静岡県藤枝市田中1丁目にあった駿州田中城[a]同名の城が他の地域にもあるのでタイトルのみ国名を冠し、本文中は「田中城」とした。は、鎌倉後期の駿河国にあって一色左衛門尉信茂(いっしき・さえもんのじょう・のぶしげ)[b]一色氏は足利氏の一族で、若狭国・丹後国、そして三河国の守護や、足利幕府の侍所頭人(さむらいどころとうにん)を務めた。なる豪族の居館を拡張したものがその始まりで、のちに駿河と遠江の守護・今川義元の支配下では徳一色城(とくいっしき・じょう)と呼ばれていた。そして義元死後の元亀元(1570)年に、三河国の徳川家康と共に駿河へ侵攻した甲斐国の武田信玄が、駿河湾に面した花沢城攻略の余勢をもって奪取した。信玄は馬場美濃守信房に命じて城を改修させ、ここを諏訪原城と共に大井川を境とした遠江攻略の拠点とした。その際に輪郭式の縄張となって田中城と改められた上に、甲州流築城術が取り入れられて6ヶ所も丸馬出が設けられたと云う。信玄死後の天正3(1575)年に武田勝頼が長篠・設楽原の戦で惨敗すると、諏訪原城が家康の手に落ちて孤立し、天正10(1582)年に始まった甲州攻めで駿河へ侵攻した徳川勢に包囲されると、城主・依田信蕃(よだ・のぶしげ)は主家を裏切った穴山梅雪の勧告に従って開城・降伏した。そして駿府城を拠点とした家康は太閤秀吉による関八州移封で一時駿河から離れたが、江戸開府で再び戻ってくると、田中城は鷹狩や上洛時の寄宿で度々訪れるほど、お気に入りの城になったと云う。
月別: 2018年6月
鎌倉末期、倒幕勢力に加わって功績を挙げた結城親朝(ゆうき・ちかとも)が後醍醐天皇[a]鎌倉幕府滅亡後の元弘3/正慶2(1333)年に天皇自ら行う政治(親政)として建武の新政を実施したが、のちに足利尊氏と反目し、約60年間に及ぶ南北朝争乱につながる。から陸奥白河の地に所領を与えられ、阿武隈川と谷津田川(やつだがわ)に挟まれた小峰ヶ岡(こみねがおか)と呼ばれる丘陵上に築いた砦は小峰城と呼ばれて代々白河結城氏の居城になっていたが、その結城氏が天正18(1590)年の関白秀吉による奥州仕置後に改易となったため、陸奥国會津42万石を拝領した會津若松城主・蒲生飛騨守氏郷の所領となり、その後は會津中納言・上杉景勝、さらに関ヶ原の戦後には蒲生秀行・忠郷父子が治めた。江戸初期の寛永4(1627)年、蒲生氏が伊予松山へ減封となると會津他43万石は加藤嘉明・明成父子が治め、ここ白河には「お隣」の棚倉城から丹羽長重(にわ・ながしげ)が移封されてきた。長重は二年後の寛永6(1629)年に幕命[b]江戸幕府が、依然として奥州の大藩である伊達政宗を警戒していたことが、その理由とされる。にて、陸奥の要衝に建つ小峰城の拡張に着手した。それから三年後の寛永9(1632)年に完成した白河小峰城は高石垣で囲まれた本丸と二之丸を持ち、天守級の三重櫓が建つ城郭となり、のちの會津戦争では激しい攻防戦が繰り広げられた。その落城時は大部分が焼失していたが、現在は福島県白河市郭内1に城山公園として三重櫓や前御門などが復元・整備されている。
福島県会津若松市追手町にあった會津若松城は、鎌倉時代末期に源氏の家人であった相模蘆名(さがみ・あしな)氏[a]現在の神奈川県は三浦半島を中心に勢力を拡げた三浦氏の一族である。が鎌倉を引き揚げて、陸奥国會津の黒川郷小田垣山に築いた館[b]さらに八角(やすみ)の社を改築して亀の宮とし、これを鎮護神としたことが「鶴ヶ城」と云う名前の由縁である。が始まりで、以後は連綿伝えて會津蘆名氏の居城として鶴ヶ城と呼ばれた。しかし家中の騒動[c]まさしく伊達家と佐竹家の代理戦争状態であった。に便乗した伊達政宗が太閤秀吉からの惣無事令[d]刀狩り、喧嘩停止令など含め、大名間の私的な領土紛争を禁止する法令のこと。これに違反すると秀吉は大軍を率いて征伐した。例えば島津氏に対する九州仕置や北条氏に対する小田原仕置など。を無視して、ついに蘆名氏を滅ぼし、米沢から會津へ移って居城とし黒川城と呼んだ。この政宗は天正18(1590)年の小田原仕置で秀吉に臣従したが、惣無事令を無視して手に入れた黒川城を含む會津を没収され、代わりに『奥州の番人』役を命じられた蒲生氏郷が伊勢国から會津・仙道十一郡42万石で移封され黒川城に入城した。 氏郷は織田信長の娘婿であり、智・弁・勇の三徳を兼ね備え、まさに「信長イズム」を正統に継承した愛弟子の筆頭である。ここ會津に居座った氏郷には、周囲の伊達や徳川といった秀吉に完全には従属していない勢力に睨みをきかせるだけの実力があった。そんな氏郷は入国早々に城の大改修と城下町の整理拡張に着手、三年後の文禄2(1593)年には望楼型七層七階の天守[e]一説に、五層五階地下二階とも。そもそも「七層(七重)」とは何段にも重なると云う意味がある。が完成、同時にこの地を「若松」に改め、これより300年近く奥州に比類なき堅城と謳われることになる若松城[f]同名の城が他にもあるので、現代は特に「会津若松城」と呼んでいる。なお、本訪問記の中では「若松城」で統一し、さらに「会津」についても可能な限り旧字体の「會津」で統一した。の礎を築いた。
参照
↑a | 現在の神奈川県は三浦半島を中心に勢力を拡げた三浦氏の一族である。 |
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↑b | さらに八角(やすみ)の社を改築して亀の宮とし、これを鎮護神としたことが「鶴ヶ城」と云う名前の由縁である。 |
↑c | まさしく伊達家と佐竹家の代理戦争状態であった。 |
↑d | 刀狩り、喧嘩停止令など含め、大名間の私的な領土紛争を禁止する法令のこと。これに違反すると秀吉は大軍を率いて征伐した。例えば島津氏に対する九州仕置や北条氏に対する小田原仕置など。 |
↑e | 一説に、五層五階地下二階とも。そもそも「七層(七重)」とは何段にも重なると云う意味がある。 |
↑f | 同名の城が他にもあるので、現代は特に「会津若松城」と呼んでいる。なお、本訪問記の中では「若松城」で統一し、さらに「会津」についても可能な限り旧字体の「會津」で統一した。 |
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