武田と徳川の激しい争奪戦の舞台になった長篠城は二つの川が合流する断崖に築かれていた

元亀3(1572)年、反織田信長を糾合して挙兵した足利幕府第15代将軍・足利義秋[a]「義昭」とも。父は室町幕府第12代将軍・足利義晴、兄は同第13代将軍・足利義輝である。奈良興福寺で仏門に仕えていたが、兄が三好長慶と松永久秀に暗殺されると還俗(げんぞく)し、細川藤孝らの助けで諸国流浪となった。足利幕府最後の将軍。の呼び掛けに応えるかのように満を持して西上作戦を発動した武田信玄は、信長の盟友・徳川家康が支配する三河国へ侵攻、三方ヶ原の戦いではその戦上手な軍略をもって徳川勢を痛破し、東三河の要衝・野田城を落城させたものの、自らの持病[b]肺結核、胃癌、はたまた野田城攻めの最中に狙撃されたなどの諸説あり。が悪化したことで、馬場・内藤・山縣ら古参の重臣らは涙をのんで作戦の中止と甲府への撤退を決断、しかし無念にもその帰路の信濃国駒場で急死した。享年53。この時、生前の信玄が療養のため滞在していた長篠城が現在の愛知県は新城市(しんしろし)長篠字市場にあり、城の一部が国指定史跡になっている。往時、この城は豊川と宇連川(うれかわ)という二つの川の合流点[c]これを渡合(どあい)と呼ぶ。この渡合より北側の豊川を寒狭川(かんさがわ)と呼び、同様に渡合より北にある宇連川を三輪川と呼ぶ。にある断崖上に築かれていた平城であった。もともとは奥三河の土豪・菅沼元成(すがぬま・もとなり)が築城、その子孫の居城となっていたが信玄の三河侵攻で降伏していた。そして信玄死去後に巻き返しを図った家康により城主・奥平貞昌が寝返って徳川方に入った。一方、父の遺言「自身の死を三年の間は秘匿し、侵略戦は控えよ」に従っていた武田勝頼は三河・遠江を取り戻すため、機山公[d]武田信玄の戒名である法性院機山信玄(ほっしょういん・きざん・しんげん)から。の喪が明けぬ天正3(1575)年春に1万5千の兵で長篠城を包囲した。

今となっては、一昨々年(さきおととし)は平成27(2015)年11月の連休を利用して、愛知県は新城(しんしろ)市にある長篠城跡の他、設楽原(したらがはら)[e]別名は有海原(あるみはら)。古戦場巡りとして織田・徳川軍の陣地跡や武田軍の勇士らの墓所、そしてこの戦いに関する貴重な史料を観賞できる設楽原歴史資料館[f]資料館の近くには設楽原の戦で一躍有名になった馬防柵を復元した『設楽原決戦場』なる場所がある。を訪問してきた。
まず初日に設楽原古戦場跡と資料館を終日巡り、最終日には馬場美濃守信房戦死の地や長篠城跡などを巡ってきた。今回は宿泊先が豊橋だったので、結局はJR飯田線に二回数乗ることになったけど。

で、こちらが最終日の訪問ルート(本訪問記では番号がついた史跡について紹介する):

(豊橋駅) → (大海駅) → 馬場美濃守信房戦死の地 → ①新昌寺 → ①鳥居強右衛門磔刑場所 → ②牛渕橋から長篠城跡の遠景 → ③長篠城跡(長篠城址史跡保存館) → 馬場美濃守信房の墓所 → 大通寺陣地跡と武田四将水杯の井 → (長篠城駅) → (豊橋駅)

この日は長篠城跡の他に、前日の合戦場巡りでは周れなかった馬場美濃守戦死の地、この戦いで一番の功労者でもある鳥居強右衛門(とりい・すねえもん)が眠る新昌寺、そして強右衛門が磔になった場所、さらに豊川と宇連川の合流地点に架かる牛渕橋から長篠城跡の眺望など、前日に負けず劣らず見どころが多くなってしまった。ただ、それぞれの場所が微妙な距離で散在していたため、足代わりに利用する予定だったJR飯田線を時刻表どおりにはスムースに利用できなかったので、結局は行きの豊橋駅から大海(おおうみ)駅の間と、帰りの長篠城駅から豊橋駅まで以外は全て徒歩による移動になってしまったが :O
特にJR大海駅から馬場信房戦死の地まで徒歩40分、そこから国道R257を南下して新東名高速道路を越え、新昌寺から東へ進んで宇連川を渡り、川沿いの県道R69を延々と歩いて橋を渡り、JR長篠城駅を経由する形でぐるりと回ることになったルートは100分くらいかかったと記憶している :O
なお、馬場美濃守に関連する場所として「戦死の地」と「墓所」の二箇所あるが、これらは別々の場所であり、それぞれ訪問してきた。

こちらはGoogle Earth 3Dを利用して、今回攻めた長篠城の縄張りとその周辺の位置関係をそれぞれ重畳表示したもの:

長篠城は、左手の豊川(寒狭川)と右手の宇連川(三輪川)が合流している渡合を頂点とした扇状の縄張りだった

長篠城跡(Google Earthより)

上側を北方面として、往時の長篠城は寒狭川(豊川)と三輪川(宇連川)とが合流する渡合を頂点とした扇状の河岸段丘上に築かれていることから、城の南端は急崖になっていたであろうことが見てとれる:

今回の長篠城攻めは新昌寺→鳥居強右衛門磔の場→牛渕橋→JR長篠城駅→搦手跡を経由して各曲輪跡を巡るルートにした

長篠城跡(コメント付き)

今回は時間の都合で、長篠城包囲戦で勝頼が本陣としていた医王寺陣地跡や天神山陣地、設楽原での開戦の火蓋となった鳶ヶ巣山(とびがすやま)砦跡を巡ることはできなかったが、いつか実現したい。

こちらはJR飯田線・長篠城駅前に建っていた「長篠城址付近略図」:

長篠城駅前に置かれていたものだが城の縄張を示す石碑の場所以外にも、鳥居強右衛門の磔場や彼の菩提寺・新昌寺についても掲載されていた

「長篠城址付近略図」(拡大版)



鳥居強右衛門磔刑場所と新昌寺

長篠城跡と豊川を挟んだ対岸には、包囲する武田軍の警戒網を突破して36km以上離れた岡崎城の家康に火急の旨を伝え、さらに城中へ援軍がくることを知らせようと再び戻ってきた際、武田軍に捕縛された奥平貞昌の家臣・鳥居強右衛門(とりい・すねえもん)が城に向かって磔にされた場所がある[g]なお城主・奥平貞昌の命をうけて城を抜け出したのは強右衛門の他に鈴木金七郎がいる。

まずはJR飯田線・鳥居駅から徒歩3分ほどのところにある新昌寺へ。ここには鳥居強右衛門の墓碑が置かれている。ちなみに鳥居家の菩提寺は同じ新城市の甘泉寺になったため遺骨などは納められていないようだ:

鳥居強右衛門の墓碑が置かれているが、菩提寺ではない

新昌寺

こちらが境内にある墓碑。すぐ後ろは新東名高速道路:

鳥居家の菩提寺が甘泉寺(新城市)になったため遺骨などはない

鳥居強右衛門の墓碑

もともとの墓は新東名高速道路近くであったが工事のため移設されてきた

鳥居強右衛門の墓碑

強右衛門の墓碑の前は塚だったそうで、これは塚近くに植えられた公孫樹(二代目):

強右衛門の墓であった塚の脇にあった公孫樹を移植したものらしい

鳥居強右衛門塚の公孫樹

次は強右衛門が磔にされた場所へ。ここ新昌寺を出て県道R439沿いを豊川方面へ向かって歩いて行き、新東名高速道路の高架をくぐってすぐ左手にある脇道に入ると、遠くに説明板らしきものが見えてくる:

当時は未だ開通しておらず、高架下でも工事が行われていた

新東名高速道路の高架

県道R439沿いから篠場野を眺めたところで、正面の杜の向こうが、豊川(寒狭川)を挟んで長篠城跡になる

鳥居強右衛門磔刑の場(拡大版)

この説明板に向かって右手に建っているのが「鳥居強右衛門磔死之趾」の碑:

城へ戻る途中で捕らえられた強右衛門は仲間を鼓舞するために命を張った

「鳥居強右衛門磔死之趾」の碑

有海(あるみ)の篠場野(しのばの)で武田軍に捕縛された強右衛門は、武田軍から「援軍は来ないと云えば助ける」と云われ、本丸が見渡せたこの場所に連れて来られ磔にされた。強右衛門は意を決して「あと二、三日で数万の援軍がやってくる。それまで持ちこたえよ。」と大声で叫び、命がけで味方を鼓舞したと云う。強右衛門はその場で突き殺されてしまったが、設楽原で織田・徳川連合軍が武田軍を凌駕し、長篠城から討って出るまでの間、兵糧が尽きかけていても城中の士気は高かったと云う。

強右衛門の辞世の句:

我が君の命にかわる玉の緒を何に厭ひけん武士の道

この石碑の裏から長篠城跡を眺めようとしたが、杜が鬱蒼として豊川さえも見えなかった:

残念ながら、現在は磔死の場所から長篠城も豊川(寒狭川)も見えなかった

鳥居強右衛門磔の場からの眺め

鳥居強右衛門磔死の場から再び県道R439へ戻り、JR飯田線を横断して牛渕橋(うしぶちばし)を渡って県道R69へ入り、宇連川を迂回するように対岸のJR長篠城駅へ向かった:

この先の豊川に架かる鉄橋を渡り長篠城跡を横切った先が長篠城駅

JR飯田線

この先が県道R439、手前が県道R69で、右手に度合越しの城跡を拝める

牛渕橋

新昌寺・鳥居強右衛門磔の場
愛知県新城市有海篠原21-50


長篠城跡遠景

この牛渕橋の上から眺めた豊川(寒狭川)と宇連川(三輪川)が合流する渡合(どあい)上の断崖に遺る城跡が、最も良い撮影アングルである[h]と個人的に思うところ。但し当然ながら、往時は鉄橋は存在していないが。

左が豊川(寒狭川)、右が宇連川(三輪川)で、それらが合流する渡合の急崖の上に長篠城の縄張りが放射状に広がっていた

牛淵橋から見た長篠城址(拡大版)

渡合から深い淵(牛渕)となり、牛渕に続いて長走の瀬があるが、ここに仕掛けられていた鳴子(なるこ)網は川の中にも敷設されていたと云う。その網を掻い潜って対岸へ渡り、武田軍の監視を逃れた後、さらに36km以上離れた岡崎城まで徒歩でたどり着いた鳥居強右衛門と鈴木金七郎は凄いとしか言いようがない :O

往時、この長走の瀬には武田軍が敷設した鳴子の網があったと云う

長走の瀬

牛渕橋を渡って県道R69沿いを北上していく途中、長篠城・設楽原の戦いのもう一つの「舞台」となった鳶ヶ巣山砦(とびがすやま・とりで)へ向かう案内図を見かけた。今回は時間的に余裕がなかったので、またの機会に訪れたい:

県道R69沿いに建っていた

鳶ヶ巣山砦跡への案内図

こちらは県道から対岸の長篠城駅へ向かう途中、宇連川に架かる橋の上からの眺め:

中央が宇連川(三輪川)で、右手の山にも武田軍が抑えの部隊を置いていた砦があったと云う

宇連川北方面の眺め(拡大版)

左手は鳶ヶ巣山砦方面、右手が長篠城跡方面で、中央の奥が豊川と合流する度合に至る

宇連川南方面の眺望(拡大版)

橋を渡ってから再びJR飯田線を横断し城址へ向かう途中に長篠城駅(現在は無人駅)に立ち寄った:

この先は長篠城を横切って豊川を渡り対岸の篠場野へ至る

JR飯田線

JRと国鉄の前の鳳来寺鉄道時代は長篠古城址駅と云う名前だった

JR長篠城駅

さらに、この駅前には伝説として残されていた「さかさ桑」なる植木があった:

勝頼の恨み姿かと話題になった桑

さかさ桑

この土地に語り継がれた『鳳来の伝説』によると、設楽原の戦いで大敗した武田勝頼は命からがら寒狭川に沿って北上し、やっとのことで現在の布里小松(ふりこまつ)まで敗走し、この部落の農家の軒先で食事を摂ったと云う。その際に、桑の枝を折って箸にして使い、使い終わった桑の箸を目の前の畑に刺して再び北へ落ち延びていった。この畑に突き刺した桑の箸は逆さに芽を出して成長したと云う。のちに、これは勝頼の恨み姿か、あるいは再起を示す執念の現れかと近郷近在の話題となったのだそうだ。

ちなみに、これと同じような伝説を持つもう一つの「さかさ桑」が長篠城跡にもあった。

牛渕橋
愛知県新城市乗本舟津


長篠城跡

これは「長篠城縄張概図」(下が北方面)。本丸は二つの川向かいの篠場野や乗本(のりもと)よりも低い位置にあったため、対岸から見下されて郭内が丸見えだったのが弱点だった:

長篠城跡に建っていた縄張図(下が北方面)で、豊川と宇連川の度合を頂点として、勝頼が本陣を置いた大通寺方面から眺めた感じ

「長篠城縄張概図」(拡大版)

この縄張図では伊那街道こと県道R151が通る左下あたりが長篠城駅で、駅前の道路を城址へ向かって行くと搦手門跡が見えてくる:

手前がJR長篠城駅(外郭)、奥が長篠城史跡保存館方面(内郭)となる

搦手門跡

遺構は残っておらず、背後の石も関係ない(と思う)

「⑦搦手門趾」

搦手門跡を過ぎると二股の道にぶつかるが、太い道を進んでいくと左手の細い道との間に瓢郭(ふくべくるわ)跡の碑が見えてくる:

手前からJR飯田線を越えて、その背後の宇連川の際までが曲輪だった

瓢郭跡

現在は畑と道路になっていた

「⑥ 瓢郭趾」

そして城址手前あたりが巴城郭(はじょうくるわ)跡。ちなみに、左手奥に見える杜が大通寺:

このあたりが巴城門跡で、向こう側が瓢郭跡、手前が巴城郭跡になる

巴城郭跡

この巴城郭跡の西側が二の丸跡で、この辺りが蔵屋敷・糧庫跡。そして、この裏は家老屋敷跡:

この辺りは二の丸に相当する

糧庫跡

林藤太夫高英は日置流雪荷(へきりゅうせっか)派の弓の名人である

林藤太夫高英屋敷跡

ここは日置流雪荷(へきりゅう・せっか)派の弓の名人と謳われた江戸時代の弓道家・林藤太夫高英(はやし・ふじだゆう・たかひで)の屋敷があったとされる場所。この流派は室町時代から続いているらしく、彼の先祖は代々、徳川氏に仕えており、長篠城包囲戦では鳶ヶ巣山砦で武田軍と戦い討ち死にした者もいるのだとか。

そして長篠城址史跡保存館の前を通りすぎて、矢沢なる小さな川を渡ると、左手に弾正郭跡が見えてくるが、道沿いの右手には「鳥居強右衛門、呼掛けの場所」なる立て札が建っていた場所があった:

ここから寒狭川(豊川)越しの対岸に磔された強右衛門が見えたようだ

「鳥居強右衛門、呼掛けの場所」

そして、その隣にあるのが二の丸・家老屋敷跡:

巴城門から連なる高い土塁の内側にあった重臣らの居住区だった

家老屋敷跡

これらと道路を挟んで反対側の城跡の中にあるのが弾正郭跡。この郭は本丸北側[i]現在は民家。に位置し、往時は堀で囲まれていたが石垣は無かった。従って堀跡は往時からのもので、石垣は後世の造物のようだ:

背後にある石垣は後世の造物らしく、この奥の住宅地のものとされる

「②弾正郭址」

本丸の北側に位置し堀で囲まれていた郭で、古そうに見える石垣は当時のものではなく後世の造物とのこと

弾正郭跡と堀跡(拡大版)

なぜ「弾正」の名を冠しているのかははっきりとせず、設楽原の戦を終えて長篠城に帰還した際に、織田弾正忠信長が入城した郭だった可能性があるとのこと[j]これは、すなわち籠城時には存在していなかった郭と云うことになる。

ここから城址へ戻って入口脇にあった「さかさ桑」。こちらは、往時の桑の木が枯れてしまったので二代目にあたる:

下向きに伸びた桑の木で、長篠城駅前のものと伝説の内容は同じ

さかさ桑(二代目)

再び縄張図。こちらは長篠城址史跡保存館蔵の古文書に描かれた長篠城包囲戦時のもの。本丸には奥平久八郎信昌の軍旗が立ち、周囲には武田軍の布陣が記載されれている:

古文書にあった長篠城包囲戦時の縄張図で、本丸は城主・奥平信昌だが、なぜか篠場野に勝頼が布陣していた

長篠城包囲戦時の縄張図(拡大版)

現代では内堀と帯郭の間に馬出があったことが確認されているが、これは武田家の城だった頃に築かれたとされる三日月形をした丸馬出だったのだとか。しかしながら、上の縄張図には記載されていない。

こちらが本丸土塁と内堀にそって設けられていた帯郭跡:

手前(史跡保存館)と帯郭の間には馬出があったとされ、奥に見える内堀と土塁の先が本丸となる

帯郭跡(拡大版)

正面に見える本丸の内堀と土塁は天正3(1575)年の長篠城包囲時のもので、往時は水堀だった。

このまま右手へ進むと内堀に架かった土橋跡がある。これが土橋の上から見た本丸の内堀と土塁:

土橋からの眺めで、左手が二の丸跡、正面が堀跡(水堀)、右手が本丸跡

内堀跡

北からの攻撃に備えた本丸土塁で、右手は弓道家・林高英の頌徳碑

本丸土塁

長篠城の南側は断崖のため、この本丸土塁からわかるように、主に本丸は北からの攻撃に対する守備を重視していたようである:

土橋から見た眺めで、年月は経過しているものの内堀の深さは左手の二の丸から5mほど、右手の本丸から8mほどの規模である

内堀跡(拡大版)

なぜか本丸跡には長篠城址の石碑が至るところ建っていた:

こちらは土橋を渡った先の本丸虎口跡に建っていたもの(昭和時代の建造)

「史蹟・長篠城址」の碑

こちらは本丸土塁の上に建っていたもの(大正時代の建造)

「長篠城址」の碑

本丸土塁の上。この先は鈎型に折れ、その先の土塁の端には以前まで稲荷神社が建っていたようだ:

左手が内堀跡、右手が本丸跡

本丸土塁上

かって、ここには稲荷神社があったが、現在は大通寺へ移設された

横矢掛け跡

本丸土塁上から見下ろした内堀跡:

内堀を挟んで左手は二の丸跡、右手が本丸土塁

内堀跡

歳月は経過しているが本丸土塁は内堀の堀底から8mほどの切岸を誇る

内堀跡

内堀を挟んで左手は本丸土塁、右手が二の丸跡

内堀跡

二の丸跡のJR飯田線近くから内堀と土塁を眺めると、しっかりと横矢が掛けられているのがわかる:

内堀を堺に、左手が本丸跡、右手が二の丸跡で、しっかり横矢が掛けられているのがわかる

二の丸跡から眺めた内堀(拡大版)

本丸跡。これは本丸内部から北西側の眺めで、東西60m、南北90mほどの規模で平坦に近い郭だった:

本丸の南側から北側の眺めで、右手(北東側)に土塁がある

本丸跡

天正3(1575)年5月初旬、勝頼が率いる武田軍1万5千は長篠城を包囲、対して鉄砲2百丁を擁して籠城した奥平貞昌ら城方は5百の寡兵であった。天然の要害ともあって、武田軍は初めは攻めあぐねていたが瓢郭(ふくべ・くるわ)、巴城郭(はじょう・くるわ)、そして弾正郭を落とし、残るは二の丸と本丸のみまでになっていた。さらに本丸内の兵糧庫が焼失し、籠城方は数日以内に落城必至の状態にまで追い詰めらていた。
そこで貞昌は重臣らと相談し、家臣の鳥居強右衛門と鈴木金七郎を警戒中の城から脱出させ、36km離れた岡崎城にいる家康へ援軍要請に向かわせることに決した。


こちらは本丸跡に建つ「長篠城本丸跡」の標柱と、長篠城・設楽原の戦いで散った両軍の将士を祀る「長篠合戦陣没両軍将士諸精霊位供養塔」:

長篠の戦いで散った両軍の将士らを祀っている

「長篠合戦陣没両軍将士諸精霊位供養塔」

大きな標柱だが、おそらく豊川対岸から視認できることを意図しているのだろう

「長篠城本丸跡」

本丸跡から先ほどの(北東側の)土塁を眺めたところ。基底部の幅は約15m、堀底からの高さは約10m。この他に北西側にも同サイズの土塁があったと推測されている:

これは北東側の土塁で、後年の調査では北西側にもかなり大規模んが土塁があったと推測されている

本丸跡と土塁(拡大版)

本丸西側にある不忍の滝(しのばずのたき)。現在は滝の形態を様しているが、往時は寒狭川(豊川)に流れこむ際に侵食された深い谷が天然の沢の役目を果たしていたのだとか:

城址の西にある大断層・中央構造線の活動によって深い谷ができやすい

不忍の滝

本丸南西側には、鳥居強右衛門磔の場が見えたであろう場所に説明板が建っていたが、藪化が激しいため豊川を含めて、対岸に置かれた石碑は拝めなかった。ちなみに救援を依頼するために強右衛門と鈴木金七郎が城を脱出して川に降りたのも、この辺りからだそうである:

往時、本丸南西隅のこの場所から寒狭川(豊川)を隔てて対岸に磔にされた鳥居強右衛門を見ることができたらしい

鳥居強右衛門磔の場を臨む場所(拡大版)

さらに本丸南東側へ回ってみると、往時、野牛郭と三輪川を隔てた対岸から長篠城を包囲していた武田軍の砦の説明板があった。当時は、かろうじて対岸を走る県道R69と鳶ヶ巣山(とびがすやま)を拝むことができた:

長篠城を包囲した武田軍は三輪川対岸の山頂に五つの砦を築いて厳重に警戒したが、その中の一つ鳶ヶ巣山は中央右辺り

「対岸、武田軍五つの砦」の説明板(拡大版)

機山公の弟で、勝頼の叔父である武田兵庫守信実が守備した砦があった

鳶ヶ巣山

天正3(1575)年5月中旬の長雨の頃、織田・徳川の軍勢が設楽原に着陣したとの知らせにより、医王寺山本陣にて勝頼は軍議を開き、馬場美濃、内藤修理亮、山縣三郎兵衛ら古参の重臣らが進言した撤退策を下げ、独断で信長との決戦を決めた。
攻城戦で残る郭が二の丸と本丸だけになっていたにも関わらず、勝頼は長篠城包囲軍として3千を残したまま、1万2千を主力として寒狭川(豊川)を渡河し、織田・徳川勢3万8千と対峙すべく設楽原に布陣する作戦に出たのである。

このとき包囲軍として残されたのは、伊那街道からの退路を守備するため医王寺山、大通寺山、天神山に高坂昌澄[k]武田四天王の一人、春日虎綱(高坂弾正昌信)の嫡男。海津城にて越後国・上杉謙信の抑えのため、長篠城・設楽原の戦には出陣できない父の代理として出陣した。酒井忠次の別働隊に急襲で討ち死にした。、小山田昌行、室賀信俊ら1千5百、三輪川(宇連川)を挟んだ対岸の鳶ヶ巣山砦に武田兵庫介信実[l]河窪信実(かわくぼ・のぶざね)とも。機山公信玄の異母兄弟で、勝頼の叔父。と小宮山隼人介信近らの5百、姥ヶ懐(うばがふところ)砦に三枝昌貞(守友)ら三枝三兄弟の3百、君ヶ臥床(きみがふしど)砦に和田業繁ら3百、久間山(ひさまやま)砦に上州先方衆[m]信玄が上州箕輪城を攻めた際に猛将・長野業政麾下の家来衆でのちに武田に降伏した倉賀野氏など。2百余、中山砦に那波無理之介(なわ・むりのすけ)率いる野州浪人衆2百余の、つごう3千である。

特に砦を守備する五つ部隊は、個々に守備していたため、織田・徳川勢が放った酒井忠次が率いる別働隊3千の奇襲を受けた際、砦ごとに分断された戦力で防戦するしかなかった。特に鳶ヶ巣山砦を守備していた信実ら5百はかなり劣勢であったが、それでも4度も押し返したと云う。この時の攻撃が、遠く設楽原で対峙していた織田・徳川勢と武田勢との開戦の火蓋を切る合図となった。そして、次第に数で劣勢となった信実と信近は討ち取られ、他の砦も多くが討ち死にし、全ての砦が追い落とされた。

これにより、設楽原に布陣した勝頼ら主力の1万2千は前後で挟撃されるという最悪の戦況となった。


こちらは長篠城南端にある野牛郭(やぎゅう・くるわ)跡。現在はJR飯田線が横断している:

本丸の南東下にあった郭で、現在はJR飯田線がその一部を分断している

野牛郭跡

本丸から見た野牛郭跡とJR飯田線、さらに遠くに見えるのは新東名高速道路

JR飯田線

野牛郭跡へ降りるには二の丸跡から線路を横断する必要があるので、まず先に帯郭跡にある保存館を観賞することにした。

ちなみに、こちらは伊那街道(国道R151)沿いに建っていた「長篠の戦い/長篠城址史蹟保存館入口」の巨大な案内板。『命にかえて使命をはたす』、鳥居強右衛門の最後!なんてメッセージと、強烈な印象を与えるロゴ[n]本当は上下逆である。が描かれているが、このロゴは後に敵方でありながら彼の忠義と勇気を称えた武田の将・落合左平治なるものが旗指物として採用していた絵柄らしい:

伊那街道こと国道R151沿いの長篠城址入口あたりに建っていたもの

「長篠城址史蹟保存館入口」

そして、こちらが長篠城址史跡保存館[o]観覧料は大人210円(当時)。但し、設楽原歴史資料館との共通観覧料だと大人400円(当時)で、別々に観覧料を支払う場合よりも110円安かった。自分は前日に設楽原歴史資料館を観覧した。。後年の調査では、内堀との間に甲州流築城術の丸馬出があったことが確認されている:

実はこの辺りに馬出があったということが確認されているのだとか

長篠城址史跡保存館

入館料は210円で、設楽原歴史資料館との共通券にすると110円安い

長篠城址史跡保存館

ここの史料はかなり充実しており、武田信玄の版図、長篠の籠城、鳥居強右衛門の勇気、設楽原の決戦と鉄砲、戦いとその後、といったコーナーが設けられ、設楽原の戦いにまつわる資料などが展示されていた。

入口と鳥居強右衛門磔刑図のレリーフ:

入口から中に入ると長篠城内にあった屋敷の門が復元展示されいた

史跡保存館の入口

この戦のもう一つの前哨戦でもある場面がストーリー風に描かれていた

鳥居強右衛門磔刑図のレリーフ

館内は一部(個人所有のもの)を除いて写真撮影はOKであったが、念の為、管理人に確認したほうが良い:

一部の展示品は個人所有のものなのでインターネットでの掲載NGです

保存館の内部

展示品のうち、これは「武田信玄公遺言状(写し)」。実物は馬場美濃守の子孫が所蔵しているのだとか:

機山公信玄が生前に作成していた遺言状の写し

「武田信玄公遺言状(写し)」

機山公信玄が生前に作成していた遺言状の写し

「武田信玄公遺言状(写し)」

武田家の家督は勝頼の嫡男である信勝に譲る[p]勝頼は諏訪四郎勝頼ということで諏訪家の当主であり、武田家の当主ではない。、信勝が元服するまで勝頼が陣代として武田家を取り纏めること、勝頼は「孫子の旗」(風林火山の軍旗)は使ってはならないなどが記されている。

この遺言状の最後には、譜代の家臣らの血判が付けられているが、勝頼の血判は無い:

「武田信玄公遺言状(写し)」の最後に付与された血判には、もちろん四郎勝頼のものは出てこない

譜代家臣らの血判

小一時間ほど保存館の史料を見て回ったが、武田と徳川双方の長篠城や設楽原の戦以外のものも多くあって、飽きることはなかった。

保存館を出たあとは、駐車場がある二の丸跡を経由して野牛郭跡と城址の南端にあたる渡合を見てきた。

こちらはJR飯田線によって一部が破壊されてしまった[q]正確にはJR(国鉄)ではなく、明治時代に敷かれた鳳来寺鉄道によるもの。本丸土塁(と内堀)。ちょうどこの場所に踏切があって、二の丸跡(右手)から野牛郭跡(左手)へ向かうことができる:

この場所はJR飯田線の踏切で、左手が野牛郭跡方面、右手が二の丸跡

破壊された本丸土塁と内堀

踏切を渡ってJR飯田線の沿って南へ進んでいくと物見櫓跡がある:

年月は経過しているものの結構な高さがあった

「⑩物見櫓趾」

長篠城址の南東部にある高台で、直ぐ隣はJR飯田線である

物見櫓跡

物見櫓跡近くには殿井(とのいど)があった。これは段丘礫層と岩盤の境目から湧き出す地下水による井戸(詳細)で、城兵の貴重な水源として利用されていたようで、現在でも水が湧き出ていた:

長篠城跡は段丘を形成する礫層(段丘礫層)が岩盤の上に堆積した場所だった

殿井

と、こんな感じでウロウロ遺構を探していると、突然JR飯田線・豊橋行きが走行してきた :O

ちょっと危険といえば危険だが

城址を横断するJR飯田線

こちらが野牛郭跡。本丸から一段低い場所で、三輪川(宇連川)の渡河点を押さえる役割を担っていた。川の対岸から攻め寄せてくる攻め手を監視する大事な郭だった:

本丸から一段低く、川から比高10m以上ある監視地点である

野牛郭跡

野牛郭跡の南端には渡合へ降りる道があった:

この下が豊川(寒狭川)と宇連川(三輪川)が合流する地点である

野牛郭跡から渡合へ降りる道

坂を下って行くと櫓跡が残っていた:

現在は藪化が激しいが、往時は度合の上の高まりで渡河点を監視していた

櫓跡

ここで二つの川が合流する地点を監視していた

「櫓跡」の碑

櫓跡を降りた先が渡合で、なお激しい藪をかき分けて豊川と宇連川の合流点へ降りた:

野牛郭の先端で、宇連川と寒狭川の合流地点である

渡合

渡合から豊川(寒狭川)側を眺めたところ。左手が鳥居強右衛門磔の場がある篠場野、右手が長篠城址で、正面にはJR飯田線の鉄橋が見える:

豊川(寒狭川)を境として、左手が鳥居強右衛門磔刑の場所、右手が長篠城本丸方面で、正面にはJR飯田線の鉄橋が見えた

渡合から見た豊川(拡大版)

こちらは宇連川(三輪川)側の眺め:

宇連川を境に左手が野牛郭跡、右手が乗本(のりもと)の五砦跡方面

渡合から見た宇連川

宇連川側は堆積が多く、浅瀬だった

宇連川

この後は長篠城跡を出て西側にある馬場美濃守信房の墓所を訪問、ぐるりと回って伊那街道(国道R151)沿いを大通寺へ向けて移動して、最後は大通寺陣地跡と武田四将水杯の井を訪問してきた。

こちらは、その伊那街道沿いにあった大手門跡の標柱。標柱以外は何も残っていなかったが:

往時は宝くじ屋の一角に建っていた

「①大手門址」

そして蟻封塔(ありふうじとう)。ここは長篠の戦いの戦死者を葬った場所で、ここから蟻の大群が出て村人を苦しめたので、碑を建てて供養し蟻を封じたと伝えられる:

大手門のすぐ近くの民家の一角にある市指定文化財

蟻封塔塚

最後は、野牛郭跡に建っていた「マムシに注意!」の注意書き:

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「マムシに注意!」

See Also長篠城攻め (フォト集)
See Also長篠・設楽原戦没者碑めぐり (フォト集)

【参考情報】

参照   [ + ]

a. 「義昭」とも。父は室町幕府第12代将軍・足利義晴、兄は同第13代将軍・足利義輝である。奈良興福寺で仏門に仕えていたが、兄が三好長慶と松永久秀に暗殺されると還俗(げんぞく)し、細川藤孝らの助けで諸国流浪となった。足利幕府最後の将軍。
b. 肺結核、胃癌、はたまた野田城攻めの最中に狙撃されたなどの諸説あり。
c. これを渡合(どあい)と呼ぶ。この渡合より北側の豊川を寒狭川(かんさがわ)と呼び、同様に渡合より北にある宇連川を三輪川と呼ぶ。
d. 武田信玄の戒名である法性院機山信玄(ほっしょういん・きざん・しんげん)から。
e. 別名は有海原(あるみはら)。
f. 資料館の近くには設楽原の戦で一躍有名になった馬防柵を復元した『設楽原決戦場』なる場所がある。
g. なお城主・奥平貞昌の命をうけて城を抜け出したのは強右衛門の他に鈴木金七郎がいる。
h. と個人的に思うところ。但し当然ながら、往時は鉄橋は存在していないが。
i. 現在は民家。
j. これは、すなわち籠城時には存在していなかった郭と云うことになる。
k. 武田四天王の一人、春日虎綱(高坂弾正昌信)の嫡男。海津城にて越後国・上杉謙信の抑えのため、長篠城・設楽原の戦には出陣できない父の代理として出陣した。酒井忠次の別働隊に急襲で討ち死にした。
l. 河窪信実(かわくぼ・のぶざね)とも。機山公信玄の異母兄弟で、勝頼の叔父。
m. 信玄が上州箕輪城を攻めた際に猛将・長野業政麾下の家来衆でのちに武田に降伏した倉賀野氏など。
n. 本当は上下逆である。
o. 観覧料は大人210円(当時)。但し、設楽原歴史資料館との共通観覧料だと大人400円(当時)で、別々に観覧料を支払う場合よりも110円安かった。自分は前日に設楽原歴史資料館を観覧した。
p. 勝頼は諏訪四郎勝頼ということで諏訪家の当主であり、武田家の当主ではない。
q. 正確にはJR(国鉄)ではなく、明治時代に敷かれた鳳来寺鉄道によるもの。