白河小峰城の本丸跡には天守の代用として「御三階」と呼ばれた三重櫓が復元されていた

鎌倉末期、倒幕勢力に加わって功績を挙げた結城親朝(ゆうき・ちかとも)が後醍醐天皇[a]鎌倉幕府滅亡後の元弘3/正慶2(1333)年に天皇自ら行う政治(親政)として建武の新政を実施したが、のちに足利尊氏と反目し、約60年間に及ぶ南北朝争乱につながる。から陸奥白河の地に所領を与えられ、阿武隈川と谷津田川(やつだがわ)に挟まれた小峰ヶ岡(こみねがおか)と呼ばれる丘陵上に築いた砦は小峰城と呼ばれて代々白河結城氏の居城になっていたが、その結城氏が天正18(1590)年の関白秀吉による奥州仕置後に改易となったため、陸奥国會津42万石を拝領した會津若松城主・蒲生飛騨守氏郷の所領となり、その後は會津中納言・上杉景勝、さらに関ヶ原の戦後には蒲生秀行・忠郷父子が治めた。江戸初期の寛永4(1627)年、蒲生氏が伊予松山へ減封となると會津他43万石は加藤嘉明・明成父子が治め、ここ白河には「お隣」の棚倉城から丹羽長重(にわ・ながしげ)が移封されてきた。長重は二年後の寛永6(1629)年に幕命[b]江戸幕府が、依然として奥州の大藩である伊達政宗を警戒していたことが、その理由とされる。にて、陸奥の要衝に建つ小峰城の拡張に着手した。それから三年後の寛永9(1632)年に完成した白河小峰城は高石垣で囲まれた本丸と二之丸を持ち、天守級の三重櫓が建つ城郭となり、のちの會津戦争では激しい攻防戦が繰り広げられた。その落城時は大部分が焼失していたが、現在は福島県白河市郭内1に城山公園として三重櫓や前御門などが復元・整備されている。

一昨々年(さきおととし)は平成27(2015)年の初秋に自身初の奥州攻めへ。最終日は、初日に攻めた棚倉城跡からも近い白河小峰城へ。宿のある新白河からJR東北線・郡山行でひと駅の白河で下車。駅のすぐ北に小峰城跡があり、本丸跡は高石垣の上に設けられているので、電車を降りたホームから城跡を眺めることができた:

天守の代用にもなった三重櫓は平成3(1991)年に木造復元された

三重櫓・前御門と本丸高石垣

こちらは江戸時代の白河小峰城の縄張図と城下町の概要図。城の片側はぐるりと町家で囲まれていた(通り五町):

現在のJR白河駅も、かっての三之丸に含まれ、堀の外には奥州街道(陸羽街道)が町家の中を通過していた

小峰城を取り囲む「通り五町」(拡大図)

ただ白河駅には出口が南側にしか無いので、南口のロータリーから東へ向かったところにある地下トンネルで東北本線を縦断し、再び駅がある所までぐるりと移動することになる。

そして三之丸門跡にある公園駐車場を横目に、藤門跡の公園入口へ:

この辺りが二之丸の藤門跡になる

「小峰城跡・城山公園」入口

城山公園は二之丸と本丸の跡地に造られて整備されていたのだが、園内に入ってみると、どうも城跡には見えない光景を目の当たりにした。これは小峰城址の碑。その背後には本丸跡に復元された三重櫓と前御門(まえごもん)が見えるが、その手前には白い壁が :|

ここが二之丸跡で、その向こうが三重櫓が建つ本丸跡であるが、当時は東日本大震災による被害の復旧工事中だった

「史跡・小峰城址」の碑(拡大版)

さらに進んでいくと「城山公園内利用案内板」が建っており、当時で四年前の平成23(2011)年3月に発生した東日本大震災により園内の石垣が10箇所にわたって大きく崩落したのだそうだ:

震災の影響について全く知らずに攻めに来てみたら予想外の被害だった

「城山公園内利用案内」と「復旧工事知らせ」

この石垣の復旧工事中のために公園(城址)の一部の立入りが制限されているとのことらしい。復旧工事は、当時で平成29(2017)年までかかる見込みとのこと。そもそも公園内への立入りも、この年の平成27(2015)から解禁なのだそうだ :O

実のところ、今回の奥州攻め最終日は二本松城を攻めるつもりだったが、そのホームページに震災被害と復旧工事の情報が載っているのを見て今回は諦めることにして白河小峰城攻めに変更した[c]その一年後には念願がかない二本松城を攻めてきた。。そして白河小峰城について事前に調査した際に参照したホームページは日本城郭協会のページのリンクを辿った白河観光物産協会のページで、そこには「震災被害」のことは全く掲載されていなかった[d]本執筆時当時もまったく見当たらない。。そんなことで、特に気にかけることなく予定を組んだのだが、当日行ってみたら、この有り様だった :$。ちなみに本執筆時現在の白河市のホームページには「小峰城の石垣修復状況」が公開されているようだ[e]城攻め当時の履歴に遡って見ても立入り制限の情報は無かったが。

しかしながら、せっかく来たわけだし、ここは園内への立入りが解禁されていただけ良しとして、見れる箇所だけ攻めることにした :|。ということで、こちらが現地にあった「立入禁止箇所等の位置図」の上に、今回見てまわってきた箇所を記したもの:

本丸跡と竹之丸跡の大部分と二之丸の一部(薄水色の部分)が立入不可の上に、復旧工事のために囲いがあって見ることも叶わず

立入禁止箇所と城攻め箇所(拡大版)

そして、こちらが城攻めルート。清水門跡を抜けた先の大手道には立入できなかったので、搦手口にある桜門跡から本丸に入った。なお最後の道場門跡は、JR白河駅に隣接する「白河駅前インベント広場」と白河市立図書館の間にある復元エリアにある:

藤門跡(公園入口) → (二之丸跡) → 内堀 → 清水門跡 → 桜門跡 → 本丸跡 → 多聞櫓跡 → 二之丸跡(遠景) → 本丸御殿跡 → 前御門 → 三重櫓 → (二之丸跡) → 本丸高石垣 → 會津門跡 → ・・・ → 道場門跡


まず「小峰城本丸周辺復元想像図」(日本建築研究所蔵)[f]この図は、実際に三重櫓と前御門の復元を施工した建築事務所が、事前に城郭絵図や建て絵図、発掘調査資料、古文書史料などを基に作成したもの。と、それをベースに作成した縄張図。白河小峰城は、本丸を内堀と二之丸で包むような配置を持つ梯郭式(ていかくしき)平山城である:

本丸御殿と三重櫓が建つ本丸を中心に高石垣が巡らされた竹之丸、二之丸、そして帯曲輪、更に西から北へ外堀がある

「小峰城本丸周辺復元想像図」

二之丸、帯曲輪、本丸には9個の門と8個の櫓が建ち、外堀を境に三之丸と町人街が広がっていた

縄張図

これは清水門前の土橋から見た内堀と高石垣。こちらの石垣は、真ん中あたりで積み方が変わっている(奥が切込接、手前が打込接ぎ)が、これは江戸時代に奥の石垣が崩落して修築したため:

高石垣の積み方が真ん中辺りで変わっているのは江戸時代に崩落したから

内堀と高石垣

そして清水門跡。往時は櫓門が建っており、門をくぐった先は帯曲輪跡で正面には本丸高石垣がそびえ、右手が大手道で竹之丸・前御門を経て本丸へ至り、左手は搦手口にあたる桜門方面となる。この当時は石垣の復旧工事のために大手道には進むことはできなかったが、搦手の桜門方面から本丸跡を経由すれば、前御門までは立ち入ることができた:

二之丸から土橋を渡るとT字となり、左手は桜門方面、右手が前御門方面

清水門跡と本丸高石垣

東日本大震災の影響で崩落した石垣の復旧工事のため立入禁止であった

本丸高石垣と大手道方面

この本丸高石垣は部分的に半円筒状に石垣が積まれていた。一説に「鷹の目」を表しているのだとか。この石垣も震災で崩落したそうだ:

正面中央の石垣は半円筒のように積まれていた(この石垣は東日本大震災で崩落したあとに復元されている)

本丸高石垣(拡大版)

こちらが清水門の台座石垣。この上に二層の櫓門が建っていたとされる:

隅石は算木積で、この上に櫓門が建っていた

清水門の台座石垣

隅石は算木積で、この上に櫓門が建っていた

清水門の台座石垣

清水門跡をくぐったあとは本丸を囲む帯曲輪跡を上がって、大手口とは逆の搦手口へ。往時、その搦手口には桜門が建っていたとされる。ちなみに、ちょうど工事用の囲いがある場所を抜けた先が搦手道で、往時は月見櫓と帯曲輪門が建っていたとされる:

往時、幅広い石段の先が搦手道で、月見櫓と帯曲輪門が建っていた

帯曲輪跡

この石垣の上に手前から奥に向かって櫓門形式の桜門が建っていた

桜門の台座石垣

帯曲輪跡からのぞいた桜門の枡形虎口跡。石段を上がって、枡形を鈎の手に右折した先が本丸跡になる。この門の付近に桜の木が数本植えられていたことが門の由来とも云われている:

この場所には枡形虎口と櫓門が設けられ、石段を上がって枡形を鈎の手に折れて櫓門をくぐった先が本丸だった

桜門の枡形虎口跡(拡大版)

こちらは桜門跡前から帯曲輪跡を振り返って見た清水門跡。工事用の囲いの向こうが大手道である:

本来の登城道である大手道は復旧工事のために立入りできなかった

桜門前から清水門跡

枡形に建つ「桜門跡」の碑と、枡形を鈎の手に折れたところ。門の高さは約7m:

この先を鈎の手に折れて上がった先が本丸になる

「桜門跡」の碑

往時、左右の石垣の上に櫓門が建っていた

搦手口と桜門台座石垣

桜門の台座石垣を上から見てみると、こちらも震災の傷跡が:

こちらも東日本大震災の傷跡が残っていた

一部が陥没した桜門台座石垣

再び清水御門跡。台座石垣の上は石垣ではなく芝生になっていたが、これも復元だろうか:

左手が大手道方面、右手が桜門方面で、台座石垣の上は芝生だった!?

清水御門台座石垣と搦手道

そして、こちらが本丸跡。正面に見えるのが三重櫓と前御門、そして右手端が多聞櫓跡。左手は本丸御殿の庭部分であった:

本丸の北東部に建つ三層三階の櫓と、大手道とつながる表門こと前御門は木造で忠実に復元された

本丸跡に復元された三重櫓と前御門(拡大版)

棚倉藩二代藩主の丹羽長重(にわ・ながしげ)が5万石から10万石に加増されて、ここ陸奥国白河に移封されてきたのが寛永4(1627)年である。長重は織田信長の宿老の一人である丹羽長秀(にわ・ながひで)の嫡男で、関ヶ原の戦では西軍に与したため改易させられたもの、徳川二代将軍・秀忠のもとで大名に復帰した。
陸奥白河藩の初代藩主となった長重は、それまで砦規模だった小峰城の大改修と城下町の整備を実施し、三年後に完成した城は、拡張というよりは新たに築城した規模に仕上がったが、これが、その後の7家二十一代にわたる白河藩主の居城となり、陸奥の要衝であり、そして230年余後の會津戦争(白河戦線)で激しい攻防戦に巻き込まれることになる白河小峰城の礎となった。
三重櫓は長重の代に築かれたが、往時は天守ではなく、平時は武器・食料の貯蔵施設として 、戦時は物見台として使われることを意図したものである。前御門は表門とも云われ、本丸の正門として、そして本丸守備の要となった施設である。これらは會津戦争で全て焼失してしまったが、三重櫓は平成3(1991)年に『白河城御櫓絵図』と発掘調査の成果に基づいて全国に先かげて忠実に木造復元され、前御門は平成6(1994)年に同じく木造で復元された。

前御門と接するように、本丸の南東隅に設けられていたのが多聞櫓で、大手口は三重櫓と前御門、多聞櫓といった門と櫓が連続する構えの一部を担っていた:

本丸の南東隅に置かれ、清水門から前御門までの大手道を守備した

多聞櫓跡

この櫓台の上から二之丸跡を眺めてみると復旧工事の難航具合がよく分かる気がした。よく見ると、興味深いことに工事車両の仮設道路の出入口が太鼓門跡あたりにつながっていた:

こちら側の復旧工事はまだまだ時間がかかりそうだった

大手道と清水門跡

工事車両の仮設道路が二之丸跡を縦断していた

清水門跡と二之丸跡

工事車両の出入口は太鼓門跡につながっていた

二之丸跡と太鼓門跡

こちら側は手前の本丸石垣の復旧工事以外は問題なかった

二之丸跡

ここで振り向くと本丸御殿跡であるが、こちらも大部分が工事用の囲いが組まれていた:

「御本城御殿」とも呼ばれた藩主の居所と政庁を兼ねた建物が建っていたとされる

「本丸御殿跡」の碑

本丸御殿は御本城御殿(ごほんじょうごてん)とも呼ばれ、御書院、御小書院、御月番、御奉行といった政庁と藩主の居所があったとされる。また本丸御殿の外側には本丸土塁が巡らされ、富士見櫓や雪見櫓といった隅櫓が建っていた:

囲いの向こう見えるのが本丸土塁である

本丸御殿跡

左手奥が富士見櫓跡、正面が雪見櫓跡であるが立入不可だった

本丸御殿と本丸土塁

本丸跡からみた前御門。石垣の上に門櫓をわたした櫓門形式で、その右隣りには往時は平屋建ての多聞櫓が接続していた:

本丸の表門にあたり、本丸を守備する最後の要衝でもある

前御門

平成の時代に木造で復元された前御門と三重櫓:

奥の三重櫓は平成3(1991)年、手前の前御門は平成6(1994)年に当時の史料に基づいて木造で復元されている

三重櫓と前御門(拡大版)

丹羽長重・光重父子は、現在に残る城跡や白河市街の礎を築いたあと、寛永20(1643)年に陸奥国伊達郡に転封されて二本松城を居所とし二本松藩を開藩したが、その後の白河藩は榊原家、本多家、松平(奥平)家、松平(結城)家、松平(久松)家、阿部家と七家21代の大名が交代して、ここ白河小峰城を居城としたが、慶応3(1867)年に最後の藩主・阿部正静(あべ・まさきよ)が棚倉藩へ移封されると天領となり、同4(1868)年の5月に會津戦争(戊辰戦争)を迎えた。
交通の要衝であった白河では新政府軍と奥羽越列藩同盟軍が攻防を繰り返し、白河小峰城は大規模な戦闘で落城、城郭の大部分を焼失した。


前御門をくぐって大手道側に出てみた。木造二階建ての一階は御門(敷地面積34.27㎡)、二階は櫓(敷地面積70.49㎡)の構成である:

御門は間口27.5尺×奥行13.8尺、門入口13.2尺である

御門の梁

二階の櫓には石落としと鉄砲狭間(写真は閉口)が設けられていた

帯曲輪から見た前御門

一階の御門の潜戸と門扉は総欅造り、間口27.5尺×奥行13.8尺、門入口13.2尺で復元され、二階の櫓には正面に石落とし、鉄砲狭間が設けられ、小庇(こびさし)は木造、屋根は本瓦葺きで鯱瓦つき、壁は白漆喰総塗籠(しろしっくい・そうぬりごめ)と黒漆塗(こくしつぬり)の腰下見板張(こし・したみいたばり)になっている:

潜戸と門扉を持つ一階の御門は総欅造り(そうけやきづくり)、二階の櫓は木造で石落としと鉄砲狭間が設けられている

正面から見た前御門(拡大版)

正面からみた本丸高石垣、前御門、そして三重櫓。往時、左手の石垣の上には平屋の多聞櫓が続いていた:

往時は、この上に平屋の多聞櫓が建っていた

本丸高石垣

この背後は竹之丸跡であるが、工事用の囲いがあって見ることはできず

前御門と三重櫓

大手道から見上げた前御門と三重櫓。白漆喰の外壁と黒漆塗の腰下見板張のコントラストが引き立っていた:

大手道を上がってきた寄せ手に対し、多聞櫓、前御門、そして三重櫓とその物見櫓からの連続的な攻撃にさらされることになる

前御門と物見櫓と三重櫓(拡大版)

往時、大手道を上がって本丸石垣に取り付こうとする寄せ手には、三重櫓の南側にある物見櫓に設けられた鉄砲狭間や石落としからの攻撃が待っていた。ちなみに平成3(1991)年に復元されたのは、この三重櫓とその南側に設けられた物見櫓である:

大手道から見上げた三重櫓と前御門との間にある物見櫓

物見櫓と三重櫓

白漆喰の外壁には鉄砲狭間と石落としが設けられていた

物見櫓の石落とし

大手道側は、これ以上は立入禁止区域となっているため、表門である前御門をくぐって再び本丸跡へ向かい、本丸跡の北東隅に復元された三重櫓へ向かった。

そして本丸跡から見た三重櫓と物見櫓、そして前御門。白河小峰城は會津戦争で、これらの建物とともに大部分が焼失したが、城郭絵図や三重櫓建絵図は焼失を免れ、これらと発掘調査資料を基に本格的な木造復元で、外観のみならず内部もそれぞれ復元されている[g]そもそも「木造復元」は他の模擬復元とは異なり、設計段階で史料調査が必須となっている。

三重櫓については種々の史料が現存しており、復元時に参考としたと云う

三重櫓と物見櫓

平成3(1991)年の復元事業で三重櫓と共に建てられた

物見櫓

一階は総欅造り、屋根は本瓦葺きで鯱瓦つき、櫓は白漆喰総塗籠である

前御門

そして本丸の北東隅に復元された三層三階の三重櫓は、初代白河藩主の丹羽長重た築いた寛永期のもので、平成時代に木造復元された天守級の櫓としては第一号になる:

「三重御櫓」と呼ばれた天守級の櫓で、屋根は本瓦葺きの鯱瓦、外壁は白漆喰総塗籠、黒漆塗の腰下見板張である

三重櫓(拡大版)

このあとは三重櫓が建つ本丸土塁へ。しかしながら、工事用の囲いに阻まれて本丸土塁の上、特に本丸北西と南西に建っていた二重櫓(雪見櫓と富士見櫓)跡や「丹羽長重公築城址」の碑まで立ち入って見ることができなかった。また、同じように本丸北側の帯曲輪跡は石垣復元中のため解体されたままだった:

この先には雪見櫓跡や築城碑があるらしい

本丸土塁上

目下、石垣復元中らしく、工事現場の奥には解体された石垣があった

帯曲輪跡

ということで、天守の代わりとして利用された三重櫓の内観(無料/当時)をしてきた。
この櫓は、創建時の姿を伝える建地割図(たてぢ・わりず)の『三階御櫓建絵図(さんがいおやぐら・たてえず)』(白河市歴史民族資料館所蔵)や『正保城絵図』といった貴重な史料を基に設計・建築された:

城内で最も大きな櫓で、高さ約13m、一階は約12㎡、二階は約8㎡、三階は約4㎡の正方形となっている

三重櫓(拡大版)

一階と二階の東西南北には石落としを持つ張出が設けられ、中央一本の通し柱を持つ

『三階御櫓建絵図』

三階建ての高さは約13m(鯱の高さは約1.2m)で、屋根は本瓦葺きの鯱瓦[h]白河藩瓦師の家に伝来した史料によると、三重櫓に使用した瓦は1万3千枚を越える膨大な数だったとか。、外壁は前御門と同様に白漆喰総塗籠、黒漆塗の腰下見板張が施されており、各階の敷地は一階から順に約13㎡、約12㎡、約8㎡の正方形になっているが、一階南側と二階東側には石落としを持つ張出(はりだし)を持ち、西側の土間に出入り口が設けられている:

西側にある土間から出入りする(無料/当時)

三重櫓の出入口

こちらは天井の梁と階段:

平成の時代に入って天守級としては木造復元の第一号である

三重櫓の内部の梁

櫓内の武者走りを広くするために階段の傾斜を小さくしている

二階へ上がる階段

次の文言を見ると、あたかも會津戦争で三重櫓に撃ち込まれた際にできた鉄砲の穴に聞こえるが、実はそうではない。會津戦争・白河口での戦いは城の南にある稲荷山が最大の激戦地であったのだが、この山にはたくさんの杉が生えていたらしく、その中には鉄炮の玉が撃ち込まれた木があったらしい。それから平成の復元事業[i]一般には白河市市政40周年記念事業の一環ということらしい。で使用するために、この稲荷山の老杉を製材したところ、撃ち込まれていた鉛球がたくさん出てきたと云う:

最大の激戦地である稲荷山から採集した杉の木に打ち込まれていたもの

「戊辰戦争で撃ち込まれた鉄砲玉跡!?」

そして階段を上がった先の三重櫓の二階:

武者走りがあり、さらに東側には張出の間が取り付いている

三重櫓二階

最上階は二階の1/3の広さ(約16㎡)であるため、上へあがる階段の傾斜が急である上に、折れ階段になっていた:

二階は約73㎡の広さで、その1/3の広さ最上階へは折れ階段を上がる

最上階へあがる階段

最上階は二階よりも更に狭いので階段の傾斜がキツくなっている

折れ階段から下側

最上階の階段口を可能な限り小さくするために折れ階段になっていた

折れ階段から上側

最上階は天井板が無いところまで忠実に復元されていた:

最上階は2間四方(約16㎡)で、二階の1/3の広さであり、往時と同様に天井板は無かった

最上階の天井(拡大版)

 

こちらは鉄砲狭間から本丸北側をのぞいて見たところ:

他に連子窓(れんじまど)と云う菱型の木材を縦方向に連ねた窓もある

三重櫓の鉄砲狭間

このあとは三重櫓の外に出て、本丸跡から二之丸跡へ下りて本丸高石垣、外堀などを見ることにした。

こちらは三重櫓の脇にあった「おとめ桜と供養碑」。本丸の石垣を積む際に、その一角にある石垣が幾度となく崩れ落ちてしまうことから人柱を立てることになり、たまたま父親に会うために登城した藩士・知知平左衛門の娘「おとめ」が不運にも捕らえられて人柱になったと伝えられている。城が完成したあと、人々は「おとめ」の悲運を哀しんで桜を植え、「おとめ桜」と呼ぶようになったのだとか[j]いささか無理がある伝説であるが、その真偽は不明。。この桜の木も會津戦争の戦火に巻き込まれて焼失したが、現在でも春になると新たに芽吹いた桜が艶やかに城内を彩るのだとか:

本丸石垣を積んだ時に人柱となった娘の御霊を慰めるために植えられたと云う

おとめ桜と供養碑

そして二之丸跡へ向かう前に、三重櫓の前から見下ろした本丸跡の眺め:

本丸の表門にあたり、最後の防衛ラインでもあった

前御門

左手は多聞櫓跡、真ん中は本丸御殿跡、その右は立入禁止エリアだった

本丸跡

こちらが二之丸跡から眺めた総石垣造りの本丸高石垣:

往時は手前に内堀があり、清水門が建ち、その奥が本丸高石垣、そして多聞櫓といった配置のため、往時は三重櫓は見えないはず

清水門台座石垣と本丸石垣と三重櫓(拡大版)

こちらは搦手側にあたる月見櫓跡(下側)、富士見櫓跡(上側)、そして高石垣:

往時、手前の石垣の上には月見櫓、奥に帯曲輪門、さらに奥の石垣上には富士見櫓が建っていたとされる

本丸高石垣(拡大版)

さらに西へ向かったところにある元太鼓門跡あたりから、土橋跡を挟んでそれぞれ眺めた外堀跡と内堀跡:

元太鼓門前の土橋から北側にある水堀で、右が本丸方面(工事中)

外堀跡

元太鼓門前の土橋から南側にある水堀だが埋められていた

内堀跡

こちらは文化5(1808)年編纂の「奥州白河城下全図」の中に描かれた本丸周辺の図(左が北):

総石垣造りの本丸と二之丸周辺を切り出したもので、會津門の右手に道場門があった

「奥州白河城下全図」の一部

元太鼓門跡から、少し西へ向かった所には會津門跡があった。この門は、小峰城の西側に造られた會津町[k]文化2(1805)年に完成した『白河風土記』によると、丹羽長重が會津蒲生家の旧臣らを大量に召し抱えて住ませたことに由来するとある。の武家屋敷から三之丸への入口にあたり、會津町に通じていたことで、その名がついたとある。城の南側に向かって建てられた櫓門の高さは約7m、杮葺き(こけらぶき)の屋根だった:

城の西側に設けられた會津町の武家屋敷から三之丸への入口にあたる

會津門跡

高さ約7m、杮葺き(こけらぶき)の屋根を持つ櫓門が建っていた

會津門の台座石垣


このあとは城山公園を出て、再びJR白河駅へ向かって、その脇のイベント広場に先にある外堀跡・道場門跡へ。

こちらが、さきほどの『奥州白河城下全図』のうち、さきほどの會津門跡から続く外堀と、それ三之丸とをつなぐ道場門の部分:

元太鼓門・會津門の南側の外堀にかかるのが道場門である

「奥州白河城下全図」の一部(拡大版)

これが復元された道場門の枡形虎口跡。白い地面が門跡で、その手前には同じく復元された外堀の石垣が見える:

城山公園とは線路を挟んで南側の三之丸跡に復元されている

三之丸跡と道場門跡

正面に見える石垣は、道場門跡から南側(手前)に続いた外堀の石垣。これも丹羽長重の時代の大改修で整備されたものらしい。発掘調査で出土した堀ぎわの石垣は、幅が19.1m、高さは5m以上もあったそうで、現在はその上半分を露出展示していた:

発掘調査で出土した堀ぎわの石垣を上半分だけ露出展示したもの

外堀跡

発掘調査で出土した堀ぎわの石垣を上半分だけ露出展示したもの

外堀の石垣

道場門跡とそれを構成していた石垣の一部:

これらの石垣で枡形虎口を形成していた

道場門の石垣

石垣に囲まれた小路(白い部分)が道場門の枡形であり、ここに櫓門があった

道場門跡

以上で城攻めは終了。見たところ、全面復旧にはまだまだ時間がかかりそうだった(当時)。そういうことで、また機会があれば復元された本丸跡を中心に攻めてみたい。

最後に、東日本大震災の被害状況がよく分かる写真を載せておく:

月見櫓跡や清水門の奥にある本丸南側、そして竹之丸の石垣は崩壊しているが、復元された三重櫓と前御門は無事のようだ

震災の被害状況(本丸南面より撮影)

この先、いつまでも風化させてはいけない現実と、そこから復興した現在の姿を後世に遺すために:

今回の城攻め当時でも復旧工事の真っ最中であった本丸西側と、その奥に見える三重櫓と前御門は無事のようだ

震災の被害状況(本丸西面より撮影)

See Also白河小峰城攻め (フォト集)

【参考情報】

参照

参照
a 鎌倉幕府滅亡後の元弘3/正慶2(1333)年に天皇自ら行う政治(親政)として建武の新政を実施したが、のちに足利尊氏と反目し、約60年間に及ぶ南北朝争乱につながる。
b 江戸幕府が、依然として奥州の大藩である伊達政宗を警戒していたことが、その理由とされる。
c その一年後には念願がかない二本松城を攻めてきた。
d 本執筆時当時もまったく見当たらない。
e 城攻め当時の履歴に遡って見ても立入り制限の情報は無かったが。
f この図は、実際に三重櫓と前御門の復元を施工した建築事務所が、事前に城郭絵図や建て絵図、発掘調査資料、古文書史料などを基に作成したもの。
g そもそも「木造復元」は他の模擬復元とは異なり、設計段階で史料調査が必須となっている。
h 白河藩瓦師の家に伝来した史料によると、三重櫓に使用した瓦は1万3千枚を越える膨大な数だったとか。
i 一般には白河市市政40周年記念事業の一環ということらしい。
j いささか無理がある伝説であるが、その真偽は不明。
k 文化2(1805)年に完成した『白河風土記』によると、丹羽長重が會津蒲生家の旧臣らを大量に召し抱えて住ませたことに由来するとある。