武田と徳川の激しい争奪戦の舞台になった長篠城は二つの川が合流する断崖に築かれていた

元亀3(1572)年、反織田信長を糾合して挙兵した足利幕府第15代将軍・足利義秋[a]「義昭」とも。父は室町幕府第12代将軍・足利義晴、兄は同第13代将軍・足利義輝である。奈良興福寺で仏門に仕えていたが、兄が三好長慶と松永久秀に暗殺されると還俗(げんぞく)し、細川藤孝らの助けで諸国流浪となった。足利幕府最後の将軍。の呼び掛けに応えるかのように満を持して西上作戦を発動した武田信玄は、信長の盟友・徳川家康が支配する三河国へ侵攻、三方ヶ原の戦いではその戦上手な軍略をもって徳川勢を痛破し、東三河の要衝・野田城を落城させたものの、自らの持病[b]肺結核、胃癌、はたまた野田城攻めの最中に狙撃されたなどの諸説あり。が悪化したことで、馬場・内藤・山縣ら古参の重臣らは涙をのんで作戦の中止と甲府への撤退を決断、しかし無念にもその帰路の信濃国駒場で急死した。享年53。この時、生前の信玄が療養のため滞在していた長篠城が現在の愛知県は新城市(しんしろし)長篠字市場にあり、城の一部が国指定史跡になっている。往時、この城は豊川と宇連川(うれかわ)という二つの川の合流点[c]これを渡合(どあい)と呼ぶ。この渡合より北側の豊川を寒狭川(かんさがわ)と呼び、同様に渡合より北にある宇連川を三輪川と呼ぶ。にある断崖上に築かれていた平城であった。もともとは奥三河の土豪・菅沼元成(すがぬま・もとなり)が築城、その子孫の居城となっていたが信玄の三河侵攻で降伏していた。そして信玄死去後に巻き返しを図った家康により城主・奥平貞昌が寝返って徳川方に入った。一方、父の遺言「自身の死を三年の間は秘匿し、侵略戦は控えよ」に従っていた武田勝頼は三河・遠江を取り戻すため、機山公[d]武田信玄の戒名である法性院機山信玄(ほっしょういん・きざん・しんげん)から。の喪が明けぬ天正3(1575)年春に1万5千の兵で長篠城を包囲した。

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参照   [ + ]

a. 「義昭」とも。父は室町幕府第12代将軍・足利義晴、兄は同第13代将軍・足利義輝である。奈良興福寺で仏門に仕えていたが、兄が三好長慶と松永久秀に暗殺されると還俗(げんぞく)し、細川藤孝らの助けで諸国流浪となった。足利幕府最後の将軍。
b. 肺結核、胃癌、はたまた野田城攻めの最中に狙撃されたなどの諸説あり。
c. これを渡合(どあい)と呼ぶ。この渡合より北側の豊川を寒狭川(かんさがわ)と呼び、同様に渡合より北にある宇連川を三輪川と呼ぶ。
d. 武田信玄の戒名である法性院機山信玄(ほっしょういん・きざん・しんげん)から。