福島県会津若松市追手町にあった會津若松城は、鎌倉時代末期に源氏の家人であった相模蘆名《サガミ・アシナ》氏[a]現在の神奈川県は三浦半島を中心に勢力を拡げた三浦氏の一族である。が鎌倉を引き揚げて、陸奥国會津の黒川郷小田垣山に築いた館[b]さらに八角の社を改築して亀の宮とし、これを鎮護神としたことが「鶴ヶ城」と云う名前の由縁である。が始まりで、以後は連綿伝えて會津蘆名氏の居城として鶴ヶ城と呼ばれた。しかし家中の騒動[c]まさしく伊達家と佐竹家の代理戦争状態であった。に便乗した伊達政宗が太閤秀吉からの惣無事令[d]刀狩り、喧嘩停止令など含め、大名間の私的な領土紛争を禁止する法令のこと。これに違反すると秀吉は大軍を率いて征伐した。例えば島津氏に対する九州仕置や北條氏に対する小田原仕置など。を無視して、ついに蘆名氏を滅ぼし、米沢から會津へ移って居城とし黒川城と呼んだ。この政宗は天正18(1590)年の小田原仕置で秀吉に臣従したが、惣無事令を無視して手に入れた黒川城を含む會津を没収され、代わりに『奥州の番人』役を命じられた蒲生氏郷が伊勢国から會津・仙道十一郡42万石で移封され黒川城に入城した。 氏郷は織田信長の娘婿であり、智・弁・勇の三徳を兼ね備え、まさに「信長イズム」を正統に継承した愛弟子の筆頭である。ここ會津に居座った氏郷には、周囲の伊達や徳川といった秀吉に完全には従属していない勢力に睨みをきかせるだけの実力があった。そんな氏郷は入国早々に城の大改修と城下町の整理拡張に着手、三年後の文禄2(1593)年には望楼型七層七階の天守[e]一説に、五層五階地下二階とも。そもそも「七層(七重)」とは何段にも重なると云う意味がある。が完成、同時にこの地を「若松」に改め、これより300年近く奥州に比類なき堅城と謳われることになる若松城[f]同名の城が他にもあるので、現代は特に「会津若松城」と呼んでいる。なお、本訪問記の中では「若松城」で統一し、さらに「会津」についても可能な限り旧字体の「會津」で統一した。の礎を築いた。
一昨々年《サキオトトシ》は平成27(2015)年の初秋に自身初の奥州攻めへ。二日目は、今回の城攻め旅行の目玉である若松城へ。さらに、ここ会津若松市には、その「若松」の名付け親であり、「會津宰相」こと蒲生氏郷に縁ある場所が沢山あることから、この日は早起きをして宿泊地の郡山からJR磐越西線快速に乗って、終点の会津若松駅に到着したのが朝8:00過ぎ[g]郡山駅 06:53am 発、会津若松駅 08:08am 着のおよそ1時間ほど。。生憎、訪問予定の場所が鶴ヶ城公園を中心に散らばっていたので自転車で移動することに。今回は駅舎からすぐのJR駅のレンタサイクルで借りることにした(1日1,500円/当時)。
こちらはGoogle Earth 3Dによる会津若松市街地と、その上に訪問した場所を重畳させたもの(上側が北):
午前中は、主に蒲生氏郷ゆかりの墓所や寺院を訪問し、お昼を摂った午後からはたっぷり時間をかけて若松城(鶴ヶ城公園)を攻めてきた。その他には歴代會津藩主松平家の墓所、そして新選組ゆかりの寺院(墓所)まで足を運んできた。ただ會津戦争で悲劇の舞台となった飯森山や滝山本陣跡、会津さざえ堂などの名所は時間の都合で見れなかった。また會津蘆名家中興の祖と云われる蘆名盛氏《アシナ・モリウジ》の隠居城であった向羽黒山城《ムカイハグロヤマジョウ》については、また後日、別の機会に攻めてきた。
あと、自分は直接は拝見していないが、この日會津戦争を舞台にした大河ドラマの主人公役の女優がパレードを練り歩いていたようで、駅前から鶴ヶ城公園までのメインストリート(国道R118)沿道には大勢の市民が集まっていたっけ。
まぁ何はともあれ、これだけの距離を短時間で巡ってこれたのは、やはり自転車のおかげ 。次は訪問順に並べた場所それぞれの簡単な紹介:
- 本光寺《ホンコウジ》には蒲生忠郷公の五輪塔がある。忠郷公は蒲生氏郷の嫡男・秀行の長男で、陸奥会津藩2代藩主。
- レオ氏郷南蛮館には再現された天主の間や呂宋茶壷《ルソン・チャツボ》などが展示されているらしい[h]と云うのも、着いたのが開店前だったので実際には見学できなかった。でも11:00amが開店時間とはかなり遅すぎ。。
- 阿弥陀寺《アミダジ》には、會津若松城の本丸にあった御三階(現存)が移築されている他、新選組三番組組長・斎藤一(藤田五郎)の墓所がある。
- 興徳寺《コウトクジ》には蒲生氏郷公の五輪塔や、公の有名な辞世の句の碑がある。
- 直江山城守屋敷跡は、「日本の道徳教育の生みの親」とも云われた山鹿素行《ヤマガ・ソコウ》)誕生の地でもある。
- 日新館《ニッシンカン》天文台跡は會津藩の藩校である日新館の天文台。校舎が戊辰戦争で焼失しているので、唯一の藩校の遺構である。
- 會津若松城については、本訪問記で詳しく紹介する。連休の秋晴れともあって、ホントに沢山の人達が訪れていた。
- 天寧寺《テンネイジ》は曹洞宗の寺院で、會津蘆名家の菩提寺であり、刑死した新選組局長・近藤勇の墓所がある。
- 會津藩主松平家墓所には會津藩2代藩主・保科正経《マサツネ》公から9代藩主・松平容保《マツダイラ・カタモリ》公までが眠る御廟である。ちなみに初代藩主・保科正之公は猪苗代の土津《ハニツ》神社に眠っている。
- 西郷頼母《タイゴウ・タノモ》屋敷跡は幕末の會津藩家老の屋敷。頼母は會津戦争後、函館戦争にも参加した。
- 甲賀町口郭門跡《コウガマチグチ・カクモンアト》は江戸時代に築かれた門の跡で、城内(郭内)と城外(郭外)の境界にあたり、往時は外堀として畝濠(水堀)があった。郭内は武家屋敷、郭外は町人屋敷と町割りされていた。
あと、八角《ヤスミ》神社は、若松城の前身にあたる鶴ヶ城の起源にあたり、ここの社を會津蘆名氏が改修して亀の宮とし、これを鎮護神としたことが「鶴ヶ城」と云う名前の由縁なのだとか。
この日のお昼は会津若松の郷土料理である「輪箱飯《ワッパメシ》」を頂いて、若松城跡の鶴ヶ城公園へ向かった。
今回の城攻めルートはこちら。天守内部に展示されていた復元品も含めて、とにかく見所が多かったが、人も多かった :
西出丸跡と南町通濠 → ①大手口跡 → ②追手門跡 → ③北出丸大手門跡 → ④北出丸跡 → 武徳殿 → 椿坂 → ⑤太鼓門跡 → ⑥天守 → 帯郭跡 → ⑦西中門跡 → ⑧鐘楼堂 → ⑥天守 → 天守台石垣 → 武者走り → 旧表門跡 → ⑨本丸跡 → 天守内部 → 城址周辺の眺望 → ⑩南走長屋 → ⑪干飯櫓 → 本丸土塁 → ⑫大広間跡 → 馬洗跡 → ⑥天守 → ⑬鉄門 → 不識庵公仮廟所跡 → ⑬鉄門 → ⑫大広間跡 → 荒城の月碑 → ⑭月見櫓跡 → ⑮茶壺櫓跡 → 表御座所跡 → ⑯御三階跡 → 奥御殿の庭跡 → 長局・対面所跡 → ⑰茶室麟閣 → 本丸土塁 → ⑱廊下橋門跡 → 旧表門跡 → ⑲帯郭跡 → 走長屋跡の石垣 → ⑱廊下橋門跡 → 廊下橋 → ⑳二の丸跡 → ㉑伏兵郭跡 → ㉒東門跡 → (公園の外へ) → ㉓三の丸跡 → (天寧寺) → (会津武家屋敷) → (會津藩主松平家墓所) → (西郷頼母屋敷跡) → ㉔甲賀町口郭門跡 → (JR会津若松駅のレンタサイクル店)
次の「鶴ヶ城」案内図(下側が北)が示すように、公園入口は東西南北の四ヶ所あり、その全ての入口付近に駐車場が設けられていたが、城攻めの時間帯には渋滞が発生し駐車場まで長い車列ができていた。当初は西出丸跡から攻める予定であったが、この出丸跡全体がそのまま駐車場になっていたため公園西口の混み具合が酷かったことと、最後に㉓三の丸跡を見たら直ぐに市内東にある天寧寺や松平家墓所へ向かえるように、自転車を公園東側近くに置いておきたかった。そう云うことで、大手口跡である北口から攻めることにした[i]自転車は、やや強引だったけど追手門跡の目の前にあったお茶屋さんの脇に止めることができた。それでも大勢の人達が訪れていてくれたおかげで、あまり目立つことが無かったので助かった。:
こちらは、同じくGoogle Earth 3Dによる鶴ヶ城公園の俯瞰図と、今回の城攻めルートを重畳させたもの。會津戦争まで使用された若松城は、その280年ほど前に蒲生氏郷が曽根内匠昌世《ソネ・タクミ・マサタダ》[j]昌世は武田信玄の奥近習六人衆の一人だった。武田家が滅亡した後に蒲生家に使えた。同じ近習には眞田昌幸や土屋昌続らがいる。らに命じて作り上げた甲州流築城術による縄張を基礎としている:
往時は三の丸の外側には中堀があったが、廃城後の明治41(1908)年に帝国陸軍の連隊練兵場が設置された際に、堀や土塁が整地されて消滅したのだと云う。ただ県立博物館建設時にわずかに発掘された堀の輪郭が、建物裏の芝生や花壇によって示されているのだとかで、推定ではあるが中堀も追加してみた(青色太線):
現在の天守内は昭和40(1965)年に6階建ての鉄筋コンクリート造により外観復元で再建されたもので、その内部は鶴ヶ城天守閣博物館として公開されていた(入閣料は茶室麟閣と合わせて510円/当時)。特に、最上階の展望台からは眺めは素晴らしかった。
まずは公園北口にあたる①大手口正門跡から園内へ:
このまま追手前西濠沿いを道なりに進んで行くと、土橋を渡った先には追手門跡の台座石垣が残り、さらに枡形を進んでいった先に角馬出である北出丸跡がある:
こちらが②追手門跡。桝形門であるが、他の城とは異なり二の門は無く一の門である北出丸大手門と石垣だけで枡形を形成していた。左手前にあるのは「史蹟・若松城跡」の碑:
こちらは枡形の中(北出丸大手門の台座石垣の上)から見下ろした追手門跡。一般的には高麗門形式の二の門が建てられるが、ここ若松城には無く、石垣の内側は雁木状の大腰掛《オオゴシガケ》になっていた:
この大腰掛の石垣は、今から390年以上前の寛永4(1627)年に嗣子なく没した蒲生忠郷に代わって入城した加藤嘉明《カトウ・ヨシアキラ》[k]秀吉子飼いの武将の一人で、賎ヶ岳の七本槍の一人で伊予松山城主(伊予松山初代藩主)。の時代に整備されたもの。
そして、こちらは大腰掛の上から眺めた三岐濠《ミツマタボリ》。この方向だと、左手正面が伏兵郭《フクヘイグルワ》跡、右手が本丸跡で、さらに二の丸跡の向こう側にある三の丸跡まで続いており、文字どおり3つの郭を股にかけた水濠だった。このような縄張により追手門に侵入した敵は、この内堀を挟んで伏兵郭と本丸からの攻撃に晒されることになる:
若松城の大手口として堅固な石垣に囲まれた枡形の先は鈎の手(直角)に折れ曲がっており、さらに奥の北出丸内部を見透かされないように一の門にあたる③北出丸大手門跡が建っていた:
このような構造により城内に侵入しようとする敵を三方向から攻撃することができた:
北出丸跡から見た鈎の手に折れた大手道。この上に櫓門形式の北出丸大手門が建っていた。左手奥の雁木は、北出丸北東に建っていた隅櫓へ上がる際に使用したと思われ、実際に上がってみると櫓台跡が残っていた:
そして、こちらが④北出丸跡。こちらも追手門と同様に加藤氏によるもので、それまでの小さな馬出を出丸に整えたもので、これにより大手口の守備が堅固になった。出丸に侵入した敵は、二基の隅櫓と櫓門、そして本丸の四方向から攻撃を受けることになることから「みなごろし丸」という異名を持つ:
この北出丸は、慶長16(1611)年に発生した會津地震後に加藤嘉明の嫡男・加藤明成《カトウ・アキナリ》が、西出丸と共に整備したものである。それから230年後の會津戦争で、新政府軍が北出丸追手門付近まで侵入したが、ついにこの郭より先には進むことができなかった。
これは北出丸跡に建っていた武徳殿《ブトクデン》。昭和9(1934)年に武道を愛す会津市民の寄付により建てられたもので、現在も剣道をはじめとする武道奨励の場となっている:
北出丸から本丸へと通じる大手道の本丸虎口へ向かうのが椿坂(別名は横手坂)と呼ばれた土橋である。往時、「この坂を制するものが城を制する」とも云われた程、重要な土橋だった:
追手門と同様に、二の門が無い枡形になっていた本丸虎口の石垣には遊女石《ユウジョイシ》と呼ばれる一際大きな石が多数埋め込まれていた。はじまりは、若松城を大改修した蒲生氏郷が城内に石垣を運ぶ際、石の上に美しく着飾った遊女を乗せて踊らせることで、巨石の運搬に難儀していた男たちを励ました[l]これは、特に派手な演出好きの太閤秀吉が多用した手法であり、氏郷もそれに倣ったとされる。ことから:
こちらは太鼓門枡形の中から見上げた天守。これにより虎口に侵入した敵は枡形による三方面の他に、正面上段からも立体的な攻撃を受けることになる:
⑤太鼓門跡。本丸虎口を鈎の手に折れたところには櫓門である太鼓門が建ち、その二階には胴径約1.8mの大太鼓が置かれていたという:
太鼓門は北出丸から本丸に通じる追手門(大手門)の一つで、多聞櫓に置かれた大太鼓は藩主の登城や非常招集の他、時報を告げるために使用された。
ここを通過すると本丸を囲む帯郭跡になるが、現在は観光案内所(管理事務所)や売店、トイレなどがあった他、歴代城主の家紋が展示されていた:
ここで眼前に入ってきたのが、赤瓦で白壁の美しい⑥天守。天守の北西側(本丸虎口と帯郭側)を向いた土塀には沢山の鉄砲狭間が設けられ[m]逆に南西側には狭間は設けられていない。、まさに攻撃型の天守であることを物語っていた:
現在、本丸跡に建つ天守は鉄筋コンクリート製の五層五階・地下一階で、赤瓦葺の層塔型天守である。これは廃城前の姿を外観復元したものであるが、その当時は黒瓦葺だった。そして平成23(2011)年に廃城時と同じ赤瓦葺きに復元された。
はじめ伊達政宗が城主であった黒川城を大改修した蒲生氏郷は、死去する二年前は文禄2(1593)年に若松城に改名し、旧主国である近江や伊勢から呼び寄せた穴太《アノウ》衆らを使って黒瓦の望楼型七層の天守を竣工させたが、その後の慶長16(1611)年に発生した會津地震[n]地震の規模はマグニチュード6.9程度と推測されるが、震源が浅かったため震度6強の激しい揺れがあったと考えられている。により天守の一部が倒壊し傾いてしまった。氏郷が築いたこの七層の天守を、この時の城主である加藤明成が、幕末まで威容を誇ることになる五層五階の層塔型天守に改め、近世城郭の基礎を築くに至った。
この後は人混みを避けるように、先に西出丸跡へ向かった。こちらは⑦西中門跡で台座石垣が残っていた:
この台座石垣の上には⑧鐘撞堂《カネツキドウ》が建っていた。これは會津戦争の際に、籠城戦ののち開城するまで正確な時を告げ、大いに城内の士気を鼓舞した、まさに「歴戦」の鐘である。現在もボランティアの手によって鐘の音が響いているのだとか:
この鐘撞堂前から眺めた白漆喰総塗籠《シロシックイ・ソウヌリゴメ》の白壁と赤瓦葺の天守も、また美しい。復元された天守の高さは約36m(うち天守台は約11m)である:
再び帯郭跡へ降りて本丸跡を目指した。まずは再び⑥天守が見える帯郭跡へ。この天守は派手な装飾はないが、異なる造り(入母屋造と切妻造)の張出《ハリダシ》が、その存在感を示していた:
現在の天守は、寛永16(1639)年に再築され會津戦争を経て廃城まで残されたものの外観を復元したもの。會津地震の被害を受けて大きく傾いていた、それまでの七層の天守を破却し、ひと回り以上小さい五層で、建築が簡単ながら地震に強い層塔型の天守に改められた:
地震の被害が大きかった天守は建て直されたが、その一方で傷みの少ない天守台は内側を補修しただけで、蒲生氏郷が築いた石垣をそのまま使用している。そのため七層天守向けの石垣の上に、七層天守より一階の面積が小さい五層の天守が建っているという状態となり、天守と石垣との間にアンバランスな段差を持つこととなった。天守台の高さは約11m:
こちらは太鼓門側の石垣に設けられた武者走り《ムシャバシリ》。この石垣の上にある櫓へ上り下りするための階段がV字型で設けられていた:
それぞれ西側と北側から見上げた天守。前者の二層と三層の間には入母屋造《イリモヤヅクリ》の出窓が、後者は切妻造《キツマヅクリ》の出窓が設けられている:
そして、ここが旧表門跡。または本丸埋門《ホンマル・ウズミモン》跡とも。蒲生氏の時代(一度目の改修)では、ここが表門であったが、加藤氏の時代(二度目の改修)以降は鉄門《クロガネモン》が表門となったため、ここは搦手門になった:
ここは天守の北東にあって、本丸奥御殿の北側から、手前の帯郭に通じる枡形門が建っていた。城内にある他の門と比較して低かったことから埋門形式[o]土塁や石垣の下部をくり抜いたようにして造られた門のこと。であったと云う。
そして旧表門を抜けると⑨本丸跡が広がっていた:
こちらは本丸跡から見上げた⑥天守の東側。天守台にある入口[p]出口は南走長屋・干飯櫓にあるため一方通行である。は、そのまま天守台内部の地階(二段の穴蔵)につながっていた。なお右手の入場券売り場で購入した「鶴ヶ城天守閣・茶室麟閣入場券」は大人510円(当時)だった:
こちらが天守台にある天守閣博物館の入口。この角度から見る蒲生氏時代の天守台石垣も見事である。あと北西側の土塀とは異なり、狭間が一切設けられていなかった:
會津地震で被害が小さかった天守台は、それ以降も使用されているが内部の石垣は積み直されている[q]さらに現存遺構である天守台に負担がかからないよう、鉄筋コンクリート製の建造物だけを支えるために支柱が地中深く埋められているのだとか。:
このあとは二段になった穴蔵(塩蔵または煙硝蔵とも)[r]他に二段になった穴蔵を持つ城は大坂城のみ。を上がり、各階にある展示物を鑑賞しながら最上階の展望台へ向かった。
まず、天守展望台から南走長屋《ミナミ・ハシリナガヤ》と鉄門《クロガネモン》、そして干飯《ホシイイ》櫓がある南方面の眺望:
天守から延びる走長屋は南向きと東向きの二つあり、それぞれ多聞櫓になっていた。特に南走長屋は、天守と城内で最大クラスの干飯櫓との間を結び、二棟の走長屋の間は櫓門(鉄門)で連結され、これらが一体となって帯郭(右手)から本丸(左手)への敵の侵入を防ぐ要となっていた:
こちらは本丸奥御殿跡に移築された県指定重要文化財の茶室「麟閣《リンカク》」と、その背後に茶壺櫓跡(正面奥)、その右手に月見櫓跡(右奥)を見下したところ:
そして天守を中心とした各方面の会津若松市内の眺望。秋晴れのこの日は遠く北は磐梯山、南は那須岳、西は御神楽岳まで眺めることができた:
南側の眺望には、會津蘆名氏の中興の祖にあたる蘆名止々斎《アシナ・シシサイ》盛氏の隠居城・向羽黒山城[s]この年の翌年に攻めてきた。が見えた:
このあとは南走長屋の中を歩いて南橋にある干飯櫓へ。これらは共に平成13(2001)年に木造で復元された。ちなみに天守側から延びた走長屋の内部は御土産屋になっていた他、会津若松を舞台にしたNHK大河ドラマの衣装や小道具が展示されていた。
こちらは鉄門を抜けた先の⑩南走長屋で、この先に干飯櫓がある。その内部は片側が廊下で、もう片側には小部屋が多数連なっていた:
廊下を抜けると干飯櫓との接合部があり、階段上が櫓、鉄砲を構えた等身大の人形が狭間から狙いをつけていた:
こちらが二層二階の干飯櫓の内部。往時は糒蔵《ホシイグラ》などと呼ばれ、文字通り干飯[t]蒸した米を乾かした保存食。が貯蔵されていたと云う:
こちらは櫓の外に出て本丸土塁から振り返った見た、城内最大で二層二階の⑪干飯櫓:
こちらは本丸跡から見上げた干飯櫓と南走長屋。石垣は共に打込接で、櫓と走長屋の高低差がよく分かるアングルである:
そして本丸土塁は上側だけ石垣が積まれた鉢巻土塁になっていた:
平成の世になって赤瓦葺で統一された干飯櫓(屋根だけ)と南走長屋と鉄門、そして五層の天守:
走長屋と連結する天守南面は、長屋の入口の切妻部分と天守の二層目の切妻出窓、そして最下層の土塀の切妻屋根の「3つの切妻」(黄緑色の三角形)が縦一列に重なるように造られている:
文禄元(1592)年に関白秀吉は、蒲生飛騨守氏郷に會津黒川42万石(奥州仕置後に加増されて最終的に92万石)を与えた上で、奥州全域に睨みを効かせることは勿論のこと、関八州を支配する徳川家康を背後から牽制するための拠点となる城を築かせた。中世の城は石高に比例する規模を保有するのが通例で、その当時の92万石となると徳川氏を除いて、安芸・毛利氏(約120万石)や加賀・前田氏(約84万石)と肩を並べる規模である。
一説に秀吉は氏郷の力量を恐れて謀叛できないように中央から遠い国に飛ばしたとあるが、それは誤りで、逆に氏郷の力量を認めていたが故に、東北の要鎮である會津に配置したのである。往時、若手随一の傑物《ケツブツ》と云えば氏郷の他に、同じ利休七哲《リキュウシチテツ》の一人である細川忠興がいたが、忠興が固辞したため氏郷が選にあたったわけである。さらに父である蒲生賢秀は「馬鹿」が付くほど義理堅い人物であり、氏郷もまたその影響を大きく受け継ぐ人物であったといえ、それなりの理由[u]例えば、織田信長の娘婿ということで、本家の織田家を盛り立てるなど。が無い限り秀吉に謀反するとは考え難い。
『蒲生氏郷記』によると、文禄2(1593)年に完成した天守は「七重ノ天守、月見矢倉ニ太鼓門、其外ノ殿ニ金銀鏤《チリバ》メタリ。」とあり、七層の天守の他に月見櫓や太鼓門、御殿にも金銀がちりばめられた豪華さだったという。実際に近年の発掘調査では種々の金箔瓦が出土したというから、関白秀吉が築いた聚楽第や大坂城を大いに参考にして、この奥州の地にそれらに匹敵する堅固で豪華な城を築いたのは想像に固くない。氏郷は秀吉本人を好きではなかったかも知れないが、その戦略は大いに認めて真似をしていたとも考えられる。
現在のところ、氏郷が築いた七層の天守の姿を伝える史料は見つかっていないが、おそらくは三層の櫓の上に四層の望楼を載せた建築物で、外観は漆黒の下見板張《シタミ・イタバリ》を施し、最上階は廻縁《マワリエン》と高欄《コウラン》が巡っていたと考えられている。そして屋根には西国仕様の黒い燻瓦《イブシ・ガワラ》を葺いていた。
このあとは本丸土塁を下りて⑫大広間跡へ。ここは、いわゆる表御殿の一部で、表門であった鉄門から入った来客は玄関を経て、ここ大広間と云う控室で取次を待つことになっていた:
このまま鉄門へ向かうと、その途中には馬洗跡。と云っても馬の口を洗うだけの小さな水汲み石。この辺りに藩主用の馬場があったらしい:
本丸跡から眺めた南走長屋と天守。本丸は、走長屋と天守によって区画・守備されていた:
氏郷が40歳の若さで死去した後、彼の嫡子・秀行が当主となったが御家騒動が勃発して転封となり、空白となった東北の要衝地に入国したのは越後の雄・上杉権中納言景勝であった。氏郷の代わりを見事務めることができるのは、まさに「越後の精兵」たちしかいなかった。慶長3(1593)年、太閤秀吉の命で、景勝は養父・上杉謙信が築きあげた越後国を離れ、出羽三郡と佐渡三郡を加えた120万石で會津に入国し、「會津中納言」と呼ばれることになった。しかし、會津に入った上杉家を取り巻く周囲の状況は一触即発の状況であったため、若松城には自らが入り、米沢城には家老・直江山城守兼続、白石城には甘糟備後守景継、陸奥福嶋城には本荘越前守繁長、梁川城には須田大炊頭長義らを配して警戒を強めた。しかし同年の夏に秀吉が死去、そして慶長5(1600)年には関ヶ原の戦いとなり、本戦で石田治部少輔が敗れたため、徳川内府に降伏して出羽国・米沢30万石に減封となった。
そういうことで、上杉氏が若松城を改修したと云う史料は現在は存在しておらず、氏郷が築いた七層の天守を持つ城郭をそのまま使用していたものと考えることができる。
そして上杉氏に変わって若松城に入城したのは、一度ここ會津を追い出された蒲生秀行である。関ヶ原の戦で上杉景勝討伐に加わった秀行は家康の娘を妻としていたため徳川一門衆扱で厚遇され、ここ會津に60万石で復帰した。そして父の遺業を継いで城の整備や町方の振興に努めたが、慶長16(1611)年の會津地震によって城の石垣が崩れ、七層の天守が傾くなどの被害を受けた。さらに御家騒動の再燃も重なってか、その心労がもとで翌17(1612)年に死去した。享年30。そして僅か10歳で家督を継いだ秀行の嫡子・忠郷の代になっても家中は安定しなかったという。
こちらは元和2(1616)年、蒲生忠郷の時代に江戸幕府へ提出された『領国絵図』(控え)であるが、そこには祖父・蒲生氏郷が築いた七層の天守が描かれていた:
そして忠郷は寛永4(1627)年に嗣子がないまま死去した。享年25。ここで、本来ならば蒲生家は無嗣断絶となるところだが、母が家康の娘であるということで、忠郷の弟・忠知《タダトモ》を後嗣にして伊予松山に転封となった。
そして、代わりに伊予松山から會津へ移封されてきたのが加藤嘉明・明成父子である。嘉明は震災後の領内の整備に尽力し、特に嫡男・明成の時代には、ついに傾いた天守の再築に着手し、寛永16(1639)年に完成した天守は、それから幕末まで、さらには現代でも(外観復元として)見ることができる天守の基礎となった。この五層五階の層塔型天守は新築であるが、天守台の石垣はリサイクル(再利用)である。したがって七層用の広さを持つ石垣の上に、七層天守よりも一階の面積が狭い五層の天守が建つことになった。このアンバランスさを解消するため、天守台に土塀を巡らし、天守を北東側に寄せて建てたと云う。それにより傍目からは土塀があって分からないが、天守の南側には土塀との間に大きな隙間ができている。次はGoogle Earth 3Dによる現在の天守の俯瞰図で、水色部分が隙間を示す:
明成は天守の他にも北出丸や西出丸の拡張も行っており、ここに會津戦争を戦い抜くことになる奥州随一となる城塞の礎が完成した。ちなみに外堀跡近くにあった「甲賀町口」と云う町名は、其の昔に氏郷が名づけた火玉村は城には縁起の悪い「火」を連想させることから、甲賀町に改名させたと伝えられている。
この時代、かって「賤ヶ岳七本槍[v]柴田勝家との戦いで特に功名を挙げた脇坂安治、片桐且元、平野長泰、福島正則、加藤清正、糟屋武則、加藤嘉明の七人。」と謳われた秀吉子飼いの強者《ツワモノ》)達の多くが、その血統を絶やすか、あるいは改易を受けるといった中にあって、老齢ではあるが會津に二本松と三春《ミハル》を加えて48万石の身上に登りつめた加藤嘉明は幸運であった。しかし、その父の所領を継いだ明成は、晩年に自らの異常な性格により引き起こした會津騒動で改易となった。
これにより寛永20(1643)年、三代将軍家光の異母弟にあたる保科正之が會津に入封し、若松城は廃城までの220年間、會津松平家の居城となった。
蒲生氏郷が築いた城郭は、畿内を中心に広く使用されていた黒色の「燻瓦《イブシガワラ》」葺きであったが、ここ會津では積雪や気温の寒暖差により瓦内にしみ込んだ水分が凍結すると、ひび割れが多発した。当然ながら保守にもお金はかかるわけだが、保科正之が城主であった時代に本格的な瓦改良が進み、鉄分を多く含んだ釉薬《ユウヤク》を使った瓦であれば、ある程度のひび割れを防ぐことができたため、順次葺き替えられたとされる。そして、この鉄釉が塗られた瓦が焼き上がると赤茶っぽくなったため「赤瓦」と呼ばれるようになった。
このあとは⑬鉄門《クロガネモン》へ。加藤氏の時代から、ここが表門になり、それまでの表門は搦手門になった:
復元され鉄板で覆われた門扉と櫓門の梁:
そして帯郭跡から眺めた鉄門。他の建物の白漆漆喰総塗籠とは異なり、門の壁面は黒い下見板張りになっていた。會津戦争では、新政府軍の東側からの攻撃に際し、反対側で最も安全な場所であることから、城主・松平容保の御座所が置かれたと云う:
こちらは天守台や走長屋で使われていた石垣。よく見ると蒲生氏郷が拡張した時代の野面積み(天守台)、加藤明成が拡張した時代の打込接ぎと切込み接ぎ(走長屋)といった様々な積まれて方をした石垣が混在していた:
これは鉄門脇にあった「上杉謙信公仮廟所跡」。と云っても推定場所である。実際のところ、太閤秀吉による越後上杉家の會津移封に伴って謙信公の亡骸も移された際に、若松城の南西隅の仮殿に安置されたという記録が残っているだけである:
このあとは再び⑬鉄門をくぐって⑨本丸跡へ入り、⑥天守を見上げてきた。
現在、この天守台と帯郭跡には蒲生氏郷が築いた野面積みの石垣が多く残っている。それ以外の部分は、加藤明成の改修の際に芝土居から石垣に積み直されたと考えられている:
次は人混みを避けて本丸の東隅へ移動した。これは、その途中で目にした「荒城の月《こうじょうのツキ》」の碑[w]この歌碑は會津若松城址の他に、宮城県の青葉城址、岩手県の九戸城址、大分県の岡城址、富山県の富山城址に設置されている。。この唄を作詞した土井晩翠の詩が彫られている。作曲は云わずと知れた滝廉太郎:
それから、この碑の背後にある本丸土塁へ登り⑭月見櫓跡へ。ここ建てられていた二層二階の櫓は、常日頃から武器庫として使われていた他に、本丸御殿・中奥前に建っていた物見櫓の御三階《オサンカイ》や、内濠から続く本丸南側の石垣とでそれぞれ横矢(側面攻撃)を仕掛けるために重要な櫓であった:
再び、鉢巻土塁となった本丸土塁。よく見ると白壁の多聞塀が建っていたとされる穴が残されていた:
月見櫓の台座石垣にも多聞塀と連結されていた跡が残っていた:
このまま本丸土塁の上を歩いて南へ進んでいくと⑮茶壺櫓跡がある。これも二層二階の櫓で、本丸と二の丸を結ぶ廊下橋を一望できることから、二の丸から廊下橋を進んで本丸へ向かう寄せ手に、高さ20mの高石垣の上に建つ櫓台から横矢を仕掛けることが主な役割だったとされる:
このあとは、三たび⑨本丸跡へ下りて、本丸御殿などの遺構を見てきた。と、その前に天守東側の眺め:
昭和40(1965)年に再築された天守は、五層五階・地下一階の層塔型で、高さは36m、そのうち天守台が11mである。外観は、白亜の白漆喰総塗籠とし、最上階には廻縁と高欄が再現されている。遠目で見てもわかるとおり、近世の城郭としては破風《ハフ》などの装飾部は少ない方であり、天守入口の門上に切妻造の出窓を設けている他に、二層目の南北面(写真の左と右)にも切妻造の出窓、三層目の東西面(写真の手前と奥)に入母屋造の出窓がそれぞれ設けられているだけである。ちなみに出窓の床面は全て石落としになっていた。二層目と三層目の出窓の造りを変えることで、若干の変化を与えているのみである。ちょっと木に隠れて見えづらいが、ふた回りほど広い天守台を巡っている土塀が小さな天守を一段と大きく見せていた。ちなみに土塀の鉄砲狭間は帯郭を向いた西と北側にしか付けられていない。窓は格子窓となっているが塗籠《ヌリゴメ》とせずに、引戸の外壁を塗り固めていた。また天守台内部の地階には二段の穴蔵があり、塩蔵または硝煙蔵として使われていたと云う。
次は本丸御殿の表向《オモテムキ》にあった「藩主の居間跡」と「表御座《オモテゴザ》跡」、そして小書院前に置かれていた手水鉢《テミズバチ》。本丸御殿にあった多くの建物は明治7(1874)年の廃城時に取り壊されるか、または払い下げになった:
これは會津戦争で傷ついた鶴ケ城天守(西側)の写真。明治5(1872)年に撮影されたもので、月日が流れ傷みが激しくなっているのが見て取れるが、なんと、さらにこのまま放置され続けて二年後の廃城時に取り壊しになったのだとか:
こちらは⑯御三階《オサンカイ》跡。本丸御殿の中奥《ナカオク》の最東端に建ち、物見櫓としても使われていた本丸内で唯一の三層三階の高楼建築である:
會津戦争でも焼失することはなかったが、戦後は戦火の煽りを受けて本堂を失った阿弥陀寺(会津若松市七日町)に移築された。こちらが、その阿弥陀寺に移築されていた数寄屋風の楼閣建物[x]最上階へ登る階段は上に引き上げられる構造になっている。である御三階。外観は三階建てだが、内部は四階になっており、二階と三階の間に天井の低い部屋が設けられているのだとか。長い間、本堂として使用されていたらしく、正面の唐破風は本丸御殿の玄関を一部流用したものらしい:
御三階の脇には本丸御殿の奥向《オクムキ》があり、長局《ナガツボネ》や対面所《タイメンジョ》などがあった:
そして、一際混雑していた⑰茶室麟閣へ。こちらは裏門で、表門はこの右手にある。ちなみに表門の扁額《ヘンガク》は裏千家の家元によるものだとか:
表門をくぐって庭園に入ると寄付《ヨリツキ》と云う建物があり、さらに進むと中門《チュウモン》が見えてくる:
そして茶室麟閣。屋根に掲げられた扁額は表千家の家元が書いたものらしい:
この茶室は、千利休の養子にして娘婿でもある少庵《ショウアン》が、利休切腹後に彼の愛弟子で利休七哲の筆頭であった蒲生氏郷の庇護を受けて會津に蟄居を命じられていた時代に建てたものだという。氏郷は、千家の取り潰しで茶道全体が廃れてしまうことを危惧し、秀吉に千家の再興を願い出て許された。その後、少庵は京都へ戻り、やがて現在の表・裏・武者小路の三千家《サン・センケ》に分流した。
こちらは鎖の間(蒲鶴亭)と麟閣の躙口《ニジリグチ》。この躙口が客人用の出入り口で、縦横60cmぐらいの狭さで身をかがめてようやく入れるくらいの小窓:
この茶室も廃城時に破却されることになっていたが、茶人・森川善兵衛が自邸に移築・保存し、120年後の平成の世になって元の場所で復元された。現在、麟閣は福島県の重要文化財に指定されている。
裏門前には、お茶席が設けられ抹茶を一服楽しむことができた(500円/当時)。目の前に本丸御殿の表向きにあった金之間《キンノマ》跡を眺めながら、冷たい抹茶とお菓子を頂いてきた。なかなか味わえない一時だった:
このあとは本丸東側の高石垣の上に登って、上から⑱廊下橋門跡の枡形と台座石垣を見てきた:
この台座石垣の上から見下ろした廊下橋門の喰違い虎口:
さらに内堀越しに二の丸跡を眺めたところ:
こちらは、そのパノラマ版:
復元された鉄製の廊下橋。往時、この橋は本丸から二の丸へ通じる内濠に架かった朱塗りの木橋で、蘆名氏・蒲生氏・上杉氏の時代まで追手口だった。ちなみに由来は、蘆名氏時代に屋根の付いた廊下造りの追手口だったことから:
これが本丸高石垣の土塁の上で、この先には⑮茶壺櫓跡や⑭月見櫓跡があり、そして⑪干飯櫓へ至る:
この後は⑨本丸跡へ下りて、旧表門(裏門)跡を経由し⑲帯郭跡へ。
こちらは帯郭の周囲を巡っていた本丸土塁。下から見上げた感じで比高10mほど:
そして本丸土塁の上から北出丸と本丸を結ぶ椿坂方面の眺め。こちらも上部だけ石垣が積まれた鉢巻土塁になっていた:
帯郭跡から廊下橋がある東へ向かった旧大手道沿いには東走長屋の石垣と、その上に登るための雁木が残っていた:
廃城してから140年以上も経過していながら、今なおその姿を残している走長屋跡の石垣と雁木:
このまま廊下橋へ向かって行くと廊下橋門の喰違い虎口が見えてきた。ちょうど左手にずれた二つの石垣の間に、往時は薬医門形式の一の門が建っていた:
こちらが一の門の脇に建つ石垣。こちらは切込接の石垣であった。この右手が枡形で、その先に見える朱色の橋が廊下門橋(模擬)、さらにその奥が二の丸跡になる:
一の門跡の先を鈎の手に折れると枡形となる。この廊下橋門も②追手門同様に、桝形門ではあるが二の門が無かった:
こちらは廊下橋から見た本丸の高石垣。二の丸に面した廊下橋の両脇100mにわたって築かれた高さ20mを越える石垣で、方形に整形した石を積んだ打込接《ウチコミハギ》の布積《ヌノヅミ》である。石垣の上端から下端までが曲線となっていたところから、宮勾配とか扇勾配と呼ばれた。この石垣沿いの奥にある、石垣が積まれていない土居の上が⑮茶壺櫓跡になる:
それから模擬の廊下橋を渡って二の丸跡へ。これは二の丸跡から振り返って眺めた⑱廊下橋門跡の枡形。蘆名氏・蒲生氏・上杉氏の時代は、ここが追手門だった:
こちらは廊下橋を挟んで右手の本丸高石垣、その本丸と二の丸とを隔てていた内堀の三岐濠:
そして⑳二の丸跡。本丸の東側を守備する郭で、さらにその東にある三の丸をつなぎ、蘆名氏時代の追手門であった廊下橋口を守備する重要な場所だったが、現在はテニスコートになっていた:
さらに㉒東門跡へ向かう途中に㉑伏兵郭跡があった。なお蒲生氏の時代まで、この伏兵郭を含めた二の丸には藩の施設や重臣らの屋敷が建っていたと云う。現在は、こちらもテニスコートだった:
そして二の丸虎口にあたる㉒東門跡。往時、ここには薬医門形式の門が建っていた:
現在は石垣が残っていた:
こちらは東門の石垣の上から見下ろした三岐濠。文字どおり、本丸と二の丸と三の丸の3つの郭を区分する水濠で、手前が二の丸跡、向こう側が三の丸跡になる:
そして、土橋を渡った先が㉓三の丸跡。現在は福島県立博物館の他、陸上競技場や野球場が建っていたが、それだけ三の丸が広ったと云うことである:
こちらは城攻め前に公園周辺をぶらぶらしていた時に見てきた西出丸跡と南町通濠。車列を作っている土橋辺りが西追手門跡:
国道R118沿いの南町通濠近くに建っていた「史蹟・若松城跡」の碑:
さらに濠沿いに西出丸跡の南西側へ。西出丸は、北出丸同様に蒲生氏時代の小さな馬出と芝土居を、加藤氏が拡張して石垣を設けたもので、會津戦争中は硝煙蔵などが置かれていた:
こちらは西出丸の西追手門へつながる土橋の上から見た元鐘撞堂下三角濠。この先に④北出丸跡がある:
最後は、国指定史蹟である㉔甲賀町口郭門《コウガマチグチ・カクモン》跡。惣構《ソウガマエ》だった若松城の虎口の一つで郭門が建っていた。往時はこのような門が全部で16ヶ所あり、ここ甲賀口は大手門として他の郭門よりも厳重な構えだったとされている。現在は門の碑と石垣が残っていた:
惣構で土塁と外濠が巡らされた内側の郭内には上級武士の屋敷が400軒以上あった他、会所《カイショ》や割場《ワリバ》、藩校・日新館とその関連施設が建ち、寺社では興徳寺と諏訪神社が配置されていた。一方の郭外は町人屋敷が建っていた。外堀は幅16〜20m、深さ4〜6mで、天寧寺町口《テンネイジマチグチ》南側には畝濠が発見された。ちなみに、ここ甲賀町口門跡の他に、天寧寺町土塁と三の丸堀跡の三ヶ所が国指定史蹟に指定されている。
蒲生氏郷が縄張りし加藤氏が改修した會津若松城は、それから229年後に會津戦争を実戦した。戦闘には、当時最新のアームストロング砲など近代兵器が投入されたが、一ヶ月に及ぶ籠城戦においても會津武士らは頑強に抵抗し、敵兵を城内に一兵たりとも入れること無く守りぬいたことで城の堅固さを証明した。
近世の城で実戦を経験しているのは大坂城・熊本城・五稜郭、そしてここ會津若松城の四城しかなく、しかも四城ともに力攻めでは落城していない。まさに難攻不落と誇るべき名城である。
以上、足早で見てくるだけでも軽く半日はかかる規模であった。それだけ見ることができる遺構が充実しており、廃城後に注がれた会津若松市民の熱意や努力に感謝したい 。冒頭にも述べたが、是非とも自転車を使って周ってほしい。
會津若松城攻め (フォト集)
會津若松城(2) (攻城記)
會津若松城攻め(外郭攻め) (フォト集)
【参考情報】
- 日本の城探訪(会津若松城)
- 鶴ヶ城公園とその遺構の脇に建っていた説明板
- 鶴ヶ城・城址公園マップ (一般財団法人・会津若松観光ビューローのHP)
- 『会津鶴ヶ城』天守閣・茶室麟閣のパンフレット(若松城管理事務所刊)
- 『會津鶴ヶ城本丸御殿』のパンフレット(会津若松観光公社刊)
- Wikipedia(若松城)
- 海音寺潮五郎『日本名城伝』(文春文庫刊)
- 海音寺潮五郎『武将列伝 〜 戦国終末編』(文春文庫刊)
- 週刊・日本の城<改訂版>(DeAGOSTINI刊)
参照
↑a | 現在の神奈川県は三浦半島を中心に勢力を拡げた三浦氏の一族である。 |
---|---|
↑b | さらに八角の社を改築して亀の宮とし、これを鎮護神としたことが「鶴ヶ城」と云う名前の由縁である。 |
↑c | まさしく伊達家と佐竹家の代理戦争状態であった。 |
↑d | 刀狩り、喧嘩停止令など含め、大名間の私的な領土紛争を禁止する法令のこと。これに違反すると秀吉は大軍を率いて征伐した。例えば島津氏に対する九州仕置や北條氏に対する小田原仕置など。 |
↑e | 一説に、五層五階地下二階とも。そもそも「七層(七重)」とは何段にも重なると云う意味がある。 |
↑f | 同名の城が他にもあるので、現代は特に「会津若松城」と呼んでいる。なお、本訪問記の中では「若松城」で統一し、さらに「会津」についても可能な限り旧字体の「會津」で統一した。 |
↑g | 郡山駅 06:53am 発、会津若松駅 08:08am 着のおよそ1時間ほど。 |
↑h | と云うのも、着いたのが開店前だったので実際には見学できなかった。でも11:00amが開店時間とはかなり遅すぎ。 |
↑i | 自転車は、やや強引だったけど追手門跡の目の前にあったお茶屋さんの脇に止めることができた。それでも大勢の人達が訪れていてくれたおかげで、あまり目立つことが無かったので助かった。 |
↑j | 昌世は武田信玄の奥近習六人衆の一人だった。武田家が滅亡した後に蒲生家に使えた。同じ近習には眞田昌幸や土屋昌続らがいる。 |
↑k | 秀吉子飼いの武将の一人で、賎ヶ岳の七本槍の一人で伊予松山城主(伊予松山初代藩主)。 |
↑l | これは、特に派手な演出好きの太閤秀吉が多用した手法であり、氏郷もそれに倣ったとされる。 |
↑m | 逆に南西側には狭間は設けられていない。 |
↑n | 地震の規模はマグニチュード6.9程度と推測されるが、震源が浅かったため震度6強の激しい揺れがあったと考えられている。 |
↑o | 土塁や石垣の下部をくり抜いたようにして造られた門のこと。 |
↑p | 出口は南走長屋・干飯櫓にあるため一方通行である。 |
↑q | さらに現存遺構である天守台に負担がかからないよう、鉄筋コンクリート製の建造物だけを支えるために支柱が地中深く埋められているのだとか。 |
↑r | 他に二段になった穴蔵を持つ城は大坂城のみ。 |
↑s | この年の翌年に攻めてきた。 |
↑t | 蒸した米を乾かした保存食。 |
↑u | 例えば、織田信長の娘婿ということで、本家の織田家を盛り立てるなど。 |
↑v | 柴田勝家との戦いで特に功名を挙げた脇坂安治、片桐且元、平野長泰、福島正則、加藤清正、糟屋武則、加藤嘉明の七人。 |
↑w | この歌碑は會津若松城址の他に、宮城県の青葉城址、岩手県の九戸城址、大分県の岡城址、富山県の富山城址に設置されている。 |
↑x | 最上階へ登る階段は上に引き上げられる構造になっている。 |
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