現在の石神井城の主郭は池と急崖に囲まれ三方に堀と土塁が巡らされていた

東京都練馬区石神井台1丁目18にあった石神井城は、北は三宝寺池(さんぽうじ・いけ)、南は石神井川に挟まれた台地上に築かれた単郭もしくは連郭[a]現在でも城の形態は不明である。「居館」ではなく、籠城戦を体験した「城」の構成として郭が一つしか無いというのが考え難いことから複数の郭があったという説が専らである。式平山城である。鎌倉時代から、葛西、江戸両氏とともに秩父平氏[b]桓武天皇の孫・高望王(たかもちおう)が平姓を賜って関東は武蔵国秩父郡に土着し、秩父氏を称したのが始まり。の流れをくむ有力国人・豊島(としま)氏の居城であり、石神井郷を治める拠点としていた。平氏没落により所領を失っていた豊島氏であったが、のちに鎌倉公方[c]簡単に言うと、関東に住んでいる室町幕府の代表者で命令するだけの人。と関東管領[d]簡単に言うと、鎌倉公方を補佐し、その命令を実行する地元の人。との間で起こった争いで鎌倉公方・足利持氏に味方した功績から旧領を回復した。室町時代に入り京で応仁の乱が勃発すると、再び鎌倉公方と関東管領との間で争い[e]いわゆる、享徳3(1454)年から28年間続いた享徳(きょうとく)の乱。が起こった上に、関東管領勢で長尾景春[f]伊藤潤作の『叛鬼(はんき)』(講談社文庫)の主人公である。が反旗を翻し、鎌倉公方と連携して対立した。この時、石神井城主の豊島泰経(としま・やすつね)は、妻の兄である景春に味方して弟の泰明(やすあき)と共に挙兵した。関東管領勢にとって江戸城河越城岩付城との連絡を遮断する位置あった石神井城の存在は脅威であったため、文明9(1477)年に関東管領勢の太田道灌三浦義同[g]読みは「よしあつ」。号して道寸(どうすん)。相模三浦氏の最後の当主。北条早雲との戦いに敗北した時の辞世の句『討つ者も討たるる者も土器(かわらけ)よ。くだけて後はもとの土くれ』が有名。、千葉自胤らと平塚城を攻めたあとに泰経・泰明兄弟らと激突、これを痛破した。この時、泰明以下一族の多くが討死にした。石神井城に逃れた泰経であったが道灌らの総攻めにあって城を脱出、石神井城は落城した。

今となっては、一昨々年(さきおととし)は平成27(2015)年の文化の日[h]国民の祝日であり、明治天皇の誕生日でもある。、かっては都内でも有数の湧水池を誇っていた[i]江戸時代、園内にある石神井池、三宝寺池は井の頭池、善福寺池と並んで武蔵三大湧水池として知られていた。但し、石神井池は既に湧水ではなくなっている。石神井公園近くの石神井城跡(東京都指定文化財・史跡)を攻めてきた。

この都指定史跡は主郭部が比較的良好に残っているとのことだが、通常はフェンスに囲まれていて原則的には立ち入ることができない:

通常は原則的に立入りできないが、年に一度の文化財ウィーク中は開放される

城跡(土塁・空濠)への立ち入りについての注意書き

但し、年に一度、東京都が主催する11月3日の文化の日を中心とした東京文化財ウィークでは文化財の一つとして、このフェンスが期間限定で開放されて主郭跡の中に立ち入ることができる[j]この企画には通年公開と特別公開があり、石神井城跡は後者に該当するため期間限定での公開となる。 ;)

この日は、西武池袋線の石神井公園駅前から石神井公園入口まで向かい、そこから石神井池沿いに園内を西へ移動して都道R444を横切り、ひょうたん池を越えたところで三宝寺池が見えてきた。ここまで駅から徒歩でおよそ15分程。この池の左手が石神井城跡で、この先の池に架かる橋を渡って城跡へ向かう:

この池の周辺には国の天然記念物である植物群落が生息している

三宝寺池(拡大版)

往時、三宝寺池は武蔵野台地の地下水が湧きだして水をたたえてできた池で、面積はおよそ24千㎡、水深は平均約2m。往時から水量が多く夏でも冬でも容易には枯れることはなかったと云う。但し、現在は湧き水は無い。

こちらは三宝寺池ごしに眺めた石神井城跡の遠景。右手の丘陵が主郭にあたる:

こちらが城の北側にあたり、池が天然の外堀であった

三宝寺池ごしの石神井城跡

この橋を渡った先が石神井城跡で、橋の手前には城址の碑が建っていた:

正面が石神井城の主郭にあたる

三宝寺池を渡る橋

三宝寺池を渡る橋の手前に置かれていた

石神井城址碑

橋を渡ると城域になるが、現在残っているのは左手奥に見えるフェンスに囲まれた主郭(内郭)のみである:

城址北の三宝寺池を渡ると城跡になり、奥へ進むとフェンスが見えてくる

石神井城説明板

主郭(内郭)跡を進みフェンスの手前にも真新しい城址の碑と説明板が建っていた。この奥の丘陵が主郭にあたる:

この碑の背後にある小高い丘陵上が石神井城の主郭にあたる

「石神井城址」の碑と説明板

こちらは Google Earth 3D を利用して、今回攻めた石神井城址を俯瞰したところ。赤色破線の北は三宝寺池と南は石神井川に挟まれた丘陵(または舌状台地)が城域とされるが、正確な構造は分かっていない。桃色実線の堀は主郭に巡らせたものだけ残っている。ただ現在は、城域は台地の先端ではなく基部に位置し、東西に堀切を設けることで矩形とし、その中に郭をいくつか連ねていたという説が有力である:

左上が北方向で、現在は都指定文化財(史跡)を維持・管理する都立石神井公園内に主郭だけが残っている

石神井城周辺図(Google Earthより)

現在推定される城域は三宝寺池と石神井川に挟まれた赤色破線の崖線の部分だが、残っているのは主郭だけ

石神井城周辺図(コメント付き)

これが主郭を囲っているフェンス:

通常はフェンス内には立ち入れないので、フェンス越しに眺めるしか無いが、フェンスの先が堀跡だったりする

主郭跡とそれを囲むフェンス(拡大版)

こちらが石神井城跡の遺構の案内図。北に三宝寺池、南に石神井川に挟まれた丘陵上に築かれていた:

現在は内郭と呼ばれる主郭と、その周囲にある堀跡、そして土塁が残る他はほとんど残っていなかった

「石神井城跡の縄張り図」(拡大版)

このフェンス越しに主郭西側を囲む空堀跡と切岸を眺めたところ:

三宝寺池がある北を除く主郭の三方には堀と土塁が築かれていた

主郭を囲む堀跡

一応、フェンスから覗きこめば土塁と空堀跡を確認できる。往時、空堀の幅は12m程、深さは6m程であったと云う:

フェンスから身を乗り出して見れば土塁や堀跡といった遺構の一部を確認することはできる

主郭を囲む土塁-堀跡-土塁(拡大版)

通常はフェンスが締め切られているが、このように今回は開放されて主郭跡の中に入ることができた[k]特に研究員の方や管理人みたいな人は見かけなかった。

フェンスの先が掘跡、その先の土塁が主郭跡である

主郭跡

東京文化財ウィークだけは特別に主郭内が公開されていた

開放されたフェンス

そして特別公開のこの日は、フェンスが開放される他に沢山の説明板が置かれていた。こちらは、その一つ:

昭和31(1956)年に初めて発掘調査が実施され以来、中世城郭の史料が発見されたらしい

発掘調査についての説明板(拡大版)

主郭内の発掘調査では少量の中国製陶磁器や常滑焼(とこなめやき)、渥美焼などが出土していたと云う。これにより、主郭には豊島氏の居館が建っていた可能性があるのだとか。

フェンスの中に入って眺めた土塁と堀跡:

フェンスの中に入って主郭を巡る堀の掘底から土塁をみたところ

堀跡と土塁

フェンスの中に入って主郭を巡る堀の掘底から土塁をみたところ

堀跡と土塁(コメント付き)

まずは堀底道を歩いて主郭南側へ回り込み、途中から土塁へ上がった。往時、ここは3mほどの幅を持つで箱堀だった:

正面はフェンス出入り口で、右手の土塁上が主郭跡

主郭南側の堀跡

堀底道を東へ向かって歩くと土塁へ上がれる(右手はフェンス)

主郭南側の土塁と堀跡

土塁からフェンス方面を見下ろすと堀跡がよくわかる。堀幅はおよそ7m:

土塁の上に登って見下ろすと、フェンスの手前で主郭を囲むように堀が巡らされていたのがわかる

主郭西側の堀跡(拡大版)

郭の縁を仕切るように土を盛り上げて作った土塁の上を通って主郭の虎口へ向かう。この土塁の裾部分からは鉄製の小刀や常滑焼の瓶(かめ)といった遺物が出土している:

主郭は高さ5mほどの土塁と堀で四角形に区画されていた

主郭を囲む土塁

この先に主郭南側に設けられていた虎口がある

主郭南側の土塁上

主郭南側には虎口跡が残っていた。但し、現在は藪化していて中には入れないので、この先の土塁を下りて主郭跡へ:

左手が主郭跡、右手は堀跡である

虎口跡

左手は藪化して中に入れなかたので、この先から主郭跡へ下りた

虎口跡(コメント付き)

こちらが土塁の東南端には切れ目があり、現在の入口になっていた。この先に見えているのが主郭跡である:

主郭土塁の東南端には切れ目があり、現在はここから中に入る

現在の「虎口」

こちらが主郭跡。比高10mほど。ただ土塁を下りたところにあるので、丘陵の上というよりは、どちらかというと丘陵を削平した中に造られた郭のようだった。郭内の建物跡は明確ではないが、柱穴が見つかっていることから掘立柱建物が建っていたと考えられている:

中は平坦で、有事の際に利用する建物があったとされる場所である

主郭跡

石神井城があったこの地は石神井郷(しゃくじい・ごう)と呼ばれ、もともとは宇多氏の所領だったが、のちに宮城氏、豊島氏と継承され有力国人の領有する土地となった。また、この城の築城時期ははっきりと分かっていないが、落城については『太田道灌状』に記載があると云う。

文明9(1477)年、鉢形城で長尾景春が挙兵したのに呼応して、豊島泰経と弟・泰明はそれぞれ石神井城と練馬城[l]現在の東京都練馬区にある豊島園あたり。石神井城の支城であった。に篭もり(赤色)、太田道灌率いる関東管領勢(青色)と対峙した。
これは往時の城の位置を現在の Google Earth 3D に重畳したもの(一部推測あり):

赤色は長尾景春勢、青色は太田道灌を含む関東管領勢で、他に古河公方勢は利根川を境界として対峙している

長尾勢と関東管領勢力の分布図(拡大図)

豊島勢と太田勢は練馬城南の江古田(えごた)辺り(上図黄色☆)で衝突したが豊島勢は惨敗、弟や一族郎党を失った泰経は石神井城へ撤退して籠城する。一度、両軍の間で和議が結ばれたが、のちに反故にされた太田勢が総攻めに移ると泰経は足立方面へ逃亡、以後は行方不明となったと云う。石神井城は太田勢によって攻められ落城した。
ここで、従来説では同じく景春に加勢していた矢野兵庫助憲信が籠もる小机城まで敗走したと云うのがあるが、現在は否定的な意見が多い。

江戸時代の書物には石神井城跡について記録されているものがあり、主郭跡が畑として利用されていたとあるのだとか。

このあとは主郭跡を出て城址東にある東の堀方面へ移動した。
主郭跡と三宝寺太子堂裏手との間にはフェンスと側道が設けられており、そこから(かなり堆積していたが)主郭南側の堀跡を確認することができた:

主郭南側と三宝寺太子堂との間にはフェンスと側道が設けられていた

城址南側の側道

かなり堆積していたが堀跡とその背後の土塁は健在だった

主郭南側の堀跡

この側道を抜けると住宅街になるが、往時は城域を仕切る東の堀があったと云う。現在、堀は確認できないが土塁らしきものは残っていた:

現在は宅地化の波に埋もれていて明確には確認できなかった

東の堀跡

若干、それ風の土塁のような切岸があったが詳細は不明

土塁らしき段差

このあとは南下して石神井氷川神社や三宝寺を散策してきた。

氷川神社は、応永年間(1394〜1428)に豊島氏が武蔵一之宮の分霊を奉斎して、石神井城内に創建したもの。落城後は、石神井郷の総鎮守として周辺の村人から崇敬された:

左右一体の石灯籠は江戸時代に豊島氏の子孫が寄進したものらしい

氷川神社本殿と豊島氏ゆかりの石灯籠



以上で石神井城攻めは終了。このあとは三宝寺池をぐるりと一周してきた。

江戸時代には日照りにも枯れない池と云われ、昭和時代中頃までは真冬でも池面が凍らない「不凍池」として知られていた三宝寺池:

昔は井の頭池(武蔵野市)や善福寺池(杉並区)などと並んで有数の湧水池だった

三宝寺池(拡大版)

現在の三宝寺池は江戸時代に整備されたものがベースとなっているようで、池の小島には弁天様が祀られ、古来から禁猟区であたため自生の水草などが多く繁殖し、昭和10(1935)年には「三宝寺池沼沢植物群落」として国の天然記念物に指定された。
但し、かっての豊富な湧水も周辺の宅地化による環境の変化で、現在は一切の湧き水は無く、なんと井戸から地下水を汲み上げて池の水を満たしているのだとか :O

晩秋の晴天の下、湖水に反射する木々の他、コサギやキンクロハジロなどの野鳥も多かった

三宝寺池(拡大版)

かっては湧水池であったが、現在は宅地化による環境の変化で井戸から地下水を汲み上げて満たしているのだとか

厳島神社拝殿(拡大版)

石神井城跡の対岸あたりには豊島一族の最後を語る伝説にゆかりあるものが残っていた。

これは「殿塚」。太田道灌との戦いに敗れた石神井城主・豊島泰経は代々の家宝である黄金の鞍を付けた愛馬に乗り、この三宝寺池に入水したと云う伝説が残る:

石神井城主・豊島泰経の徳を偲んで子孫が建立したものらしい

「古墳・殿塚」

殿塚の西側30mほどのところには「姫塚」なるものが残っている。城主であり父である豊島泰経のあとを追い、次女の照姫も三宝寺池に入水したと云う伝説が残る:

石神井城主・豊島泰経の娘である照姫が父を追って入水したと云う

「古墳・姫塚」

なお、これらの塚と哀話については後世の創作とする説が有力である。

See Also石神井城攻め (フォト集)

【参考情報】

参照

参照
a 現在でも城の形態は不明である。「居館」ではなく、籠城戦を体験した「城」の構成として郭が一つしか無いというのが考え難いことから複数の郭があったという説が専らである。
b 桓武天皇の孫・高望王(たかもちおう)が平姓を賜って関東は武蔵国秩父郡に土着し、秩父氏を称したのが始まり。
c 簡単に言うと、関東に住んでいる室町幕府の代表者で命令するだけの人。
d 簡単に言うと、鎌倉公方を補佐し、その命令を実行する地元の人。
e いわゆる、享徳3(1454)年から28年間続いた享徳(きょうとく)の乱。
f 伊藤潤作の『叛鬼(はんき)』(講談社文庫)の主人公である。
g 読みは「よしあつ」。号して道寸(どうすん)。相模三浦氏の最後の当主。北条早雲との戦いに敗北した時の辞世の句『討つ者も討たるる者も土器(かわらけ)よ。くだけて後はもとの土くれ』が有名。
h 国民の祝日であり、明治天皇の誕生日でもある。
i 江戸時代、園内にある石神井池、三宝寺池は井の頭池、善福寺池と並んで武蔵三大湧水池として知られていた。但し、石神井池は既に湧水ではなくなっている。
j この企画には通年公開と特別公開があり、石神井城跡は後者に該当するため期間限定での公開となる。
k 特に研究員の方や管理人みたいな人は見かけなかった。
l 現在の東京都練馬区にある豊島園あたり。石神井城の支城であった。