Mikeforce::Castles

城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

設楽原古戦場 − The Battle of Nagashino

天正3(1575)年6月末、歴史的な野戦が行われた場所には「決戦場」の碑が建つ

天正3(1575)年5月16日[a]この日付は旧暦。新暦(太陽暦)で換算すると6月24日(水曜日)にあたる。、三河国長篠城を1万5千の兵で包囲して孤立させ、残る郭は本丸と二の丸のみとした武田勝頼は、医王寺山[b]この山からは長篠城を一望できる。麓に医王寺があり、伝説の「片葉の葦」が茂る弥陀の池がある。に構えた本陣にて「信長来る」との一報を受け取った。そして5月19日、宿老らを集めて軍議を開くと勝頼は織田信長・徳川家康と無二の決戦を行うことを主張し、推し量った彼我の兵力差から甲斐国へ撤退することを主張する老練な「年寄り」らの意見を退け、寒狭川(かんさがわ)[c]豊川は長篠城南端にある渡合(どあい)で分岐し、それぞれ北西から流れてくる川を寒狭川、北東から流れてくる川を宇連川(うれかわ)と呼ぶ。現在は寒狭川のことも豊川と呼んでいる。を渡って設楽原(したらがはら)[d]別名は有海原(あるみはら)。へ陣を進めると独断した。風前の灯となった長篠城を囮にし、太陽を背に設楽原の連吾川(れんごがわ)対岸に陣をはる信長軍を見下ろすような逆落しの斜面、そして梅雨の長雨によって飛び道具を無力化できるといった優位性が勝頼の決断を後押しした。そして3千を長篠城監視部隊として残し、残る1万2千を主力として大雨の中を密かに連吾川東岸辺りまで押し出させた。一方の織田・徳川連合軍3万8千は5月13日に岡崎城を出陣、まるで長篠城の後詰など考えていないかのように設楽原までの十里[e]日本では一里は約3.9㎞なので、岡崎城と設楽原の間は約39㎞。の道を三日もかけて行軍してきた。言い換えれば、これは長篠の梅雨明けに合わせるかのような進軍にもみえた。そして連吾川西岸に着陣するや否や馬防柵の設営を開始、同時に別働隊を鳶ヶ巣山へ向けて進発させた。

今となっては、一昨々年(さきおととし)は平成27(2015)年11月の連休を利用して、愛知県は新城(しんしろ)市にある長篠・設楽原古戦場と長篠城跡を巡ってきた。その初日は織田・徳川両軍の陣地跡や武田軍の勇士らの墓所、そして長篠・設楽原の戦いに関して貴重な史料を観賞できる設楽原歴史資料館を訪問してきた。さすがに歴史的な野戦の一つということもあって史跡がよく残っていたが、いかんせん場所が散在していたため、結構な距離を歩きまわる必要があった[f]レンタルサイクルなどが利用できれば、かなり楽なんだけど、当時は残念ながら無かった。

この日は東京近郊から朝6時半発のJR東海道新幹線に乗り豊橋駅に着いたのが朝8時ごろ。それから超満員[g]季節柄で渓谷を散策するトレッカーが非常に多く、加えて車両は2両しかなかった。のJR飯田線・天竜峡行に乗って最寄り駅としていた茶臼山駅には朝9時ごろに到着。そして夕方6時くらいまでたっぷり巡り、宿泊先の豊橋へ戻って一泊し、翌日の最終日は再びJR飯田線に乗って長篠城跡と長篠城址史跡保存館へ。ただ、その前に大海(おおみ)駅で下車し徒歩40分かけて馬場信房戦死の地を訪問、そこから鳥居駅を経由して長篠城駅までえんえん徒歩で移動した[h]予定ではJR飯田線を利用するつもりだったけど、何せ本数が少ないので時間が合わなかったと云う次第。。城攻めの後は馬場信房の墓所、そして大通寺陣地跡と盃井戸を訪問して、今回の城攻め・古戦場巡りを終えた[i]ちなみに、この二日間の歩数は6万歩、歩いた距離は45㎞だった。

これは長篠城址史跡保存館に建っていた「長篠戰図」。旧帝国陸軍参謀本部が『日本戦史長篠役』を基本として編纂し、長篠城攻防戦から設楽原決戦に至る武田軍と織田・徳川軍の布陣を記したもの[j]これを紙に印刷したものを長篠城址保存館で入手できる。

旧帝国陸軍参謀本部が編纂した図を元に、現在の地図と布陣図を重畳したものだが、あまり細かくなく正確さも今ひとつ

「長篠戰図」(拡大版)

こちらは設楽原歴史資料館で購入した『長篠・設楽原の戦い史跡案内図』(500円/当時)を参考に、初日に巡った設楽原古戦場跡のルートをGoogle Earth 3D上に重畳させたもの。資料館近くで復元された馬防柵を境として、織田・徳川連合軍と武田軍に関連する陣跡や墓碑が残っていた。もちろん資料館にも必見の史料が多数展示されていた:

設楽原歴史資料館で購入した『長篠・設楽原の戦い史跡案内図(縮尺1/1万)』(500円)を参考にプロットしてみた

初日の古戦場巡りのルート(拡大版)

新城市周辺を上空から俯瞰してみると、ざっと400年以上の歳月は経過しているものの、設楽原なる場所は野田城跡から長篠城跡へ至る途中の南北半里(約2㎞)、東西四半里ほど(約8㎞)の丘陵地帯にあり、北の奥三河の山塊を水源とする連吾川や大宮川といった中小の河川が舌状台地の間を這うようにして、丘陵の南を横断している豊川に注ぎ込んでいるため、決して平坦な地形ではなく、陣を築くに適した小さい丘が点在しているのが判る。

ということで初日に巡ってきた古戦場巡りのルートとしては、まず茶臼山駅[k]改めて書いていて思ったのだが、このルートであれば最寄り駅は茶臼山駅ではなく、その一つ手前の東新町駅の方が近かったかなぁと思ったり 😐 。から新城バイパスこと国道R151へ出て、西から資料館へ向かって陣地跡や墓碑を巡り、最後は三河東郷駅から宿泊先のある豊橋へ戻った:

(JR茶臼山駅) → ①織田信長旗本地 → ②織田信長本陣・極楽寺跡 → ③北畠信雄本陣 → ④織田信忠本陣 → ⑤岡崎信康本陣 → 鈴木金七生誕地近く → ⑥織田信長本陣・茶臼山 → ⑦徳川家康本陣 → ⑧設楽原歴史資料館 → ⑨内藤昌豊の墓碑・横田綱松の墓碑 → ⑩甘利信康の墓碑 → 柳田前激戦地 → ⑪馬防柵 → 信玄塚(大塚) → ⑫原昌胤の墓碑 → ⑬小幡信貞の墓碑 → ⑭山縣昌景 → ⑮首洗池 → ⑯土屋昌続の墓碑 → ⑰甲田 → ⑱真田信綱・昌輝の墓碑 → ⑲五味貞氏の墓碑 → ⑳武田勝頼本陣・才ノ神 → (JR三河東郷駅)

織田・徳川連合軍の陣地跡

こちらは①織田信長旗本地があった平井神社。なお往時は八剱(やつるぎ)神社と呼ばれていたが、明治の時代の町村合併(一村一社制)により神社の合祀があり、村の名前を冠して平井神社に改称されたとのこと。
設楽原に着陣した信長は、この神社に旗本陣(はた・ほんじん)を構え、「信長ここにあり」と幟(のぼり)旗や旗指物を林立させた:

これは合祀後の名称で往時は八剣神社であった

平井神社

左手奥にあった極楽寺から、ここ平井神社が最初の本陣だった

説明板

そして平井神社のすぐ裏を流れる水路の向こう側に信長が最初に本陣を置いた②織田信長本陣・極楽寺跡がある。往時から既に寺は焼き払われており、現在でも眺めのよさそうな高台であった。信長は、この本陣での軍議で徳川家重臣の酒井忠次から鳶ヶ巣山(とびがすやま)奇襲の進言を受けたとされている。また開戦直前、勝頼が連吾川の東岸に陣を進めたことを知ると、ここから⑥織田信長本陣・茶臼山へ本陣を移した:

ここから平井神社あたりまでが、信長が最初に本陣を置いた場所である

織田信長本陣・極楽寺跡

往時から極楽寺なる寺は存在せず、単に眺めの良い高台だった

古戦場いろはかるた

このまま水路に沿って歩いて行くと、向こう側に特別養護老人ホーム「サマリヤの丘」なる白い建物が見えてくるが、そこが③北畠信雄本陣の地であった。信長の次男で、伊勢国・国司の北畠家を継いでいた。往時は麾下の稲葉伊予守良通(稲葉一鉄)や蒲生忠三郎(蒲生氏郷)も参陣していた:

この高台に現在は特別養護老人ホームが建っているだけである

北畠信雄本陣の地

現在はかろうじて看板があるだけ

北畠信雄本陣の地

この北畠信雄本陣地をぐるりと迂回するように西へ移動していくと杜の中に野邊(のべ)神社が見えてくるが、そこが④織田信忠本陣の地である。ここに着陣した信長の嫡男・信忠は「代々をへん 松風さゆる 宮居哉 中将」と詠んだ句を社殿の羽目板に書き、必勝を期したと云う。七年後、徳川方の設楽貞通が社殿を再建した際に、これを棟札(むねふだ)としたのだとか:

家康の嫡男である岡崎信康本陣地の後ろに位置する

織田信忠本陣の地

そして野邊神社から道なりに東へ向かって行くと左手奥に小さな杜の中に建つ松尾神社が見えてくるが、ここが徳川家康の嫡男である⑤岡崎信康本陣で、父・家康の後方に位置する。往時は麾下の石川数正や平岩親吉らも参陣していた:

石川数正や平岩親吉らと共に、ここ松尾神社に布陣した

岡崎信康本陣の地

この松尾神社前から⑥織田信長本陣・茶臼山へ向かうため、少し西へ移動してから道なりに北上した。こちらは野邊神社前から望んだ茶臼山の遠景。標高は134.5mなので山と云うよりは丘に近い。信長は開戦直前に②極楽寺跡からここ⑥茶臼山へ本陣を移した:

これは④織田信忠本陣の地である野邊神社前から眺めた茶臼山で、開戦直前に信長は本陣を正面の小高い丘へ移した

信長が本陣を移した茶臼山(拡大版)

そして県道R21を渡ると案内板が見えてくる[l]平成30(2018)年現在、この案内板は無いらしい。が、さらに進んで正面に見える小高い丘の頂上にある茶臼山公園の奥まで登って行く必要がある:

奥に見える丘陵上にある茶臼山公園の、さらにその先に本陣跡がある

「茶臼山公園・織田信長戰地本陣跡」の案内板

この緩やかな坂を登って行くと右手に階段[m]これは禅海寺の墓地へ向かう階段で、茶臼山公園へ登る階段ではないので注意のこと。ちなみに墓地から茶臼山を背にした眺めもよかった。が見えてくるが、その手前に古戦場いろはかるたが建っていた:

鈴木金七郎は鳥居強右衛門と共に長篠城を脱け出して岡崎城へ火急を知らせた

古戦場いろはかるた(鈴木金七郎)

鈴木金七こと金七郎重政(きんしちろう・しげまさ)は、のちに武田軍によって磔刑に処されることになる鳥居強右衛門と共に、包囲されていた長篠城から脱出し、36km以上離れた岡崎城の家康に火急を知らせ、援軍を要請した勇士である。梅雨時の豊川を廣瀬(川路)まで約4㎞泳ぎ下り、門前・松尾神社付近を通って、この近くの生家にたどり着いた。そして一晩休んで、幼少より慣れ親しんだ雁峰山(がんぼうやま)に登り、長篠城に向けて脱出成功の狼煙をあげた。それから二人は岡崎城へ向かって尾根伝いにひた走ったと云う。
金七郎は設楽原の戦後に武士をやめて帰農し、それから27年後の慶長7(1602)年には長篠城主・奥平信昌の四男・松平忠明から時旧功を賞して禄2百石を賜ったと云う。

このまま坂を登って行くと右手に石碑が建つ石段が見えてくるので、それを登って茶臼山公園へ向かう。登った先にある舗装された道をさらに登って行くと駐車場があり、道案内の看板が建っていた:

人気のない茶臼山公園の更に奥へ進む

織田信長戦地本陣・織田右府の歌碑といろはかるた

これに従って奥へ進んでいくと、この当時は工事か何かで先へは進めなかったが[n]おそらく本陣地跡を綺麗に整備するための工事のようだったが、この日は休工日で誰もいなかったので、少々無理しながら進んだ。、工事現場を少し迂回してなんとか本陣跡へ。

こちらが⑥織田信長本陣・茶臼山。説明板と歌碑が建っている他、経塚に茶臼山稲荷社が建っていた:

勝頼が誘いにのって連吾川東岸に布陣したと知ると、大雨の中を信長は極楽寺跡からここに本陣を移した

織田信長戦地本陣跡(拡大版)

信長が開戦を前に詠んだ一句が彫られていた(背後は新東名のPA)

信長歌碑

極楽寺跡の本陣で軍議を開き、酒井忠次の進言を受け入れ、監督役として金森長近らを加えた別働隊3千を進発させた後、勝頼が連吾川東岸へ陣を移したとの知らせを受けとった。信長は、すかさず大雨の中、本陣をここ茶臼山へ移して馬防柵と堀の設営を急がせた。ここに建つ歌碑は、その時の信長が詠んだ歌らしいが、まんまと武田軍が誘いにのって来くれたことで勝利を確信したかのような句である:

きつねなく 声もうれしくきこゆなり 松風清き 茶臼山かね

本陣地跡から設楽原の決戦場を眺めたが藪化が激しくてよく見えなかった:

茶臼山稲荷社の鳥居からで、往時は左手に連吾川(武田軍)、中央から右手に織田・徳川連合軍の布陣が見えていたかも

信長本陣跡からの眺め(拡大版)

開戦後は梅雨明けの晴れ間の中、麓の羽柴秀吉、柴田勝家、徳川家康、岡崎信康らが一列に陣をひいて、連吾川の対岸に陣をひく武田軍を眺めることができたのかもしれない。

このあとは、ここ本陣跡で握り飯を喰らい、家康の本陣があったとされる新城市立東郷中学校裏の八剱(やつるぎ)神社へ。と、その前に先ほど見た鈴木金七郎のいろはかるた脇にある禅海寺墓所からの眺め(パノラマ)。往時、信長が本陣跡から眺めた風景よりかなり低い目線になってしまうが、現代でも戦場(いくさば)の面影がなんとなく残っているような気がした:

信長の戦地本陣があった茶臼山麓から南側の眺望で、正面左手の丘陵が岡崎信康陣跡、その右隣が織田信忠陣跡

禅海寺墓所からの眺め(パノラマ)

これは家康本陣があったとされる最前線の八剱社(やつるぎやしろ)を眺めたところ。往時は弾正山と呼ばれていたらしく、手前には大宮川が流れている:

「徳川家康本陣」があった丘陵で、往時は弾正山と呼ばれていた

八剱社の遠景

これが⑦徳川家康本陣。この丘の東を流れる連吾川を挟んで武田軍と対峙した:

 

この地がまさに最前線であり援軍を要請した立場がいかに弱かったかがわかる

徳川家康本陣の地

この神社を登った先が八剱山陣所跡で、その先に徳川家康物見塚が建つ:

この先に徳川家康物見塚が建つ他、断上山(弾正山)古墳という遺跡もあり、廃棄された遊具があったりした

八剱山陣所跡(拡大版)

そして家康が陣頭指揮したとされる物見塚から、往時は連吾川を挟んで対峙した武田軍の陣地方面の眺め(パノラマ)。ここはまさに最前線であり、家康は援軍を要請したと云う立場から多大な犠牲を払ってでも信長の命を受け入れるしかなかったのである:

左右に流れるのが連吾川、左手が決戦場(復元された馬防柵)、正面の小丘には山縣昌景の墓碑がある

徳川家康物見塚からの眺め(パノラマ)

この物見塚の下には「長篠役設楽原決戦場」の石碑が建っていた。ちなみに石碑の題字は歴史小説家・山岡荘八氏によるもの:

「一五七五」は天正3(1575)年を、「七九」は新暦で7月9日の決戦日を表す

「長篠役設楽原決戦場」の碑といろはかるた


新城市設楽原歴史資料館

この後は⑧設楽原歴史資料館へ。連吾川と平行する道路沿いの入口に大きな案内板があり、「信玄台地」と呼ばれる小高い丘の上に資料館が建っていた:

資料館は連吾川の決戦場を見下ろすような丘の上に建っていた

設楽原歴史資料館の案内板

これが資料館。二階が展望台になっていた:

入場券は長篠城址史跡保存館とセットにすると別々よりも110円お得だった

新城市設楽原歴史資料館

そのエントランス。左手にある大きな松明は信玄原の火おんどりなる伝統的な祭りで使用されるものらしい:

左側にあるのは「火おんどり」(愛知県無形文化財)で使われる巨大な松明

エントランス(拡大版)

館内は有料展示とフラッシュ禁止以外は撮影可だった(当時):

設楽原の戦いの史料の他に火縄銃コレクションなどが展示されていた

館内の様子

これらは「設楽原の戦いコーナー」の展示品であるが、殆どが江戸時代に作られたものだった:

左手の唐人笠馬標が「長篠合戦屏風」に織田信長の馬標として描かれている

「設楽原の戦いコーナー」の展示品

右手は「赤備え」で有名な山縣昌景隊が用いた「朱漆塗仏胴具足」

「設楽原の戦いコーナー」の展示品

これらは設楽原周辺で出土した鉄砲玉で、「山田玉」とか「後藤玉」など発見者の名前を冠しているのが面白い:

この博物館の外で発見されたものもあるらしく、全て戦国時代のもの

設楽原周辺から出土した鉄砲玉

これは伝武田勝頼所用の合標(あいじるし)。合標とは戦場で敵味方を区別するために使用する目印のこと:

いわゆる現代のIR(敵味方)識別バッチみたいなものか

伝武田勝頼所用合標

そして、ご存知、武田の軍旗で孫子の旗:

武田信玄の孫子の旗

「風林火山」の軍旗

これは野田城包囲戦で使用されたとされる伝説の火縄銃「信玄砲」(新城宗堅寺所蔵):

信玄死去の原因は病気ではなく、野田城包囲戦で狙撃されたからだと云う

日本最古・伝説の火縄銃「信玄砲」

三つの郭が連なり沼に囲まれた要害堅固な城だった

野田城縄張図

いわゆる「信玄狙撃説」の基になった火縄銃の銃身部らしい。西上作戦中に野田城を包囲した武田信玄は天然の要害と堅い守りに阻まれて難儀していた。そんな中を毎夜、城内から聞こえる笛の音を傾聴していた信玄がついつい堀近くまで忍び来て佇んでいると城内の鉄砲名人・鳥居三左衛門により狙撃され致命傷となり、これが死因であるとする説。この説は、のちに黒澤明監督作品の映画「影武者」のあらすじとして使われたことでも有名。

これは作家の山岡荘八氏の筆による「長篠役設楽原決戦場」の題字。これと同じものが、先ほどみた⑦徳川家康本陣近くの石碑に彫られている:

歴史小説家の山岡荘八による題字で決戦場の石碑の基になった

山岡荘八氏による「長篠役設楽原決戦場」の題字

この資料館の屋上は展望台となっており、連吾川に復元された馬防柵や設楽原一帯の風景を眺めることができるようになっていた:

エレベータで屋上へ登ると設楽原一帯の風景を楽しむことができ(但し、杜が邪魔するところあり)、織田・徳川連合軍の本陣跡や復元された馬防柵が見えた

信玄台地から設楽原方面の眺め(拡大版)

資料館を出て、その裏あたりに「信玄塚」なる設楽原決戦での戦没者を葬った塚が武田と織田・徳川の双方それぞれに残っていた。一説に、この戦いでは両軍合わせて1万2千もの戦死者があったとされ、戦場の後始末に従事した、ここ竹広(たけひろ)村の村人はねんごろに戦死者を葬ったと云う。「大塚」はもっとも多くの戦死者を出した武田方の、そして「小塚」は織田・徳川方の戦死者の慰霊の丘で、のちに「火おんどり」と呼ばれる追悼の祭りが行われるようになった:

この戦いでもっとも多くの戦死者を出した武田方の犠牲者を慰霊する塚

信玄塚の大塚

勝利した織田・徳川方の戦死者は、それでも6,000人もいたとか

信玄塚の小塚

新城市設楽原歴史資料館
愛知県新城市竹広字信玄原552

設楽原決戦場跡と馬防柵

資料館が建つ信玄台地を、連吾川が流れる設楽原決戦場跡へ向けて下りていくと柳田橋(やなぎだはし)なる橋が見えてくるが、ここが柳田前激戦地跡:

連吾川周辺の泥濘で動けない騎馬隊は鉄砲隊の餌食になった

柳田前激戦地跡

橋が架かる連吾川を境に手前が武田の甘利信康隊、奥左手が徳川家康本陣の弾正山、奥右は馬防柵であった

柳田前激戦地跡(拡大版)

往時、連吾川周辺のほとんどが田んぼや泥沼地(でいしょうち)であったことに加え、梅雨明け直後ともあって、かなり泥濘(ぬかる)んでいたと云う。そして、この手前側から突撃に入った甘利信康や武田の騎馬隊はその泥濘に足を取られて思うように進撃できず、その間隙(かんげき)をぬって散弾状に射撃してきた織田・徳川鉄砲隊の餌食になったと云われている。

その柳田橋には、この激戦を物語るかのようなレリーフが彫られていた:

連吾川に架かる柳田橋の織田・徳川連合軍側は鉄砲隊が主役である

織田・徳川方の

連吾川を挟んで連合軍側は馬防柵と鉄砲隊が対峙する

レリーフと

連吾川を挟んで武田側は甲州騎馬軍団が突撃する

武田方の

これは「大」の軍旗の下で指揮する武田勝頼だろうか

レリーフ

柳田橋を渡ってすぐ右の農道を歩いて行くと、田んぼの向こうに復元された⑪馬防柵が見えてくる:

設楽原決戦で設けられたであろう馬防柵を再現したもので、向かって左側が徳川軍、右側が織田軍で区別して再現されていた

復元された馬防柵(拡大版)

ここに建てられている馬防柵は、向かって左手(連吾川下流側)が徳川軍が設けたもの、同様に右手(連吾川上流側)が織田軍が設けたものと、それぞれ区別して復元されているのだそうで、両軍の違いは攻口(出入り口)の設け方にあるのだそうだ。
信長は天下無敵と謳われていた甲州騎馬軍団をこれらの柵で防ぎ止め、柵内にあっては散弾状に鉄砲玉をばらまいて、多くを敵を一気に無能化しようと考えていたとされる。そのため嗽(うがい)た堀に沿って設けられた三重の馬防柵の全長は2㎞余に及んだと云う。さらに万が一に備えて、背後の大宮川沿いにも一重の馬防柵を設けていたと云う。

これらの絵は、武田軍1万5千が長篠城を包囲・攻撃してから、織田・徳川連合軍3万8千が足軽鉄砲隊と馬防柵、そして別働隊という秘策(罠)を持って設楽原に着陣、それが罠とは知らずに寒狭川を渡河して対陣した武田軍、最後は連合軍の別働隊により武田軍にとって予想外な展開になった上に退路を絶たれ、天候にも見放されてしまった「風林火山」が無謀な突撃に移るまでの戦況をGoogle Earch 3D上に示したもの[o]旧暦表記。かなり私感が入っている上に割愛・省略もある。まぁ年表のイベントも参照した史料によって日付がまちまちと云った不確かさもあるが。

医王寺山本陣の勝頼ら甲軍は長篠城を完全包囲し猛攻を仕掛け、残る郭は二の丸と本丸だけになった

天正3(1575)年5月16日・長篠城包囲(拡大版)

鳥居強右衛門・鈴木金七郎らの援軍要請で織田信長と徳川家康は足軽鉄砲隊を主力とした大軍を率いて設楽原に到着

天正3(1575)年5月18日・連合軍設楽原に着陣(拡大版)

雨で鉄砲が役に立たない足軽など騎馬隊の敵ではないと早期決戦を仕掛ける勝頼は渡河して本陣を連吾川対岸へ移した

天正3(1575)年5月20日・連合軍設楽原に着陣(拡大版)

連合軍は別働隊の奇襲が成功、退路を絶たれ、信長相手に無策すぎた甲軍は渡河して突撃に入る

天正3(1575)年5月21日・連合軍vs武田軍が激突(拡大版)

往時、鳶ヶ巣山砦から立ち昇る煙を合図に、早朝から始まった決戦は昼過ぎまでのおよそ8時間続いたと云う。当初、勝頼が描いていた長雨が続いて鉄砲が使えない足軽などは騎馬軍団の敵ではなく、連合軍の兵力も少なく見積もっていたこともあり、苦もなくあしらえるものとした決戦イメージは脆くも崩れ、次々と秘策を打ち出す信長に対して、リアルタイムで戦況を分析し対策を執ることができずにいた若武者・四郎勝頼は、梅雨が明けて雨が上がり、正体不明な軍勢に退路を絶たれてしまったという状況下で完全に後手に回り、全軍突撃に賭けるしか選択肢が無かったのだろうか。この無謀な突撃に賭けた真相は不明である。

それから畦道(あぜみち)を歩いて田んぼを横断し復元された馬防柵へ:

こちら側は徳川軍が設けたスタイル(攻口が異なる)

馬防柵(左手)

ここが攻口(出入り口)である

馬防柵(中)

こちらは織田軍が設けたスタイル(攻口が異なる)

馬防柵(右手)

田んぼの畦に立って眺めると、手前に堀を嗽き、その土で土居を造り、そこに丸太を立てて三重の馬防柵を築いていたので、かなり高く感じた。往時の甲州騎馬軍団は現在のような競走馬ではなくポニークラスの小型の馬だから、この馬防柵はかなり大きな脅威であったものと想像に難くない。

こちらは徳川軍の攻口:

「設楽原をまもる会」は『長篠合戦屏風』や『永禄墨俣記』などの古文書を参考に馬防柵を復元したと云う

徳川式の攻口(拡大版)

対して織田軍の攻口:

攻口(せめぐち)は鉄砲による間接攻撃で騎馬隊を無力化した後の掃討戦(首取り戦)で使われた

織田式の攻口(拡大版)

これらの馬防柵は「設楽原をまもる会」という団体が有名な『長篠合戦屏風』などの古文書を参考に復元したもので、概ね五年に一度は柵木を造り直しているらしい。

こちらは馬防柵の内側。この手の柵は一度破られると容易に横移動されて部隊が簡単に殲滅させられる危険性があるのだとか。そのため柵を三重にしていたとも:

柵は一度破られると容易に横移動されて足軽鉄砲隊が殲滅させられる危険性があるらしい

馬防柵の内側(拡大版)

その一角には武田軍右翼を担っていた土屋右衛門尉昌続(つちや・うえもんのじょう・まさつぐ)[p]史書によっては「昌次」と記しているものがあるが、現在は「昌続」が通説になっている。が討ち死にした場所であることを示す石碑といろはかるたが建っていた:

馬防柵に取り付きながら、ここで大絶叫して討ち死にした

「土屋右衛門尉昌次戦死之地」の碑といろはかるた

土屋昌続は信玄の奥近習六人衆[q]土屋右衛門尉、三枝勘解由、曽根内匠、武藤喜兵衛(真田昌幸)、甘利左衛門尉、長坂源五郎の六人で、今で云う将来の幹部候補生にあたる。の一人で、設楽原決戦では馬場美濃守、真田信綱・昌輝兄弟らと共に右翼に配置され、銃弾を掻い潜って一ノ柵へたどり着いた。柵前で奮闘し、柵の背後にいた滝川一益・丹羽長秀隊を打ち破ると、柵を踏み倒した余勢をかって二ノ柵を倒し、三ノ柵に取り付くやいなや大声で「我こそは土屋右衛門尉なるぞ。首を獲って功名にせよ!」叫んだところを、信長麾下の母衣衆(ほろしゅう)で、鉄砲隊を率いていた佐々内蔵助成政と前田又左衛門利家らの一斉射撃に倒れた。享年31。ちなみに昌続とその従者の墓碑が⑯土屋昌続の墓碑にあった。
なお勝頼がのちに天目山を目の前にして逃避行を重ねた末に甲斐武田家が滅亡した際、「土屋惣蔵片手斬」の伝説を作り、勝頼の介錯を務めた土屋惣蔵昌恒は彼の実弟である。

これは馬防柵の内側から連吾川の対岸を眺めてみたところ。往時の足軽も眺めていたであろう景色である:

往時、連吾川を渡り突撃を繰り返した甲州騎馬軍団が、馬防柵があるこちらに向かってくるイメージである

馬防柵内側からの眺め(拡大版)

徳川軍の攻口を内側から見たところ。柵がクロスして建てられており、入口は柵の隙間を通る形となっていた:

馬防柵の内側から見たところで、三つの柵が交差していた

徳川式馬防柵の内側

前後二段の柵で、柵の隙間が攻口になっていた

徳川式馬防柵の内側

馬防柵の一番奥(北側)には、古文書と時代考証に基づいた名和式「鉄砲構え」なる馬防柵が再現・展示されていた。これが実際に設楽原決戦で使われたであろう「馬防柵」であり、柵の手前に乾堀(空堀)を嗽き、背後には穴の開いた土居を積んでいたらしい[r]ということは、今まで見てきたものは展示用の簡易版なのだろうか。

空堀と馬防柵、そして銃眼付きの身がくし(土居)の三つから構成される

「鉄砲構え」の馬防柵

往時としては最先端の防御施設と兵器で甲州騎馬軍団を迎撃した織田・徳川連合軍の激闘は続き、馬防柵周辺は鉄砲の煙ではっきりと目視できる状況では無かったと考えられている。

設楽原決戦場跡・馬防柵
愛知県新城市竹広字大宮清水1-9

武田軍戦没者の碑と才ノ神本陣跡

この設楽原決戦では戦国最強を謳われた武田家の名だたる将士が散っていた。特に侍大将格以上の戦死者は織田・徳川連合軍よりも圧倒的に多かった。敗戦が濃厚となった時、才ノ神本陣で:

四郎勝頼  「わしが命じた作戦に手落ちがあったと申すのか!!

真田安房守  「手落ちではござらぬ、明らかな失敗でござる!  信長相手にあまりにも無策!!

工藤かずや作・池上遼一画 『信長』 敗走・武田勝頼の章(小学館刊)

などと云った問答があったかどうかは不明だが[s]さらに、この時点では真田安房守昌幸ではなく武藤喜兵衛である。、勝頼自身はおそらく甲斐府中へ戻るまで、ここ設楽原で何が起こったのかハッキリと理解できていなかったのかも知れない。

ここ設楽原歴史資料館の周辺には武田家のために一命を賭して戦って散っていた将士らを供養する墓碑が数多く残っていた。さらに勝頼が退却するまで戦況を観戦していた信玄台地上の才ノ神なる戦地本陣跡にも足を運んできた。

ここで、まず織田・徳川連合軍と武田軍の布陣図をGoogle Earth 3D上に示してみた。かなりの私感と想像が混じったものになっているけど。ちなみに方角は織田・徳川連合が着陣した西側から見た俯瞰図である:

別名は有海原(あるみはら)とも言われた設楽原は舌状台地上に多数の丘陵を持つ特異な戦場だった

設楽原周辺俯瞰図(拡大版)

かなりの私感と想像が加味された布陣図ではあるが、素人目でもこの兵力差は如何ともしがたく見えた

設楽原決戦の布陣図(拡大版)

まず最初は⑨内藤昌豊の墓碑。資料館とは道路を挟んで向かいに建つ保育園の裏あたり:

勝頼がいる本陣の前衛を担った内藤修理亮の部隊が布陣したところ

天王山陣所と内藤昌豊の墓碑

内藤隊は信長麾下の母衣衆率いる鉄砲隊の攻撃を受けながらも滝川・丹羽・柴田・羽柴隊と互角の戦いを繰り広げた

「内藤修理亮昌豊之碑」(拡大版)

ここは内藤修理亮昌豊(ないとう・しゅりのすけ・まさとよ)が指揮した中央の本陣にあたる天王山陣所でもあった。名は昌秀(まさひで)とも。武田信玄麾下でのちに四天王の一人と云われた。晴信(信玄)の実弟・武田信繁亡き後の甲軍副将を継承し、信玄が「上州の黄斑(おうはん)」と謳われた猛将・長野業政(ながの・なりまさ)・業盛(なりもり)父子を攻略した後、箕輪城を拠点として主に西上野(にし・こうずけ)方面の計略にあたった。

内藤の最後は徳川家の猛将・本多平八郎忠勝隊に銃撃されたとか、あるいは敗れて退却する主君・勝頼を戦場から逃がすため殿を務めていた時、今川氏真の名代として家康の陣中見舞いに来ていた朝比奈泰勝(あさひな・やすかつ)が討ち取ったとも。享年54。

ここ天王寺陣所は才ノ神本陣にいた勝頼が開戦後に自ら陣を移して指揮した場所でもあるのだとか:

すぐ北にある才ノ神に置いた本陣を、勝頼は開戦後に天王山陣所に移した

「設楽原の戦い・武田勝頼公指揮の地」の碑

さらに内藤の墓碑脇には⑨横田備中守綱松(よこた・びっちゅうのかみ・つなとし)の墓があった:

綱松は三人の息子たちと共に出陣したが全員が討ち死にしたと云う

横田綱松の墓所

横田康景とも呼ばれ、実父は原美濃守虎胤、養父は横田備中守高松と云う「エリート」足軽大将の家系で育った

「横田備中守綱松之墓」(拡大版)

名は康景(やすかげ)とも。実父は武田五名臣の一人である原美濃守虎胤(はら・みののかみ・とらたね)、養父も同じく武田五名臣の一人であり、弓矢巧者としても知られた横田備中守高松(よこた・びっちゅうのかみ・たかとし)。二人の名足軽大将を親にもつ猛者であり、往時は次男・三男・四男と共に設楽原決戦に参加して、みな討ち死を遂げた。享年51。そのため横田家は、のちに高天神城の軍監となる五男の横田甚五郎尹松(よこた・じんごろう・ただまつ)が継いだ。ちなみに彼の墓所は、長篠城包囲戦で磔刑となった鳥居強右衛門の菩提寺である新昌寺にもあった。

こちらは⑩甘利信康の墓碑。連吾川から資料館のある信玄台地へ登る道路の脇に残っていた:

重臣・甘利虎泰の子で、連吾川近くの柳田前激戦地で激闘を演じた

甘利信康の墓碑

柳田前激戦地から撤退したあと柳田村の庄屋屋敷の門扉に寄りかかって立ったまま自刃したという

「甘利郷左衛門尉之碑」(拡大版)

信康は譜代家老の一人で、若き日の晴信(信玄)を支えた甘利虎泰の三男。往時は山縣昌景隊と共に左翼を担い、徳川勢に突撃を敢行し、先鋒の内藤隊とも合力して三ノ柵を突き破る勢いであったが、武田勢が総崩れとなると柳田前激戦地あたりまでじりじりと押し戻され、ついにはここ柳田村の庄屋屋敷に建つ門扉に寄りかかり、立ったまま切腹して果てたと云う。織田・徳川軍の陣地設営に協力した村人に対して恨み節ともとれる壮絶な死に様だった。享年は不詳。

このあとは設楽原歴史資料館の敷地を横切り、信玄塚を参拝したすぐ近くにある畑の奥まった所で⑫原昌胤の墓碑を見かけた:

父の跡を次いで陣場奉行を務めていた昌胤は勝頼に撤退を進言したと云う

原昌胤の墓碑

最後は内藤隊に合流し、徳川家康の本陣めがけて突撃を敢行し、柵にたどり着く前に銃弾を浴びて討死にした

「原隼人佐昌胤之碑」(拡大版)

「戦働き」での功名持ちが多い武田家中にあって、治水などの土木系の政務を得意としていた原隼人佐昌胤(はら・はやとのすけ・まさたね)は父・昌俊から家督を継ぐと共に陣場奉行職も継承した。この設楽原決戦では奉行として勝頼に撤退を進言するも容れられず、最後は戦働きを志望して先鋒の内藤隊に合流、家康が本陣の弾正山を目指して突撃するも柵にたどり着く前に敵弾に斃れた。享年50。

そして、ここから道なりに下って小さな杜を抜けた先の削平地には⑬小幡信貞の墓碑があったが、これは信貞(のぶさだ)の父・憲重(のりしげ)の墓であるという説が専らである:

もともとは上野国の長野業政と並ぶ有力国人だが離反して武田に仕えた

小幡信貞の墓

「信貞」とあるが信貞は設楽原決戦には参戦せず、父の小幡憲重が討死にしたと云う説が専らである

「小幡上総介信貞之墓」(拡大版)

小幡憲重・信貞親子は西上野国で関東管領・上杉憲実に仕えていた国人衆であったが、主家が河越夜戦後に衰退すると、ともに「小豪族ネットワーク」を築いて共闘していた長野業政との関係が悪化して小田原北条に従属した。その後、信玄の西上野侵攻時に武田に従属して西上野先方衆として各地で活躍した。もともと馬の名産地である上野国にあって「馬上巧者」が多い上に、信玄から赤備えを許されていた小幡隊は、この設楽原決戦でも騎馬突撃を敢行したものの馬防柵に阻まれ、憲重らは鉄砲隊の銃弾に斃れた。享年52。嫡男の信貞は武田家が滅亡した後に織田に降伏、滝川一益の与力となったが、本能寺の変後におきた神流川の戦で一益が惨敗すると北条氏直に降伏した。

このあとは再び道なりに下り、連吾川と並行して走る道を左折して南へ向かっていった途中に「山縣塚・この細道40m奥」となる案内板が左手に見えてきた:

山縣塚の入口である民家脇の小道は「火おんどり坂」と呼ばれる古道だった

山縣塚の入口

ここの民家脇にある小道は「火おんどり坂」と呼ばれる古道で、ここから奥にある高台の上へ登って行くと墓碑が整然と並んでいる場所が見えてきた:

左翼から徳川本陣に九度も突撃を繰り返した山縣昌景と勇士らの墓碑の他、かっての「胴切松」の代わりに檜が立っていた

山縣昌景らの墓碑(拡大版)

ここが武田家の譜代家老衆であり、武田信玄麾下でのちに四天王の一人と云われた⑭山縣昌景の墓所で、その脇には山縣甚太郎昌次とその従者の名取又左衛門道忠、そして高坂又八郎助宣の墓の他、その背後には見事な檜が建っていた。

墓列に向かって左端が武田の赤備えで有名な山縣三郎兵衛尉昌景(やまがた・さぶろうひょうえのじょう・まさかげ)の墓碑:

飯富昌景として信玄の近習・使番として仕え、兄・飯富虎昌が率いた赤備えを引き継ぎ、断絶していた山縣家の名跡を継いだ

「山縣三郎兵衛昌景之碑」(拡大版)

設楽原決戦前夜の軍議では他の家老衆とともに勝頼に撤退を進言したが聞き入れられず、当日は左翼の川路(かわじ)に陣を敷き、連合軍別働隊による鳶ヶ巣山砦の奇襲攻撃を契機に決戦が始まると、一番に連吾川を渡河して大きく南へ迂回するや、竹広(たけひろ)にかけて駆け上がって徳川勢を側面から突き崩そうと突撃を繰り返した。
これに対し、家康本陣南側を守備する大久保忠世(おおくぼ・ただよ)・忠佐(ただすけ)隊が連吾川の手前で山縣隊と正面から激突する。山縣が自ら本隊を率い大久保隊を退かせると、徳川方は石川数正、内藤家長・信成兄弟、榊原康政、大須賀康高らが後詰して戦線を押し返す。今度は、そこに武田方の小山田信茂・甘利信康両隊が背後から山縣隊を支え、まさに一進一退の膠着状態となった。

しかし一番に突撃を開始してから3時間余が経過した頃には数で上回る織田・徳川の連合軍に、さすがの赤備えも押され気味となってきた。連合軍の鉄砲による猛射が続く中、山縣・小山田・甘利隊は進むに進めない状態となった上に、「停止した」騎馬は鉄砲の格好の的にもなった。

意を決した山縣は死を覚悟して敵陣に突入、半分以上の兵を失いながらも、大久保・大須賀・榊原・石川・鳥居らの陣を突き崩し、本多平八郎忠勝の陣に迫った。家康本陣まであともう少しと云うところで、忠勝麾下に配属されていた傭兵集団・雑賀(さいか)の鉄砲衆が山縣に狙いを定め一斉射撃を始めた。山縣は全身に被弾し、持っていた采配を口にくわえ、手綱を両腕で掴んでなんとか堪えていたが、たまらず落馬した。山縣は従者の志村又右衛門光家(しむら・またえもん・みついえ)に「我が首を獲らせるな」と命じた後に息を引き取った。享年47。家康本陣に向かって九度も突撃を敢行した赤備えの勇将であった。

一方、又右衛門は主人の亡骸を胴切山近くまで運ぶと、泣く泣く介錯し、首級を包んで本陣へ向かった。その際に小烏丸(こがらすまる)[t]一説に平家一門の家宝と伝えられる短刀。竹広村の元庄屋・峰田家の家宝となっていたが、太平洋戦争後に進駐軍の刀狩で没収となり行方は不明である。の小刀と「遺体の供養を後々までお願い申す。」と書いた文を書き残した。決戦が終り、避難していた竹広の村人たちが戻って、辺り一帯に打ち捨てられていた人馬の遺体を供養する中、山縣の遺体はひそかに庄屋の峰田氏が自分の裏山である、この場所へ運ばせて手厚く葬ったと云う。その際に遺体の在りかの証として一株の松を手向けて植えたと云う。この話が「胴切り松」と呼ばれる由縁であるが、この松は昭和の初め頃に枯死しており、現在は樹齢およそ200年と推定される一本の檜が墓碑の背後にそびえていた。
なお本陣へ向かった又右衛門は無念にも追撃戦に巻き込まれて討ち死し、ついに山縣の首級は徳川の手に落ちた。

この墓碑は大正3(1914)年に長篠古戦場顕彰会により建立された。

こちらは山縣甚太郎昌次(やまがた・じんたろう・まさつぐ)と従者の名取又左衛門道忠(なとり・またざえもん・みちただ)、そして高坂又八郎助宣(こうさか・またはちろう・すけのぶ)の墓:

もとあった場所が時と共に風化忘却したため、山縣昌景が眠るこの場所に集められて再建されたと云う

「山縣甚太郎昌次」と「従士名取又左衛門道忠」之墓と「高坂又八郎助宣之墓」(拡大版)

山縣昌次は三枝右衛門尉虎吉(さいぐさ・うえもんのじょう・とらよし)の次男で、兄は山縣昌景の娘を娶り、のちに名足軽大将と呼ばれた三枝勘解由左衛門尉昌貞(さいぐさ・かげゆし・さえもんのじょう・まささだ)あるいは三枝守友、弟は三枝昌吉。兄同様に、山縣姓を与えられた。三枝三兄弟は、長篠城監視部隊の一つである姥ヶ懐(うばがふところ)砦で警戒していたが、酒井忠次・金森長近らが率いる別働隊の奇襲を受けた。姥ヶ懐は砦でなかったので敵勢の発見に遅れをとることになったが、数で劣りながらも奮戦は目覚ましかったが、隣の君ヶ臥床(きみがふしど)砦を落とした部隊が増援としてやってくると、ついに昌次を含む三兄弟は皆討ち死にした。

高坂助宣は、一説に武田家四天王である春日虎綱(高坂弾正昌信)の一族と云われるが、虎綱の子息に助宣の名はなく、その詳細は不明である。あるいは、設楽原決戦では虎綱の嫡子・源五郎昌澄が留守居の父に代わって参戦、長篠城監視隊として寒狭川と設楽原の間にある篠場野に駐留していたが、その際に春日虎綱が継いだ香坂家の者として付き従っていた従者という可能性もある。ちなみに助宣の墓は、鳥居強右衛門の菩提寺である新昌寺にもあった。

これら二つの墓碑は、もとあった場所が時と共に風化忘却したため、平成9(1997)年に「設楽原をまもる会」が山縣が眠るこの場所に集めて再建したものらしい。

そして山縣をはじめとするこれらの墓碑は、徳川家康の本陣跡である弾正山とは連吾川を挟んだ場所にあった:

この墓所から連吾川を挟んだ向こう側に見える杜が弾正山である

墓所から眺めた家康本陣跡

死してなお徳川家康の本陣があった弾正山と対峙し続けている山縣三郎兵衛尉昌景と士卒たちであった

今なお山縣は徳川軍を睨め付けていた(拡大版)

このあとは、再び連吾川と並行して走る道に出て南へ進んだ。これは、その途中に眺めた竹広激戦地跡と家康本陣跡の弾正山:

往時、山縣昌景も竹広激戦地あたりから、連吾川の向こうに旗めく家康の馬印「厭離穢土欣求浄土」を見ていたに違いない

竹広激戦地跡と家康本陣跡(拡大版)

それから新城バイパスに沿って東へ移動した所には⑮首洗池なる碑が建つ貯水池があった:

設楽原の戦後に戦死者の首をあらったとされる池の地名が残っていた

「首洗池」の碑といろはかるた

これが首洗池ではなく、そのような池の名前が着いた地名であるとのこと

首洗池跡にある貯水池

なお当時は知らずに通過してしまったが、この池と道路を挟んだ反対側の丘の上には「岡部竹雲斎と岩手左馬之助胤秀の墓」なる墓碑があるのだそうだ。この記事を書いていて初めて知った。

そして貯水池前の道を今度は北へ向かって移動した。しばらく緩やかな坂を上って行くと、右手に土屋昌続の墓碑へ入る小道が見えた。
こちらが⑯土屋昌続の墓碑。脇には彼の首級を埋めて殉死した忠臣・温井左近昌国の墓碑もあった:

昌続は「奥近習六人」の一人として信玄の傍近くに仕えた勇士だった

土屋昌続の墓

昌続は主人である信玄が亡くなった際に殉死するつもりであったが、春日虎綱に諌められ、この戦場で討死を果たして報いた

「土屋右衛門尉昌次之碑」と「従士温井左近昌国之碑」(拡大版)

先ほど巡った⑪馬防柵の手前で土屋が銃弾に斃れると、従者の温井は敵に渡る前に主人の首級を討ち、戦線離脱してこの場所へたどり着いて首級を埋め、自分も割腹して殉死したと云う。

信玄の奥近習を務めていた土屋昌続は、主人が信濃国駒場で亡くなり甲斐府中へ無言の帰国をした後、荼毘に附すのに自らの屋敷を提供した。そして三回忌の追善法要が終わった後に、追腹を切って殉死するつもりで春日虎綱に介錯を願い出た際、虎綱から「どうせ死ぬなら戦場で死ね」と諌められ、この設楽原決戦で見事にそれに応えた。

土屋の墓碑は、山縣昌景と同様に、大正3(1914)年に長篠古戦場顕彰会が建立し、忠臣・温井の墓碑は平成11(1999)年に「設楽原をまもる会」が建立した。

このあとは二股を左手に進み、⑲武田勝頼才ノ神本陣地跡の脇を抜けて、五反田川沿いを北上したところにある⑰甲田(「こうでん」または「かぶとだ」)なる場所へ。
本当は⑱真田信綱・昌輝の墓碑へ向かっていたのだけれど、五反田川越しの対岸に石碑といろはかるたの説明板が見えたので、かなり強引に川を渡った。但し、戻りは川を渡るのが難しかったので、結局ぐるりと回って本の道へ戻ることになったけど:

この辺りの泥田から兜が見つかったことが、その名の由来だとか

甲田

ここは勝頼が信州へ向けて退却する際に甲斐武田家伝来の「諏訪法性の甲(すわほっしょうのかぶと)」を捨ててたと伝わる場所[u]あるいは、ここで息絶えた武田の将兵の甲冑が見つかったからと云う説も有り。で、実際に兜が見つかったことがその名の由来となっている。

再び五反田川を北上し、新東名高速道路の高架をくぐってから、しばらく歩いていると左手の丘の上に墓所らしきものが見えてきた:

五反田川沿いを北上し、新東名高速道路を越えて更に北上したところ

真田信綱・昌輝兄弟の墓碑がある丘

こちらが⑱真田信綱・昌輝の墓碑。そして真田兄弟と共に奮戦した御家来衆の禰津甚平是広と鎌原筑前守之綱、そして常田図書春清らの墓碑もあった:

他に禰津甚平是広と鎌原筑前守之綱、常田図書春清の墓碑が建っていた

真田兄弟の墓所

真田幸綱の長兄・信綱は騎馬200騎持の侍大将、次兄・昌輝は騎馬50騎持ちの侍大将であった

「真田源太左衛門尉信綱之碑」と「真田兵部丞昌輝之碑」(拡大版)

一枚の石碑に二人の名が彫られていたのは兄弟だからだろうか。墓碑の右に彫られている真田幸綱(幸隆)の長兄・源太左衛門信綱(げんたざえもん・のぶつな)は騎馬200騎持の侍大将で、設楽原決戦では馬場美濃守、土屋右衛門尉とともに右翼に構え、三尺三寸の陣太刀・青江貞[v]青江(あおえ)は備中の刀工集団で、古青江・中青江・末青江の三期に分類される。妙刀「にっかり青江」でも知られる。青江貞は古青江期の貞次の作。現在は真田宝物館所蔵。を振り回し、馬防柵を次々に薙ぎ倒しながら敵陣に迫るが、織田方の柴田権六勝家と羽柴筑前守秀吉らが擁する鉄砲隊の銃撃で討ち死にした。享年39。

兄と同じ墓碑の左に彫られている次兄・兵部丞昌輝(ひょうぶしょう・まさてる)は騎馬50騎持ちの侍大将で、設楽原決戦では兄・信綱と共に右翼に構え、西の連吾川、東の五反田川に挟まれた丘陵の丸山砦を奪い合う局地戦の中で奮戦するが、奮闘虚しく鉄砲の銃弾に斃れた。享年33。

実のところ、この年の前年に、真田幸綱の末弟でのちに家督を継いだ昌幸が、長野県上田市に建立した二人の兄の菩提寺である信綱寺を訪れた際、時間の都合で墓所の場所が分からずじまいで悲しい思いをしたが、今回ここで成就した次第。

二人の墓碑の下段には兄弟と共に奮戦し討ち死にした禰津甚平是広と常田図書春清、そして馬場美濃守の麾下で同じく討ち死にした鎌原筑前守之綱の墓があった:

禰津と常田は真田兄弟と共に奮戦し、鎌原は馬場美濃守と共に奮戦した

禰津是広と常田春清、鎌原之綱の墓

このあとは五反田川沿いに来た道を戻って東郷東小学校前の通りを西へ移動すると左手に比高10mほどの高台(信玄台地)が見えてくるが、ここが武田勝頼が長篠包囲網から設楽原へ進出して最初に本陣を置いた場所である:

左手の高台が才ノ神本陣跡

武田勝頼観戦地跡がある「信玄台地」

このまま左手に高台を見ながら道なりに進んで行くと左手に階段が見えてくる。そこを登って藪の中を進んでいくと右手に⑲五味貞氏の墓碑が見えた:

貞氏は越前の浪人で、往時は長篠城監視として中山砦にいたと云うのが通説

五味貞氏の墓所

中山砦も酒井忠次率いる別働隊の奇襲を受けて全滅、貞氏も討ち死にしたとのことで、ここに墓があるのは不自然である

「傳五味與惣兵衛貞氏之墓」(拡大版)

五味貞氏は越前国の浪人で、往時は同じ浪人ばかりを集め、那波無理之介(なわ・むりのすけ)率いる野州浪人衆の一人として長篠城を監視する中山砦に居たと云う。しかし酒井忠次・金森長近らの奇襲を受けて討ち死にしたというのが通説とのことで、武田の本陣近くに墓があるとのことが不自然であるとされている。他には奇襲攻撃を逃れて勝頼本陣に戻り、ここで織田・徳川連合軍の追撃戦に巻き込まれて討ち死にしたとか、討ち死にした貞氏の首級を塩瀬久兵衛なる村人がこの丘で供養したのではないかという推論もあるようだが、現在も不明である。

ここから少し進むと二股になっている道があり、向かって左手の山道を進むと一層、藪化が激しくなり、所々大きな倒木なんかがあったが、ちょっとだけ開けた場所に出た。この辺りが⑳武田勝頼・才ノ神本陣跡:

信長の設楽原着陣の知らせを受けて長篠城包囲から移動し、本陣を置いた

武田勝頼・才ノ神本陣跡

当時は気づかなかったが「武田勝頼観戦地」なる石碑があるようだ。現在は鬱蒼とした杜になっているが、それがなければ、のちに「信玄台地」と呼ばれたこの高台から連吾川の対岸に馬防柵を築いて布陣する織田・徳川連合軍を眺めることができそうではある。

往時、ここには勝頼の馬印である白黒一対の「大」文字旗と朱色に金泥で「南無諏訪南宮法性上下大明神」と大書された諏訪梵字旗、そして紺地に金泥で「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」と書かれた孫子の一枚旗が翻っていたのだろうか。

武田勝頼・才ノ神本陣地
愛知県新城市八束穂

 

馬場美濃守の墓碑と大通寺陣地跡

二日目の最終日は主に長篠城周辺を巡ってきたが、その前に殿軍を一手に引き受けた勇将・馬場信房の墓所と戦死の地を巡ってきた。最寄りのJR飯田線・大海駅から国道R257沿いを北上して徒歩40分くらい(オマケに長篠城跡とは反対方向)。

こちらが最終日の訪問ルート:

時間の都合で勝頼本陣の医王寺山の他、鳶ヶ巣山砦跡などを巡れなかった(残念)

最終日の長篠城跡周辺の訪問ルート(拡大版)

この馬場美濃守戦死の地から今度は国道R257を南下して新昌寺を訪問、そこから豊川を二回渡って長篠城跡へ。最後は決戦前夜に大通寺陣地で馬場を含め山縣、内藤、土屋らが泉の水を汲んで別れの「水盃」を交わしたとされる盃井戸を訪問し、今回の古戦場・城跡巡りを締めくくった:

(JR大海駅) → ①馬場信房の墓碑 → ②橋詰殿戦場 → ③馬場信房戦死の地 → ④松平伊忠戦死の地 → 鳥居強右衛門の墓碑 → ⑤小山田・横田・高坂・和気の墓所 → 鳥居強右衛門磔刑の場 → 長篠城跡 → ⑥馬場信房の墓碑 → ⑦大通寺・水盃の井 → (JR長篠城駅)

まず大海駅から新城総合公園を目指して北上し、その途中で二股に差しかかるので向かって左手の県道R21に入って道なりに進むと左手に①馬場信房の墓碑が見えてくる:

国道R257から県道R21に入ってしばらく歩くと見えてくる

県道R21沿い

こちらが馬場美濃守信房と馬場彦五郎勝行の墓碑:

いろはかるたに「平然と首を渡す」とあるが、戦死の地は更にこの先にある

馬場信房の墓

教来石景政として信虎の代に武田家に仕え、晴信麾下で武功あげると馬場氏の名跡を継いで馬場民部少輔と名乗った

「馬場美濃守信房之碑」(拡大版)

はじめ教来石景(きょうらいし・かげまさ)と名乗り、武田信虎・信玄の二代に仕え、晴信(信玄)麾下で幾つもの軍功をあげ、のちに清和源氏系の馬場氏の名跡を継いで馬場信房と名乗る。のちに四天王の一人と呼ばれる。軍師・山本勘助の教授で各地に城を普請し、のちに築城の名手とも云われた。その代表例は諏訪原城などで、他に駿河田中城などは甲州流築城術もって堅固に修復した例も多い。第四次川中島合戦の八幡原合戦では、勘助が献策した「啄木鳥作戦」を支持して、自ら別働隊を指揮した。隠居した原虎胤にあやかって美濃守の名乗りを許され、永禄11(1568)年の駿河侵攻、永禄12(1569)年の三増合戦、そして元亀3(1572)年の三方原合戦など信玄が発動した主要な軍事作戦には全て参加し、つど武功を挙げている。

この設楽原決戦では、織田・徳川連合軍を前に勝頼率いる甲軍の敗戦が確実となり、御一門衆の穴山信君が退路確保の任務を放棄して戦線を離脱すると、馬場美濃守は左翼の戦線から本陣へ戻り、自らが殿軍を務めると進言、放心状態となった勝頼は馬場美濃守と武田典厩信豊の部隊に守護されて退き陣に移ることになった。

馬場は、勝頼の「大」の字が書かれた馬印が鳳来寺方面へ退却していくのを見届けると、橋詰(はしつめ)で踏みとどまり、追撃戦に移ってきた織田勢を相手に朱色の鞦(しりがい)と白覆輪(しろふくりん)の黒鞍(くろぐら)を置いた月毛の馬にまたがり縦横無尽に暴れまくったと云う:

最期まで勝頼を守りぬき、鳳来寺へ退却する姿を見届けると縦横無尽に暴れまわった

馬場信房の最期の奮戦

馬場の墓碑の脇に眠る馬場彦五郎勝行は馬場美濃守の伯父とも、四男または五男とも伝わるが詳細は不明。

このあとは新城総合公園へ向かう県道21ではなく、豊川沿いを走る鳳来寺通りを北上する。しばらく進むと左手に、馬場が笠井満秀ら30騎と共に殿軍として最期まで踏ん張った②橋詰殿戦場の碑が見えてくる:

勝頼を甲州へ帰還させるため馬場美濃守と笠井満秀らが殿軍となって奮戦した

「橋詰殿戦場」の碑

最期の殿戦があった周囲は豊川が流れる深い渓谷であったようだ:

右手が鳳来寺通り、左手下が豊川、この渓谷の先が医王寺山本陣跡、天神山陣地跡、大通寺陣地、そして長篠城跡となる

橋詰殿戦場の周辺(拡大版)

また石碑の脇にあった案内板によると、地理的にはこの上の丘陵に馬場美濃守戦死の地があるようで、さらに鳳来寺(ほうらいじ)通りを北上したところに入り口があった:

橋詰殿戦場をさらに北上すると左手に登り口が見えてくる

鳳来寺通り

ここから緩い坂を登って、先ほどの橋詰殿戦場あたりまで戻ることになる

馬場美濃守戦死の地の入口

入口近辺は鬱蒼としていたが、ちゃんと整備された山道をしばらく上って行くと、右手に「緒巻桜 ふぢう道」という道標(みちしるべ)が見えてくる:

往時、敗走してきた武田勝頼も、この山道を下って帰国したとされる

馬場美濃守戦死の地へ向かう山道

この道標は対岸より設楽原決戦に赴く武田軍が通った山道であることを示すらしい

この石碑は、左手にある山道が豊川対岸より設楽原決戦に赴く武田軍が通った山道であることを示しており、さらに敗戦後の勝頼らはこの道を使って(手前方向にある)猿橋の渡しへ向かったとされる。

馬場は主人を見送った後、この辺りまで追撃してきた織田勢に斬りこんだと云う。この石碑の右手の斜面上に③馬場信房戦死の地があった:

馬場は追撃してきた織田勢を引きつけ、ここで獅子奮迅に斬りまくった

馬場信房戦死の地

しばらく暴れまわった馬場は「我こそは馬場美濃なるぞ。討ち取って功にせい!」と叫んで自らの首を与えたという

「馬場美濃守討死之地」の碑(拡大版)

散々に暴れまわった馬場は「我こそは馬場美濃なるぞ。おのおの討ち獲って功にせい。」を叫ぶと、刀を放り出して仁王立ちになり、槍が突き立てられても顔色一つ変えずに、この緒巻桜(おまきさくら)の下に胡座をかいて「いざ介錯せい」と云い放ち、塙直政(原田直政)が配下・河井三十郎に首を差し出した。享年61。

これを信長公記では「馬場美濃守手前の働き、比類なし。」(馬場美濃守の討ち死に直前の活躍は比類のないものだった。)と評している。また緒巻桜は、現在は枯れており古株だけが残っていた。

こちらは橋詰殿戦場に建っていた注意書き:

橋詰殿戦場跡に建つ注意書き

このあとは新昌寺・鳥居強右衛門磔刑の場、そして長篠城跡を巡るため国道R257を南下した。本当は大海駅まで戻ってJR飯田線で移動しようかと思ったが、まったく時間が合わなかったので、徒歩で鳥居駅、長篠城駅へ向かうことにした。距離は遠かったが予定していなかった墓碑や風景を見ることができたので良かったと思っている。

その一つが④松平伊忠(まつだいら・これただ)戦死の地。新城バイパスこと国道R151手前あたり:

酒井別働隊の一翼を担っていた松平伊忠は武田の猛反撃を受けて討ち死にした

松平伊忠戦死の墓碑

酒井忠次率いる別働隊に属して鳶ヶ巣山砦を落とした勢いで長篠城を抜けて深追いした際に武田の猛反撃を受けた

「松平伊忠戦死之地」の碑(拡大版)

松平伊忠は家康初期の功臣としての働きはめざましく、三河一向一揆、駿河侵攻、姉川合戦、三方原合戦など主要な合戦に参戦した。設楽原合戦では、酒井忠次・金森長近率いる別働隊に所属して、鳶ヶ巣山砦を急襲し武田信実を討ち取ると云う功をあげたが、さらに余勢をかって長篠城を包囲する敵も追撃した際に、深追いしすぎて、武田の小山田昌行勢から猛反撃を受けて討ち死にした。享年39。織田・徳川連合軍の中で侍大将クラス[w]伊忠(これただ)は城持ちでもあった。の死者は伊忠一人だけである。

そして、この辺りから豊川越しに、武田勝頼が長篠城包囲戦で本陣を置いた医王寺山や真田兄弟の陣地である天神山を臨むことができた:

ちょっと低い丘からの眺めなのでわかりづらいが、この先にある豊川の越えたところにある

医王寺・天神山方面の眺め(拡大版)

それから新東名をくぐって450年以上の歴史を持つ曹洞宗・新昌寺へ。ここは鳥居強右衛門の墓と、彼の磔刑の場が近くにあるが、その他に武田勢で長篠城監視隊であった⑤小山田・横田・高坂・和気らの墓碑もあった。これらは新東名高速道路開通に伴い、それまでの場所から新昌寺へ移設されてきたものらしい:

曹洞宗の寺院で山号は興国山である

新昌寺の山門

左から伝小山田五郎兵衛昌晟の墓、横田十郎兵衛康景の碑、伝高坂又八郎助宣の墓、和気善兵衛宗勝の墓である

武田の長篠城監視隊の小山田・横田・高坂・和気らの墓所

小山田五郎兵衛昌晟(おやまだ・ごろうべえ・まさなり)は高坂又八郎助宣とともに寒狭川と設楽原の間にある篠場野に駐留していたが、酒井忠次率いる別働隊が宇連川越しの砦を攻撃した後に余勢をかって篠場野まで進撃してきた際に討ち死にしたと伝わる。

横田十郎兵衛康景(よこた・じゅうろうべえ・やすかげ)は横田備中守綱松(よこた・びっちゅうのかみ・つなとし)とも。前日に訪れた内藤修理亮の墓所脇にあった人物と同じであるが、合わせて二箇所に墓が存在し、なぜここにその一つがあるか子細は不明。一説に康景の子息であったのではないかというものがある。

高坂又八郎助宣(こうさか・またはちろう・すけのぶ)の墓も、同じように山縣昌景の墓所脇にあった。なぜ二つ存在するのかは不明である。

和気善兵衛宗勝(わけ・ぜんべえ・むねかつ)は久間山砦を守備中に酒井忠次率いる別働隊の強襲を受けて、ここ篠場野まで逃れてきたところで討ち死にした。和気は元・今川家の家臣で、信玄の駿河侵攻で降伏し、駿河先方衆として参戦していた。

それから長篠城跡などを巡ったあとに弾正郭跡を越えて豊川沿いに西へ移動すると、馬場美濃守信房の墓なる案内板が見えてくる:

この先は舗装されていないが、そのまま住宅街の私道の中を歩いて西へ向かう

「馬場美濃守信房の墓」の案内板

こちらが住宅街の中に残る⑥馬場信房の墓:

ここは橋詰殿戦場で討たれた首級を埋めた場所とされている

馬場美濃守信房の墓

ここには石碑と自然石の碑の二つあり、殿戦忠死の碑は明治24(1891)年の建立だが、右手の自然石の方は風化して読めなかった

「馬場信房殿戦忠死」の碑(拡大場)

ここは橋詰殿戦場で討たれた首級を埋めた場所とされており、「馬場信春殿戦忠死」なる石碑と風化して全く読めない自然石の碑が建っていた。前者は明治24(1891)年の建立で、建立前は墓石の下から骨が見つかり、しばらくは見物することが出来たようだが、有識者から「名将の遺骨を見世物にするとは何事か!」とお叱りを受けたため、遺骨を瓶に納めて埋葬したのが向かって左手の石碑建立のきっかけだったと云う。

このあとは伊那街道こと国道R151に沿って東へ移動し大通寺へ。長篠城包囲戦では馬場信房・武田信豊・小山田昌行らがここ大通寺に陣を置いていた:

主君・勝頼が本陣を置いた医王寺山の南にあり、馬場信房が陣をおき、長篠城を見下ろすことが可能な立地であった

達磨山・大通寺(拡大版)

達磨山・大通寺は応永18(1411)年の創立と伝えられるが、この設楽原決戦で焼失し、のちに琴室契音大和尚が曹洞宗に改宗して地蔵大菩薩を本尊として草創開山したと伝えられている。

この境内には水の絶えることのない泉があり、現在は⑦水盃の井と呼ばれている:

右手には長篠城址の本丸土塁の上にあった城藪稲荷様が移転していた

境内裏へ進む道

武田家を支えてきた勇将らが最後に水盃を交わしたと云われる

水盃の井の説明板

その由緒は、設楽原決戦前夜の軍議で進言した決戦回避の撤退策が退けられた武田家重臣の馬場美濃守、山縣三郎兵衛尉、内藤修理亮、土屋右衛門尉らは落胆し、泉の前に集合して明日の決戦では一命と賭して戦うだけであると覚悟を決め、水を交わし合って決別の盃としたことからきている。

こちらが大通禅寺盃井。現在も満々と水を湛えていた:

設楽原の戦いへ行く前日に馬場、山縣、内藤、土屋の四将は討死を覚悟して、大通寺にあるこの泉で別れの水盃を交わした

「大通禅寺盃井」の碑と泉(拡大版)

井戸の脇には歌碑があった:

今生の別れを水盃で交わした四将らは「二口とのまずにむせたと云う

盃井歌碑

この盃井戸で、今生の別れを水盃で交わした四将らは「二口と呑まずにむせた」と云う:

皆、機山公信玄に取り立てられ、数えきれないくらい戦場を疾駆してきたが、幸い今日まで命を永らえることができた。しかし明日の一戦が最期になるであろう。そして、お互いに旧友であったことに謝し、明日の奮闘を誓い、泉の水を馬柄杓(まびしゃく)で汲み寄せ、腰に挟んだ水呑でこれを飲んだ。

そして、この井戸の上が⑧大通寺陣地跡である:

長篠城包囲時に、場美濃守らが陣を置いた大通寺陣地は墓地に上にある

大通寺陣地跡入口

武田典厩信豊、馬場美濃守信房、小山田備中守昌行らが長篠城包囲の際に陣を置いたとされる

大通寺陣地跡(拡大版)

長篠城包囲戦では、ここ大通寺に武田典厩信豊と馬場美濃守信房、小山田備中守昌行らが陣を置いた。そして、この山の北にある医王寺山には武田勝頼が本陣を置いた。さらに医王寺山の南の尾根筋にあたる天神山には一条右衛門大夫信龍、真田源太左衛門信綱、真田兵部丞昌輝、土屋右衛門尉昌続が陣を置いたと云う。

今回は残念ながら医王寺山本陣跡や天神山陣地跡、そして鳶ヶ巣山など長篠城監視隊が駐屯した各砦跡まで訪問することが出来なかったが、機会があれば訪れたい。

達磨山・大通寺
愛知県新城市長篠市場51

 

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【参考情報】

参照   [ + ]

a. この日付は旧暦。新暦(太陽暦)で換算すると6月24日(水曜日)にあたる。
b. この山からは長篠城を一望できる。麓に医王寺があり、伝説の「片葉の葦」が茂る弥陀の池がある。
c. 豊川は長篠城南端にある渡合(どあい)で分岐し、それぞれ北西から流れてくる川を寒狭川、北東から流れてくる川を宇連川(うれかわ)と呼ぶ。現在は寒狭川のことも豊川と呼んでいる。
d. 別名は有海原(あるみはら)。
e. 日本では一里は約3.9㎞なので、岡崎城と設楽原の間は約39㎞。
f. レンタルサイクルなどが利用できれば、かなり楽なんだけど、当時は残念ながら無かった。
g. 季節柄で渓谷を散策するトレッカーが非常に多く、加えて車両は2両しかなかった。
h. 予定ではJR飯田線を利用するつもりだったけど、何せ本数が少ないので時間が合わなかったと云う次第。
i. ちなみに、この二日間の歩数は6万歩、歩いた距離は45㎞だった。
j. これを紙に印刷したものを長篠城址保存館で入手できる。
k. 改めて書いていて思ったのだが、このルートであれば最寄り駅は茶臼山駅ではなく、その一つ手前の東新町駅の方が近かったかなぁと思ったり 😐 。
l. 平成30(2018)年現在、この案内板は無いらしい。
m. これは禅海寺の墓地へ向かう階段で、茶臼山公園へ登る階段ではないので注意のこと。ちなみに墓地から茶臼山を背にした眺めもよかった。
n. おそらく本陣地跡を綺麗に整備するための工事のようだったが、この日は休工日で誰もいなかったので、少々無理しながら進んだ。
o. 旧暦表記。かなり私感が入っている上に割愛・省略もある。まぁ年表のイベントも参照した史料によって日付がまちまちと云った不確かさもあるが。
p. 史書によっては「昌次」と記しているものがあるが、現在は「昌続」が通説になっている。
q. 土屋右衛門尉、三枝勘解由、曽根内匠、武藤喜兵衛(真田昌幸)、甘利左衛門尉、長坂源五郎の六人で、今で云う将来の幹部候補生にあたる。
r. ということは、今まで見てきたものは展示用の簡易版なのだろうか。
s. さらに、この時点では真田安房守昌幸ではなく武藤喜兵衛である。
t. 一説に平家一門の家宝と伝えられる短刀。竹広村の元庄屋・峰田家の家宝となっていたが、太平洋戦争後に進駐軍の刀狩で没収となり行方は不明である。
u. あるいは、ここで息絶えた武田の将兵の甲冑が見つかったからと云う説も有り。
v. 青江(あおえ)は備中の刀工集団で、古青江・中青江・末青江の三期に分類される。妙刀「にっかり青江」でも知られる。青江貞は古青江期の貞次の作。現在は真田宝物館所蔵。
w. 伊忠(これただ)は城持ちでもあった。

1 Comment

  1. こうやって整理しながらまとめてみると、まだまだ訪問していない場所や見ていない史跡が多いことに驚いた。初めての場所で時間がなかったから仕方が無いが、当時は知識が足りなかったことも少なからず。新城市はまた巡りたい。でも眞田信綱・昌輝兄弟の墓碑を訪問できてよかった。実は今週末に再び眞田の郷を攻める予定だけど 😀

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