静岡県浜松市中区元城町にあった浜松城は、元亀元(1570)年に徳川家康が三方原台地の東南端に築城し、駿遠経営の拠点とした城である。東に馬込川[a]もともとは天竜川(天龍川)の本流であり、信濃国の諏訪湖から遠州平野を抜けて西と東に分離して遠州灘(太平洋)へと注いでいた。現在は東の川が本流となって天竜川と呼ばれている。を天然の外堀として、遠州一帯を見渡すことが可能な三方ヶ原台地は、西進の野望に燃える甲斐の武田信玄を牽制できる位置にあり、また信州と遠州をつなぐ秋葉街道と京へ通じる東海道とが交差する要衝でもあった。この城は、駿河今川氏家臣・飯尾(いいお)氏の居城・引馬(ひくま)城[b]曳馬城とも。現在は古城跡として城塁が残っている。ちなみに「馬を引く=戦に敗れる」と云うことで縁起の悪い城の名前を、古名の浜松荘に因んで浜松に改名した。を取り込み、その城域は最終的に南北約500m、東西約400mで、台地の斜面に沿って西北の最高所に天守曲輪、その東に本丸、さらに東南に三の丸を配し、これらの曲輪が一列に並んだ梯郭式平山城である[c]家康の命を受けて築城を担当したのは普請奉行の倉橋宗三郎、木原吉次と小川家次ら惣奉行の三人で、のちに木原は徳川家の大工頭になる。。家康は29〜45歳までの17年間を浜松城で過ごしたが、その間は三方ヶ原の戦い、姉川の戦い、長篠の戦い、そして小牧・長久手の戦いなど、徳川家の存亡に関わる激動の時代であった。ちなみに、家康在城時は石垣造りではなく土の城である。その後、天正18(1590)年の秀吉による関東移封に伴い、豊臣恩顧の堀尾吉晴(ほりお・よしはる)が入城し、城域が現在の規模に拡張され近世城郭へと変貌した。一説に天守が築かれたのもこの時期と云われるが、絵図などには記録が無く、その姿も不明のままである。
一昨々年(さきおととし)は平成27(2015)年の秋、一泊二日で静岡県の城攻めへ。初日は生憎の大雨だったが、最終日は打って変わっての晴天だった。この日の予定としては、午前中に浜松城公園で『徳川三百年の歴史を刻む出世城』こと浜松城を攻めてから、午後は徳川家最大の危機にして大惨敗を喫した三方ヶ原古戦場巡りだった。午後の古戦場跡としては、まずは浜松城公園から徒歩で15分ほどの犀ヶ崖(さいががけ)古戦場を巡り、さらにそこから三方ヶ原古戦の碑が建つ三方原墓苑または祝田(ほうだ)あたりまでバスか何かで移動するつもりだったが、最終的に墓苑までの交通手段が分からずに帰りの時間となってしまい、後日に巡ることにして諦めることになってしまった[d]遠州バスの停留所や時刻表を、もう少し詳しく調べれば良かったと後悔しているが、とにかく「どの路線のどのバスに乗ればよいか?」が分からないくらい他所ものには複雑な路線図だったので、現地で確認することにしたが、もっと分からなかったと云う次第。
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朝、宿泊先をチェックアウトして、その目の前にある遠州鉄道鉄道線・第一通り駅から隣の駅の遠州病院で下車。駅下の西側には「徳川秀忠公誕生の井戸[e]別に秀忠が井戸から生まれた訳ではないのに、何でこんな名前を付けるかな。」なる名跡がある。しかし、当時は工事中で撤去中だった。えっ、井戸が?と思ったが、どうやら撤去されていたのは井戸の石組で、井戸そのものは既に存在しないようだ:
ここは、家康の側室の一人・お愛の方こと西郷局(さいごうのつぼね)が秀忠を生んだ時に産湯として、この辺りにあった井戸の水が使われたと云う伝承にちなむ。実際の井戸はここから西方約50m先にあったようで、家康在城時は下屋敷が構えられていた場所だったと云い、明治の頃まで残っていたらしい。よく回りを見ると井戸の石組が撤去されて奥に置かれていた :
そして、このまま通り沿いに西へ15分ほど歩いていくと浜松城公園(出入口6前)に到着した:
こちらは Google Earth 3D を利用して、現代の浜松城公園周辺と浜松城古図[f]安政元(1854)年の安政東海地震で損壊した石垣や建物の状況を記した絵図。比較的、縄張を正確に描写している資料。をベースにした縄張を重畳させたもの[g]かなり想像を含んでいる。:
城攻めを開始したここ公園出入口6は作左曲輪(さくざ・くるわ)跡に相当し、往時は城の搦手にあたる場所だった:
加えて、家康の祖父にあたる松平清康の代より仕えていた老臣・本多作左衛門重次(ほんだ・さくざえもん・しげつぐ)の屋敷跡でもあるらしい。高力清長(こうりき・きよなが)、天野康景(あまの・やすかげ)と共に三河三奉行の一人として活躍する一方で、隻眼で怒りっぽい性格から「鬼作左」と呼ばれ、三方ヶ原の戦いでも奮闘した武士である。
この屋敷跡については、きたる三方ヶ原の戦いで籠城となり長期戦を心配した家康が作左に兵糧について尋ねたところ、十分に備蓄してあると云われ喜び、この時の米蔵の場所に屋敷を作ることを許したことがはじまりで、のちに城柵を設けて搦手とし、浜松城の西北の護りとした。
ここから清水曲輪跡にある遊歩道を進んでいくと石垣を備えた虎口が見えてきた:
天守曲輪の搦手側にある虎口は埋門だったとされ、特に埋門南側の独特な形をした石垣は「邪(ひずみ)」、または輪取り(わどり)呼ばれ国内の現存例は多くないと云う。その多くが自然石を上下に組み合わせて積み上げた野面積みである。これらの石垣の大部分は家康時代ではなく、秀吉の家臣で後の中老・堀尾吉晴が城主であった時代のもの[h]江戸時代になって何度か積み直しされているが、石材そのものは堀尾氏のものを再利用している。:
また土塁の斜面上半分にだけ石垣を積んだ、いわゆる鉢巻石垣も特徴の一つになっている:
それから虎口を通って天守曲輪跡へ。この曲輪は居住空間を持つ本丸とは別の区画として、本丸よりも高い位置に築かれた郭である。
全国には他に掛川城や和歌山城などに見られるが類例はそれほど多くないのだとか。掛川城は浜松城主の堀尾吉晴と同輩である山内一豊(やまうち・かつとよ)が、そして和歌山城は豊臣秀長がそれぞれ築いていることから、絢爛豪華な城を好んだ豊臣秀吉と深く関わる遺構ともいえる:
浜松城の天守曲輪は東西56m、南北68mの規模で、先程の搦手側の虎口で見た石垣のように、様々な角度で折れ曲がった石垣により多角形をした郭であるのが特徴。
そして曲輪の外周は土塁が巡らされていた:
こちらは埋門跡のそばにある銀明水(ぎんめいすい)と呼ばれていた井戸跡。直径1.3m、深さは現在は1mほどで、水は湧き出ていない:
なお城内には井戸が、天守台に一つ、本丸に一つ、二ノ丸に三つ、作左曲輪に四つ、そしてここ天守曲輪に一つで、合わせて10本あったという。ちなみに天守閣にあった井戸は模擬天守閣を建てた際に、その天守台の穴蔵(地階)に移動されていた。
そして昭和33(1958)年に模擬で復興された望楼型三層三階の天守:
まずは現存している天守台石垣。この石垣は上半分と下半分の石材の色や積み方が異なっており、これにより何度か積み直しが行われていたと推測できる。また、この天守台石垣は一辺21mのややいびつな四角形をしていて、北西側(上写真左手)に八幡台(はちまんだい)と呼ばれる突出部が付いている。また東側(上写真右手)には附櫓と思われる張り出し部分があり、現在は天守への入口として利用されていた。石材は奥浜名湖から浜名湖の水運を利用して運ばれた珪岩(けいがん)による中世城郭に代表的な野面積みであるが、隅石は近世城郭に代表される算木積になっていた[i]このことから天守台石垣は後世の修復や積直しがあったと予想できる。。
浜松城の天守は家康の関東移封後に入城した堀尾吉晴が在城した、天正18(1590)年から関ヶ原の戦後の慶長6(1611)年の間に築かれた説が有力であるが、江戸中期の古絵図には天守が描かれていないことから、江戸前期に無くなっていたと思われている。この復興天守は、築城時期が同じ頃の他の城の天守を参考に望楼型として復興されていたが、天守台石垣の規模からみて往時の大きさより2/3程度になっているらしい:
こちらは天守入口。浜松城公園になって造られた天守閣入口へつながる石段の右手にあるのが附櫓台。往時、天守台は入口のない穴蔵構造だったので、ここに建っていた附櫓を入口として利用した可能性がある:
この附櫓台石垣の中央には鏡石なる巨石が積まれていた。なお、天守曲輪の石垣を含め、これらの石材は佐鳴湖(さなるこ)や浜名湖の水運を利用して奥浜名湖から運ばれたという:
このあとは地上3階、地下1階の鉄筋コンクリート製の復興天守へ。入城料は大人200円(当時)だった。1,2階は家康と城下町浜松にまつわる歴史的史料や武具が展示され、最上階は浜松市街の大パノラマが360度楽しめる展望台で、そして地階に相当する天守台の穴蔵には再建時に移動したと云う井戸が残っていた。
これは徳川家康の3次元復元像。ちょうど訪問した平成27(2015)年、家康公生誕400年記念事業として制作された30歳前後の等身大立像で、手相からシワ、毛穴までが再現されているのが特徴のようだ。確かに近くによって見ると、肌の質感がかなりリアルだった:
家康ゆかりの甲冑で金陀美具足(左)と歯朶具足(右)のレプリカ:
こちらは三方ヶ原の戦い後に描かれたと云う「しかみ像」のレプリカ。家康は、この戦いで敗戦した時の苦渋の姿を肖像画として描き、自分に対する戒めのために生涯にわたり座右から離さなかったと伝えられているのだとか。ちなみに、これを模型にしたものが天守門櫓に展示されていた:
これが天守台の穴蔵に移設された井戸跡。木で囲まれた中に石積みがあるだけで、現在は水は湧いていない:
そして最上階の展望台へ。ただ防護ネットがあるためパノラマ感が若干、落ちていたのは否めないが 。
まずは北方面の眺望。三方ヶ原の戦いがあった三方ヶ原台地が見えた:
南西方面の眺望:
南方面の眺望:
東方面の眺望:
これは展望台から見下ろした八幡台跡。天守台の北西側に突き出した石垣で天守台よりも高く積まれていた。その面積は約40㎡で、城内で最も高い位置(41.9m)になる。城の守護神として八幡大菩薩を祀った場所と云われている:
最後は、微かに見ることができた富士山(赤破線内):
この後は天守曲輪の大手側に建つ天守門へ。こちらは天守曲輪の外周を囲む腰曲輪跡から見た天守門と天守:
こちらが天守曲輪の虎口に建っていた天守門。廃城時に解体された櫓門を、発掘調査で見つかった礎石や「安政元(1854)年浜松城絵図」などをもとに、平成26(2014)年に復元したもの。天守曲輪の外周を囲んでいた土塀は一部だけ復元されていた。この門は櫓門形式で、木造の入母屋造りで本瓦葺き:
こちらは天守門石垣に埋め込まれていた鏡石。これらも築城時のものと同じ奥浜名湖産の珪岩を使って復元されていた:
平成時代の発掘調査では、天守門下に瓦を用いた排水溝の跡が発見された:
そして発掘調査で確認された天守門の礎石。礎石の上に載る門柱6本は不整形な両脇の石垣の開きに沿うように配置されていたとか。また復元された門は、本来の礎石位置を忠実に再現し、埋没保存されている本物の礎石の上に新しい礎石を配置して、そこに門柱を立てていた:
天守門の櫓部分。中は展示室になっていた:
こちらが復元された天守門の内部。極太の垂木受(たるきうけ)が再現されていた:
こちらが「しかみ像」の模型。他にも三方ヶ原の戦いのジオラマが展示されていた:
それから天守曲輪跡を出て本丸跡へ。本丸は、現在は西半分が公園として整備され、残り東半分と二の丸跡が元城小学校の敷地になっていた:
本丸跡に建っていた若き日の家康をイメージした立像:
こちらが、現在は小学校と市役所の敷地になっていた二の丸跡:
二の丸は本丸の東側に隣接した低い位置にあった郭で、城主が居住していた奥御殿と政務を執った表御殿(政庁)が置かれていた。この郭の北の広場には米蔵があり、西側には徳川二代将軍・秀忠の誕生屋敷があった。
そして本丸や天守曲輪の北側にあった西池跡は、かなり改変されていて、現在は公園内の日本庭園になっていた:
江戸時代の浜松城は、その城主が幕府の要職に就いた者が多く[j]兼任を含むと、老中5人、大坂城代2人、京都所司代2人、寺社奉行4人。、「出世城」(しゅっせしろ!)などと呼ばれるようになったと云う。城は明治維新まで残り廃城後は破却され、その空き地は荒廃していたが、昭和25(1950)年に浜松城公園として整備されて現在に至る。
浜松城攻め (フォト集)
【参考情報】
- 日本の城探訪(浜松城)
- 浜松城公園に建っていた説明板
- 「天守門を140年ぶりに復元・浜松城」のパンフレット
- 余湖図コレクション(静岡県浜松市/浜松城)
- Wikipedia(浜松城)
- 週刊・日本の城<改訂版>(DeAGOSTINE刊)
参照
↑a | もともとは天竜川(天龍川)の本流であり、信濃国の諏訪湖から遠州平野を抜けて西と東に分離して遠州灘(太平洋)へと注いでいた。現在は東の川が本流となって天竜川と呼ばれている。 |
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↑b | 曳馬城とも。現在は古城跡として城塁が残っている。ちなみに「馬を引く=戦に敗れる」と云うことで縁起の悪い城の名前を、古名の浜松荘に因んで浜松に改名した。 |
↑c | 家康の命を受けて築城を担当したのは普請奉行の倉橋宗三郎、木原吉次と小川家次ら惣奉行の三人で、のちに木原は徳川家の大工頭になる。 |
↑d | 遠州バスの停留所や時刻表を、もう少し詳しく調べれば良かったと後悔しているが、とにかく「どの路線のどのバスに乗ればよいか?」が分からないくらい他所ものには複雑な路線図だったので、現地で確認することにしたが、もっと分からなかったと云う次第。 |
↑e | 別に秀忠が井戸から生まれた訳ではないのに、何でこんな名前を付けるかな。 |
↑f | 安政元(1854)年の安政東海地震で損壊した石垣や建物の状況を記した絵図。比較的、縄張を正確に描写している資料。 |
↑g | かなり想像を含んでいる。 |
↑h | 江戸時代になって何度か積み直しされているが、石材そのものは堀尾氏のものを再利用している。 |
↑i | このことから天守台石垣は後世の修復や積直しがあったと予想できる。 |
↑j | 兼任を含むと、老中5人、大坂城代2人、京都所司代2人、寺社奉行4人。 |
人生初めての浜松市。最終日のこの日は晴天で良かった。ただ予定していた三方ヶ原墓苑へ向かうまでのバスがどこのバスで何線なのか分からず結局到達できなかったのは残念。静岡県はバス網が発達してる割には路線図が複雑怪奇でもっとわかりやすくするか、簡単に検索できればいいのだけど。全国的に、この辺りのUser Experiencesが低いのが日本の公共機関の実態だなぁ。