永禄12(1569)年の三増峠の戦いで相模国の北條氏康を抑えて事実上、今川領への駿河侵攻を完了させた武田信玄は、元亀3(1573)年10月3日に大軍を率いて徳川家康が領する三河・遠江方面への侵攻を開始した。一方、桶狭間の戦いで旧主・今川義元が斃れてから悲願の独立を目論んでいた家康であったが、清須同盟以降、尾張国を統一した織田信長とは対等な関係ではなく「家臣の一人」として、この新しい主が推し進める天下布武の一翼を担う立場にあった。信玄は、その天下布武の蚊帳の外に追いやられていた足利義秋[a]「義昭」とも。父は室町幕府第12代将軍・足利義晴、兄は同第13代将軍・足利義輝である。奈良興福寺で仏門に仕えていたが、兄が三好長慶と松永久秀に暗殺されると還俗(げんぞく)し、細川藤孝らの助けで諸国流浪となった。が号令した信長包囲網に応えるため、山縣昌景・秋山虎繁(あきやま・とらしげ)[b]諱(いみな)として有名なのは「信友(のぶとも)」。譜代家老衆の一人で武田二十四将にも数えられ、「武田の猛牛」と渾名された。ら5千を別働隊として先発させて信濃・遠江国境にある青崩峠(あおくずれとうげ)から、そして自らが率いる2万2千の本隊は駿河から大井川を渡って、それぞれ遠江国へ侵攻した。別働隊は徳川方の掛川城や高天神城を結ぶ要所にある二俣城を包囲、その間に偵察に現れた本多忠勝ら徳川勢3千を苦もなく蹴散らした後、信玄率いる本隊も合流して二俣城を開城・降伏させると、12月22日には天竜川を渡って南下、甲軍2万7千は怒涛の如く家康が籠城する浜松城に迫ったが、まるで家康をあざ笑うかのように突如、城を迂回して三方ヶ原台地へと向かった。
日別: 2018年8月5日
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