甲州流築城術が僅かに残る小山城のニ郭跡には雰囲気を伝えるために模擬天守が建つ

かって大井川の渡しと駿河湾沿いの街道が交錯する要衝に位置し、東に湯日川(ゆいがわ)を望む舌状(ぜつじょう)台地の能満寺山(のうまんじやま)先端に築かれていた山崎の砦は、「海道一の弓取り[a]「海道」は東海道を表し、特に駿河国の戦国大名であった今川義元の異名として使われる。」と云われた今川義元亡きあとの元亀元(1570)年に、共に駿河国に侵攻した甲斐武田と三河徳川両軍が大井川を挟んだ領有権争いに発展した際に争奪戦を繰り広げた城砦(じょうさい)の一つであった。その翌年、武田信玄は本格的な遠江侵攻を前に2万5千の甲軍で大井川を渡河して山崎の砦を強襲・奪取した。そして駿州田中城と同様に、馬場美濃守信房に命じて砦を連郭式平山城に改修させて小山城[b]同名の城が他の地域にもあるのでタイトルのみ国名を冠し、本文中は「小山城」とした。と改め、城主には越後浪人で足軽大将の大熊備前守朝秀(おおくま・びぜんのかみ・ともひで)を置いて高天神城攻略の拠点とした。今なお甲州流築城術の面影が残る小山城は、現在は静岡県榛原郡(しずおかけん・はいばらぐん)吉田町片岡の能満寺山公園として、台地西側には三重の三日月堀が残っている他、ニ郭跡には丸馬出が復元[c]但し、発掘調査では丸馬出の遺構は発見されていない。・整備されている。また昭和62(1987)年には吉田町のシンボルとして、往時には存在していない三層五階・天守閣型の展望施設を建設し、富士山や南アルプスを一望できる観光名所となっている。

一昨々年(さきおととし)は平成27(2015)年の秋、一泊二日で静岡県の城攻めへ。初日は生憎の大雨で:$、午後になっても止む気配はなかったものの、幾分か降りが弱くなってくれた。そんな中、午前中の城攻めを終えて最寄り駅の西焼津から再びJR東海道本線で島田へ。そして島田駅北口から静鉄バスの島田静波線(静波海岸入口方面)で30分ほどの片岡北[d]当時は片道470円だった。まで。ただ少し行き過ぎた所に停留所があるので10分ほど歩いて戻って能満寺山公園へ。実は予定では途中にある鰻屋でお昼でも摂ろうかと思っていたのだが、到着が14:00過ぎともあって閉店直後だった :O。残念。

こちらは Google Earth 3D を利用して、今回攻めた小山城(と田中城)と、その周辺にある城との位置関係を示したもの:

今回は、他に田中城跡を攻めてきたが、それ以外の城跡は既に攻略済み

小山城とその周辺の城(Google Earth より)

この地理的情勢(Topography)を見てわかるように、駿河国を手中に収めた信玄にとって、小山城と諏訪原城は大井川の向こう側にあるわけで、緒戦で小山城を落とし、次いで諏訪原城を築城したことで遠江国を手に入れんとする意図がはっきりと分かる。もちろん、その先にある家康の本拠地・三河国まで頭にあったのかもしれない。

これは能満寺山公園の駐車場脇から見上げた遠景。舌状台地の上に築かれていた山崎の砦が甲州流築城術によって連郭式平山城に改修され、現在もなおその面影を残していた。但し、天守は存在せず、現在建つ模擬天守は昭和の時代に建設されたもの:

比高20mほどの舌状台地の先端部を利用して築かれた山崎の砦を始まりとされる

小山城遠景

そして駐車場脇に建っていた「能満寺山公園案内図」。模擬天守[e]正確には「吉田町展望台」と呼び、小山城址もまた「展望台小山城」と呼ぶらしいが、ここでは模擬天守、小山城でそれぞれ統一した。が建つ小山城跡へ向かうには、まず国指定天然記念物「大ソテツ」のある能満寺へ向かい、その脇から登ることになる[f]ここには傾斜がキツく直線的な階段の「男坂」と、なだらかな坂をゆっくり登る「女坂」がある。が、西側に大手門のある大手道に対して、こちらは搦手道になるのだろうか:

小山城跡へ向かうには西側にある大手道の他に、ここ駐車場から登る搦手道があるようだ

「能満寺山公園案内図」(拡大版)

この模型は模擬天守内の博物館に展示されていたもの(ちなみに、右手前下にあるのが能満寺の大ソテツ):

模擬天守(展望台)の博物館に展示されていた模型で、舌状台地の上に築かれた連郭式縄張であったのがよく分かる

小山城址模型(拡大版)

この模型の縄張図を強調してみた:

南東側から見た小山城で、主郭・ニ郭・三郭は空堀で仕切られていた

小山城址縄張図

舌状台地の先端に主郭があり、その先の湯日川が天然の外堀だった

小山城縄張図(コメント付き)


こちらが能満寺。右手に「ニョキッ」と見えるのが大ソテツ(国指定天然記念物)[g]日本三大ソテツの一つと云われる代表的巨樹で、平安時代の陰陽師・安倍晴明(おんみょうじ・あべのせいめい)が中国から持ち帰って植えたものとされる。

この左手脇に登城道がある

能満寺

能満寺の脇にある登城道を登った先には主郭の一段下に設けられた腰郭があり、そこには虚空蔵尊を祀る御堂が建っていた。

そして、更に登って虎口を抜けた先が主郭跡である:

この先が舌状台地の先端で、現在は四阿があるが櫓が建っていたかも

主郭跡

こちらは台地の先端から眺めた主郭跡:

城内で最も広い郭であるので、御殿や蔵などが建っていたかも知れない

主郭跡

そして、この主郭跡とニ郭跡の間には空堀と、虎口をつなぐ土橋が復元されていた。ちなみに土橋の上に架かる赤い色の橋は公園施設の一部である:

空堀を挟んで左手がニ郭跡、右手が主郭で、その間の土橋が復元されていた

主郭とニ郭の間の空堀(復元)

土橋は主郭の虎口の前に設けられ、虎口はいわゆる本丸の入口にあたる。土橋が狭く造られているのは、いざという時の寄せ手の侵攻を防ぐために有効であった:

虎口前(右手)に復元された土橋の上にある赤い橋は公園設備の一部ある

土橋(復元)

手前がニ郭跡、土橋(赤い橋)の向こうが虎口跡、そして主郭跡になる

虎口跡

土橋を渡ってニ郭跡へ進むと、まず馬出郭がある。土塁で囲まれた半円形の区画は人と馬の出入りを、この先の寄せ手には知られないように工夫して築いたもの:

甲州流築城術の一つで、この馬出とそれを囲む半円状の三日月堀とを合わせて「丸馬出」と呼んでいる

復元された馬出郭(拡大版)

この馬出郭を囲んでいうるのが三日月堀:

三日月形をした堀で馬出を覆っているのが甲州流の特徴である

三日月堀(復元)

甲州流築城術では馬出を三日月堀を合わせて丸馬出と呼ぶ:

こちらは復元であるが、左手の三郭跡には三重の三日月堀が現存する

三日月堀(復元)

土塁に囲まれた半円状の郭は攻撃と防御の両方を兼ね備えてた施設

馬出(復元)

ニ郭跡には、近郷一望できる展望台を持つ模擬天守が建っているが、先に三郭跡に残る三重の三日月堀や大手門跡、そして郷土資料館を観ることにした。
で、こちらが現存する三重の三日月堀。この時期はさすが藪化が激しくて形状が良くわからなかったが:

南(右手)からの守りを堅固にするために堀を3つ並べにしたもの

三日月堀

上から見ると藪化でわかりづらいが、実際に土塁を歩くと分かる

三日月堀(コメントあり)

こちらは1本目と2本目の三日月堀:

これは三本あるうちの1本目と2本目の三日月堀

三日月堀

堀の横側から見ると三日月堀になっているのがわかる

三日月堀(コメント付き)

こちらは2本目と3本目の三日月堀:

これは三本あるうちの2本目と3本目の三日月堀

三日月堀

堀の横側から見ると三日月堀になっているのがわかる

三日月堀(コメント付き)

三重堀の横(東南側)には小さな郭があり馬出らしいが、どちらかと云うと横矢するための出郭といった感じだった:

案内板には馬出とあったが、手前に向かう寄せ手に横矢を入れる郭にもみえる

出郭

次は、三重堀の反対側(南西側)へ移動し大手門跡へ。現在は、往時の趣を伝えるような冠木門(模擬)が建っていた:

それなりに雰囲気を持つ冠木門が再現されていた

小山城大手門跡

三重堀の一番外側にある三日月堀の堀底には勘助井戸なる窪みがあった。「勘助」とは武田氏の軍師と云われた山本勘介晴幸と関係があるらしいが、説明板を読んでもよく理解できなかった:

説明板には「山本勘介の声がかかっていると伝えられている井戸です。」とあった

勘助井戸

大手口から見ると、三重堀のうち真中の三日月堀には水が溜まっていた。ここを水源として利用していたのであろうか:

三重堀のうち真ん中の三日月堀には水が溜まっていた

三日月堀(拡大版)

水をためておいて水源としても利用していたのであろう

三日月堀

この後は郷土資料館を観賞して、展望台のある模擬天守へ。この建物は望楼型三層五階(三階から四階は吹き抜け)で、一階と二階は史料展示室として吉田町ゆかりの歴史史料の他、武田家にゆかりのある甲冑(レプリカ)などが展示されていた:

昭和62(1987)年に吉田町のシンボルとして建てられた「展望台小山城」は尾張の犬山城をモデルにしている

模擬天守(拡大版)

馬場美濃守信房によって甲州流築城術で改修された小山城は、天正元(1573)年の信玄病没、そして同3(1576)年の長篠設楽原の戦を経て織田・徳川勢に対して劣勢となると、同年に諏訪原城が落城、同9(1581)年には高天神城が攻略された。こうなると、もはや武田勝頼からの後詰を期待することができなくなり、同10(1582)年2月に城兵は城を捨てて甲州へ落ち延びた。これにより小山城は徳川勢が領有することになり、ほどなく廃城となった。


こちらは史料展示室に展示されいてた甲冑のレプリカ:

「金子札武田信玄鎧写」や「紺糸威赤鎧二枚胴具足」といった武田家にゆかりある具足のレプリカ

具足のレプリカ(拡大版)

あるいは「武田勝頼公」と「武田信玄公」の肖像画(想像図)とか:

戦国時代屈指の武将である武田信玄とその四子である勝頼の肖像を想像したもの

武田勝頼と武田信玄の肖像画(拡大版)

武田二十四将図や武田信玄坐像などの掛軸に混じって、徳川氏の家紋・葵の御紋がついた化粧箱などもあった:

中央の「武田二十四将図」は江戸時代に描かれたものだが、結構な数の類似品が出回っている

武田氏ゆかりの肖像画など(拡大版)

これらの兜が発掘調査で出土したものなのか、またはどこかに保存されていたものか、あるいは全く無関係なものなのか判断はつかなかった:

これについての説明は全く無かった

頭形兜(ずなり・かぶと)

これについての説明は全く無かった

鉄四枚張り兜

左手は戦国時代に使われた当世具足(とうせい・ぐそく)のレプリカ、右手は室町末期から戦国初期の時代に大将が着用していた紺糸威総懸二枚胴具足(こんいとおどし・そうがけ・にまいどうぐそく)のレプリカ:

左手は戦国初期の当世具足、右手は室町後期の紺糸威総懸二枚胴具足

紺糸威総懸二枚胴具足など

そして二階にある日本庭園を観賞してから、模擬天守最上階にある展望エリアへ。まずはニ郭跡に復元された丸馬出と空堀の眺め。上から見ると三日月堀の形がよく分かる:

模擬天守が城域から少し外れた所に建ってくれているおかげで、縄張具合がよく分かる構図である

城址西側の眺望(拡大版)

城址北西方面の眺め。この先にある牧野原台地上には諏訪原城跡がある:

かなり遠いが、白い鉄塔が建つ場所が富士山静岡空港で、その先の霞(かすみ)の中に諏訪原城跡がある

城址北西側の眺望(拡大版)

こちらは反対側の城址東側の眺望:

手前が能満寺山公園の駐車場、その先の地平線が駿河湾へつながる

城址南東側の眺望(拡大版))

最後に、展望台内に掲げられていた和凧には遠州小山城主・大熊備前守朝秀(おおくま・びぜんのかみ・ともひで)が描かれていた:

吉田町には他に大熊備前守の屋敷跡や、彼の名が付いたトンネルがある

遠州小山城主・大熊備前守の和凧

大熊朝秀は、もともとは越後の長尾景虎こと上杉謙信麾下にあって、代々勘定方の要職を務めた家柄であったが、彼の土地争いを発端とした家中の派閥対立が激化し、その家中争いに嫌気がさした景虎の出家騒動のドサクサ時に、甲斐武田の支援を受けて謀叛を企てるも失敗、浪人となっていたところを信玄に招聘されて山縣昌景の与力になった。
のちに直臣となって信玄による駿河侵攻に従事して平定に貢献し、山崎の砦を落としてのちに改修された小山城の城主となる。朝秀は騎馬30、足軽75を預かって城を守備し、後陣として相木市兵衛昌朝80騎が置かれた。そして信玄存命中の元亀3(1573)年まで小山城主を務めた。

天正3(1575)年の長篠・設楽原の戦で主君・勝頼が惨敗し、さらに同10(1582)年の織田・徳川両軍による甲州征伐において多くの重臣らが寝返る中、武田家に忠節を尽くし、武田家最後の戦いにおいても勝頼・信勝父子の側にいて最後まで奮戦した数少ない忠臣の一人となった。
朝秀は政務の他、武勇にも優れていたようで、かって信玄に従って上野国の箕輪城を落城させた際、長野業盛(ながの・なりもり)麾下で剣豪として知られていた上泉信綱と一騎打ちを演じたと云う伝説があるらしい。

現在、小山城址近くには往時、朝秀らが居住していた屋敷跡が残っている他、城址西側にある県道R230沿いには「備前守隧道」と名付けられたトンネルがある。

See Also遠江小山城攻めと能満寺 (フォト集)

【参考情報】

参照   [ + ]

a. 「海道」は東海道を表し、特に駿河国の戦国大名であった今川義元の異名として使われる。
b. 同名の城が他の地域にもあるのでタイトルのみ国名を冠し、本文中は「小山城」とした。
c. 但し、発掘調査では丸馬出の遺構は発見されていない。
d. 当時は片道470円だった。
e. 正確には「吉田町展望台」と呼び、小山城址もまた「展望台小山城」と呼ぶらしいが、ここでは模擬天守、小山城でそれぞれ統一した。
f. ここには傾斜がキツく直線的な階段の「男坂」と、なだらかな坂をゆっくり登る「女坂」がある。
g. 日本三大ソテツの一つと云われる代表的巨樹で、平安時代の陰陽師・安倍晴明(おんみょうじ・あべのせいめい)が中国から持ち帰って植えたものとされる。