元亀3(1572)年、反織田信長を糾合して挙兵した足利幕府第15代将軍・足利義秋[a]「義昭」とも。父は室町幕府第12代将軍・足利義晴、兄は同第13代将軍・足利義輝である。奈良興福寺で仏門に仕えていたが、兄が三好長慶と松永久秀に暗殺されると還俗《ゲンゾク》し、細川藤孝らの助けで諸国流浪となった。足利幕府最後の将軍。の呼び掛けに応えるかのように満を持して西上作戦を発動した武田信玄は、信長の盟友・徳川家康が支配する三河国へ侵攻、三方ヶ原の戦いではその戦上手な軍略をもって徳川勢を痛破し、東三河の要衝・野田城を落城させたものの、自らの持病[b]肺結核、胃癌、はたまた野田城攻めの最中に狙撃されたなどの諸説あり。が悪化したことで、馬場・内藤・山縣ら古参の重臣らは涙をのんで作戦の中止と甲府への撤退を決断、しかし無念にもその帰路の信濃国駒場で急死した。享年53。この時、生前の信玄が療養のため滞在していた長篠城が現在の愛知県は新城《シンシロ》市長篠字市場にあり、城の一部が国指定史跡になっている。往時、この城は豊川と宇連川《ウレカワ》という二つの川の合流点[c]これを渡合《ドアイ》と呼ぶ。この渡合より北側の豊川を寒狭川《カンサガワ》と呼び、同様に渡合より北にある宇連川を三輪川と呼ぶ。にある断崖上に築かれていた平城であった。もともとは奥三河の土豪・菅沼元成《スガヌマ・モトナリ》が築城、その子孫の居城となっていたが信玄の三河侵攻で降伏していた。そして信玄死去後に巻き返しを図った家康により城主・奥平貞昌が寝返って徳川方に入った。一方、父の遺言「自身の死を三年の間は秘匿し、侵略戦は控えよ」に従っていた武田勝頼は三河・遠江を取り戻すため、機山公[d]武田信玄の戒名である法性院機山信玄《ホッショウイン・キザン・シンゲン》から。の喪が明けぬ天正3(1575)年春に1万5千の兵で長篠城を包囲した。
今となっては、一昨々年《サキオトトシ》は平成27(2015)年11月の連休を利用して、愛知県は新城市にある長篠城跡の他、設楽原《シタラガハラ》[e]別名は有海原《アルミハラ》。古戦場巡りとして織田・徳川軍の陣地跡や武田軍の勇士らの墓所、そしてこの戦いに関する貴重な史料を観賞できる設楽原歴史資料館[f]資料館の近くには設楽原の戦で一躍有名になった馬防柵を復元した『設楽原決戦場』なる場所がある。を訪問してきた。
まず初日に設楽原古戦場跡と資料館を終日巡り、最終日には馬場美濃守信房戦死の地や長篠城跡などを巡ってきた。今回は宿泊先が豊橋だったので、結局はJR飯田線に二回数乗ることになったけど。
で、こちらが最終日の訪問ルート(本訪問記では番号がついた史跡について紹介する):
(豊橋駅) → (大海駅) → 馬場美濃守信房戦死の地 → ①新昌寺 → ①鳥居強右衛門磔刑場所 → ②牛渕橋から長篠城跡の遠景 → ③長篠城跡(長篠城址史跡保存館) → 馬場美濃守信房の墓所 → 大通寺陣地跡と武田四将水杯の井 → (長篠城駅) → (豊橋駅)
この日は長篠城跡の他に、前日の合戦場巡りでは周れなかった馬場美濃守戦死の地、この戦いで一番の功労者でもある鳥居強右衛門《トリイ・スネエモン》が眠る新昌寺、そして強右衛門が磔になった場所、さらに豊川と宇連川の合流地点に架かる牛渕橋から長篠城跡の眺望など、前日に負けず劣らず見どころが多くなってしまった。ただ、それぞれの場所が微妙な距離で散在していたため、足代わりに利用する予定だったJR飯田線を時刻表どおりにはスムースに利用できなかったので、結局は行きの豊橋駅から大海《オオウミ》駅の間と、帰りの長篠城駅から豊橋駅まで以外は全て徒歩による移動になってしまったが 。
特にJR大海駅から馬場信房戦死の地まで徒歩40分、そこから国道R257を南下して新東名高速道路を越え、新昌寺から東へ進んで宇連川を渡り、川沿いの県道R69を延々と歩いて橋を渡り、JR長篠城駅を経由する形でぐるりと回ることになったルートは100分くらいかかったと記憶している 。
なお、馬場美濃守に関連する場所として「戦死の地」と「墓所」の二箇所あるが、これらは別々の場所であり、それぞれ訪問してきた。
こちらはGoogle Earth 3Dを利用して、今回攻めた長篠城の縄張りとその周辺の位置関係をそれぞれ重畳表示したもの:
上側を北方面として、往時の長篠城は寒狭川(豊川)と三輪川(宇連川)とが合流する渡合を頂点とした扇状の河岸段丘上に築かれていることから、城の南端は急崖になっていたであろうことが見てとれる:
今回は時間の都合で、長篠城包囲戦で勝頼が本陣としていた医王寺陣地跡や天神山陣地、設楽原での開戦の火蓋となった鳶ヶ巣山砦《トビガスヤマ・トリデ》跡を巡ることはできなかったが、いつか実現したい。
こちらはJR飯田線・長篠城駅前に建っていた「長篠城址付近略図」:
鳥居強右衛門磔刑場所と新昌寺
長篠城跡と豊川を挟んだ対岸には、包囲する武田軍の警戒網を突破して36km以上離れた岡崎城の家康に火急の旨を伝え、さらに城中へ援軍がくることを知らせようと再び戻ってきた際、武田軍に捕縛された奥平貞昌の家臣・鳥居強右衛門が城に向かって磔にされた場所がある[g]なお城主・奥平貞昌の命をうけて城を抜け出したのは強右衛門の他に鈴木金七郎がいる。。
まずはJR飯田線・鳥居駅から徒歩3分ほどのところにある新昌寺へ。ここには鳥居強右衛門の墓碑が置かれている。ちなみに鳥居家の菩提寺は同じ新城市の甘泉寺になったため遺骨などは納められていないようだ:
こちらが境内にある墓碑。すぐ後ろは新東名高速道路:
強右衛門の墓碑の前は塚だったそうで、これは塚近くに植えられた公孫樹(二代目):
次は強右衛門が磔にされた場所へ。ここ新昌寺を出て県道R439沿いを豊川方面へ向かって歩いて行き、新東名高速道路の高架をくぐってすぐ左手にある脇道に入ると、遠くに説明板らしきものが見えてくる:
この説明板に向かって右手に建っているのが「鳥居強右衛門磔死之趾」の碑:
有海《アルミ》の篠場野《シノバノ》で武田軍に捕縛された強右衛門は、武田軍から「援軍は来ないと云えば助ける」と云われ、本丸が見渡せたこの場所に連れて来られ磔にされた。強右衛門は意を決して「あと二、三日で数万の援軍がやってくる。それまで持ちこたえよ。」と大声で叫び、命がけで味方を鼓舞したと云う。強右衛門はその場で突き殺されてしまったが、設楽原で織田・徳川連合軍が武田軍を凌駕し、長篠城から討って出るまでの間、兵糧が尽きかけていても城中の士気は高かったと云う。
強右衛門の辞世の句:
我が君の命にかわる玉の緒を何に厭ひけん武士の道
この石碑の裏から長篠城跡を眺めようとしたが、杜が鬱蒼として豊川さえも見えなかった:
鳥居強右衛門磔死の場から再び県道R439へ戻り、JR飯田線を横断して牛渕橋《ウシブチバシ》を渡って県道R69へ入り、宇連川を迂回するように対岸のJR長篠城駅へ向かった:
新昌寺・鳥居強右衛門磔の場
愛知県新城市有海篠原21-50
長篠城跡遠景
この牛渕橋の上から眺めた豊川(寒狭川)と宇連川(三輪川)が合流する渡合《ドアイ》上の断崖に遺る城跡が、最も良い撮影アングルである[h]と個人的に思うところ。但し当然ながら、往時は鉄橋は存在していないが。:
渡合から深い淵(牛渕)となり、牛渕に続いて長走の瀬があるが、ここに仕掛けられていた鳴子《ナルコ》網は川の中にも敷設されていたと云う。その網を掻い潜って対岸へ渡り、武田軍の監視を逃れた後、さらに36km以上離れた岡崎城まで徒歩でたどり着いた鳥居強右衛門と鈴木金七郎は凄いとしか言いようがない :
牛渕橋を渡って県道R69沿いを北上していく途中、長篠城・設楽原の戦いのもう一つの「舞台」となった鳶ヶ巣山砦へ向かう案内図を見かけた。今回は時間的に余裕がなかったので、またの機会に訪れたい:
こちらは県道から対岸の長篠城駅へ向かう途中、宇連川に架かる橋の上からの眺め:
橋を渡ってから再びJR飯田線を横断し城址へ向かう途中に長篠城駅(現在は無人駅)に立ち寄った:
さらに、この駅前には伝説として残されていた「さかさ桑」なる植木があった:
この土地に語り継がれた『鳳来の伝説』によると、設楽原の戦いで大敗した武田勝頼は命からがら寒狭川に沿って北上し、やっとのことで現在の布里小松《フリ・コマツ》まで敗走し、この部落の農家の軒先で食事を摂ったと云う。その際に、桑の枝を折って箸にして使い、使い終わった桑の箸を目の前の畑に刺して再び北へ落ち延びていった。この畑に突き刺した桑の箸は逆さに芽を出して成長したと云う。のちに、これは勝頼の恨み姿か、あるいは再起を示す執念の現れかと近郷近在の話題となったのだそうだ。
ちなみに、これと同じような伝説を持つもう一つの「さかさ桑」が長篠城跡にもあった。
牛渕橋
愛知県新城市乗本舟津
長篠城跡
これは「長篠城縄張概図」(下が北方面)。本丸は二つの川向かいの篠場野や乗本(のりもと)よりも低い位置にあったため、対岸から見下されて郭内が丸見えだったのが弱点だった:
この縄張図では伊那街道こと県道R151が通る左下あたりが長篠城駅で、駅前の道路を城址へ向かって行くと搦手門跡が見えてくる:
搦手門跡を過ぎると二股の道にぶつかるが、太い道を進んでいくと左手の細い道との間に瓢郭《フクベ・クルワ》跡の碑が見えてくる:
そして城址手前あたりが巴城郭《ハジョウ・クルワ》跡。ちなみに、左手奥に見える杜が大通寺:
この巴城郭跡の西側が二の丸跡で、この辺りが蔵屋敷・糧庫跡。そして、この裏は家老屋敷跡:
ここは日置流雪荷《ヘキリュウ・セッカ》派の弓の名人と謳われた江戸時代の弓道家・林藤太夫高英《ハヤシ・フジダユウ・タカヒデ》の屋敷があったとされる場所。この流派は室町時代から続いているらしく、彼の先祖は代々、徳川氏に仕えており、長篠城包囲戦では鳶ヶ巣山砦で武田軍と戦い討ち死にした者もいるのだとか。
そして長篠城址史跡保存館の前を通りすぎて、矢沢なる小さな川を渡ると、左手に弾正郭跡が見えてくるが、道沿いの右手には「鳥居強右衛門、呼掛けの場所」なる立て札が建っていた場所があった:
そして、その隣にあるのが二の丸・家老屋敷跡:
これらと道路を挟んで反対側の城跡の中にあるのが弾正郭跡。この郭は本丸北側[i]現在は民家。に位置し、往時は堀で囲まれていたが石垣は無かった。従って堀跡は往時からのもので、石垣は後世の造物のようだ:
なぜ「弾正」の名を冠しているのかははっきりとせず、設楽原の戦を終えて長篠城に帰還した際に、織田弾正忠信長が入城した郭だった可能性があるとのこと[j]これは、すなわち籠城時には存在していなかった郭と云うことになる。。
ここから城址へ戻って入口脇にあった「さかさ桑」。こちらは、往時の桑の木が枯れてしまったので二代目にあたる:
再び縄張図。こちらは長篠城址史跡保存館蔵の古文書に描かれた長篠城包囲戦時のもの。本丸には奥平久八郎信昌の軍旗が立ち、周囲には武田軍の布陣が記載されれている:
現代では内堀と帯郭の間に馬出があったことが確認されているが、これは武田家の城だった頃に築かれたとされる三日月形をした丸馬出だったのだとか。しかしながら、上の縄張図には記載されていない。
こちらが本丸土塁と内堀にそって設けられていた帯郭跡:
正面に見える本丸の内堀と土塁は天正3(1575)年の長篠城包囲時のもので、往時は水堀だった。
このまま右手へ進むと内堀に架かった土橋跡がある。これが土橋の上から見た本丸の内堀と土塁:
長篠城の南側は断崖のため、この本丸土塁からわかるように、主に本丸は北からの攻撃に対する守備を重視していたようである:
なぜか本丸跡には長篠城址の石碑が至るところ建っていた:
本丸土塁の上。この先は鈎型に折れ、その先の土塁の端には以前まで稲荷神社が建っていたようだ:
本丸土塁上から見下ろした内堀跡:
二の丸跡のJR飯田線近くから内堀と土塁を眺めると、しっかりと横矢が掛けられているのがわかる:
本丸跡。これは本丸内部から北西側の眺めで、東西60m、南北90mほどの規模で平坦に近い郭だった:
天正3(1575)年5月初旬、勝頼が率いる武田軍1万5千は長篠城を包囲、対して鉄砲2百丁を擁して籠城した奥平貞昌ら城方は5百の寡兵であった。天然の要害ともあって、武田軍は初めは攻めあぐねていたが瓢郭《フクベ・クルワ》、巴城郭《ハジョウ・クルワ》、そして弾正郭《ダンジョウ・クルワ》を落とし、残るは二の丸と本丸のみまでになっていた。さらに本丸内の兵糧庫が焼失し、籠城方は数日以内に落城必至の状態にまで追い詰めらていた。
そこで貞昌は重臣らと相談し、家臣の鳥居強右衛門と鈴木金七郎を警戒中の城から脱出させ、36km離れた岡崎城にいる家康へ援軍要請に向かわせることに決した。
こちらは本丸跡に建つ「長篠城本丸跡」の標柱と、長篠城・設楽原の戦いで散った両軍の将士を祀る「長篠合戦陣没両軍将士諸精霊位供養塔」:
本丸跡から先ほどの(北東側の)土塁を眺めたところ。基底部の幅は約15m、堀底からの高さは約10m。この他に北西側にも同サイズの土塁があったと推測されている:
本丸西側にある不忍の滝《シノバズノタキ》。現在は滝の形態を様しているが、往時は寒狭川(豊川)に流れこむ際に侵食された深い谷が天然の沢の役目を果たしていたのだとか:
本丸南西側には、鳥居強右衛門磔の場が見えたであろう場所に説明板が建っていたが、藪化が激しいため豊川を含めて、対岸に置かれた石碑は拝めなかった。ちなみに救援を依頼するために強右衛門と鈴木金七郎が城を脱出して川に降りたのも、この辺りからだそうである:
さらに本丸南東側へ回ってみると、往時、野牛郭と三輪川を隔てた対岸から長篠城を包囲していた武田軍の砦の説明板があった。当時は、かろうじて対岸を走る県道R69と鳶ヶ巣山を拝むことができた:
天正3(1575)年5月中旬の長雨の頃、織田・徳川の軍勢が設楽原に着陣したとの知らせにより、医王寺山本陣にて勝頼は軍議を開き、馬場美濃、内藤修理亮、山縣三郎兵衛ら古参の重臣らが進言した撤退策を下げ、独断で信長との決戦を決めた。
攻城戦で残る郭が二の丸と本丸だけになっていたにも関わらず、勝頼は長篠城包囲軍として3千を残したまま、1万2千を主力として寒狭川(豊川)を渡河し、織田・徳川勢3万8千と対峙すべく設楽原に布陣する作戦に出たのである。
このとき包囲軍として残されたのは、伊那街道からの退路を守備するため医王寺山、大通寺山、天神山に高坂昌澄[k]武田四天王の一人、春日虎綱(高坂弾正昌信)の嫡男。海津城にて越後国・上杉謙信の抑えのため、長篠城・設楽原の戦には出陣できない父の代理として出陣した。酒井忠次の別働隊に急襲で討ち死にした。、小山田昌行、室賀信俊ら1千5百、三輪川(宇連川)を挟んだ対岸の鳶ヶ巣山砦に武田兵庫介信実[l]河窪信実《カワクボ・ノブザネ》とも。機山公信玄の異母兄弟で、勝頼の叔父。と小宮山隼人介信近らの5百、姥ヶ懐《ウバガフトコロ》砦に三枝昌貞(守友)ら三枝三兄弟の3百、君ヶ臥床《キミガフシド》砦に和田業繁ら3百、久間山《ヒサマヤマ》砦に上州先方衆[m]信玄が上州箕輪城を攻めた際に猛将・長野業政麾下の家来衆でのちに武田に降伏した倉賀野氏など。2百余、中山砦に那波無理之介《ナワ・ムリノスケ》率いる野州浪人衆2百余の、つごう3千である。
特に砦を守備する五つ部隊は、個々に守備していたため、織田・徳川勢が放った酒井忠次が率いる別働隊3千の奇襲を受けた際、砦ごとに分断された戦力で防戦するしかなかった。特に鳶ヶ巣山砦を守備していた信実ら5百はかなり劣勢であったが、それでも4度も押し返したと云う。この時の攻撃が、遠く設楽原で対峙していた織田・徳川勢と武田勢との開戦の火蓋を切る合図となった。そして、次第に数で劣勢となった信実と信近は討ち取られ、他の砦も多くが討ち死にし、全ての砦が追い落とされた。
これにより、設楽原に布陣した勝頼ら主力の1万2千は前後で挟撃されるという最悪の戦況となった。
こちらは長篠城南端にある野牛郭《ヤギュウ・クルワ》跡。現在はJR飯田線が横断している:
野牛郭跡へ降りるには二の丸跡から線路を横断する必要があるので、まず先に帯郭跡にある保存館を観賞することにした。
ちなみに、こちらは伊那街道(国道R151)沿いに建っていた「長篠の戦い/長篠城址史蹟保存館入口」の巨大な案内板。『命にかえて使命をはたす』、鳥居強右衛門の最後!なんてメッセージと、強烈な印象を与えるロゴ[n]本当は上下逆である。が描かれているが、このロゴは後に敵方でありながら彼の忠義と勇気を称えた武田の将・落合左平治なるものが旗指物として採用していた絵柄らしい:
そして、こちらが長篠城址史跡保存館[o]観覧料は大人210円(当時)。但し、設楽原歴史資料館との共通観覧料だと大人400円(当時)で、別々に観覧料を支払う場合よりも110円安かった。自分は前日に設楽原歴史資料館を観覧した。。後年の調査では、内堀との間に甲州流築城術の丸馬出があったことが確認されている:
ここの史料はかなり充実しており、武田信玄の版図、長篠の籠城、鳥居強右衛門の勇気、設楽原の決戦と鉄砲、戦いとその後、といったコーナーが設けられ、設楽原の戦いにまつわる資料などが展示されていた。
入口と鳥居強右衛門磔刑図のレリーフ:
館内は一部(個人所有のもの)を除いて写真撮影はOKであったが、念の為、管理人に確認したほうが良い:
展示品のうち、これは「武田信玄公遺言状(写し)」。実物は馬場美濃守の子孫が所蔵しているのだとか:
武田家の家督は勝頼の嫡男である信勝に譲る[p]勝頼は諏訪四郎勝頼ということで諏訪家の当主であり、武田家の当主ではない。、信勝が元服するまで勝頼が陣代として武田家を取り纏めること、勝頼は「孫子の旗」(風林火山の軍旗)は使ってはならないなどが記されている。
この遺言状の最後には、譜代の家臣らの血判が付けられているが、勝頼の血判は無い:
小一時間ほど保存館の史料を見て回ったが、武田と徳川双方の長篠城や設楽原の戦以外のものも多くあって、飽きることはなかった。
保存館を出たあとは、駐車場がある二の丸跡を経由して野牛郭跡と城址の南端にあたる渡合を見てきた。
こちらはJR飯田線によって一部が破壊されてしまった[q]正確にはJR(国鉄)ではなく、明治時代に敷かれた鳳来寺鉄道によるもの。本丸土塁(と内堀)。ちょうどこの場所に踏切があって、二の丸跡(右手)から野牛郭跡(左手)へ向かうことができる:
踏切を渡ってJR飯田線の沿って南へ進んでいくと物見櫓跡がある:
物見櫓跡近くには殿井《トノイド》があった。これは段丘礫層と岩盤の境目から湧き出す地下水による井戸(詳細)で、城兵の貴重な水源として利用されていたようで、現在でも水が湧き出ていた:
と、こんな感じでウロウロ遺構を探していると、突然JR飯田線・豊橋行きが走行してきた :
こちらが野牛郭跡。本丸から一段低い場所で、三輪川(宇連川)の渡河点を押さえる役割を担っていた。川の対岸から攻め寄せてくる攻め手を監視する大事な郭だった:
野牛郭跡の南端には渡合へ降りる道があった:
坂を下って行くと櫓跡が残っていた:
櫓跡を降りた先が渡合で、なお激しい藪をかき分けて豊川と宇連川の合流点へ降りた:
渡合から豊川(寒狭川)側を眺めたところ。左手が鳥居強右衛門磔の場がある篠場野、右手が長篠城址で、正面にはJR飯田線の鉄橋が見える:
こちらは宇連川(三輪川)側の眺め:
この後は長篠城跡を出て西側にある馬場美濃守信房の墓所を訪問、ぐるりと回って伊那街道(国道R151)沿いを大通寺へ向けて移動して、最後は大通寺陣地跡と武田四将水杯の井を訪問してきた。
こちらは、その伊那街道沿いにあった大手門跡の標柱。標柱以外は何も残っていなかったが:
そして蟻封塔《アリフウジドウ》。ここは長篠の戦いの戦死者を葬った場所で、ここから蟻の大群が出て村人を苦しめたので、碑を建てて供養し蟻を封じたと伝えられる:
最後は、野牛郭跡に建っていた「マムシに注意!」の注意書き:
長篠城攻め (フォト集)
長篠・設楽原戦没者碑めぐり (フォト集)
長篠城攻め (2) (攻城記)
武田軍・長篠城包囲陣地めぐり (フォト集)
【参考情報】
- 日本の城探訪(長篠城)
- 長篠城跡周辺に建っていた説明板・案内図
- 長篠城址史跡保存館にあった史料・説明板
- 『長篠・設楽原の戦い−史跡案内図』(長篠城址史跡保存館発行)
- 『歴史を歩いてみませんか!長篠の戦い史跡めぐりコース』(新城市観光協会発行)
- 余湖図コレクション(長篠城と周辺遺跡)
- 城ラマ・三河長篠城(お城ジオラマ復元堂)
- 伊藤潤『天地雷動』(角川書店刊)
- Wikipedia(長篠の戦い)
- 週刊・日本の城<改訂版>(DeAGOSTINI刊)
参照
↑a | 「義昭」とも。父は室町幕府第12代将軍・足利義晴、兄は同第13代将軍・足利義輝である。奈良興福寺で仏門に仕えていたが、兄が三好長慶と松永久秀に暗殺されると還俗《ゲンゾク》し、細川藤孝らの助けで諸国流浪となった。足利幕府最後の将軍。 |
---|---|
↑b | 肺結核、胃癌、はたまた野田城攻めの最中に狙撃されたなどの諸説あり。 |
↑c | これを渡合《ドアイ》と呼ぶ。この渡合より北側の豊川を寒狭川《カンサガワ》と呼び、同様に渡合より北にある宇連川を三輪川と呼ぶ。 |
↑d | 武田信玄の戒名である法性院機山信玄《ホッショウイン・キザン・シンゲン》から。 |
↑e | 別名は有海原《アルミハラ》。 |
↑f | 資料館の近くには設楽原の戦で一躍有名になった馬防柵を復元した『設楽原決戦場』なる場所がある。 |
↑g | なお城主・奥平貞昌の命をうけて城を抜け出したのは強右衛門の他に鈴木金七郎がいる。 |
↑h | と個人的に思うところ。但し当然ながら、往時は鉄橋は存在していないが。 |
↑i | 現在は民家。 |
↑j | これは、すなわち籠城時には存在していなかった郭と云うことになる。 |
↑k | 武田四天王の一人、春日虎綱(高坂弾正昌信)の嫡男。海津城にて越後国・上杉謙信の抑えのため、長篠城・設楽原の戦には出陣できない父の代理として出陣した。酒井忠次の別働隊に急襲で討ち死にした。 |
↑l | 河窪信実《カワクボ・ノブザネ》とも。機山公信玄の異母兄弟で、勝頼の叔父。 |
↑m | 信玄が上州箕輪城を攻めた際に猛将・長野業政麾下の家来衆でのちに武田に降伏した倉賀野氏など。 |
↑n | 本当は上下逆である。 |
↑o | 観覧料は大人210円(当時)。但し、設楽原歴史資料館との共通観覧料だと大人400円(当時)で、別々に観覧料を支払う場合よりも110円安かった。自分は前日に設楽原歴史資料館を観覧した。 |
↑p | 勝頼は諏訪四郎勝頼ということで諏訪家の当主であり、武田家の当主ではない。 |
↑q | 正確にはJR(国鉄)ではなく、明治時代に敷かれた鳳来寺鉄道によるもの。 |
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