鎌倉末期、倒幕勢力に加わって功績を挙げた結城親朝(ゆうき・ちかとも)が後醍醐天皇[a]鎌倉幕府滅亡後の元弘3/正慶2(1333)年に天皇自ら行う政治(親政)として建武の新政を実施したが、のちに足利尊氏と反目し、約60年間に及ぶ南北朝争乱につながる。から陸奥白河の地に所領を与えられ、阿武隈川と谷津田川(やつだがわ)に挟まれた小峰ヶ岡(こみねがおか)と呼ばれる丘陵上に築いた砦は小峰城と呼ばれて代々白河結城氏の居城になっていたが、その結城氏が天正18(1590)年の関白秀吉による奥州仕置後に改易となったため、陸奥国會津42万石を拝領した會津若松城主・蒲生飛騨守氏郷の所領となり、その後は會津中納言・上杉景勝、さらに関ヶ原の戦後には蒲生秀行・忠郷父子が治めた。江戸初期の寛永4(1627)年、蒲生氏が伊予松山へ減封となると會津他43万石は加藤嘉明・明成父子が治め、ここ白河には「お隣」の棚倉城から丹羽長重(にわ・ながしげ)が移封されてきた。長重は二年後の寛永6(1629)年に幕命[b]江戸幕府が、依然として奥州の大藩である伊達政宗を警戒していたことが、その理由とされる。にて、陸奥の要衝に建つ小峰城の拡張に着手した。それから三年後の寛永9(1632)年に完成した白河小峰城は高石垣で囲まれた本丸と二之丸を持ち、天守級の三重櫓が建つ城郭となり、のちの會津戦争では激しい攻防戦が繰り広げられた。その落城時は大部分が焼失していたが、現在は福島県白河市郭内1に城山公園として三重櫓や前御門などが復元・整備されている。
一昨々年(さきおととし)は平成27(2015)年の初秋に自身初の奥州攻めへ。最終日は、初日に攻めた棚倉城跡からも近い白河小峰城へ。宿のある新白河からJR東北線・郡山行でひと駅の白河で下車。駅のすぐ北に小峰城跡があり、本丸跡は高石垣の上に設けられているので、電車を降りたホームから城跡を眺めることができた:
こちらは江戸時代の白河小峰城の縄張図と城下町の概要図。城の片側はぐるりと町家で囲まれていた(通り五町):
ただ白河駅には出口が南側にしか無いので、南口のロータリーから東へ向かったところにある地下トンネルで東北本線を縦断し、再び駅がある所までぐるりと移動することになる。
そして三之丸門跡にある公園駐車場を横目に、藤門跡の公園入口へ:
城山公園は二之丸と本丸の跡地に造られて整備されていたのだが、園内に入ってみると、どうも城跡には見えない光景を目の当たりにした。これは小峰城址の碑。その背後には本丸跡に復元された三重櫓と前御門(まえごもん)が見えるが、その手前には白い壁が :
さらに進んでいくと「城山公園内利用案内板」が建っており、当時で四年前の平成23(2011)年3月に発生した東日本大震災により園内の石垣が10箇所にわたって大きく崩落したのだそうだ:
この石垣の復旧工事中のために公園(城址)の一部の立入りが制限されているとのことらしい。復旧工事は、当時で平成29(2017)年までかかる見込みとのこと。そもそも公園内への立入りも、この年の平成27(2015)から解禁なのだそうだ 。
実のところ、今回の奥州攻め最終日は二本松城を攻めるつもりだったが、そのホームページに震災被害と復旧工事の情報が載っているのを見て今回は諦めることにして白河小峰城攻めに変更した[c]その一年後には念願がかない二本松城を攻めてきた。。そして白河小峰城について事前に調査した際に参照したホームページは日本城郭協会のページのリンクを辿った白河観光物産協会のページで、そこには「震災被害」のことは全く掲載されていなかった[d]本執筆時当時もまったく見当たらない。。そんなことで、特に気にかけることなく予定を組んだのだが、当日行ってみたら、この有り様だった 。ちなみに本執筆時現在の白河市のホームページには「小峰城の石垣修復状況」が公開されているようだ[e]城攻め当時の履歴に遡って見ても立入り制限の情報は無かったが。。
しかしながら、せっかく来たわけだし、ここは園内への立入りが解禁されていただけ良しとして、見れる箇所だけ攻めることにした 。ということで、こちらが現地にあった「立入禁止箇所等の位置図」の上に、今回見てまわってきた箇所を記したもの:
そして、こちらが城攻めルート。清水門跡を抜けた先の大手道には立入できなかったので、搦手口にある桜門跡から本丸に入った。なお最後の道場門跡は、JR白河駅に隣接する「白河駅前インベント広場」と白河市立図書館の間にある復元エリアにある:
藤門跡(公園入口) → (二之丸跡) → 内堀 → 清水門跡 → 桜門跡 → 本丸跡 → 多聞櫓跡 → 二之丸跡(遠景) → 本丸御殿跡 → 前御門 → 三重櫓 → (二之丸跡) → 本丸高石垣 → 會津門跡 → ・・・ → 道場門跡
まず「小峰城本丸周辺復元想像図」(日本建築研究所蔵)[f]この図は、実際に三重櫓と前御門の復元を施工した建築事務所が、事前に城郭絵図や建て絵図、発掘調査資料、古文書史料などを基に作成したもの。と、それをベースに作成した縄張図。白河小峰城は、本丸を内堀と二之丸で包むような配置を持つ梯郭式(ていかくしき)平山城である:
これは清水門前の土橋から見た内堀と高石垣。こちらの石垣は、真ん中あたりで積み方が変わっている(奥が切込接、手前が打込接ぎ)が、これは江戸時代に奥の石垣が崩落して修築したため:
そして清水門跡。往時は櫓門が建っており、門をくぐった先は帯曲輪跡で正面には本丸高石垣がそびえ、右手が大手道で竹之丸・前御門を経て本丸へ至り、左手は搦手口にあたる桜門方面となる。この当時は石垣の復旧工事のために大手道には進むことはできなかったが、搦手の桜門方面から本丸跡を経由すれば、前御門までは立ち入ることができた:
この本丸高石垣は部分的に半円筒状に石垣が積まれていた。一説に「鷹の目」を表しているのだとか。この石垣も震災で崩落したそうだ:
こちらが清水門の台座石垣。この上に二層の櫓門が建っていたとされる:
清水門跡をくぐったあとは本丸を囲む帯曲輪跡を上がって、大手口とは逆の搦手口へ。往時、その搦手口には桜門が建っていたとされる。ちなみに、ちょうど工事用の囲いがある場所を抜けた先が搦手道で、往時は月見櫓と帯曲輪門が建っていたとされる:
帯曲輪跡からのぞいた桜門の枡形虎口跡。石段を上がって、枡形を鈎の手に右折した先が本丸跡になる。この門の付近に桜の木が数本植えられていたことが門の由来とも云われている:
こちらは桜門跡前から帯曲輪跡を振り返って見た清水門跡。工事用の囲いの向こうが大手道である:
枡形に建つ「桜門跡」の碑と、枡形を鈎の手に折れたところ。門の高さは約7m:
桜門の台座石垣を上から見てみると、こちらも震災の傷跡が:
再び清水御門跡。台座石垣の上は石垣ではなく芝生になっていたが、これも復元だろうか:
そして、こちらが本丸跡。正面に見えるのが三重櫓と前御門、そして右手端が多聞櫓跡。左手は本丸御殿の庭部分であった:
棚倉藩二代藩主の丹羽長重(にわ・ながしげ)が5万石から10万石に加増されて、ここ陸奥国白河に移封されてきたのが寛永4(1627)年である。長重は織田信長の宿老の一人である丹羽長秀(にわ・ながひで)の嫡男で、関ヶ原の戦では西軍に与したため改易させられたもの、徳川二代将軍・秀忠のもとで大名に復帰した。
陸奥白河藩の初代藩主となった長重は、それまで砦規模だった小峰城の大改修と城下町の整備を実施し、三年後に完成した城は、拡張というよりは新たに築城した規模に仕上がったが、これが、その後の7家二十一代にわたる白河藩主の居城となり、陸奥の要衝であり、そして230年余後の會津戦争(白河戦線)で激しい攻防戦に巻き込まれることになる白河小峰城の礎となった。
三重櫓は長重の代に築かれたが、往時は天守ではなく、平時は武器・食料の貯蔵施設として 、戦時は物見台として使われることを意図したものである。前御門は表門とも云われ、本丸の正門として、そして本丸守備の要となった施設である。これらは會津戦争で全て焼失してしまったが、三重櫓は平成3(1991)年に『白河城御櫓絵図』と発掘調査の成果に基づいて全国に先かげて忠実に木造復元され、前御門は平成6(1994)年に同じく木造で復元された。
前御門と接するように、本丸の南東隅に設けられていたのが多聞櫓で、大手口は三重櫓と前御門、多聞櫓といった門と櫓が連続する構えの一部を担っていた:
この櫓台の上から二之丸跡を眺めてみると復旧工事の難航具合がよく分かる気がした。よく見ると、興味深いことに工事車両の仮設道路の出入口が太鼓門跡あたりにつながっていた:
ここで振り向くと本丸御殿跡であるが、こちらも大部分が工事用の囲いが組まれていた:
本丸御殿は御本城御殿(ごほんじょうごてん)とも呼ばれ、御書院、御小書院、御月番、御奉行といった政庁と藩主の居所があったとされる。また本丸御殿の外側には本丸土塁が巡らされ、富士見櫓や雪見櫓といった隅櫓が建っていた:
本丸跡からみた前御門。石垣の上に門櫓をわたした櫓門形式で、その右隣りには往時は平屋建ての多聞櫓が接続していた:
平成の時代に木造で復元された前御門と三重櫓:
丹羽長重・光重父子は、現在に残る城跡や白河市街の礎を築いたあと、寛永20(1643)年に陸奥国伊達郡に転封されて二本松城を居所とし二本松藩を開藩したが、その後の白河藩は榊原家、本多家、松平(奥平)家、松平(結城)家、松平(久松)家、阿部家と七家21代の大名が交代して、ここ白河小峰城を居城としたが、慶応3(1867)年に最後の藩主・阿部正静(あべ・まさきよ)が棚倉藩へ移封されると天領となり、同4(1868)年の5月に會津戦争(戊辰戦争)を迎えた。
交通の要衝であった白河では新政府軍と奥羽越列藩同盟軍が攻防を繰り返し、白河小峰城は大規模な戦闘で落城、城郭の大部分を焼失した。
前御門をくぐって大手道側に出てみた。木造二階建ての一階は御門(敷地面積34.27㎡)、二階は櫓(敷地面積70.49㎡)の構成である:
一階の御門の潜戸と門扉は総欅造り、間口27.5尺×奥行13.8尺、門入口13.2尺で復元され、二階の櫓には正面に石落とし、鉄砲狭間が設けられ、小庇(こびさし)は木造、屋根は本瓦葺きで鯱瓦つき、壁は白漆喰総塗籠(しろしっくい・そうぬりごめ)と黒漆塗(こくしつぬり)の腰下見板張(こし・したみいたばり)になっている:
正面からみた本丸高石垣、前御門、そして三重櫓。往時、左手の石垣の上には平屋の多聞櫓が続いていた:
大手道から見上げた前御門と三重櫓。白漆喰の外壁と黒漆塗の腰下見板張のコントラストが引き立っていた:
往時、大手道を上がって本丸石垣に取り付こうとする寄せ手には、三重櫓の南側にある物見櫓に設けられた鉄砲狭間や石落としからの攻撃が待っていた。ちなみに平成3(1991)年に復元されたのは、この三重櫓とその南側に設けられた物見櫓である:
大手道側は、これ以上は立入禁止区域となっているため、表門である前御門をくぐって再び本丸跡へ向かい、本丸跡の北東隅に復元された三重櫓へ向かった。
そして本丸跡から見た三重櫓と物見櫓、そして前御門。白河小峰城は會津戦争で、これらの建物とともに大部分が焼失したが、城郭絵図や三重櫓建絵図は焼失を免れ、これらと発掘調査資料を基に本格的な木造復元で、外観のみならず内部もそれぞれ復元されている[g]そもそも「木造復元」は他の模擬復元とは異なり、設計段階で史料調査が必須となっている。:
そして本丸の北東隅に復元された三層三階の三重櫓は、初代白河藩主の丹羽長重た築いた寛永期のもので、平成時代に木造復元された天守級の櫓としては第一号になる:
このあとは三重櫓が建つ本丸土塁へ。しかしながら、工事用の囲いに阻まれて本丸土塁の上、特に本丸北西と南西に建っていた二重櫓(雪見櫓と富士見櫓)跡や「丹羽長重公築城址」の碑まで立ち入って見ることができなかった。また、同じように本丸北側の帯曲輪跡は石垣復元中のため解体されたままだった:
ということで、天守の代わりとして利用された三重櫓の内観(無料/当時)をしてきた。
この櫓は、創建時の姿を伝える建地割図(たてぢ・わりず)の『三階御櫓建絵図(さんがいおやぐら・たてえず)』(白河市歴史民族資料館所蔵)や『正保城絵図』といった貴重な史料を基に設計・建築された:
三階建ての高さは約13m(鯱の高さは約1.2m)で、屋根は本瓦葺きの鯱瓦[h]白河藩瓦師の家に伝来した史料によると、三重櫓に使用した瓦は1万3千枚を越える膨大な数だったとか。、外壁は前御門と同様に白漆喰総塗籠、黒漆塗の腰下見板張が施されており、各階の敷地は一階から順に約13㎡、約12㎡、約8㎡の正方形になっているが、一階南側と二階東側には石落としを持つ張出(はりだし)を持ち、西側の土間に出入り口が設けられている:
こちらは天井の梁と階段:
次の文言を見ると、あたかも會津戦争で三重櫓に撃ち込まれた際にできた鉄砲の穴に聞こえるが、実はそうではない。會津戦争・白河口での戦いは城の南にある稲荷山が最大の激戦地であったのだが、この山にはたくさんの杉が生えていたらしく、その中には鉄炮の玉が撃ち込まれた木があったらしい。それから平成の復元事業[i]一般には白河市市政40周年記念事業の一環ということらしい。で使用するために、この稲荷山の老杉を製材したところ、撃ち込まれていた鉛球がたくさん出てきたと云う:
そして階段を上がった先の三重櫓の二階:
最上階は二階の1/3の広さ(約16㎡)であるため、上へあがる階段の傾斜が急である上に、折れ階段になっていた:
最上階は天井板が無いところまで忠実に復元されていた:
こちらは鉄砲狭間から本丸北側をのぞいて見たところ:
このあとは三重櫓の外に出て、本丸跡から二之丸跡へ下りて本丸高石垣、外堀などを見ることにした。
こちらは三重櫓の脇にあった「おとめ桜と供養碑」。本丸の石垣を積む際に、その一角にある石垣が幾度となく崩れ落ちてしまうことから人柱を立てることになり、たまたま父親に会うために登城した藩士・知知平左衛門の娘「おとめ」が不運にも捕らえられて人柱になったと伝えられている。城が完成したあと、人々は「おとめ」の悲運を哀しんで桜を植え、「おとめ桜」と呼ぶようになったのだとか[j]いささか無理がある伝説であるが、その真偽は不明。。この桜の木も會津戦争の戦火に巻き込まれて焼失したが、現在でも春になると新たに芽吹いた桜が艶やかに城内を彩るのだとか:
そして二之丸跡へ向かう前に、三重櫓の前から見下ろした本丸跡の眺め:
こちらが二之丸跡から眺めた総石垣造りの本丸高石垣:
こちらは搦手側にあたる月見櫓跡(下側)、富士見櫓跡(上側)、そして高石垣:
さらに西へ向かったところにある元太鼓門跡あたりから、土橋跡を挟んでそれぞれ眺めた外堀跡と内堀跡:
こちらは文化5(1808)年編纂の「奥州白河城下全図」の中に描かれた本丸周辺の図(左が北):
元太鼓門跡から、少し西へ向かった所には會津門跡があった。この門は、小峰城の西側に造られた會津町[k]文化2(1805)年に完成した『白河風土記』によると、丹羽長重が會津蒲生家の旧臣らを大量に召し抱えて住ませたことに由来するとある。の武家屋敷から三之丸への入口にあたり、會津町に通じていたことで、その名がついたとある。城の南側に向かって建てられた櫓門の高さは約7m、杮葺き(こけらぶき)の屋根だった:
このあとは城山公園を出て、再びJR白河駅へ向かって、その脇のイベント広場に先にある外堀跡・道場門跡へ。
こちらが、さきほどの『奥州白河城下全図』のうち、さきほどの會津門跡から続く外堀と、それ三之丸とをつなぐ道場門の部分:
これが復元された道場門の枡形虎口跡。白い地面が門跡で、その手前には同じく復元された外堀の石垣が見える:
正面に見える石垣は、道場門跡から南側(手前)に続いた外堀の石垣。これも丹羽長重の時代の大改修で整備されたものらしい。発掘調査で出土した堀ぎわの石垣は、幅が19.1m、高さは5m以上もあったそうで、現在はその上半分を露出展示していた:
道場門跡とそれを構成していた石垣の一部:
以上で城攻めは終了。見たところ、全面復旧にはまだまだ時間がかかりそうだった(当時)。そういうことで、また機会があれば復元された本丸跡を中心に攻めてみたい。
最後に、東日本大震災の被害状況がよく分かる写真を載せておく:
この先、いつまでも風化させてはいけない現実と、そこから復興した現在の姿を後世に遺すために:
白河小峰城攻め (フォト集)
【参考情報】
- 日本の城探訪(白河小峰城)
- 城山公園に建っていた説明板
- 『国指定史跡・白河小峰城』のパンフレット(白河観光物産協会ホームページからダウンロード可能)
- 日本建築研究所の実績紹介ページ(三重櫓・前御門の復元を担当した一級建築士事務所)
- Wikipedia(白河小峰城)
- 週刊・日本の城<改訂版>(DeAGOSTINE刊)
参照
↑a | 鎌倉幕府滅亡後の元弘3/正慶2(1333)年に天皇自ら行う政治(親政)として建武の新政を実施したが、のちに足利尊氏と反目し、約60年間に及ぶ南北朝争乱につながる。 |
---|---|
↑b | 江戸幕府が、依然として奥州の大藩である伊達政宗を警戒していたことが、その理由とされる。 |
↑c | その一年後には念願がかない二本松城を攻めてきた。 |
↑d | 本執筆時当時もまったく見当たらない。 |
↑e | 城攻め当時の履歴に遡って見ても立入り制限の情報は無かったが。 |
↑f | この図は、実際に三重櫓と前御門の復元を施工した建築事務所が、事前に城郭絵図や建て絵図、発掘調査資料、古文書史料などを基に作成したもの。 |
↑g | そもそも「木造復元」は他の模擬復元とは異なり、設計段階で史料調査が必須となっている。 |
↑h | 白河藩瓦師の家に伝来した史料によると、三重櫓に使用した瓦は1万3千枚を越える膨大な数だったとか。 |
↑i | 一般には白河市市政40周年記念事業の一環ということらしい。 |
↑j | いささか無理がある伝説であるが、その真偽は不明。 |
↑k | 文化2(1805)年に完成した『白河風土記』によると、丹羽長重が會津蒲生家の旧臣らを大量に召し抱えて住ませたことに由来するとある。 |
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