赤館の主郭にあたる一番平は城内で最も広い郭で、現在は赤館公園になっていた

福島県東白川郡棚倉町にあった赤館[a]「赤楯」とも。また、現代では赤館城と記す場合もあるようだが、本来の「館(だて)」は「やかた」ではなく城を指すものとされているので、本訪問記では「赤館」の表記で統一する。は、往時「館山」と呼ばれた標高375mほどの丘陵に築かれていた山城で、北は阿武隈川、南は久慈川へ至る川を天然の外堀とし、関東と東北の分水嶺(ぶんすいれい)に位置していたことから古来より両文化の交流点であり軍事的要衝の一つであった。築城年については南北朝時代の建武(1334~1338)年間に赤館伊賀次郎が城主であったと云う記録が唯一残っているが、室町時代には白河結城(しらかわ・ゆうき)氏が城主となり、戦国時代に入ると蘆名氏、佐竹氏、そして伊達氏ら強豪のはざまで生き残りを賭けたものの、関白秀吉の奥州仕置で改易となって赤館は佐竹氏による南郷支配の拠点と一つとなった。秀吉亡きあとは慶長5(1600)年の関ヶ原の戦後に佐竹氏が出羽国へ転封となったため、赤館を含む棚倉は幕府の天領[b]江戸幕府の直轄地の俗称。となった。そして慶長11(1606)年には、同じく関ヶ原の戦で西軍について改易となっていた立花宗茂公が棚倉に1万石を与えられて大名として復帰し、赤館城主となった。そして豊臣家が滅亡したのちの元和6(1620)年に宗茂公は旧領へ復帰、代わって丹羽長重[c]織田信長の重臣であった丹羽長秀の嫡男で、長重もまた関ヶ原の戦では西軍について改易されたが、大坂の陣で武功を挙げて大名に復帰した。また、前藩主・立花宗茂と共に徳川秀忠の御相伴衆の一人であった。が入封して棚倉藩主となり、のちに大坂の陣の功で加増されたことで新たに棚倉城を築くと、ここ赤館は廃城となった[d]しかし、粗壁(あらかべ)が乾かぬうちに長重は白河10万石に転封となったため、築城中だった棚倉城は放置され、その後に入部した内藤信照によって完成したと云う。

一昨々年(さきおととし)は平成27(2015)年の初秋に自身初の奥州攻めへ。一番の目的は會津若松城攻めだけれども、それに先立って、この年の夏の九州攻めつながりでもある、立花宗茂公ゆかりの福島県は棚倉にも足をのばしてきた。秋晴れに恵まれた初日は、まず東京の上野からJR特急ひたち3号・いわき行[e]全席指定なので、あらかじめ指定席特急券を購入する必要あり。で水戸へ。そしてJR水郡(すいぐん)線・郡山行に乗り換えて磐城棚倉(いわき・たなくら)へ。この日は観光客が多くて、2両ある車内はほぼ満員。結局、降りるまでの2時間はずっと立ちっぱなしだった ;(。そして、お昼すこし前に磐城棚倉駅に到着し、駅を出て県道R177を北上していく途中にあったスーパー(エコス棚倉)で、城攻め恒例の おにぎりを購入してから赤館公園へ向かった。

こちらは赤館跡を含む周辺のGoogle Earth 3D(下側が北):

標高約375mの通称・館山に築かれていた赤館は、古来より関東と奥州の狭間にある軍事的要衝だった

赤館周辺の俯瞰図(Google Earthより)

現在は赤館公園として整備されている赤館跡は、その周辺もまた宅地化されてしまっているため、往時の城域や地形はかなり改変されていたが、主郭(一番平)跡にあたる公園から見下ろした棚倉町の眺めは、秋晴れもあって素晴らしく、棚倉城跡も見ることができた。また、赤館跡と県道を挟んだ東側の丘陵には、宗茂公が遷宮した宇迦神社(うが・じんじゃ)があり、現在でも棚倉町の氏神として栄えていた:

JR水郡線の磐城棚倉駅から赤館跡にある赤館公園(赤線の矢印)までは徒歩で20分くらいだった

赤館周辺の俯瞰図(コメント付き)

こちらはJR水郡線・磐城棚倉駅のホームから眺めた赤館跡:

JR磐城棚倉駅ホームからの眺めで、正面左手の丘陵に赤館跡(赤館公園)があり、正面右に宇迦神社が建つ丘陵がある

赤館遠景(拡大版)

県道R177から県道R25へ入って行くと、その途中に宇迦神社の入口が見えてくるが、ひとまず赤館公園へ向かうために、さらに緩やかな坂を上がって行くと案内板あるので、そこから山へ登る脇道に入った:

右手には宇迦神社入口の案内板がみえるが、まずは赤館公園へ向かった

県道R25から眺めた赤館跡

この左手ある道に入ると、しばらくは上り坂になる

赤館公園入口

この案内板に従って県道R25から丘陵上へ向かう坂道を上っていくと、その途中から棚倉町を見下ろすことができる場所があった[f]毎度のことながら思うことが、徒歩で移動すると車を使う場合とは違って、このような貴重なスポットを思いがけず発見できる利点があると云うこと。

この年のシルバーウィークの奥州棚倉は素晴らしい秋晴れだった

棚倉町の眺め

そして、しばらく進むと公園入口が見えてきた:

赤館公園まではしばらく歩くことになる

赤館公園入口へ向かう坂道

ここは主郭に入る虎口の一つであったとされる

赤館公園の入口(虎口跡)

こちらは公園に建っていた説明板に記載された「赤館図」なる縄張り図。往時、館山の山頂に主郭(一番平)があり、その周囲を北から東へ腰曲輪が囲み、北と南は尾根筋に沿って段曲輪が連なっていたと云う。土塁の一部は残っていたが、虎口や空堀などは確認できなかった:

公園内の説明板に記載されていたもの

「赤館図」(拡大版)

往時、公園の敷地になっている主郭には4個の虎口があったと云われているが、この公園入口もその一つであったと思われる。現在は車道が敷かれ、その両脇に土塁のようものがあったが、こちらは後世の造物のようだ。さらに駐車場の前を通った先にも三の曲輪へ向かう虎口があったようだが、現在は無線中継所か何かの施設が建っており、それらしい遺構は残っていなかった:

車道の両脇にある土塁は後世の造物で遺構ではない

主郭の虎口跡

案内図がある辺りが虎口だが、全く遺構は見当たらなかった

三の曲輪との虎口跡

こちらが公園化された主郭跡で、別名は一番平:

ここは赤館の城域で最も広い郭だった

主郭跡(拡大版)

ここは城域としても最も広い郭で、さらに周囲には空堀が巡り、その外側には複数の腰曲輪が配置されていたと云う。残念ながら、それを裏付けるような遺構は残っていなかった:

現在は公園敷地の大部分を占めており、休憩所や駐車場、花壇などがあった

主郭(一番平)跡

主郭跡の南側には無料休憩所が建っており、そこから棚倉町全体を眺めることができた。
その昔、大名に復帰した立花宗茂公とその主従は、この山頂から見下ろす光景が遠く九州は筑前国・岩屋城からのそれとそっくりで驚いたかも知れない:

主郭跡の赤館公園からは、往時の棚倉藩の城下町にあたる棚倉町を一望できる眺望を楽しむことができた

主郭からの眺望(拡大版)

慶長6(1602)年の春、宗茂公は徳川家康に拝謁するために由布雪下、十時摂津以下19人と共に加藤清正の肥後を去って上方(京都)へ上った。この時、清正からかなりの餞別をもらっていたようだが、それが底をつくと家来はそのことを宗茂公には知らせず、めいめいが物乞いしたり、人夫働きしたり、虚無僧したりで生活費を稼いでいたと云う。しかし、ついに京で家康に拝謁する機会は得られず、翌々年は慶長8(1603)年、征夷大将軍に任ぜられた家康がお膝元である江戸へ下ることになるが、京での浪人生活中には幾つか逸話が残っている。その中の一つに『名将言行録』[g]戦国時代から江戸中期に至る時期の武将や大名192人の言動について記載された人物列伝。幕末の上野館林藩士・岡谷繁実(おかや・しげざね)が15年の歳月をかけて著述した作品。から。加賀の前田利長の使者が宗茂が止宿していた禅寺にやってきて、10万石で召し抱えたいと言ってきたが、公はそれには返事をせずに、低いがしっかりとした声色で独り言のように、「憎いやつめが、腰抜けの分際して色々なことを申すわ」と言い放ったので、側にいた家来は座の取りつくろいようがなく難儀したのだと云う。
また江戸へ下る少し前、宗茂公のもとに誾千代が亡くなったと云う知らせがあった。享年34。法名は光照院殿。宗茂公36の時である。

江戸では高田の宝祥寺を寓居(ぐうきょ)としたが、江戸へ下っても貧しいことには変わりなく、家臣らは物乞いや人夫働きして、公を養ってきた。ある時、尺八をよくした十時摂津はいつものように虚無僧姿となって江戸市中で托鉢していた[h]鉢を持って、家の前に立ち、経文を唱えて米や金銭などの施しを受けて回ること。。この当時の江戸は新たに征夷大将軍となった家康が居城としていた江戸城近くに多くの大名屋敷が建てられていた頃で、その「建設ラッシュ」で地方から多くの働き手が流入していたが、同時にあぶれ者も多く市中に徘徊していた。そのあぶれ者三人が摂津に喧嘩を吹っかけてきた。摂津は主の境遇を思って、最初は事を荒立てぬように尺八であしらっていたが、ついに逃げ切れなくなり、相手の刀を奪うやいなや、忽ちに三人を斬って捨てた。これが町奉行に知られることになり、さらに当時幕府の老中であった土井大炊利勝(どい・おおい・としかつ)が聞き及ぶまでになった。そこで摂津は無罪放免となり、立花宗茂主従が江戸で浪人生活している話が二代将軍秀忠の耳に入ることになった。それから年が明けた慶長9(1604)年の正月に宗茂公は江戸城へ召し出され、5000石に封じられた上に御相伴衆(ごしょうばんしゅう)[i]主君に側近として使え、政治や軍事の相談役だったり、戦物語などの話し相手となった職掌。同様に黒田長政や細川忠興、丹羽長重、伊達政宗らも務めていた。に取り立てられることになった。宗茂公38の時である。

そして翌々年は慶長11(1606)年の正月、奥州南郷の、ここ棚倉に領地1万石を賜り、ついに大名に復帰した。


主郭跡からは、このあと午後から攻める予定の棚倉城址も確認できた:

主郭跡から一望できる棚倉町の中央辺りに見える森が棚倉城址である

棚倉城址の遠景

主郭北側には櫓台のようなものがあったが、こちらも後世の造物と思われる。また城址の碑も建っていた:

赤館公園のホームページには野外ステージとあったが・・・

主郭にあった土塁のようなもの

明治初期に、全面積21900坪、標高375mのこの地を赤館と主唱したのだという

赤館の碑

さらに北側へ向かうと主郭の周囲に設けられていた土塁のようなものがあった:

この先には最近建てられたと思われる大山阿夫利神社の祠があった

主郭に残る土塁

こちらは主郭跡から見下ろした腰曲輪跡:

右手の主郭跡から見下ろした腰曲輪跡(左手)で、高さは6mほど

主郭跡と腰曲輪跡

左手の主郭跡から見下ろした腰曲輪跡(右手)で、高さは6mほど

主郭跡と腰曲輪跡

そして階段を下りて主郭東側にある腰曲輪跡へ:

主郭跡から腰曲輪跡へ下りる階段だが、こちらは虎口ではないようだ

主郭とを結ぶ階段

主郭の東側下にある腰曲輪跡は、公園の遊歩道になっていた

腰曲輪跡

この腰曲輪跡を西へ向かって行くと、棚倉町を一望できる場所があった:

主郭下の東側腰曲輪跡からも棚倉町を一望でき、中央に見える森が棚倉城址、奥に羽黒山・九ツ山が見えた

腰曲輪跡から棚倉町の眺望(拡大版)

さらに西へ向かうと主郭の南側にある腰曲輪跡になる:

主郭の南側にある腰曲輪で、ここには平場が残っていた

腰曲輪跡

こちらは、腰曲輪跡から約6mほどの切岸の上にある主郭跡を眺めたところ。さらに、ここには主郭跡へ上がる階段があった:

主郭南側の腰曲輪から約6mほどの切岸の上にある主郭を眺めたところ

腰曲輪跡から見上げた主郭跡

主郭跡から腰曲輪跡へ下りる階段だが、こちも虎口ではないようだ

主郭跡とを結ぶ階段

さらに腰曲輪跡を西へ向かう。この先には三の曲輪跡がある:

右手上が主郭跡(無料休憩所)、この先には三の曲輪跡がある

腰曲輪跡

これが三の曲輪跡へ向かう階段で、その上が三の曲輪跡だが想像以上に小さくなっていた:

手前の腰曲輪跡から、この階段を上がった上にある平場が三の曲輪跡

三の曲輪跡とを結ぶ階段

三の曲輪はかなり改変されていて、階段と遊歩道になっていた

三の曲輪跡

この階段は主郭跡へつながっていた。ちなみに、この階段の脇には廃墟になったホテルが残っていた :O

再び主郭跡に入り、次は公園入口の更に北へ。この奥に見えるのが櫓台跡らしい:

主郭の北西側、公園入口よりも更に北側にも遺構の一部があった

主郭西側

これが櫓台跡で、この上には神武天皇遥拝所碑なるものが建っていた:

主郭の北西側、公園入口よりも更に北側にある櫓台跡と思われる土塁であるが、詳細は不明である

櫓台跡(拡大版)

碑には「紀元2600年記念建設」と彫られていた

神武天皇遥拝所碑

棚倉藩の初代藩主となった立花左近将監宗茂公は、この地で何度かの加増を受け、最終的には3万5千石を賜った。その後、慶長19(1614)年から二年続いた大坂の陣には徳川秀忠の参謀に一人として参陣した。この戦で、公の旧主である豊臣家は滅亡した。そして、既に征夷大将軍の座を秀忠に渡していた家康は、豊臣家滅亡の翌年は元和2(1616)年に死去した。享年75。
さらに云うと、その翌年の元和3(1617)年には実弟である高橋統増(晩年は立花直次)が没した。享年45。宗茂公51の時である。

そして棚倉藩主になって14年後の元和6(1620)年、立花氏に代わって柳川の藩主になっていた田中氏が無嗣断絶となったので、宗茂公は11万石余をあてがわれて柳川の地に返り咲くことができた。関ヶ原の戦後に柳川を去ってから実に20年目であった

なお、関ヶ原の戦で改易後に大名として復帰した者はいるが、旧領を回復した者は後にも先にも宗茂公ただ一人である。

See Also赤館攻めと宇迦神社 (フォト集)

 

宇迦神社

この後は赤館公園と県道を挟んで反対側にある宇迦神社(うが・じんじゃ)へ。赤館公園を横目に県道R25沿いを下って神社へ向かった:

赤館は比高30mほどの台地上に築かれた山城であったが、現在は宅地化の波にのまれてしまっていた

県道沿いから赤館遠景(拡大版)

この右手にあるのが宇迦神社の参道入口。真っ直ぐ上って行くと赤館跡に造られた赤館公園方面となる:

県道R25沿いの、この案内板(右手)から脇道に入ると参道入口がある

参道入口

ここが宇迦神社の参道で、鳥居をくぐると長い石段が続く

縣社・宇迦神社

そして参道入口に建つ石造りの二の鳥居(明神鳥居)。宇迦神社の御祭神は倉稲魂命(ウカノミタマノミコト):

宇迦神社は、現在もなお棚倉の鎮守として町民に親しまれていると云う

二の鳥居

鳥居をくぐった先には随神門(ずいじんもん)が建ち、邪悪なものが神域に侵入するのを防いでいた:

門には鎮座地である「鹿の子山」と書かれた扁額が掲げられていた

随神門

この門には随神像と仁王像の木像が神域を守護するように鎮座していた。そして、その背後には長い石段が続いてた:

随神門をくぐると長い石段が続いていた

随神門から先の石段

惟神(かんながら)とも云い、武装した近衛府の舎人(とねり)の姿をしている

随神の木像

こちらは石段上から随神門を見下したところ:

随神門から続く長い石段上から見下ろしたところ

石段上から見下ろした随神門

そして石畳の参道。この当時は、東日本大震災の被害なのか、ところどころに石が割れ、傾いた石燈籠を見かけた:

随神門をくぐるとしばらくは石段と石畳の参道が続く

石畳の参道

石畳はしっかり切り出された石だったが、震災の影響か、一部が歪んでいた

一部歪んでいた石畳

最後の石段を上がりきったところが境内で、正面には拝殿が見える。現在の社殿は棚倉藩主・内藤豊前守弌信(ないとう・ぶぜんのかみ・かずのぶ)公が再建したもの:

現在の社殿は元禄14(1701)年、棚倉城主内藤弌信(ないとう・かずのぶ)公の再建によるもの

狛犬と拝殿

御由緒は、第十三代・成務天皇(せいむ・てんのう)の御代、白河の国造(くにつこ)に任じられた塩伊野己自直(しおいのこじのあたえ)が飯沼の近くに倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)を祀ったことが始まりとされ、その起源は福井に宇迦明神を祀ったことと云う。

戦国時代の戦乱期を経て、関ヶ原の戦で改易し浪人となっていた立花左近将監宗茂公が大名に復帰して、ここ棚倉の地を治めることになり、赤館を根城とするに及んで、現在の鹿の子山に遷宮し、神殿を立派に立て替えて厚く尊崇したとある。
また、のちの棚倉藩主は代々、「御領内惣産土神宇迦大明神(ごりょうない・そううぶすのかみ・うがだいみょうじん)」として崇敬し、藩主に着任したらまずは参詣することになっていた。加えて国替の時には、燈籠などを献納して御礼とするのが慣習だったと云う。
歴代藩主の中でも別して尊信が篤かったのが棚倉藩4代城主の内藤豊前守弌信(ないとう・ぶぜんのかみ・かずのぶ)公であった。

こちらは拝殿の近影。御神紋は會津宰相・蒲生氏郷公の三つ巴紋だった。拝殿の奥の一段高くなった所には御本殿があった:

「宇迦神社」と掲げられていた拝殿の背後には御本殿があった

拝殿

拝殿の奥、一段高くなった所に鎮座していた御本殿

御本殿

こちらが国替に伴って歴代藩主が献納してきたと云う石燈籠。長い歳月の流れの中で、一部倒壊など損傷が激しいものあり、平成8(1996)年の宇迦神社大改修にあたり、修復して、ここに移設されたのだと云う。奥から、棚倉藩4代城主・内藤豊前守弌信公寄進、棚倉藩8代城主・小笠原佐渡守長堯公寄進、棚倉藩9代城主・小笠原主殿守長昌公寄進、棚倉藩12代城主・松平周防守康爵公寄進:

長い歳月の末、一部が倒壊・破損するなどしたが、現在は補修されていた

歴代城主が寄進した石燈籠

こちらは水天宮:

御祭神は天之水分神(あまの・みくまりのかみ)で、安産と目病祈願

水天宮

See Also赤館攻めと宇迦神社 (フォト集)

 

桜清水と立花宗茂公大屋敷跡

初代棚倉藩主で赤館城主であった立花左近将監宗茂公は、平時は麓にある大屋敷で政務を執っていた[j]但し、殆どは江戸にて徳川二代将軍・秀忠の御相伴衆を務めており、代わりに由布雪下と嫡男・惟次が赤館城代として役目にあたっていたと云う。が、その屋敷は現在の棚倉小学校であったらしく、庭園には多数の桜の木を植え、老桜の根本より湧き出た清水を「桜清水」と呼んでいた:

棚倉初代藩主・立花左近将監宗茂公の屋敷が近くにあったと云う

桜清水

宗茂公は、この清水を愛用していたと伝えられ、今も棚倉小学校の東側崖下より湧水していた:

棚倉小学校の東側の道路沿いにひっそりと残っていた

桜清水

See Also赤館攻めと宇迦神社 (フォト集)

地図の中心へ
交通状況
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乗換

 

【参考情報】

参照   [ + ]

a. 「赤楯」とも。また、現代では赤館城と記す場合もあるようだが、本来の「館(だて)」は「やかた」ではなく城を指すものとされているので、本訪問記では「赤館」の表記で統一する。
b. 江戸幕府の直轄地の俗称。
c. 織田信長の重臣であった丹羽長秀の嫡男で、長重もまた関ヶ原の戦では西軍について改易されたが、大坂の陣で武功を挙げて大名に復帰した。また、前藩主・立花宗茂と共に徳川秀忠の御相伴衆の一人であった。
d. しかし、粗壁(あらかべ)が乾かぬうちに長重は白河10万石に転封となったため、築城中だった棚倉城は放置され、その後に入部した内藤信照によって完成したと云う。
e. 全席指定なので、あらかじめ指定席特急券を購入する必要あり。
f. 毎度のことながら思うことが、徒歩で移動すると車を使う場合とは違って、このような貴重なスポットを思いがけず発見できる利点があると云うこと。
g. 戦国時代から江戸中期に至る時期の武将や大名192人の言動について記載された人物列伝。幕末の上野館林藩士・岡谷繁実(おかや・しげざね)が15年の歳月をかけて著述した作品。
h. 鉢を持って、家の前に立ち、経文を唱えて米や金銭などの施しを受けて回ること。
i. 主君に側近として使え、政治や軍事の相談役だったり、戦物語などの話し相手となった職掌。同様に黒田長政や細川忠興、丹羽長重、伊達政宗らも務めていた。
j. 但し、殆どは江戸にて徳川二代将軍・秀忠の御相伴衆を務めており、代わりに由布雪下と嫡男・惟次が赤館城代として役目にあたっていたと云う。