本丸が水堀と土塁で囲まれていた棚倉城は現在も亀ケ城公園として、その一部が残っていた

赤館城主で初代棚倉藩主であった立花左近将監宗茂が、元和6(1620)年に旧領の筑後柳川藩主に返り咲くと、その二年後に二代藩主として入封したのが丹羽長重(にわ・ながしげ)である。長重は、織田信長の宿老の一人である丹羽長秀[a]当時は丹羽五郎左衛門尉長秀(にわ・ごろうぜもんい・ながひで)と名乗っており、主君の信長から「米」のように儂には欠かせない奴と褒められたことから「米五郎左」(こめごろうざ)と渾名されていた。の嫡男で、彼も前藩主・立花宗茂同様に、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦では西軍に与したため改易されたが、三年後には常陸国古渡(ひたちのくに・ふっと)藩主として大名に復活、さらに慶長19(1614)年の大坂の陣で武功を挙げたことで、徳川二代将軍秀忠の御伽衆(おとぎしゅう)[b]これも立花宗茂公と同じ。公と長重は共に関ヶ原の戦で改易となったが、のちに10万石以上で大名に復活している。に加えられると、常陸国江戸崎(ひたちのくに・えどさき)2万石を経て、棚倉藩に5万石で加増移封された。入封時は山城の赤館を居城とするも、寛永元(1624)年に平城の築城を幕府に願い出て、同2(1625)年に着工し、のちに完成したのが棚倉城[c]別名として、城の壁が荒土(粗壁とも)のままだったので新土城(あらつちじょう)とか、近津(ちかつ)明神の跡地に建てたので近津城とも。また、濠に住む大亀が水面に浮かぶと決まって殿様が転封されたことから亀ヶ城とも云われ、これが現在の公園名になっている。で、現在は福島県東白川郡棚倉町の中心に壮大な濠を残す亀ヶ城公園として整備されている。ただし長重は築城途中の同4(1627)年、城の粗壁(あらかべ)が乾かぬうちに陸奥国白河へ10万石で移封されたため築城途中で放置されることになったが、そのあとに近江国から入封した内藤豊前守信照によって築城が再開され、ついに完成し、そして赤館は廃城となった。

一昨々年(さきおととし)は平成27(2015)年の初秋に自身初の奥州攻めへ。秋晴れに恵まれた初日は、午前中に赤館があった赤館公園と、その麓にある宇迦神社を巡ってきた。そして午後は棚倉城本丸跡にある亀ヶ城公園へ。公園化されてはいるものの、本丸土塁と内濠跡の遺構状態は良好な方だった。

こちらはGoogle Earth 3Dを使った赤館跡と棚倉城跡を含む棚倉町周辺の地形。棚倉城は棚倉盆地に築かれていた平城である:

山城である赤館と平城の棚倉城との間は1.5km(0.4里)ほど離れていた

棚倉城周辺の俯瞰図(Google Earthより)

赤館公園から亀ヶ城公園までの距離は約1.5km(0.4里)で、その中間にJR水郡線の磐城棚倉[d]同じ棚倉(たなぐら)でも、駅名の方は濁点なしで「いわき・たなくら」と呼ぶらしい。駅があるといった距離感であった。徒歩だと約30分弱といったところ:

遺構は亀ヶ城公園の本丸跡の他に、棚倉中学校の石垣と長久寺の移築南門がある

棚倉城周辺の俯瞰図(コメント付き)

こちらは本丸跡の案内板に描かれていた「棚倉城之図」。本丸を中心として、その周囲に内濠、二の丸、外濠、そして三の丸が設けられていた梯郭輪郭式(ていかく・りんかくしき)平城の典型的な縄張である。現在は二の丸より外側は埋め立てられていて遺構は残っていないが、公園西側にある棚倉中学校グランド脇に石垣が一部残っている他に、長久寺の山門には棚倉城の南門が移築された[e]棚倉藩6代藩主・太田資晴の時代に移築した。ものと伝わる。また馬場都々古別(ばば・つつこわけ)神社は、棚倉城の場所にもともとあった近津(ちかつ)明神が築城に際し遷宮されたものと云う:

本丸土塁の上には多聞塀と隅櫓が建っていた

「棚倉城之図」

そして、これは城の縄張をGoogle Earth 3Dの上に重畳させたもの。本丸以外は宅地化によって遺構は殆ど残っておらず、標柱や説明板も建っていなかった(当時)ので、図中に入れたコメントのうち二の丸跡や北門跡などの薄い色の位置は参考情報である。一方、往時は本丸を囲む高さ6.4mほどの土塁の上には416個の狭間がついた高さ3.7mの多聞塀(長屋風囲)が設けられ、土塁の四隅には高さ6.3mの二層二階の隅櫓が建っていたと云う。さらに本丸を中心として追手門、追手桝形門、北門、北二門(枡形)、そして南門があったが、そのれらの高さは4.2mほどであった。また本丸は東西約60m、南北約74mの広さを持ち、郭内には御殿が建っていたと云う:

現在の亀ヶ城公園は本丸跡と内濠が残るだけで、二の丸や外堀は埋め立てられて存在しない

亀ヶ城公園周辺(Google Earthより)

梯郭輪郭式平城であった棚倉城の本丸は多聞塀で土塁の上を囲み、四隅には二層二階の隅櫓が建っていた

棚倉城の縄張(コメント付き)

今回の城攻めルートは次のとおり。城跡の中から外へ向かって遺構を巡ったあとは、追手門から「時の鐘」や棚倉初代藩主・立花家藩邸跡に残る湧水「桜清水」まで足を伸ばしてきた:

北門跡付近の内濠 → 土橋跡 → 北二門跡 → 枡形虎口跡 → 櫓門(二重)跡 → 本丸東側の内濠 → 本丸土塁 → 追手枡形門跡 → 追手門跡 → (大ケヤキ) → 本丸南東側の内濠 → 追手桝形門跡 → 本丸土塁上の隅櫓跡(辰巳) →  本丸土塁上の隅櫓跡(丑寅) → 本丸土塁上の隅櫓跡(戌亥) → 本丸土塁上の隅櫓跡(未申) → 本丸御殿跡 → 二の丸跡 → 時の鐘 → 桜清水

こちらは攻めた後に知ったのだけど、公園の隣にある棚倉中学校グラウンドには石垣の一部が、そして宇迦神社の東隣にある長久寺の山門は棚倉城の南門が移築されているとのこと。これらは、また機会があれば巡ってきたい。

まずは北門跡である本丸の北東側から眺めた内濠。往時の記録によれば、幅は約36m、水深は約3.8mもあったらしい:

築城当初からの水堀で、往時は幅36m、水深は4m近くあったと云う

本丸北東側の内濠

かっての北門側から城址へ入るところには内濠に架かる土橋(模擬)があった。ここが公園北側の入口となる:

土橋(模擬)の上から眺めた水濠で、往時は幅14m、水深2mほど

内濠(北東側)

公園北側の入口には、内濠に架かった土橋風の橋が設けられていた

土橋(模擬)

土橋(模擬)の上から眺めた水濠で、往時は左手の土塁上に隅櫓があった

内濠(北西側)

こちらは北二門跡と枡形虎口跡。往時、土橋を渡ると正面に高さ4.2mの北二門が建ち、門をくぐって枡形を左手に折れると、今度は高さ11mの櫓門が建っていたと云う。正面にそびえているのが本丸土塁:

往時、土橋を渡って本丸へ向かうと北二門と櫓門、そして本丸土塁で構成された枡形虎口があった

北二門跡(拡大版)

北二門をくぐって左に折れたところには高さ11mの櫓門が建っていた

櫓門(二重)跡

本丸側から見た北二門跡と屈曲が残る枡形虎口跡:

枡形虎口から眺めた北ニ門跡で、往時は高さ4.2mの薬医門が建っていた

北ニ門跡

本丸土塁から見下ろした虎口跡で、往時は正面奥に北ニ門、手前に櫓門があった

枡形虎口跡

このあとは北二門跡と内濠の間の土塁下に残る犬走り[f]石垣や土塁の斜面に設けられた細長い通路で、犬が通れるくらいの幅しかないことから。のようなところから濠沿いに歩いてみた:

これも公園内にある散策路の一つになっており、水濠そばの休憩場所があった

犬走り

本丸東側の内濠と土塁。土塁の高さは約6.4mだとか:

内堀は幅約36m、堀の深さ約7.3m、水深は約3.8mと記録されている

本丸東側の内濠

本丸を囲んでいた土塁は高さ約6.4mにも及ぶ

本丸の土塁

そのまま内濠沿いの犬走りを歩いて公園東側の入口へ向かった。ここには「亀ヶ城址」と彫られた石碑が建っていたが、かっての本丸虎口の一つで、追手枡形門跡になるようだ:

この付近に、往時は追手桝形門が建っていたと云う

「亀ヶ城址」の碑

追手枡形門も高さは4.2mの薬医門形式であったとされ、その目の前には土橋が設けられていたようである。現在は公園入口の模擬土橋となっていた。
そして、その土橋の上から眺めた城址東側の内濠(土橋を挟んで北と南):

左手が本丸土塁、手前が模擬の土橋で、右手が追手門方面

城址北東の内濠

内堀の奥が本丸虎口、右手に模擬の土橋がある

城址南東の内濠

ここで、いったん公園の外に出ると、高さ32.3mもの大ケヤキが立っていた。棚倉藩主となった丹羽長重は、もともとここにあった近津明神(ちかつ・みょうじん)を遷宮[g]現在の馬場都々古別(ばば・つつこわけ)神社。させ、その境内跡地に棚倉城を築いたが、その近津明神の御神木が、この大ケヤキなのだとか:

福島県指定天然記念物で、もともとあった近津神社のご神木だった

棚倉城跡の大ケヤキ

社は移されたが、この大ケヤキは見事な形をしていたので残されたと云う。樹齢は約600年、二個のコブを持ち、樹高は32.3mもある。

そして、ここが追手門跡。平成17(2005)年の試掘調査で門の礎石6基が発見された。この礎石の位置から、追手門は脇戸と脇塀を持つ高麗門であったと考えられる。また礎石には白河石が利用されていたと云う:

廃城後、ここには東白川郡役所が建っていたが、その後の発掘調査で判明した

追手門跡

ここで本丸土塁を観るために再び公園内へ移動した。こちらは追手門二ノ門にあたる櫓門(二重)跡で、その奥が本丸跡:

ここも枡形虎口であり、奥が櫓門、手前が薬医門であった

櫓門跡(追手門ニノ門)

現在の公園は、ちょうど右手から本丸土塁の上に登ることができた。
本丸土塁の四隅(未申、戌亥、丑寅、辰巳)には高さ6.3mの二層二階の隅櫓が建っていたと云うが、まずは辰巳(本丸南東)の方角にあった隅櫓跡:

高さ6.3mの二層二階の隅櫓は、さらに多聞櫓が付いていた

本丸南東(辰巳)の隅櫓跡

そして本丸東側の土塁上。予想以上に幅が広かったが、往時は、この上に多聞塀と呼ばれる高さ3.7mの長屋風囲(ながや・かざがこい)が建っていたと云う:

往時、この土塁上には高さ3.7mの多聞塀が建っていたと云う

東側土塁上

この土塁上を北へ向かって進んだ丑寅(本丸北東)の方角にある隅櫓跡:

高さ6.3mの二層二階の隅櫓は、さらに多聞櫓が付いていた

本丸北東(丑寅)の隅櫓跡

この左手には土塁から降りる散策路があるので、城址西側の土塁上へ向かうために一旦は本丸跡へ。こちらは本丸北側虎口と本丸土塁:

土塁の高さは6.4mにもおよび、さらに隅櫓や多聞塀などが建っていた

本丸東側の土塁

このあとは反対側にある散策路を登って城址西側の本丸土塁の上へ移動した。こちらは戌亥(本丸北西)の方角にある隅櫓跡:

高さ6.3mの二層二階の隅櫓は、さらに多聞櫓が付いていた

本丸北西(戌亥)の隅櫓跡

そして本丸西側の土塁上。多聞塀には本丸全体だけで416個もの狭間が設けられていた:

往時、この土塁上には高さ3.7mの多聞塀が建っていたと云う

西側土塁上

こちらは、最後の隅櫓へ向かう途中に見下ろした本丸御殿跡。以前は公民館が建っていたようだが、この時には既に無かった。ちなみに本丸内は南北(写真の左右の方向)約74m、東西(写真の奥と手前の方向)約60mの規模だった:

本丸西側の土塁上から見下ろしたところで、現在は庭園風の憩いの場になっていた(昔は公民館が建っていたようだ)

本丸御殿跡(拡大版)

そして本丸土塁南端にある未申(本丸南西)の方角の隅櫓跡:

本丸南西(未申)の隅櫓跡

そして本丸跡へ降りる際に眺めた本丸跡(手前と奥が南北方向):

周囲を土塁に囲まれた本丸跡の大部分が御殿跡であった

本丸跡の南側

丹羽長重は完成目前で白河へ移封されたが、その後に5万石で入封した内藤信照(ないとう・のぶてる)が築城を継続し完成した。信照はさらに城下町や街道の整備に力を入れた。この後は内藤家二代、次いで太田家、松平家、小笠原家、井上家、松平家が棚倉藩主を歴々に務めた。

そして、最後の17代藩主の阿部正静(あべ・まさきよ)の時代に會津戦争を迎えることとなった。棚倉藩は、一時は新政府側についたが、のちに奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)[h]会津藩をはじめとして東北の各藩と越後の長岡藩などが手を組んで、薩長中心の官軍に対抗した。に加わり、白河小峰城を中心に官軍と激しく戦った(白河戦線)。中でも家老で棚倉城代であった阿部内膳率いる「十六ささげ隊」の活躍は、仙台藩の鴉組(からすぐみ)[i]仙台藩士・細谷直英(ほそや・なおひで)は隠密・探索方の一人で、東北地方のヤクザを束ねて「衝撃隊」を結成し、白河戦線では長脇差一本で夜襲を30数回仕掛け、全て勝利して官軍を恐怖のどん底に陥れた。衝撃隊が黒装束であったことから鴉組と呼ばれ、直英は東北地方で民衆の英雄となったと云う。と共に『細谷からすと十六ささげ、なけりゃ官軍高枕』と謡われるほど恐れられたと云う。
慶応4(1868)年6月24日、白河口へ出動して手薄になっていた棚倉城下に、板垣退助率いる官軍総勢880余人が大砲6門をもって進撃、主力が不在の棚倉城はわずか一日で城下町の一部とともに焼失・落城した。

こちらは本丸御殿跡:

現在は庭園風の憩いの場となっていた

本丸御殿跡

それから再び公園の外へ出て、二の丸跡。往時、二の丸は高さ2.5mほどの土塁で囲まれ、その上に高さ約1.9mの多聞塀が1kmにわたって設けられていたと云う(狭間の総数は918個)。また、土塁の前には外堀(幅は約14m、水深約2m)が設けられていた:

ちょうど駐車場の向こう側に土塁と水濠があったとされる

二の丸跡

こちらは亀ヶ城公園(史跡・棚倉城址)の追手門側入口と街道跡:

棚倉城追手門側の入口で、この先に亀ヶ城公園がある

公園入口

往時は會津と常陸をつなぐ街道であった

棚倉駅前の通り

棚倉は、常陸国(茨城県)の平潟港からの街道が通り、戊辰戦争時には會津へ向かう上でも重要な要衝にあった。また新選組・三番組・組長の斎藤一が京の三条河原で晒されていた近藤勇の首級を取り戻した際にも、この街道を使ったと云う説がある。

こちらは鐘楼跡に建つ時の鐘:

この右手へ進んで坂を下りていくと「桜清水」がある

時の鐘

時の鐘脇には、立花左近将監宗茂公以下、歴代の棚倉藩主の説明板が建っていた:

初代棚倉藩主は立花左近将監宗茂公である

立花氏

二代棚倉藩主は丹羽五郎左衛門長重公である

丹羽氏

三代棚倉藩主は内藤豊前守信照公、四代は信良公、五代は弌信公である

内藤氏

六代棚倉藩主は太田備中守資晴公である

太田氏

七代棚倉藩主は松平右近将監武元公である

松平氏

八代棚倉藩主は小笠原佐渡守長恭公、九代は長堯公、十代は長昌公である

小笠原氏

十一代棚倉藩主は井上河内守正甫公、十二代は正春公である

井上氏

十三代棚倉藩主は松平周防守康爵公、十四代は康圭公、十五代は康泰公、十六代は康英公である

松平氏

最後の棚倉藩主は阿部美作守正静公である

阿部氏

See Also棚倉城攻め (フォト集)

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【参考情報】

参照

参照
a 当時は丹羽五郎左衛門尉長秀(にわ・ごろうぜもんい・ながひで)と名乗っており、主君の信長から「米」のように儂には欠かせない奴と褒められたことから「米五郎左」(こめごろうざ)と渾名されていた。
b これも立花宗茂公と同じ。公と長重は共に関ヶ原の戦で改易となったが、のちに10万石以上で大名に復活している。
c 別名として、城の壁が荒土(粗壁とも)のままだったので新土城(あらつちじょう)とか、近津(ちかつ)明神の跡地に建てたので近津城とも。また、濠に住む大亀が水面に浮かぶと決まって殿様が転封されたことから亀ヶ城とも云われ、これが現在の公園名になっている。
d 同じ棚倉(たなぐら)でも、駅名の方は濁点なしで「いわき・たなくら」と呼ぶらしい。
e 棚倉藩6代藩主・太田資晴の時代に移築した。
f 石垣や土塁の斜面に設けられた細長い通路で、犬が通れるくらいの幅しかないことから。
g 現在の馬場都々古別(ばば・つつこわけ)神社。
h 会津藩をはじめとして東北の各藩と越後の長岡藩などが手を組んで、薩長中心の官軍に対抗した。
i 仙台藩士・細谷直英(ほそや・なおひで)は隠密・探索方の一人で、東北地方のヤクザを束ねて「衝撃隊」を結成し、白河戦線では長脇差一本で夜襲を30数回仕掛け、全て勝利して官軍を恐怖のどん底に陥れた。衝撃隊が黒装束であったことから鴉組と呼ばれ、直英は東北地方で民衆の英雄となったと云う。