千葉県は小櫃川《オビツガワ》東にある標高145mほどの丘陵上には、かって安房上総《アワ・カズサ》の雄と云われた里見氏の居城で、ここ関東の覇権をめぐって小田原北條氏と激しい攻防戦を繰り広げたときに、その最前線を担った久留里城が建っていた。別名は「雨城《ウジョウ》」。この山城にはよく霧がかかり、遠くから見ると雨が降っているよう見え、城の姿が隠し覆われて敵の攻撃を受けづらかったと伝わる[a]あるいは、「城の完成後、三日に一度、合計21回も雨が降った」ことが由縁だとも(久留里記)。。その起源は、名将・太田道灌が江戸城を築城したのと時を同じくする康正元(1455)年、上総武田氏の祖と伝わる武田信長[b]上総国守護代となった室町時代中期の武将で、甲斐国人領主。甲斐守護で天目山で自刃した武田信満の次男にあたる。ちなみに父の信満は、同じく天目山で自害に追い込まれた甲斐武田氏最後の当主・勝頼の先祖にあたる。の築城とするのが通説である。戦国時代に入り、武田氏を抑えて久留里城を手に入れた里見氏ではあったが、天正18(1590)年の秀吉による小田原仕置に参陣しなかったため安房一国のみの安堵となり、ここ久留里城のある上総国が関八州を賜った家康の領有となると、明治時代に入って廃城となるまで徳川譜代の居城となった。現在は東西の尾根に一部の遺構が残る他、本丸跡には江戸時代に建っていたとされる天守をイメージして、昭和54(1979)年に鉄筋コンクリート製二層三階の模擬天守が建てられ、城山公園として千葉県君津市では桜の名所の一つとなっている。
今となっては、一昨々年《サキオトトシ》は平成27(2015)年の晩秋、千葉県君津市にある久留里城跡を攻めてきた。この当時はマイカーは車検に出していたので浜松町バスターミナルから安房鴨川行きのアクシー号を利用した。この路線にはズバリ「久留里城三の丸跡」なるバス停があって城址がある城山公園入口まで徒歩で5分ほど。
この日は浜松町バスターミナルに朝7時半少し前に到着。今回乗車するアクシー号は京成バスが運行する便なので京成バスの窓口へ直行して切符を購入(1,850円/当時)し、乗り場①にバスが到着するまでの30分程をターミナルをうろうろしながら昼飯を購入した。そして朝8時のバスに乗車し東京アクアラインから千葉県木更津に入って「久留里城三の丸跡」のバス停に到着したのが朝10時前で、所要時間は約1時間45分だった。
こちらは Google Earth 3D を利用して、今回攻めた久留里城址とその周辺の位置関係、そして城攻めルートをそれぞれ重畳表示したもの:
今回の城攻めルートはこちら。あとで知ったのだが、天神曲輪跡からは東の尾根筋へ向かえるらしい。こちらにも堀切など見どころが多いようだが、今回は西の尾根筋上にある旧道と新道である城山隧道《シロヤマ・ズイドウ》沿いの遺構だけ見てきた。あと久留里城跡の北側の丘陵にある古久留里城跡は武田真里谷《タケダ・マリヤ》氏の居城であったと伝わる。現在でも堀切などが残っているようだが藪化が激しいようで機会あれば攻めてみたい:
バス停① → (三ノ丸跡) → 城址公園入口 → 戸張門跡 → (旧道) → 神明神社 → 火薬庫跡 → 堀切1跡 → 堀切2跡 → お玉が池 → 薬師曲輪跡 → 二ノ丸跡 → (久留里城址資料館) → 天神曲輪跡 → 波多野曲輪跡 → 本丸跡 → 模擬天守 → 天守台跡 → 本丸土塁 → 弥陀曲輪跡 → (二ノ丸跡) → 鶴の曲輪跡 → 久留里曲輪跡 → (城山隧道) → 谷戸跡 → (城址公園入口) → (国道R410) → 正源寺 → バス停②
久留里街道(国道R410)沿いのバス停①から三ノ丸跡を見ながら公園入口へ向かう。こちらはバス停あたりから三ノ丸跡ごしに眺めた久留里城の遠景。久留里城は西尾根(写真手前)と東尾根、南尾根の各筋に郭が設けられた山城だった:
往時は内堀だった久留里街道に沿って市街地方面へ戻っていくと城址公園入口の看板が見えてくる:
ここを入って直ぐ左折すると登城道となるが、この辺りが戸張門跡になるようだ。そして舗装された道を直進しトンネルを抜けて駐車場へ向かう新道が後世に造られたルートで、トンネル手前から山道に入って行く旧道が往時の登城道らしい:
ここは当然、旧道を選択してトンネル上にある神明神社へ向かう。この道は戦国時代の里見氏が城主だった頃から登城道として使われていたらしく、現在はトレッキングコースとしても人気なのだとか:
これは二ノ丸跡に建っていた君津市立久留里城址資料館で手に入れた『ふるさとの歴史と自然をたずねて』なるしおりに描かれていた久留里城址案内図(一部加筆あり):
旧道を登り、ちょうどトンネルの上辺りに来ると城山神明神社が建っていた:
江戸時代に立藩された久留里藩は、延宝7(1679)年に一度廃藩となり久留里城も廃城となったが、その63年後に上野国沼田城から黒田直純《クロダ・ナオズミ》が入城し、再び久留里藩が立藩された。その際、廃墟となっていた城を再び普請・拡張した際に、城の鬼門に天照大御神と黒田公の守護神・丹生明神《ニウ・ミョウジン》ほか三神を勧請《カンジョウ》したのが由緒なのだとか。また、丹生明神は高野山犬飼明神を祖神としていることから、神前に建つ狛犬は紀州犬になっていた。
それから二ノ丸へ向かって登城道を登って行くと火薬庫跡がある。江戸時代に煙硝蔵が置かれていたとされるが、戦国時代にも何かに利用されていた可能性がある郭である:
さらに上って行くと一つ目の堀切跡が見えてきた。ただし片側には隧道が通っているため著しく改変された状態であったが:
改変されている城山隧道側から見上げた堀切1跡。破線部分が堀切部分で、少し藪化しているが、堀底がV字型にコンクリートで固められた状態だった:
同じく堀切1跡を、今度は二ノ丸方面から見たところ:
堀切1跡を越えて、さらに登って行くと堀切2跡があるが、ここも城山隧道側は改変されていた:
こちらは城山隧道側から見た堀切2跡。ほぼ完全にコンクリートで埋められていた:
このまま尾根筋を登って二ノ丸跡へ向かう:
二ノ丸跡に残るお玉が池。悲しい伝説が残る池らしい:
戦国時代、この城の二ノ丸には水源が無かったため城主の里見義堯《サトミ・ヨシタカ》は家臣の兵馬に池を掘るように命じたが、ある時、兵馬が池を掘っていると兵糧庫が焼失する事件が起こった。失火の不始末の疑いで兵馬は捕らわれの身となるが、城将小川秀政の娘であるお玉は彼を哀れんで、代りに池を掘り続けるが、無念にも兵馬は打ち首となってしまった。その後、兵馬の嫌疑が解けると、お玉は髪を切って彼を弔ったと云う。
二ノ丸直下の最西端にあった薬師曲輪跡。現在は久留里城の三ノ丸跡や外曲輪跡が見渡せる展望台になっていた:
そして薬師曲輪跡から城址西側の眺望:
薬師曲輪跡からは里見・北條古戦場跡を見渡すことができるが、ここに建っていた「里見北条古戦史」によると:
天文23(1554)年の晩秋、第一次国府台合戦での勝利を余勢にして、小田原北條氏麾下の「地黄八幡《ジキハチマン》」こと北條綱成[c]小田原北條家が擁した五色備えの一つ、黄備えを率いていた綱成の部隊は八幡大菩薩に武運を祈り、朽葉色に染めた塗絹に「地黄八幡」と書いた旗指物を指していたと云う。は2万余騎の軍兵を従えて向郷に陣屋を構え、里見義堯・義弘父子が籠もる久留里城を攻撃しにきた。久留里城は、義堯の戦略によって湯名城主・山本左馬允、一宮城主・須田将監、鳴戸城主・忍足美作守、大多喜城主・正木時茂、周西城主・茂木与茂九郎らの武将が馳せ参じ、小櫃川を挟んで数十日間余の攻防戦を展開、ついに小田原北條勢を撃退した。とくに茂木与茂九郎は16歳の少年武将であったが、敵将・葛西左京介と小櫃川の中で組打ちとなり討ち果たしたと云う。
翌、弘治元(1555)年、再び小田原北條勢の攻撃を受け激戦となったが、城は陥落することなく難攻不落の名を坂東に高めるに至った。なお、この伝承の背景には加勢観世音菩薩《カセ・カンゼオンボサツ》様の御加護があるとされている。
こちらは薬師曲輪跡で祀られていた雨城八幡神社。久留里城の別名に由来する:
そして薬師曲輪跡を登って二ノ丸跡へ移動すると、長屋塀跡がある。これは二ノ丸西側にあり、眼下に三ノ丸が望める場所に建てられていたもので、本来は多聞櫓だったようだが、古絵図には「長屋塀」と記載されいていたことから、現在でもこの名で読んでいるのだとか:
この長屋塀に囲まれている建物が君津市立久留里城址資料館:
里見氏の歴史はもちろんのこと、久留里城の歴代城主、一度廃藩・廃城となった経緯、そして再興した黒田氏の解説の他、江戸から明治にかけての千葉県君津市の歴史や文化を普及するため、昭和54(1979)年に模擬天守とともに開館した。見どころとして、明治中期に考案された上総堀り方式の井戸掘り櫓の実物模型があった。
また、その敷地には新井白石像が建っていた:
上野国生まれの新井白石は江戸時代中期の旗本で儒学者。ここ久留里藩士から古河藩士、甲府藩士と転身し、徳川家六代将軍・家宣《イエノブ》、七代将軍・家継《イエツグ》の下で幕政改革である正徳の治にあたった。八代将軍吉宗の時代に失脚し、引退した。
二ノ丸と本丸の間も尾根沿いに登城道が続いていた:
本丸直下にある天神曲輪跡。ここから東の尾根へ向かう遊歩道があるらしい:
さらに本丸跡へ向かって登って行くと男井戸・女井戸《オイド・メイド》なる溜め井戸《タメイド》が残っていた:
籠城の際の水の手は勿論のこと、久留里城を再建した黒田直純の養子で二代藩主の黒田直享《クロダ・ナオユキ》の頃、藩士の結婚式の際に新郎・新婦がこの水を飲んで夫婦の誓いを交わしたという伝承が残る。
天神曲輪跡から高い切岸の上に本丸跡が見えてきた:
本丸の腰郭にあたるのが波多野曲輪で、現在は展望広場になっていた:
それから本丸跡へ。こちらは本丸虎口から見上げた模擬天守。昭和54(1979)年に展望台目的で、本来の天守台の脇に建造された:
古絵図によると、江戸末期にあった天守は黒田直純が久留里城を再築・拡張した際に建てられた二層二階だったようだが、この模擬天守は浜松城の復興天守をモデルとした鉄筋コンクリート製二層三階の建物である。
模擬天守の脇には本来の天守が建っていたとされる天守台跡が残っていた。発掘調査では礎石が発見され、現在は埋没保存され、その上に天守台風に盛土がされていた:
発掘調査で発見された礎石は内側と外側に二重に配され、内側は正方形、外側は長方形を呈していた。これらの配列状況から天守台の上には二層二階の建物があったと推定され、近世初期の天守様式である望楼風天守だんたのではないかと考えられている:
本丸跡の北側には土塁が残り、その上には丹生《ニウ》廟遺跡の碑が建っていた:
こちらは土塁の上から見下ろした天守台跡の土壇:
次は模擬天守が建つ本丸南側へ。ここには土塁の他に、高さ六尺(1.8m)の瓦葺き・塗籠式の土塀跡が残っていた:
この土塀跡を調査した結果、この付近には虎口があったと推定できるのだと云う:
そして虎口の下にあるのが弥陀《ミダ》曲輪跡。こちらも波多野曲輪同様に本丸の腰郭だった:
本丸南側をのぞき込むと、藪化が進んでいたが、かなりの急崖になっていた:
この後は本丸跡を出て再び二ノ丸跡へ。下りは旧道ではなく新道の城山隧道を使い、これ沿いにも幾つか曲輪が残っていた。
まずは鶴の曲輪跡:
さらに新道を下りていくと久留里曲輪跡がある。この曲輪は上段と下段の二段構えになっていた:
新道を下りていくと結構な急坂だったのがわかるのだが、それだけ改変されている証拠でもある:
このまま下りると駐車場に至るが、そこはちょうど三方を尾根に囲まれた谷戸《ヤト》[d]丘陵に侵食されて形成された谷状の地形のこと。になっていて、戦国時代には居館などが建ち並ぶ場所だったと予想される。城攻め当時は運良く久留里城まつりの開催日だったようで、大勢の人達が訪れていた:
正源寺
この後は久留里街道沿いを歩いて久留里駅方面へ移動し、駅前近くにある福徳山・東陽院・正源寺《ショウゲンジ》へ。この浄土宗寺院は徳治2(1307)年の創建で、天文15(1546)年には久留里城主・里見義堯が母君の菩提寺となったと云う:
ここの山門には、徳川三代将軍・家光の時代に御朱印寺に指定され寺領20石を拝領していたことから、その棟に「三つ葉葵」の御紋があしらわれていた:
徳川の世が終わり新しい時代になると塔頭や末寺は全て焼失し寺領は荒廃して廃寺となったが、この山門だけは焼失を免れたと云う。
こちらは本堂。里見義堯の母の菩提寺で、廃寺後に住職や檀信徒らの努力により復興されて現在に至る:
本堂脇奥には加勢観音堂が建っており、ここには里見家の守護仏である加勢観世音菩薩(立像)が祀られている:
この守護仏の由来は里見義堯がある夜に見た夢だそうで、金色の観音様が夢の中に現れると『義堯よ、油断するな。まもなく小田原より大敵が押し寄せてくる。準備を怠るな。だが心配いたすな。我も加勢する』と告げた上に、その撃退策を授けたという。これが天文23(1554)年晩秋の久留里城下での攻防戦だそうで、敵勢はおよそ2万。多勢に無勢で、初め義堯はいつになく弱気になり「これまでか!」と叫んだが、夢のお告げを思い出し、勇気を奮い起こして観音様の作戦どおりに、自らは観音像を背負って迎撃を始めたところ、敵の矢は味方には一本も当たらず、逆に小田原北條勢は蜘蛛の子を散らすように敗走していった。義堯は夢見心地で背負っていた観音像に手を合わせると、なんと観音像の背中に二本の矢が射さっていた。「おぉ、お告げ通りに加勢して下さった。」それ以来、この観音像を「加勢観音」と崇め、お家の守護仏とした。その後も義堯は、この観音様の助けを受け、難なく数度の戦に勝利したと云う。
この観音像は、のちに城下の民にもその恩恵が下るようにと義堯の母の菩提寺であった正源寺境内に五間四面の御堂を建立して安置されたのだとか。
こちらが加勢観音を安置する御堂と厨子:
久留里城攻め (フォト集)
【参考情報】
- 日本の城探訪(久留里城)
- 久留里城址に建っていた説明板・案内板
- 「ふるさとの歴史と自然をたずねて」のパンフレット(君津市立久留里城址資料館発行)
- 埋もれた古城(久留里城) 〜 南総里見氏全盛期の居城
- タクジローの日本全国お城めぐり(千葉>上総 久留里城)
- Wikipedia(久留里城)
- 加勢観世音菩薩について(浄土宗・福徳山・東陽院・正源寺 > 加勢観世音菩薩について)
- 週刊・日本の城<改訂版>(DeAGOSTINI刊)
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