に仕えた仙石権兵衛秀久。忠政は三男。 |
---|---|
↑b | 三河国碧海郡藤井(現在の愛知県安城市藤井町)を領した松平長親の五男・利長を祖とする松平氏の庶流。 |
↑c | 北櫓と南櫓は遊郭に払い下げられてお座敷として利用されていたとか。 |
↑d | 観覧料は大人300円(当時)。朝8:30から。 |
↑e | 越後上杉氏、相模北条氏、三河徳川氏らによる争奪戦で、いわゆる天正壬午の乱。 |
↑f | が、しばらくの間はなんだかんだ理由を付けて断り続けるも、これが後々までの紛争の種となる。 |
↑g | 往時、徳川家康は東信濃まで勢力を伸ばし、佐久勢を大久保忠世の指揮下に置いていた。 |
↑h | 現在は上田市役所の市民会館が建っている。 |
↑i | ちなみに櫓には「南」とか「北」などの冠詞がついているが、全て後世に便宜上付けられたものであって正式な名称ではないらしい。 |
上田市民から匿名で10億円が寄付されたことで、残る4棟の櫓の復元が現実味を帯びているとのこと。すごい。