四重の堀を同心円状に巡らせた田中城の本丸跡は小学校の敷地になっていた

静岡県藤枝市田中1丁目にあった駿州田中城[a]同名の城が他の地域にもあるのでタイトルのみ国名を冠し、本文中は「田中城」とした。は、鎌倉後期の駿河国にあって一色左衛門尉信茂(いっしき・さえもんのじょう・のぶしげ)[b]一色氏は足利氏の一族で、若狭国・丹後国、そして三河国の守護や、足利幕府の侍所頭人(さむらいどころとうにん)を務めた。なる豪族の居館を拡張したものがその始まりで、のちに駿河と遠江の守護・今川義元の支配下では徳一色城(とくいっしき・じょう)と呼ばれていた。そして義元死後の元亀元(1570)年に、三河国の徳川家康と共に駿河へ侵攻した甲斐国の武田信玄が、駿河湾に面した花沢城攻略の余勢をもって奪取した。信玄は馬場美濃守信房に命じて城を改修させ、ここを諏訪原城と共に大井川を境とした遠江攻略の拠点とした。その際に輪郭式の縄張となって田中城と改められた上に、甲州流築城術が取り入れられて6ヶ所も丸馬出が設けられたと云う。信玄死後の天正3(1575)年に武田勝頼が長篠設楽原の戦で惨敗すると、諏訪原城が家康の手に落ちて孤立し、天正10(1582)年に始まった甲州攻めで駿河へ侵攻した徳川勢に包囲されると、城主・依田信蕃(よだ・のぶしげ)は主家を裏切った穴山梅雪の勧告に従って開城・降伏した。そして駿府城を拠点とした家康は太閤秀吉による関八州移封で一時駿河から離れたが、江戸開府で再び戻ってくると、田中城は鷹狩や上洛時の寄宿で度々訪れるほど、お気に入りの城になったと云う。

一昨々年(さきおととし)は平成27(2015)年の秋、一泊二日で静岡県の城攻めへ。初日は生憎の大雨ではあったが:$、午前中は以前攻めた丸子城の麓にある誓願寺にて、片桐且元公の墓所片桐且元公の墓所を参拝してきた。それから静岡駅へ戻り、JR東海道本線で西焼津へ移動して、徒歩[c]バスもあるようだが平日のみの運行だった(当時)。で片道30分かけた先にある田中城跡を巡ってきた。

こちらは Google Earth 3D を利用して、今回攻めた田中城(と遠州小山城)を中心に、これまで攻めた城との位置関係を示したもの:

今回は、他に小山城跡を攻めてきたが、それ以外の城跡は既に攻略済み

田中城とその周辺の城(Google Earth より)

この地理的情勢(Topography)を見て、田中城をついでに手に入れた武田信玄が大井川の向こうにある諏訪原城と共に、東遠江攻略もまた年頭においていたであろうと思わせる駿河侵攻であったのが、なんとなく分かる気がした。

で、今回は宅地化された城跡を巡る他に、伝・移築門がある旭傳院(ぎょくでんいん)にも立ち寄ってきた:

上から見ると半分は宅地化で埋もれているが輪郭式の城だったのがわかる

城攻めルート(Google Earthより)

城跡へ行く前に旭傳院と下屋敷跡に立ち寄った

城攻めルート(コメント付き)

県道R224の先にある城跡は大部分が宅地化されているのでほとんど遺構はないが、一応は標柱が建っていた。本丸跡に建てられた西益津(にしましづ)小学校は、休日だったので入口脇の前庭まで立ち入った。この小学校前の県道R224の曲がり具合は、往時の縄張の面影を少しだけ残していた。そんな中で下屋敷(したやしき)跡には、本丸に建っていた現存櫓が移築されていた他、江戸時代後期の絵図から復元した冠木門などを観ることができた(リーフレットも入手可):

JR西焼津駅南口 → ①旭傳院 → ②下屋敷跡 → ③西益津小学校周辺 → ④住宅地周辺 → ・・・ → JR西焼津駅南口


まず城下にある①旭傳院(ぎょくでんいん)へ向かった。ここの山門は田中城の不浄門[d]城内から死者や罪人、下肥(しもごえ)などを運び出すために設けられたくぐり門のこと。が移築されたと伝えられている:

旭傳院の山門は田中城の不浄門を移築したものと伝わる

曹洞宗・旭傳院の山門

この田中山・旭傳院は曹洞宗の寺院で、大正末期に開基されたお寺。この移築山門をくぐった先には樹高約25m、幹周約4.3mの樹齢600年(推定)を越える「旭傳院の松」(市指定天然記念物の黒松)が立っていた。

そのあとは田中城の南東隅にあった②下屋敷跡へ。ここは一色氏やその後裔の屋敷跡と伝われ、江戸後期には城主の下屋敷(別荘)が置かれ、茶屋や庭園(築山、泉水)、稲荷社が設けられていたと云う:

平成8(1996)年に江戸後期の頃の田中城ゆかりの櫓などが復元された

史跡・田中城下屋敷

静岡県藤枝市では平成8(1996)年に、この下屋敷跡の庭園を復元するとともに、田中城にゆかりの本丸櫓、茶室、仲間部屋・厩、そして長楽寺村郷蔵などを移築・復元したとのこと。但し、時代が経過して宅地化が進むとともに南側にあった庭園の一部(築山や泉水)などが埋め立てられて畑となった。なお入場料は無料だった(当時)。

こちらは下屋敷で入手した「徳川家康鷹狩の地・田中城〜史跡・田中城下屋敷」のリーフレットに描かれていた田中城縄張図:

右下の赤い枠線内が田中城下屋敷である

田中城縄張図(拡大版)

方形の本丸を中心に、同心円上に堀を巡らした輪郭式平城で、東西南北の四つに加え、南北にそれぞれもう一つ丸馬出を設けるなど甲州流築城術が伺えるが、近年では田中藩初代藩主の酒井忠利(さかい・ただとし)による改修で完成形になったと云う説もあるようだ。そう云われると、この田中城を気に入っていた家康の「隠居城」である駿府城もまた、方形の本丸を幾重の堀や郭で囲んでいたと云う共通点が気になるところである :|

これは冠木門。当時の図面(1/20縮尺)をもとに復元したもの:

屋敷の出入り口に設けられていた門を木造で復元していた

冠木門

下屋敷の外から見上げた移築現存の本丸櫓(市指定有形文化財)。この櫓は田中城の本丸にあったもので、高さ9尺(約2.7m)の石垣の上に建っていた:

田中城の本丸に建ってた木造・二層二階の銅板葺櫓を移築したもの

本丸櫓

こちらは下屋敷内からみた本丸櫓。往時と同様に復元された石垣の上に移築されていた本丸櫓は木造で二層二階、屋根は銅板葺きであるから江戸後期のものと推測されている:

江戸時代後期の建築物とされ、本丸に置かれていたもの

移築現存する本丸櫓

敷地内に残されていた土塁と復元された泉水:

土塁はかなり改変されているように見えた

下屋敷内土塁と泉水

そして下屋敷内にあったとされる茶室。この茶室は民家から、もとは田中藩家老の茶室だと譲与されたものであるが、調査の結果、ここ下屋敷の庭内にあった建物であることが判明した:

田中藩家老の茶室と伝えられているが、下屋敷内の茶室とされている

茶室(市指定有形文化財)

これは仲間部屋(ちゅうげん・べや)の横にあった厩。これは木造平屋瓦葺きの長屋に付属していたもので、この長屋の鬼瓦には享保15(1730)年から田中城主を務めた本多家の家紋である「立葵(たちあおい)紋」が刻まれていたと云う:

仲間部屋の脇には他に納屋と台所があった

仲間部屋の厩

藤枝市郷土博物館所蔵

立葵紋鬼瓦

このあとは下屋敷を出て目の前にある六間川を渡った。その正面が往時の馬場・馬見所で、広さ50間(約90m)の馬場には厩や馬見所などが建っていたと云う。現在は畑になっていた:

約90mの馬場には厩や馬見所などが建っていたと云う

馬場・馬見所跡

そして馬場跡沿いに再び県道R224へ向かって本丸跡を目指して進んで行くと、残念ながら既に宅地化の波に埋もれてしまっているので標柱しか見かけなくなる ;(

まずは作事役所跡。作事役所とは建物の普請や修理を行う役所らしい:

標柱のみで特に説明はなかったので具体的な規模は不明である

作事役所跡

更に進んで左折したところの住宅街と西益津小学校の敷地の境界あたりには新宿一之門跡があった。ここは内枡形門であったと思われる:

古絵図によると枡形門であったらしいが詳細は不明である

新宿一之門跡

二つの門の間には丸馬出しがあった

新宿一之門・二之門

そして、再び県道R224へ戻って本丸目指して進んでいくと丸馬出跡があった。建物との境界線辺りが三日月堀らしいが、この初秋の季節では未だ草木が茂っていて、雨もあってちょっと確認できなかった:

ここに甲州流築城術の一つである丸馬出(三日月堀と馬出を合わせたもの)があったらしいが大きさは半分行かになっていた

「田中城三日月堀(馬出曲輪)」跡(拡大版)

今から約450年前に信玄の命を受けた馬場信房が改修した際に設けられたとされる丸馬出は、城外(写真左手)に向かって三日月形の堀とその背後に土居を配置して、敵が城内へ侵入するを防ぐための備えであった。ここ田中城には大手一之門・二之門(本丸北側)、平島一之門(本丸東側)、新宿一之門・二之門(本丸南側)、清水御門(本丸西側)の六ヶ所に丸馬出があったとされるが、現在確認できるのは、ここ新宿一之門と二之門の間にある丸馬出だけで、それも実際の大きさの半分ほどになってしまったのだとか。

こちらは田中城復元図の上に現在の図面を重畳させたもの(赤字は廃城直前まであった建築物、青色は堀川、茶色は土塁をそれぞれ示す)。現在、本丸跡には西益津小学校の校舎が建ち、本丸堀や二之堀は埋め立てられ、県道R224が城を縦断している:

本丸は西益津小学校がすっぽり入っており、遺構は残っていない

田中城復元図面(拡大版)

これらは新宿二之門の丸馬出跡の標柱だが、もはや三日月形をなしておらず完全に消滅していた:

新宿二之門前の丸馬出跡だが完全に消滅していた

丸馬出跡

新宿二之門前の丸馬出跡だが完全に消滅していた

丸馬出跡

西益津小学校の校門前を通過する県道R224は、かっての輪郭式縄張の面影を持つカーブになっていた:

かっての輪郭式縄張の面影を遺すカーブになっていた

本丸跡を通過する県道R244

こちらは本丸跡に建てられた③西益津小学校の校庭[e]休校日だったので校門脇の庭まで失礼して入らせてもらった。。石で作られた堀と、その堀に囲まれた本丸のような所には模擬天守の模型が建っていた:

花壇か何かで田中城独特の輪郭式平城をミニチュアで表現していた

西益津小学校内にあった田中城の模型

こちらは『田中城古図』(藤枝市郷土資料館蔵)。方形の本丸を中央に配置して、同心円状に堀と郭を巡らせた城郭は、のちに家康のお気に入りとなった。本丸には、先ほど見てきた本丸櫓のような建物が描かれている:

本丸内には御殿の他に本丸櫓のような建物が、そして丸馬出は5つしか描かれていな

『田中城古絵図』(拡大版)

小学校を過ぎてカーブの効いた県道R224をさらに北へ向かうと、大手二之門跡と大手二之堀跡がある:

ここに外枡形の渡櫓門が建ち、一之門同様に大手道になっていた

大手二之門跡の碑

本丸から二重目の水堀で、幅12.7m以上、深さは2.1m以上だったと云う

大手二之堀跡

さらに県道R224を進んでいくと右手に大手一之門跡の標柱があった。城内で一番大きな枡形門であり、48騎の騎馬武者を収納できと云う:

この門は城内で最大の表門にあたる

大手一之門跡

大手一之門跡を過ぎた次を左折して進んでいくと三之堀跡がある:

幅は18m以上、深さは1.7m以上で奥の土塁の高さは水面から5mほど

三之堀跡

水堀と土塁の遺構が残っていた

三之堀跡

この三之堀付近は三之丸西にある御館(おたて)のちょうど西側にあたり、この堀に面した四之曲輪には家老らの屋敷が立ち並んでいたと云う。四之曲輪は、江戸時代の初めに駿河田中藩・初代藩主である酒井忠利が実施した改修で追加され、最終的に田中城は四重の堀で囲まれる縄張となった。

このまま道なり(方角は南)へ進んで西益津中学校のグランドにぶつかるが、そこには南部屋敷(秋葉社)跡なる標柱が建っていた:

秋葉社跡とも云うらしい

南部屋敷跡

そして、このままぐるりと周って大手一之門跡に戻り、④住宅地に埋もれた城址東側の遺構を観ることにした。

まずは日知館跡。田中藩の藩校らしい。天保8(1837)年に第6代藩主・本多正寛(ほんだ・まさひろ)が創立した。この先でも、同じ標柱を何本か見かけたので規模は大きかったと推測できる:

駿河田中藩の藩校である

日知館跡

この標柱民家の庭の中に建っていた

日知館跡

そして平島一之門の西側に残る三之堀・三之丸土塁跡:

この奥にあるのが土塁跡

三之堀・三之丸土塁跡

本丸の東側にある平島一之門跡の脇にある土塁

三之丸土塁跡

さらに城址南へ向かって歩いて行くと家老・重富代助屋敷跡がある:

(どの時代の誰の家老なのか不明)

家老・重富代助屋敷跡

以上で城攻めは終了。

田中城は珍しい輪郭式の縄張りを持つ城としての他に、大坂夏の陣に勝利して駿府へ戻る途中、鷹狩で田中城を訪れた徳川家康が鯛の天ぷらを食べて腹痛を起こし、その後に駿府城で没したと云うエピソードがあることでも有名である。なお、現在では食あたりが原因で亡くなったのではなく、疼痛を伴う内臓疾患を引き起こしたことが原因とされている。

See Also駿河田中城攻め (フォト集)

【参考情報】

参照

参照
a 同名の城が他の地域にもあるのでタイトルのみ国名を冠し、本文中は「田中城」とした。
b 一色氏は足利氏の一族で、若狭国・丹後国、そして三河国の守護や、足利幕府の侍所頭人(さむらいどころとうにん)を務めた。
c バスもあるようだが平日のみの運行だった(当時)。
d 城内から死者や罪人、下肥(しもごえ)などを運び出すために設けられたくぐり門のこと。
e 休校日だったので校門脇の庭まで失礼して入らせてもらった。