城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

三方ヶ原古戦場 − The Battle of Mikatagahara

浜松城の前を素通りした武田信玄は、追撃してきた徳川家康勢を三方ヶ原で迎え撃った

永禄12(1569)年の三増峠の戦いで相模国の北條氏康を抑えて事実上、今川領への駿河侵攻を完了させた武田信玄は、元亀3(1573)年10月3日に大軍を率いて徳川家康が領する三河・遠江方面への侵攻を開始した。一方、桶狭間の戦いで旧主・今川義元が斃れてから悲願の独立を目論んでいた家康であったが、清須同盟以降、尾張国を統一した織田信長とは対等な関係ではなく「家臣の一人」として、この新しい主が推し進める天下布武の一翼を担う立場にあった。信玄は、その天下布武の蚊帳の外に追いやられていた足利義秋[a]「義昭」とも。父は室町幕府第12代将軍・足利義晴、兄は同第13代将軍・足利義輝である。奈良興福寺で仏門に仕えていたが、兄が三好長慶と松永久秀に暗殺されると還俗《ゲンゾク》し、細川藤孝らの助けで諸国流浪となった。が号令した信長包囲網に応えるため、山縣昌景・秋山虎繁《アキヤマトラシゲ》[b]諱《イミナ》として有名なのは「信友《ノブトモ》)」。譜代家老衆の一人で武田二十四将にも数えられ、「武田の猛牛」と渾名された。ら5千を別働隊として先発させて信濃・遠江国境にある青崩峠《アオクズレトウゲ》から、そして自らが率いる2万2千の本隊は駿河から大井川を渡って、それぞれ遠江国へ侵攻した。別働隊は徳川方の掛川城高天神城を結ぶ要所にある二俣城を包囲、その間に偵察に現れた本多忠勝ら徳川勢3千を苦もなく蹴散らした後、信玄率いる本隊も合流して二俣城を開城・降伏させると、12月22日には天竜川を渡って南下、甲軍2万7千は怒涛の如く家康が籠城する浜松城に迫ったが、まるで家康をあざ笑うかのように突如、城を迂回して三方ヶ原台地へと向かった。

今となっては、一昨々年《サキオトトシ》は平成27(2015)年の秋、静岡県浜松市にある浜松城跡を攻めてきたが、その後は併せて三方ヶ原古戦場ゆかりの地を巡ってくるつもりだった。当時の予定としては、まず城攻めを終えた浜松城公園から徒歩15分ほどの犀ヶ崖《サイガガケ》古戦場跡へ。それからバスか何か公共機関を使って三方ヶ原古戦場の石碑が建っているとされる三方原墓苑へ移動し、さらにその先にある祝田《ホウダ》の旧坂あたりまで足を伸ばそうと考えていたのだが、犀ケ崖古戦場跡前にある遠鉄バス停留所「さいが崖」から三方原墓苑があるバス停「三方原墓園」へ向かうバスが分からず[c]事前の調査では、とにかくバスの系統が多くて、どの系統がどこまで行くのかが他所者には全然分からなかった。現地へ行けばなんとかなるかと思っていたが、そう簡単ではなかった 😥 。、結局は時間切れのために諦めて帰ってくる羽目に ;(。そういう経緯があって、都合がついたら再び挑戦しようと遠鉄バスのルート検索や路線図[d]これが厄介もので市街地版と全体版とがシームレスにリンクしていないので混乱した。をしっかりと確認していたが、そんな機会が昨年は平成29(2017)年の春に巡ってきたので、やっと訪問することができたと云う次第 ;)


「三方ヶ原の戦い」は、いわゆる武田信玄がおこした「西上作戦」の中の一つの出来事であった説が専らとなっているが、実際のところ、この作戦が将軍・足利義秋が号令した信長包囲網に加わるために京を最終目的地とした上洛戦なのか、あるいは信長を討伐するために最終目的地を岐阜として美濃国と尾張国、そしてその従属下にあった家康の三河国と遠江国への大規模な侵略戦であったのか、現代でも推論が二分するところである。
ただ確かなことは、その途中で信玄が病にたおれ、作戦を中止して甲斐国へ撤退中に信濃国駒場[e]現在の長野県下伊那郡阿智村《ナガノケン・シモイナグン・アチムラ》。記録によると、駒場へ抜ける途中で息を引き取り、この村の長岳寺近くで極秘に火葬されたと云う。で死去するという、誰も予想だにしていなかった結末になったと云うことである。

こちらは三方ヶ原古戦場跡とされる三方原墓園に立っていた説明図で、武田軍と徳川軍の移動経路と古戦場拡大図が描かれていた:

甲軍の進行ルートの他に、両軍が激突した位置にも諸説ある

三方ヶ原の戦いへ至る各軍の動き

さらに「三方ヶ原の戦い」には他にも解明されていない謎がいろいろ残されていることでも知られており、その一つに武田軍の侵攻ルートがある:

【従来説】
元亀3(1572)年に本隊である2万2千[f]そのうち小田原北條氏の援軍が2千とされる。の大軍を率いて甲府の躑躅ヶ崎館を進発すると、山縣昌景率いる別働隊5千と共に諏訪へ北上した後、高遠城がある信濃国伊那郡から高根城へ南下し、標高1082mの青崩峠から遠江国へ侵攻、さらに南下したところの犬居城で馬場信春に5千を託して東へ向かわせ、自らは1万7千の軍勢で二俣城を包囲する。一方、山縣昌景と秋山虎繁率いる別働隊は高遠城から信濃・美濃国境にある岩村城を攻略し、そのまま南下して三河国に入り、二俣城包囲中の本隊に合流、二俣城を開城させた後は天竜川(馬込川)を渡河して浜松城へ向かうが、突如、大菩薩から変針して三方ヶ原台地へ。

この説は上述の説明図の破線のルートと橙色のルートにあたる。一方、最近の研究では次の新説がある:

【新説】
元亀3(1572)年に甲府を進発するまでは同じで、2万2千の本隊を率いて南下した信玄は、既に支配下にあった駿河国を経由して大井川を渡河し、遠江国へ侵攻すると二俣城へ向かった。その途中、浜松城から強行偵察を目的として出陣していた本多忠勝ら徳川勢と一言坂[g]現在の静岡県磐田市一言。付近で遭遇し、武田軍が徳川軍を猛追して蹴散らした。一方、信濃・遠江国境にある青崩峠から遠江国へ侵攻したのは山縣昌景率いる5千の別働隊で、南下途中、徳川方に付いていた北遠の国衆らを撃破しつつ、本隊が包囲する二俣城へ向かった。二俣城を開城させた後は従来説と同じで、浜松城を攻めることなく三方ヶ原台地へ。

こちらの新説が説明図の赤色実線のルートにあたる。但し、現在でも小説や歴史解読物は従来説を取るものが多い。

そして同じように諸説あるのが、実際の合戦場となった三方ヶ原古戦場の位置:

この図だと、現在の三方原墓園付近が古戦場跡になっていた

三方原古戦場拡大図

その中には、かの有名な大久保彦左衛門が記した『三河物語』の、三方原台地の北端にある祝田の坂上で信玄が浜松城から出てくる家康を待ち構えていたというもの。ただ、その信憑性は今一つされているのも事実で、例えば敵(徳川勢)に背を向けて、自軍(武田勢)が攻撃にさらされる状態で坂を下るといった戦術を信玄がとるかどうか。また三方原台地で2万を越える大軍勢を小休止させた後とはいえ、すぐさま反転させて徳川軍を追撃するというのは無理があるとか、織田方の援軍で戦死した平手汎秀が戦死した場所が浜松城より南にあり遠すぎるとか。
ただ個人的には、孫子の兵法を熟知している信玄なら敵の意図の裏をかくような戦術をとったんじゃないかなぁと思うが;)

こちらはGoogle Earth 3Dを利用して、現代に残る古戦場跡の場所と、三方ヶ原の戦いに至るまでの武田勢と徳川勢の動き[h]一部割愛、また一部想像を含む。を現代の地勢図上に重畳させたもの:

現在観ることができるゆかりの古戦場跡や名所を浜松市近郊の地勢図上に重畳したもの(一部割愛、一部想像有り)

三方ヶ原の戦いゆかりの古戦場図(拡大版)

信玄率いる武田軍の【新説】侵攻ルートと、居城・浜松城を飛び出した家康がそれぞれ三方ヶ原台地へ向かう経路

三方ヶ原の戦いに至る各軍の動き(拡大版)

本訪問記では二俣城攻めと一言坂古戦場を除く三方ヶ原の戦いゆかりの古戦場跡を、二回に渡って巡ってきた順に紹介する。

鎧掛松

浜松城公園近くの浜松市役所西側にある家康公鎧掛松。浜松城攻めの際に遠州鉄道線・遠州病院駅から浜松城公園へ向かう途中に見かけた:

三方ヶ原の戦いに敗れて浜松城へ撤退した家康が鎧を脱いで掛けた場所

家康公鎧掛松

この鎧掛松《ヨロイカケマツ》は、三方ヶ原の戦いに惨敗した家康が居城である浜松城へ逃げ帰る途中、ここで休憩し、着用していた鎧を脱いで掛けたと伝わる。但し、言い伝えられた場所はここではなく、この松は昭和56(1981)年に元城町内の人びとによって植樹された三代目。本来の松は浜松城内の堀そばにあったのだとか。

家康公鎧掛松
静岡県浜松市中区元城町103-2

 

犀ケ崖古戦場跡

浜松城公園出入口6から、市役所前の通りを北上し、姫街道こと国道R257と合流してからさらに15分ほど歩いて行き、館山寺街道との交差点近くにあるのが犀ケ崖《サイガガケ》公園で、ここが昭和14(1939)年に県指定史跡となった犀ケ崖古戦場跡である。ちょうど訪問した年の平成27(2015)年4月に資料館がリニューアルされていた:

三方ヶ原の戦いで惨敗した徳川勢が一矢報いるために武田軍に夜襲した場所

史跡・犀ケ崖

元亀3(1753)年12月22日、三方ヶ原の戦いで惨敗し、まさしく這う這うの体で浜松城へ逃げ込んだ徳川勢を猛追してきた武田勢は一気に城攻めせずに、水の手があるここ犀ケ崖で野営することにした。その夜、なんとか一矢報いたい家康は天野康景《アマノ・ヤスカゲ》・大久保忠世《オオクボ・タダヨ》らに命じて夜襲をかけた。武田勢がこの辺りの地理に詳しくないのに加えて、三方ヶ原台地の縁が水触によって陥没し東西2kmに渡って深く急な崖が連続していた場所ともあり、多くの武田勢が馬もろとも崖に追い落とされたと云う。

一説によれば、夜襲の際に布を橋に見せかけて誤認させたとか、城近くにある寺に火を放ち浜松城が炎上しているように見せかけ、十数丁の鉄砲だけで敵勢を狼狽させたなど、かなり荒唐無稽な伝説が残っている他、記録によって徳川・武田の死傷者数が大きく異なっている上、後年に江戸幕府が「犀ケ崖の奇襲」などと宣伝した感もあることから、この夜襲の成果について信憑性はそれほど高くない。

こちらが現在の犀ケ崖:

この柵の下が急崖になっていた

「史跡・犀ケ崖」

公園側から下をのぞいて見ると、かなりの堆積と藪化が進んでいたが、急崖であった雰囲気は残っていた:

公園敷地から見下ろしたが藪化が激しくて分かりづらいものの、年月を考えるとかなりの急崖だったと予想できる

犀ケ崖(拡大版)

往時の犀ケ崖は深さ40m以上、幅50m以上、長さ2kmにも及ぶ複雑な地形だったと云う。この夜襲で武田軍は浜松城攻めを諦め、ほぼ兵力を温存した状態で越年し、翌4(1573)年正月に東三河へ侵攻した。

これは公園内に立つ旗立て松。三方ヶ原から敗走してくる徳川勢に対し、大久保忠世が逃げてくる味方の目印になるよう「厭離穢土欣求浄土《オンリエド・ゴンクジョウド》」と記した旗を立てたとされるが、往時の松は既に虫食いで消滅している:

「厭離穢土欣求浄土」の旗を立てたとされる場所で、往時の松は消滅していた

旗立ての松跡

また、ここ犀ケ崖公園には三方ヶ原の戦いで惨敗し撤退する家康を助けるため討ち死にした多くの勇士を称える石碑が建っていた。
まずは旗立て松脇にあった本多肥後守忠真顕彰の碑:

家康の撤退を助けるために自ら殿を務め討ち死にした忠義を称えた碑

「本多肥後守忠真顕彰」の碑

本多肥後守は徳川四天王の一人である本多平八郎忠勝の叔父にあたる人物で、この三方ヶ原の戦いで大敗した家康が撤退する際に殿を買って出たと云う。道の左右に旗指物を突き刺し、「ここから後ろへは一歩も引かぬ」と大音声で、追撃に出た武田勢に刀一本で斬りこみ討ち死にしたと云う。享年39。明治時代に彼の子孫が建立した碑には、本多家が代々松平家(徳川家)に仕えたこと、そして忠真の数々の功績が記されている。

そして犀ケ崖公園と国道R257を挟んで向かいに立っていたのが夏目次郎左衛門吉信《ナツメ・ジロウザエモン・ヨシノブ》の碑:

三方ケ原の戦で敗走した家康の身代わりを務めて討死した勇士の一人

「夏目次郎左衛門吉信」の碑

吉信[i]明治の文豪・夏目漱石は夏目氏の後裔にあたる。は三方ヶ原の戦いでは浜松城にあって留守居を務めていたが、物見櫓から敗走してくる味方の旗色が悪いことを見抜き、急いで迎えに駆けつけた。この時、放心状態の家康に急ぎ浜松の城へ退くよう強く説得、自身は家康の身代わりとなって討ち死にした。享年55。彼は先年の三河一向一揆の首謀者の一人で、往時は家康と対立していた人物であったが、のちに許され配下に加わった。この死は、その恩に報いた形となった。

犀ケ崖古戦場跡
静岡県浜松市中区鹿谷町25-10

三方ヶ原古戦場跡

昨年は平成29(2017)年の春に改めて三方ヶ原古戦場跡を巡ってきた。犀ケ崖古戦場跡を巡ってから実に二年越しの実現となった。今回は、前回と同じ轍を踏まず、しっかりと遠鉄バスを確認しておいた。この日は浜松駅近くの宿をチェックアウトして、そのまま浜松駅北口バスターミナル#15のりばから遠鉄バス45(浜松駅−聖隷病院−奥山)・奥山行き[j]このバスは浜松駅から井伊家菩提寺の龍潭寺や井伊谷城跡へ向かうバスでもある。に乗車。朝8時半すぎに出て「別院」なる停留所に着いたのが朝9時すぎ[k]料金は片道500円(当時)。平日朝で、片道一車線の国道R257が混雑したのでやや遅い到着になったが。。バス停から国道沿いにしばらく歩いて行くと右手に三方原墓園が見えてくるが、よく見るとなんと墓園の目の前にバス停「静光園入口」があるではないか :O

そして墓園の入口あたりに三方ヶ原古戦場碑があるので直ぐ分かるはず:

三方原歴史文化保存会有志によるもので、後世に伝えるのが目的だとか

三方ヶ原の戦いの説明文

三方ヶ原台地の一角に立つ石碑であるが、ここが戦場と云うわけではない

「三方原古戦場」の碑

なお、実際の戦場は三方ヶ原台地であったこと以外に詳細は不明で、この石碑は昭和59(1984)年に長く歴史を伝えるという目的で「三方原歴史文化保存会」なる有志の手により、ここ三方ヶ原台地の一角に建立されたものらしい[l]個人的には子細が不明な歴史を後世に伝えるって意味あるのだろうかと思った。あるいは間違った歴史を伝えてはいないだろうかとか。少し無責任な感じがするが。。その題字は徳川宗家18代当主・徳川恒孝《トクガワ・ツネナリ》氏のもの。

こちらは三方原墓園の駐車場。往時はここが戦場の一つだったのだろうか:

三方ヶ原の戦いの戦場は広範囲に及んでいるとされ、石碑が立つここが戦場だったかどうかは不明である

三方原墓園の駐車場(拡大版)

二俣城を開城させ、家康ら8千が籠城する浜松城へ向かった信玄と約2万7千の軍勢は、城の手前の大菩薩[m]現在の静岡県浜松市東区有玉西町あたり。から突如、北西に変針して三方ヶ原台地へ向かった。これは、長期の籠城戦を覚悟していた家康にとっては想定外の展開となった。すると家康は、すぐさま織田の援軍を含む約1万1千の軍勢をもって自ら浜松城を出陣、台地の上りで伸びきっているであろう武田勢の横腹を突く作戦で、信玄を追撃した。これが老練な信玄の罠であることは分かっていたが、血気盛んな齢31の家康には籠城戦で武田勢を釘付けにできなくなった時点で、追撃する他に手段が無かったのである。すなわち、家康の盟主である信長から「信玄坊主を遠江から一歩も出すな」と厳命されていたのだ。この時、畿内で本願寺ら反信長勢力との対応に追われていた信長にとって東西からの挟撃は避けねばならぬシナリオであった。武田勢が三河国を抜けて尾張国、そして美濃国の岐阜へと無人の野を往くが如く突き進ませることを何としても阻止しなければならなかった。


三方原墓園駐車場敷地内
静岡県浜松市北区根洗町730

根洗い松

三方原墓園を出て、再び国道R257沿いを北へ向かって10分ほど歩いて行くと一つ目の交差点が見えてくるが、この交差点を左折した直ぐ脇が信玄が本陣を置いていたとされる場所で、そこに立つ松の木が根洗い松と呼ばれている:

この辺りが、三方ヶ原の戦いで信玄が本陣を置いたところとされる

根洗交差点脇に立つ根洗い松

これが根洗い松(二代目)。徳川勢を祝田《ホウダ》の坂へおびき寄せるため、武田方の物見兵が、この松の木に登って周囲を見張っていたと云う:

祝田の坂へ下るを見せかけて徳川勢をおびき出すため、この松の木に物見を登らせて周囲を見張っていたと云う

根洗い松(二代目)

この松がここ「根洗町」の発祥となったらしい

「根洗町発祥の松」の碑

根洗い松
静岡県浜松市北区根洗町

祝田坂とその旧道

根洗い松と道路を挟んだ向かい側には祝田坂《ホウダザカ》の旧道の入口がある:

奥に見える国道は新道で、往時は左手の旧道を使って祝田坂へ向かった

「祝田坂への旧道」の碑

前述の三方原歴史文化保存会によれば、信玄が家康をおびき寄せるために下ったとされる祝田坂へは、ここ先(写真左手)の道を使ったそうで、(写真奥に見える)国道R257の方は新道にあたるのだそうだ。

こちらが現在の旧道:

国道になっている新道ではなく、その一本東の道から祝田坂へ向かった

祝田坂への旧道

この旧道を進んで県道R305を渡り、そのまま道なりに歩いていくと正面に鉄塔が見えてくるので、そちらへ向かう小道を進んでいくと[n]旧道の碑から徒歩10分程。、祝田の旧坂が見えてくる:

旧道の碑からこの鉄塔を目指して10分ほど北へ歩いて行く

祝田坂へ向かう旧道

このまま正面の山路のように見える坂を下っていくと祝田坂らしい

祝田の旧坂入口

先ほどの根洗い松から約700mの場所にある幅1〜3mほどの坂道が祝田坂とされている。その左手は三方原台地に深く切れ込む谷になっており、それに沿うように付けられた坂と谷との比高差は40mほどで、現在は藪化は進んでいたが良い状態で残っていた:

バスに乗ると分かるが国道が通る新道側も坂になっている

祝田の旧坂

家康は、2万7千の武田勢が細い祝田坂を下るところを攻撃すれば勝機ありとして、織田からの援軍3千を加えた1万1千を率いて攻撃にかかろうとしたが、既に信玄は坂の手前で反転し魚鱗の陣形で待ち構えていた。家康は少ない自軍を援軍が多いと見せかけるため敢えて鶴翼の陣で対峙した:

【武田軍】2万7千

武田信玄(本陣)と一門衆、諏訪四郎勝頼、高坂弾正昌信、眞田源太左衛門信綱、内藤修理亮昌豊、山縣三郎兵衛昌景、穴山左衛門大夫信君、小山田左衛尉信茂、土屋右衛門尉昌続、馬場美濃守信房、他

        【小田原北條軍(援軍)】

         清水太郎左衛門尉政勝

【徳川軍】1万1千

徳川家康(本陣)、内藤三左衛門信成、酒井左衛門尉忠次、本多平八郎忠勝、榊原式部大輔康政、大久保七郎衛門忠世、石川伯耆守数正、鳥居彦右衛門尉元忠、服部石見守正成、他

         【織田軍(援軍)】

          平手甚左衛門汎秀、佐久間右衛門信盛、林佐渡守秀貞、水野下野守信元、他

そして、徳川軍前衛の石川数正隊と武田軍前衛の小山田信茂隊との間で投石合戦が始って合戦の火蓋が切られると、二倍の兵力を持つ武田勢の猛攻でわずか一刻(二時間)余りで徳川勢は総崩れとなり潰走、家康は九死に一生を得、夏目吉信や鈴木久三郎らを身代わりに、僅かな供回りだけで浜松城へ逃げ帰った。家臣の一割を失い意気消沈していた家康だが、自分の惨めな負け姿を「しかみ像」なる絵に残し、後世の戒めとしたのは有名である[o]近年、この像と三方ヶ原の戦いを関連付ける根拠がないとの説が有力視されており、「後世の戒め」を目的に描かれたと云う説が見直されている。


こちらが現在の祝田の旧坂。家康は、この坂を2万の軍勢が下っている隙を突いて奇襲をかけようとしたが、一つも二つの上手な信玄は下り坂の途中から反転し、根洗い松あたりで迎撃態勢を整えていたと云う説が有力。他には三方ヶ原台地へ変針した大菩薩で両軍が衝突したという説がある:

右手の三方ヶ原台地に深く切れ込む谷が左手に続き、それに沿って細長い坂が北へ向かって延びている

現在の祝田の旧坂(拡大版)

左手は谷、右手は丘陵で、現在でも良い状態で残っていた

祝田の旧坂

この祝田の旧坂を下って行くと国道R257と合流するので、すぐ近くの遠鉄バスの「祝田南」なる停留場から乗車して浜松駅へ戻ることが出来た。

祝田の旧坂
静岡県浜松市北区細江町中川6965

See Also三方ヶ原犀ケ崖古戦場 (フォト集)
See Also三方ヶ原古戦場めぐり (フォト集)

【参考情報】

  • 『犀ケ崖古戦場』と『犀ケ崖周辺の見どころ』のパンフレット(浜松市)
  • 近江の城郭 – 三方原の古戦場を訪ねる(リンク切れ
  • 家康くんのぶら~り探訪記(浜松市)(リンク切れ
  • Wikipedia(三方ヶ原の戦い)
  • 池上遼一・工藤かずや『信長 〜 三方ヶ原の章』(小学館刊)
  • 週刊・日本の城<改訂版>(DeAGOSTINI刊)

参照

参照
a 「義昭」とも。父は室町幕府第12代将軍・足利義晴、兄は同第13代将軍・足利義輝である。奈良興福寺で仏門に仕えていたが、兄が三好長慶と松永久秀に暗殺されると還俗《ゲンゾク》し、細川藤孝らの助けで諸国流浪となった。
b 諱《イミナ》として有名なのは「信友《ノブトモ》)」。譜代家老衆の一人で武田二十四将にも数えられ、「武田の猛牛」と渾名された。
c 事前の調査では、とにかくバスの系統が多くて、どの系統がどこまで行くのかが他所者には全然分からなかった。現地へ行けばなんとかなるかと思っていたが、そう簡単ではなかった 😥 。
d これが厄介もので市街地版と全体版とがシームレスにリンクしていないので混乱した。
e 現在の長野県下伊那郡阿智村《ナガノケン・シモイナグン・アチムラ》。記録によると、駒場へ抜ける途中で息を引き取り、この村の長岳寺近くで極秘に火葬されたと云う。
f そのうち小田原北條氏の援軍が2千とされる。
g 現在の静岡県磐田市一言。
h 一部割愛、また一部想像を含む。
i 明治の文豪・夏目漱石は夏目氏の後裔にあたる。
j このバスは浜松駅から井伊家菩提寺の龍潭寺や井伊谷城跡へ向かうバスでもある。
k 料金は片道500円(当時)。平日朝で、片道一車線の国道R257が混雑したのでやや遅い到着になったが。
l 個人的には子細が不明な歴史を後世に伝えるって意味あるのだろうかと思った。あるいは間違った歴史を伝えてはいないだろうかとか。少し無責任な感じがするが。
m 現在の静岡県浜松市東区有玉西町あたり。
n 旧道の碑から徒歩10分程。
o 近年、この像と三方ヶ原の戦いを関連付ける根拠がないとの説が有力視されており、「後世の戒め」を目的に描かれたと云う説が見直されている。

1 個のコメント

  1. ミケフォ

    二度目にやっと三方原墓園に行くことができたが、この前日には三方ヶ原つながりで二俣城を攻めてきた。そして三方ヶ原古戦場を訪問した後は、さらに井伊谷城や龍潭寺まで足を伸ばす予定だったが雨で諦めることになった。こうしてみると、ホント浜松(と浜松餃子)とは相性が悪いなぁ 😥

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