「西国無双」と謳われた立花宗茂公所用の月輪文(がちりんもん)の脇立を持つ兜

永禄10(1567)年に豊後国・大友氏の重臣の一人である高橋鎮種(たかはし・しげたね)[a]大友氏の重臣・吉弘鑑理(よしひろ・あきまさ)の次男・鎮理(しげまさ)で、筑後国・高橋氏の名跡を継いで高橋鎮種と称し、号して高橋紹運と改めた。の嫡男として生まれた幼名・千熊丸は、のちに関白秀吉から『誠九州之一物ニ候』[b]立花文書によるもので、現代文だと「九州の逸物」の意味。と激賞され、関ヶ原の戦後に江戸幕府より改易されたものの、のちに大名に復帰し旧領さえも回復した唯一無二の勇将・立花左近将監宗茂である。「宗茂」の名乗りは晩年のもので、元服後は高橋統虎(たかはし・むねとら)、鎮虎、宗虎、親成、尚政、政高、俊正などと度々改名している。また天正9(1581)年、統虎が14歳の時に大友家の重臣の一人で、父・鎮種とともに筑前・筑後国の攻略を任されていた戸次道雪(べっき・どうせつ)に請われ、高橋家の嫡男でありながら戸次家の婿養子となって戸次統虎に、さらに翌年には姓を改めて立花統虎と名乗った。ともに猛将と謳われ、最後まで主家を支え続けた二人の父を持ち、秀吉から筑後国柳川13万石余[c]筑後国の御池・山門両郡すべて、下妻・三瀦(みずま)両郡の一部を含めた13万2000石。を拝領した上に直臣の大名に取り立てられ、文禄・慶長の役でも活躍し、秀吉没後の関ヶ原の戦では恩義に報いるために西軍について改易、4年近く京と江戸で浪人生活を送り、二代将軍秀忠の目に止まると奥州棚倉1万石で大名に返り咲き、豊臣家が滅びた後は旧領の柳川10万石余を拝領して20年ぶりに柳川藩主に復帰した。

一昨々年(さきおととし)は平成27(2015)年の夏、広島出張に合わせて九州は福岡県まで足をのばして立花宗茂公ゆかりの城を攻めてきた。この日の午後はまず柳川城跡を巡ってから、柳川藩立花家に伝わる史料の一部が展示されている立花家史料館御花(おはな)[d]柳川藩主立花家の邸宅跡。江戸時代には、この辺りが「御花畑(おはなばたけ)」と呼ばれていたことから。へ、そして最後に立花家の菩提寺で柳川藩の歴代藩主の墓所がある福厳寺(ふくごんじ)を訪問してきた。

城攻めの後、遅めのお昼で柳川名物を食べてから立花家史料館へ。御花への入園を含めた共通入場券は大人500円(当時)だった:

同じ敷地には御花があり、ここでの入館料は全ての施設共通の入園料だった

立花家史料館

館内に入ると、立花左近将監宗茂公の肖像画が迎えてくれた:

江戸時代の承応3(1654)年の画(筆者不明)で、この他にも京都大徳寺の大慈院にも肖像画があるらしい

「立花宗茂像」(拡大版)

この宗茂公の肖像画の筆者は不明ながら、画の上部に書かれた賛文は京都・大徳寺の塔頭の一つ、大慈院(だいじいん)住職の藍溪宗瑛(らんけい・そうえい)の撰(せん)で、承応3(1654)年11月25日の公の13回忌の命日に奉献されたものだと云う。実はこれと同じ詩文が記された大慈院の所蔵のもう一つ別の肖像画が存在しているらしく、その画の筆者は藍溪宗瑛の法孫である大仲宗潙(だいちゅう・そうい)[e]江戸中期の臨済宗・大徳寺208世。によるものだと云う。また、この大慈院は大友宗麟の姉である見性院殿が建立したお寺であり、その縁もあって宗茂公の墓所と位牌も納められているらしい。自分は、この年の春先に大徳寺を訪問したのだけれど、残念ながら大慈院には行っていなかった;(。次回、機会があれば是非訪問したい[f]とは云っても、一般参詣(いっぱん・さんけい)は認められていないので門前までだけど。


天正9(1581)年、戸次道雪に強くそして熱心に請われて、遂に養嗣子となった統虎は「立花左近将監源統虎[g]養嗣子となった直後は「高橋弥七郎統虎」から「戸次弥七郎統虎」と改名、程なく「戸次左近将監統虎」に改められ、最後が「立花左近将監統虎」である。この「左近将監」はいわゆる通称にあたる。」と名乗り、その年の7月に養父・戸次道雪と実父・高橋紹運とともに秋月・筑紫勢[h]この前年に大友氏は耳川の戦いで薩摩・島津氏に大敗し、求心力が低下した隙を付いて肥前・龍造寺氏に寝返った北九州の諸勢力との戦いに明け暮れることになった。を相手にした太宰府観音寺の戦いで初陣を飾った。この合戦で統虎は兵150を率いて敵軍の側面を襲撃、大薙刀を振るっていた秋月方の勇将・堀江備前との組打ちでは終始圧倒し、紹運の家臣・萩尾大学が討ち取ったと云う。
なお統虎が婿養子となった経緯は一説に、初め道雪は立花家臣の中で新参ながら家老を任され、文武に秀でた薦野増時(こもの・ますとき)を養子に迎えて家督を譲ろうと考えていたが、安易な家督相続は道雪死後に内紛を起こすものとして増時自身から断ってきたからだと云う。この増時は、のちに立花家の婿養子となった統虎を支え、立花双翼の副将として転戦する他に島津氏や豊臣秀吉との交渉担当にあたった。


こちらは立花宗茂公所用の「朱漆塗弓(しゅうるしぬりゆみ)」(右手)と「金溜地塗籠弓(きんだみじぬりごめゆみ)」(左手):

弓術に優れ、日置流の免許皆伝している

立花宗茂所用の「朱漆塗弓」(右)と「金溜地塗籠弓」(左)

宗茂公は弓術にも優れ、特に馬上からの射撃は素晴らしく、のちに弓術免許皆伝を受ける比類なき武芸の達人と云われた。初陣では、大薙刀を振るっていきり立つ堀江備前守に対し、その左腕を馬上から鏑矢(かぶらや)を命中させ、そのあとの組打ちで優位に立ったと云われている。

つづいて宗茂公所用の「鉄皺革包月輪文最上胴具足(てつしぼ・かわつつみ・がちりんもん・もがみどうぐそく)」。

立花宗茂公所用の具足

「鉄皺革包月輪文最上胴具足」

立花宗茂公所用の具足

「鉄皺革包月輪文最上胴具足」

この具足の胴には、兜の脇立と同じ輪貫文(わぬきもん)[i]立花家の御道具帳では「月輪文(がちりんもん)」と記す。が大きく描かれており、これを「蛇の目紋」に見立てるとすると、宗茂公と親交が深かったと云われる加藤清正との関わりの強さを窺い知ることができる。この胴廻りは大振りで、地鉄は厚く、草摺(くさずり)を合わせた重量が12㎏と非常に重いことから、公は当時としては大柄な体格の持ち主であったと想像される:

胴廻りは大振りで地鉄は厚く、草摺を含めて12㎏と非常に重い具足

「鉄皺革包月輪文最上胴具足」

養父の戸次道雪が天正13(1585)年9月、筑後国柳川城攻めの最中に高良山(たからやま)の陣中で病没し、その翌年には九州統一の野望に燃える島津軍が北上し、実父の高橋紹運が岩屋城の戦いで自刃して、統虎は二人の父を相次いで失うことになった。さらに宝満山城を守備し、統虎の代わりに高橋家の名跡を継いだ実弟・統増(むねます)と、二人の実母[j]大友家重臣・斉藤鎮実の妹で、名は不詳。法名から宋雲院殿と呼ばれる。が偽の開城勧告により島津方の捕虜となった。
実のところ、この年の3月に主家の大友宗麟はひそかに大坂城を訪れ、関白秀吉に従属した上で援軍を乞おていたので、その先鋒として毛利三家(毛利・吉川・小早川)に黒田官兵衛を加えた軍勢が中国路を進んで北九州の門司に上陸するまでの間、統虎は私情に囚われずに、居城・立花山城に籠城して島津勢を果敢に迎え撃った。その一方で兵1千が籠もる立花山城を包囲した島津勢5万は、先の岩屋城の戦いで手痛い損害を受けている上に、酷暑な季節ともあって力攻めできずにいたが、そのうち秀吉からの援軍の知らせが届くにいたり、秋月種実(あきづき・たねざね)にあとを任せて、陣所を引き払い、急ぎ薩摩へ帰国することとなった。
しかし統虎は、この機を逃さずに退却にかかる島津勢にゲリラ戦・追撃戦を展開し、多数を討ち取ったと云う。さらにそれだけにとどまらず、主家を見限り薩摩方に寝返った星野兄弟が籠もる高鳥居城を攻略し、兄弟ともども城兵一人残らず撫で斬りにすると、その勢いのまま島津の手に陥ちていた岩屋城と宝満山城を奪還した。
北九州で四面楚歌の中にあって、ただ一人立花統虎が攻めの姿勢を崩すことなく果敢に戦うことができたのは、養父・道雪と実父・紹運に育てられた家臣団の、猛士勇卒らの働きがあってこそで、それは即ち両父の遺徳のなすところであった。

そして、この年の10月に統虎は、高橋元種の豊前田川郡香春岳城を囲む黒田官兵衛・吉川広家[k]吉川元春の三男。父で猛将の吉川元春は病身の体で出陣していたが、豊前小倉城を落とした後に死去した。享年57。・小早川隆景を訪ね、立花山城救援の礼を述べたと云う。


再び「鉄皺革包月輪文最上胴具足(てつしぼ・かわつつみ・がちりんもん・もがみどうぐそく)」を正面から:

宗茂公の具足

「鉄皺革包月輪文最上胴具足」

今回、立花家所蔵のうち宗茂公所用の最も有名な具足で、関ヶ原の戦でも装着したと云われる「伊予札縫延栗色革包仏丸胴具足(いよざねぬい・のべくりいろ・かわつつみ・ほとけまるどうぐそく)」は、当時、福岡市博物館で開催されていた大関ヶ原展に出品されていたため、残念ながら見ることはできなかった。

こちらは「金箔押桃形兜(きんぱく・おしももなり・かぶと)」。安土桃山時代から江戸時代前期にかけて、南蛮文化に伴う西洋甲冑の影響を受けて造られたものとされ、立花家の一隊全員が揃って装着していたと云う。文政5(1822)年の御道具帳には318頭の存在が記録されているのだとか:

江戸時代初期のもので、文禄・慶長の役での経験に基づいて造られたとされる

「金箔押桃形兜」

ここからは立花家歴代・筑後柳川藩主らの甲冑。
まず筑後国柳川藩2代藩主・立花忠茂(たちばな・ただしげ)所用の月輪文を脇立にもつ碁石頭(ごいしがしら)の兜のレプリカ。この兜の具足は「碁石頭伊予札縫延丸胴具足(ごいしがしら・いよざねぬいのべ・まるどうぐそく)」だが、当時は展示されていなかった。
立花忠茂は、宗茂公の実弟・立花統増(のちの直次)の四男で、生まれたその日に伯父である公の養嗣子となった。こののち元服時に徳川2代将軍秀忠より偏諱を受けて忠茂と改名した:

柳川藩二代藩主で、立花家三代当主の忠茂公の兜のレプリカである

「碁石頭」の兜(レプリカ)

初代宗茂公所用とも云われるが、同じ意匠の兜を使っていたとも

「碁石頭」の兜(レプリカ)

こちらも忠茂所用の「黒漆塗骨牌鉄繋畳具足(くろうるしぬり・かるたがね・つなぎたたみぐそく)」。長方形の鉄黒漆塗骨牌鉄を総鎖で繋ぎ、鉄の札板五段を鎖で繋いだ草摺がつく畳胴に、折りたたみやすい間鎖で繋いだ籠手がつく。写真左手にあるのが畳具足用の櫃で、胴・兜・籠手が全て収納できるのだとか。寛永14(1637)年の島原の乱に、義父・宗茂公と共に出陣した際に持参した具足で、これを着用して自ら詰めの丸(本丸)へ乗り込んだという:

二代藩主忠茂が島原の乱に持参した具足で、脇にある櫃に収納していた

「黒漆塗骨牌鉄繋畳具足」と「櫃」

こちらは3代藩主・鑑虎(あきとら)所用の「鉄錆地桜文亀甲鉄繋畳具足(てつさびじ・さくらもん・きっこうがね・つあんぎたたみぐそく)」。鑑虎は忠茂の四男である:

 柳川藩3代藩主・鑑虎公所用の甲冑

「鉄錆地桜文亀甲鉄繋畳具足」

こちらは4代藩主・鑑任(あきたか)所用の「鉄錆地雲龍文打出二枚胴具足(てつさびじ・うんりゅうもん・うちだし・にまいどうぐそく)」。鑑任は鑑虎の次男で、現在の御花にあたる立花別邸を建てた人物。さらに柳川城の修築や石垣普請に尽力し、さらに御池郡平野山で炭鉱を開いた。これが三池炭鉱の始まりとされる:

 柳川藩4代藩主・鑑任公所用の甲冑

「鉄錆地雲龍文打出二枚胴具足」

写真左は7代藩主・鑑通(あきなお)所用の「鉄錆地雲龍文打出縦矧両引合胴具足(てつさびじ・うんりゅうもん・うちだし・たてはぎ・りょうひきあわせ・どうぐそく)」。写真中は9代藩主・鑑賢(あきかた)所用の「鉄黒漆塗本小札紺糸威胴丸具足(てつくろうるしぬり・ほんこざね・こんいとおどし・どうまるぐそく)」。江戸時代後期に流行した中世時代への懐古としての復古調の甲冑。写真右は12代で最後の藩主・鑑寛(あきとも)所用の「鉄黒漆塗萌黄糸素懸威最上胴具足(てつ・くろうるしぬり・もえぎいと・すがけおどし・もがみどうぐそく)」:

「鉄錆地雲龍文打出縦矧両引合胴具足」

「鉄錆地雲龍文打出縦矧両引合胴具足」

 柳川藩9代藩主・鑑賢公所用の甲冑

「鉄黒漆塗本小札紺糸威胴丸具足」

 幕末、最後の藩主・鑑寛公所用の甲冑

「鉄黒漆塗萌黄糸素懸威最上胴具足

大名道具の中でも武具は、立花家の武門を象徴する道具として特に大切に残されてきた

柳川藩主歴代の甲冑(拡大版)

この史料館には他にも歴代姫君愛用の雛人形、そして江戸時代の大名道具などが展示されていた。

立花家史料館
福岡県柳川市新外町1(国指定名勝・立花庭園内)

See Also立花史料館と御花 (フォト集)

 

立花家菩提寺の福厳寺

このあとは史料館と同じ敷地にある御花とその庭園を見学してから、徒歩15分ほどのところにある梅岳山・福厳寺(ばいがくざん・ふくごんじ)へ。天正15(1587)年に筑後三郡を与えられた立花宗茂公により、岳父・戸次道雪の菩提を弔うために建立された曹洞宗の寺院で、筑前医王寺の緒庵禅師を迎えて開山とした。寺名は、道雪公の法名である「福厳院殿前丹州太守梅岳道雪大居士」が由来となっている:

江戸時代の柳川藩主家・立花氏の菩提寺で、創建当時は曹洞宗の寺

「福厳禅寺」の碑

こちらは山門。
関ヶ原の戦後に入封した田中吉政の時代に破却され家臣の屋敷になっていたが、のちに宗茂公が再び柳川の領主に返り咲いた時に再建され立花家の菩提寺となった。そして、宗茂公死後、寛文9(1669)年に2代藩主・忠茂が高僧・鉄文を招いて臨済宗黄檗宗に改め、今日の法橙を伝えている:

江戸時代の柳川藩主家・立花氏の菩提寺で、現在は臨済宗の禅寺

山門

本堂。伽藍には他に天王殿、鐘鼓楼、開山堂が配されていた:

この裏手に歴代藩主を祀った桐妻造・胴板葺の御霊屋がある

本堂

そして本堂の棟には立花家の家紋である「祇園守(ぎおんまもり)紋」があしらわれていた:

立花守や柳川守とも云われ、立花家の家紋には他に主家・大友氏の杏葉(ぎょうよう)紋がある

本堂の棟にあしらわれた「祇園守」(拡大版)

柳川藩立花氏の家紋と云うと京都八坂神社の守札をあらわした、この祇園守紋が有名で、各種の変わり紋(バリエーション)が存在し、それらを用途に合わせて自在に使い分けしていたらしい。その一方で、立花家由来の家紋として「杏葉(ぎょうよう)紋」がある。この紋は宗茂公の実父・高橋紹運、そして岳父・戸次道雪の主家にあたる豊後国の戦国大名・大友氏から賜ったもので、いわゆる同紋衆と云われる一族待遇の家臣でのみ使用を許された由緒高い家紋である。下図右手の杏葉紋は特に高橋紹運が筑後高橋家の名跡を継いだ時に使用していたもので「抱き杏葉紋」と呼ばれる。なお杏葉紋から祇園守紋になったのは、宗茂公の晩年からで、2代藩主・忠茂の代からほぼ統一されたが、それでも杏葉紋がなくなることはなかったと云う。ちなみに杏葉紋は柳川藩の隣国である佐賀藩・鍋島氏の家紋でもある:

祇園守紋

杏葉紋

本堂の脇を通って裏手へまわると柳川藩立花氏・歴代藩主を祀った御霊屋(おたまや)がある。ここには切妻造・銅板葺の建物3棟がコの字型に整然と並んでいた。
その一番奥にある棟の右手に戸次道雪と立花宗茂公の墓所があった:

左が立花宗茂公の墓所、右が立花道雪公の墓所で、ひとつ屋根の下で並んで眠っていた

戸次道雪公と立花宗茂公の墓所

こちらが戸次道雪公(法号は福厳院殿)の墓所:

戒名は「福厳院殿前丹州太守梅岳道雪大居士」

戸次道雪公の墓所

宗茂公が婿入りした立花誾千代姫の父としても知られる戸次道雪は、豊後国の戦国大名・大友義鑑(おおとも・よしあき)と宗麟の二代に仕えた宿将である。鎌倉時代、大友氏の一族であった立花氏の家系が豊後国大分郡戸次(ぶんごのくに・おおいたぐん・べっき)に住んでいたことから戸次姓を名乗っていた子孫で、はじめ戸次鑑連(べっき・あきつら)、晩年に入道して道雪とした。さらに、主家の命で筑後国糟屋郡(ちくごのくに・かすやぐん)立花山城主となったので立花姓が許された。年少の頃から絶倫の武勇を誇り、野戦はもちろん攻城戦でもことあるごとに功を立てていたと云う。この道雪が45歳[l]旧柳川藩士の説で、他には若年(35歳)時という説もあり。の時の暑い夏の日、昼寝していたそばの大木に突如落雷し、その音で目を覚ますやいなや、持っていた愛刀「千鳥」で抜き打ちに雷を斬りつけた。それ以来、足が萎えて歩行が自由でなくなったが、気力は少しも衰えず、愛刀を「雷切(らいきり)」[m]のちに宗茂公の所用となり、立花家史料館蔵として現存する。に改め、戦場では雷切と種子島を輿に乗せ、薙刀を携えた力士ほどの体格を持つ若武者100人余りを左右に引き連れて輿を担がせ、「エイ、トウ!、エイ、トウ!」と声を張り上げて敵勢に突進、その掛け声を聞いた先陣は励まされて勢いを盛り返し、敵勢はひるんで逃げ出すこと多く、向かうところ敵が無かったと云う。「雷神」とも云われた道雪はつね日頃から部下には温情を持って対応していため、その恩義に感じ入って勇敢に戦った者達が多かった一方で、軍律違反者には厳罰を処す[n]肥前蒲池氏が籠もる柳川城攻めで年越があった時に、年末年始は戦は無いであろうと無断で帰郷した者があったので、大いに怒った道雪は追手を差し向けて容赦なく親ともども成敗させたと云う。ことでも有名で、まさに名将の器を持ちたる人物であった。

そんな道雪の主人である大友宗麟は名君なのか暗君なのか一言では決めかねるほど癖のある不思議な人物で、道雪以外の重臣が諫言しても無視するが、彼の諫言には素直に聞いて改心すること度々と云う。宗麟の晩年には大友家は勢いふるわず、反目する家臣や地侍が増え、ついに息子の代で滅びることになるのだが、道雪が健在である間は衰えていなかったことも事実である。

天正3(1575)年、道雪は齢63の時に、自らが後見となった上で齢7の娘である誾千代に家督を譲った。それから5年後には高橋家の嫡男である統虎を婿養子に迎えた。

天正5(1578)年、道雪・紹運がともに参陣していない耳川の戦いで大友家は島津家に大敗、それまで従属していた龍造寺氏がここぞとばかりに反旗を翻し、肥前・筑前・筑後・豊前のかしこで激戦が続くが、劣勢ながら道雪・紹運らは見事に撃退した。

しかし高齢の上に長陣がたたり、天正13(1585)年9月、龍造寺家晴が守備する名城・柳川城を包囲している筑後高良山の陣中で病没した。享年73。60年間にわたって、九州の蒲池・筑紫・秋月・島津・龍造寺、中国の毛利らとの間にあった大戦37度、小戦100余度で、自ら総大将となった戦いはほぼ無敗の戦績で、この世を去った。
そして立花城で留守を預かっていた齢19の立花統虎が名実共に立花家の当主となる。この時、妻の誾千代は齢17であった。


戸次道雪公の墓所の隣りにあるのが立花左近将監統宗茂(法号は大円院殿)公の墓所である。寛永19(1642)年に江戸の柳川藩邸で死去した。享年76:

戒名は「大円院殿前飛州太守松陰宗茂大居士」

立花宗茂公の墓所

天正15(1587)年3月1日に関白秀吉率いる本隊が九州仕置のために大坂城を出陣、28日には九州の豊前国小倉城に着到した。すぐさま蒲生氏郷・前田利長らに島津方・秋月種実が城代・熊井越中守らが籠もる巌石(がんじゃく)城を攻略させ、弟の大和大納言秀長には東側のルート、自らは西側のルートからそれぞれ薩摩国へ向けて進軍したが、実際のところほとんど合戦は無かった。薩摩勢は本国に逃げ込もったからである。流石に秀長勢が日向国に入ると島津勢は猛烈に反撃してきたが、ついに勝つことはなく本国へ逃げ込んだ。一方の秀吉勢は遊山旅(ゆさんたび)かのように悠々として進軍を続け、4月に筑後秋月城に着到した。齢21となった宗茂公は、そこで秀吉に拝謁した。たいそう機嫌がよかった秀吉から、今回の仕置に参陣させられた大名らが居並ぶ座敷に連れて出され、これまでの軍功を一つ一つ数えあげた上で、『その忠義、鎮西一、豪勇、また鎮西一』(立花文書では『誠九州之一物ニ候』)、「上方に、この者ほどの若者があろうとは思われぬぞ」と激賞した。この時に宗茂公は薩摩入りの先鋒を承ったが西側ルートの薩摩勢はまったく抗戦しなかったので、特に戦功はなく、秀吉が薩摩国川内(さつまのくに・せんだい)まで進軍すると島津氏は降伏を受け入れ、その直前に十時摂津と薦野増時が救出した弟・統増と母親に対面できたと云う。
なお島津が降伏するよりも前に、その島津の横暴を訴えて関白の袖にすがった大友家当主の宗麟が病死している。享年56。
秀吉は薩摩国からの帰りに、筑前国博多で九州大名の領地割を行い、宗茂公には筑後国で御池(みいけ)・山門(やまど)両郡の全部、下妻・三瀦(みずま)両郡の一部、合わせて13万2000石を与えて、柳川城を居城することになった。さらに弟の統増には高橋家の本領が安堵された。そして同時に、肥後一国は信長の旧臣・佐々成政に与えられた。

秀吉が大坂へ凱旋してから一ヶ月経つか経たないかといった時に、肥後国で地侍連中による一揆が勃発した。その勢い猛烈で、さすがの猛将・佐々も手こずった。近隣の大名はみな動員させられ、宗茂公もまた弟の統増と共に救援に向かったが、この時の立花軍は、わずか一日で13度の戦闘をし、敵の砦を抜くこと7ヶ所、挙げた首級は650余にのぼったと云う。
そんな一揆勢との対陣中に、同じ九州仕置で筑前・筑後と肥前一郡37万石を拝領した筑前宰相・小早川隆景の養子である秀包(ひでかね)[o]毛利元就の九男。嫡子のいない兄・隆景公の養子となり小早川姓を名乗る。と意気投合して義兄弟となった(よって、この時から隆景は宗茂公の義父となった)。この両者の関係は、のちの朝鮮の役で頼もしいものとなる。
そして、この翌年に公は御礼言上のために上洛して秀吉に拝謁すると、羽柴姓を与えられ、従四位下侍従を叙任(じょにん)された[p]当初は、主家で大友宗麟の嫡男・義統が従五位にあったことから、自らが主人を追い越すことは出来ないと固辞したが、秀吉は初め従五位に置いておいて、ほどなく従四位に叙したと云う。

さらに天正18(1590)年の小田原仕置にも従軍し、そこで秀吉は居並ぶ諸大名の前に宗茂公と徳川家康の重臣で猛将である本多平八郎忠勝を呼び出して並ばせ、「東の本多忠勝、西の立花宗茂、両人東西において無双の者である」と交わりを結ばせたと云う。宗茂公24の時である。

太閤秀吉による朝鮮の役が始まったのは、それから二年後の文禄元(1592)年。世に云う文禄の役で、宗茂公が率いる立花軍3千は小早川隆景を主将とする第六軍に編入され釜山(ぷさん)へ渡海した。なお、この渡海に先立って「統虎」から「鎮虎」、さらに「宗茂」に改名し、ここに「立花左近将監宗茂」が誕生することとなったが、朝鮮の役における武功中最大なものは、俗に云う「碧蹄館(へきていかん)の戦い」である。
文禄の役当初の日本軍は次々と勝利を重ねて朝鮮半島を席巻し、先鋒・小西行長の快進撃で平壌(ぴょんやん)を制圧した。さらに朝鮮国王の要請で援軍としてやってきた明軍を撃退したことで奢りが生じ、太閤秀吉を欺いての開戦に心を悩ませていた小西行長は、太閤の意向に反して独断で明との講和交渉を開始した。その一時休戦の隙を突いて、明国で名将軍との呼び名が高い李如松(りじょしょう)率いる4万余の精鋭が平壌を急襲、油断していた小西軍は忽ちに敗れて潰走した。この敗報を聞いた総大将の宇喜多秀家を始め、小早川隆景、石田治部・大谷刑部らは愕然とし、方々に散らばっていた諸将を漢城に集結させて評定を開いた。一方の明軍は勢いを買って開城まで進撃し、漢城攻略を窺っていたが、そんな状況下で石田・大谷ら奉行衆は漢城での籠城策を勧める中、城外での迎撃を主張したのが宗茂公と小早川隆景であった。この時のことを「加藤光泰貞泰軍功記」には:

『立花は、合戦は吾願ふところなり、我まず先駆せむといふ、小早川隆景も、尤も同心して、先陣せむといふ、爰に於て諸将異義に及ばず』

とあり、立花家柳川藩の「大戦記」では:

『今敵の多数を聞き一戦を交へずして退かば我国の恥辱を奈何せんや。夫れ城に嬰りて守らば大兵合圍援路四絶焉んぞ久を支えん。兵を城外に出し雌雄を決せんに如かずと。隆景大に之を賛し群議遂に決す。』

とあり、兵糧も乏しいことから城外で明・朝鮮軍を迎撃する策に決した。そして誰を先手とするかでは、小早川隆景が

『小勢ではあるが、立花殿こそ先手を仕っても決して誤つことのない御仁である。立花が3千は余人の1万にもおとるまじけれ[q]立花の兵3000は、他家の兵10,000の軍勢に匹敵する、と云う意味。

と宗茂公ら立花勢を推した。老練な重鎮・隆景の推薦に、評定にいた諸将に異論は無く、宗茂公が先陣を賜った。
緒戦で立花隊と明軍の先手が激突したのは漢城の北西にあり、漢城と開城を結ぶ街道の要所にあたる回廊状の渓谷が続いた碧蹄館だった。先鋒の十時伝右衛門・内田忠兵衛ら5百余が敵の騎兵2千と衝突、十時らは奮戦の末に敵を破り、追撃するも、新手敵勢7千に苦戦し、十時以下100余が討死した。ここで中備えの小野和泉守鎮幸・立花三左衛門が先鋒と入れ替わって奮戦するが、何せ大軍で苦戦した。本陣に床几をすえ、はなたず潮合を見計らっていた宗茂公は「それッ!」と自ら槍を携えて馬に乗って飛び出すと、弟の統増も続いた。全軍ためらうことなく、どっと駆け出し、敵は一時に崩れて引いた。宗茂公ら立花勢は追撃にかかり2千余を討ち取ったと云う。この時のことを天野源右衛門[r]前名は安田作兵衛国継。明智光秀の家臣。天正10(1582)年の本能寺の変で信長に槍をつけ、森蘭丸を討ち取ったと云う武将。一時はお尋ね者だったが、罪を許され、名を改めて立花家に仕えていた。覚書には:

『宗茂兄弟二千餘騎一度に駈付其間三町計り隔て鬨をドットあげ、左の方より横鑓に掛るを見て、敵一度に崩れて引退く。宗茂八百餘騎堅固に備へて、残る勢に追討にうたせらる。敵を討事二千餘人』

とある。この緒戦は、宗茂公ら立花勢が明軍を大いに破ったものの、数に勝る敵が新手を繰り出してなおも激戦が続いたが、この後に小早川隆景率いる2万軍勢が到着、立花隊を取り込んで6隊に分けて、明軍の本隊と激突した。立花勢は総勢密集して進撃、敵に近づくと種子島を連射し、敵が色めくところを斬って入って、二万余り敵は足の立てどもなく敗走した。さらに、それを急迫したので敵の全軍が崩れたったと云う。この時、毛利勢や小早川勢が横矢を入れたことで、明軍は大敗北となり平壌まで退却、講和の交渉を真面目に考えるようになったらしい。この戦いで立花勢も多くの勇士を失ったが、第一の殊勲者が宗茂公であることは誰もが認めるところである。そうして、この三年間に渡る文禄の役は「偽りで始まって偽りで終り」を告げた。宗茂公ら立花勢が帰国したのは、文禄4(1595)年9月だったという。

それから二年後の慶長2(1597)年には、和平交渉の決裂から再び朝鮮半島へ侵攻、半島全土の成敗が太閤秀吉から言い渡された。慶長の役である。この時、宗茂公が率いた立花勢5千は侵攻軍ではなく安骨浦(あんこっぽ)の守備を命じられて渡海することになったが、その直前に義父・小早川隆景の死去の知らせを受けることになった。享年65。ただ、この役は翌年に太閤秀吉が死去したことでうやむやのうちに中止となって諸将皆帰国の段となったが、その矢先に加藤清正が明・朝鮮軍3万に包囲され窮地に陥っているとの知らせが入る。評定を開くも結論が出ず膠着していたが、宗茂公が救援を主張、立花勢1千を率いて夜襲を仕掛け、敵の先陣を撃退し、偽情報を流布することで敵の動揺を招き、戦意が落ちて勢力を分断させたところを各個撃破し、最後は籠城していた加藤清正ら5千と合流して敗走する敵軍を追撃したと云う。この時の恩がのちの関ヶ原の戦での敗戦処理につながることになった。


こちらは宗茂公らと同じ棟の左手に祀られていた、手前から立花家3代忠茂、同6代貞俶(さだよし)の墓所:

戒名は奥から「興源院殿」と「別峯院殿」

奥から立花家6代貞俶公と3代忠茂公の墓所

忠茂は筑後国柳川藩2代藩主。実父は宗茂公の実弟・統増(むねます)、のちの立花直次。四男であった忠茂は生まれたその日に伯父である宗茂公の養嗣子となった。号して好雪。延宝3(1675)年に江戸の藩邸で死去。享年64。法号は別峰院殿。
貞俶公は柳川藩5代藩主で、忠茂公の三男・茂虎の嫡子・茂高の子。公の時代に柳川城の修築で功績があった。延享元(1744)年に江戸にて死去。享年47。法号は興源院殿。

立花家歴代藩主の御霊屋外の西側には、立花四天王筆頭の由布惟信(ゆふ・これのぶ)とその一族の墓所があった:

戸次道雪・立花宗茂の二代に仕えた家老の一人で、号して雪下と名乗った

由布惟信とその一族の墓

彼の一族は豊後国速見郡由布院山城主であったことから代々、由布と名乗っていた。戸次道雪に付き従い、65回の合戦で65ヶ所に傷を受け、一番槍、一番乗り、一番首は数知れず、感状も家中随一を誇る。後に偏諱を授かって雪下(せっか)と号す。同じ家老の小野和泉守鎮幸(おの・いずみのかみ・しげゆき)と共に、孫子の兵法『戦いは正を以って合い、奇を以って勝つ』と云う有名な教え「奇正相生(きせい・そうしょう)」[s]およそ戦いと云うものは、正攻法で始めて、型破りな奇法で最終的な勝利を納める、と云う意味。を引用した正と奇の両翼として戦い、のちに「立花双翼」と謳われた。道雪亡き後は宗茂公に付き従い、関ヶ原の戦で改易された時は主人と共に京都・江戸へと随従した。
その昔、宗茂公が統虎と呼ばれ養嗣子として立花の家に入った頃、養父の供をして山路を歩いていた時に栗のイガが足に突き刺さってしまった。従者に「これ抜け!」と言って振り返ると、この由布雪下が駆け寄って、ひざまずくや、抜くどころか逆にイガを足に押しつけた。統虎公は飛び上がらんばかりに痛がったが、道雪が輿の上から目を光らせて見ていたので歯を食いしばって堪えたと云う。宗茂公本人が晩年、「痛しということならず、大いに難儀せしなり」(声を出すこともできず、大変難儀した)と述懐している。
雪下は、主人が奥州棚倉藩1万石で大名に返り咲いた時も寒さに慣れない土地へ従ったが、慶長17(1612)年に再び九州に戻ることなく奥州の地で没した。享年不詳、あるいは享年85とも。

梅岳山福厳禅寺
福岡県柳川市奥州町32-1

See Also立花左近将監宗茂公と岳父・立花道雪公の墓所 (フォト集)

 

立花宗茂公墓所と廣徳寺

立花宗茂公は、島原の乱が収まった寛永15(1638)年に家督を養子の忠茂に譲って致仕(ちし)[t]官職を辞して隠居すること。通説として齢70歳のこと。・剃髪(ていはつ)し、それから四年後の同19(1642)年に江戸柳原の藩邸で死去した。その亡骸は江戸下谷(えど・したや)に葬られたと云う。
江戸柳原は現在の東京都台東区浅草周辺で、江戸下谷はちょうど東京メトロ銀座線・稲荷町駅近くにある下谷神社から台東区役所あたり。往時、下谷にあった寺院の一つに臨済宗大徳寺派の圓満山・廣徳寺があったが、その御由緒は、戦国時代の元亀2(1571)年に小田原北条氏政の三男で岩付城主・太田氏房が小田原から明叟(みょうそう)和尚を招いて開山したもので、天正18(1590)年の秀吉による小田原仕置で焼失した。そのあとに関八州を賜って江戸に入った徳川家康が文禄2(1593)年に希叟(きそう)和尚を招いて神田の地に再興した。こののちに境内周辺が大名屋敷の御用地に指定されたため、寛永12(1635)年に江戸下谷に移転してきたと云うから、宗茂公の菩提は、この下谷の廣徳寺にて弔われたとみるのが通説である。そう云う由緒もあって、廣徳寺は柳川藩立花家の他に、加賀藩前田家、織田家など多くの大名を壇家とする大寺院となった[u]その境内の広さは「恐れ入谷の鬼子母神」に対し、「びっくり下谷の廣徳寺」と狂歌で詠まれる程だったという。。そして幕末・明治時代を経て、大正12(1923)年の関東大震災で寺域が焼失してしまい、移転先を現在の練馬にしたもののいろいろ都合もあって、まず二年後に墓地を、そして昭和46(1971)年に本坊を、最後は昭和53(1978)年にやっと移転が完了したのだそうだ。
ちなみに江戸柳原にあった立花家下屋敷は現在の浅草合羽橋通りの金竜小学校辺りにあったようで、往時はすぐ近くに江戸幕府公認遊郭である吉原があったようだが、その賑いとは裏腹に藩邸周辺は田畑に囲まれた閑散とした場所だったらしい。

一昨年は平成28(2016)年の秋に練馬区桜台にある廣徳寺を訪問してきた。この寺院と立花宗茂公との縁について初めて知ったのは、この前年の平成27(2015)年11月に、東京都主催による都内の文化財めぐりを推進するための東京文化財ウィークで開催されていた「17代当主が語る戦国武将・立花宗茂公の生涯」(リンクはPDF)に参加した時だった。この講演会の最後に宗茂公の江戸での菩提寺である廣徳寺を訪問するイベントがあったのだが、残念ながら先着順にもれて涙を飲んだ。原則的に禅寺は修行道場なので通常は「拝観謝絶」[v]観光目的での一般公開はしていない、と云う意味。である。普通は何かのイベントが無いと訪問できないもので、なんとかそんな機会を待っていたのだけれど、そう簡単にはあるはずは無く気を揉んでいたが、この年は意を決して廣徳寺に直接電話をいれて訪問したい旨を伝えたところ、マナーを守って見学することを条件に境内の立入り許可を頂いた。昨今の風潮で、結構マナーの悪い見学者が多いとのことで、大名家の壇家さんに迷惑がかかることがあったようだ。いずれにしろ見学する前に事前に連絡をしておくのが礼儀であろう :)

こちらが練馬区桜台にある廣徳寺の総門。江戸下谷の頃は12から15棟の塔頭(たっちゅう)があったようだが震災後に4棟[w]そのうち、ここ練馬の寺域には1棟、他は上野や秩父に別院として存在している。になったのだとか:

北条早雲を祀った早雲寺の子院として小田原に開山したのが創建

廣徳寺の総門

参道を進むと右手に山門が見えてきた。この先の突き当りは鈎型に折れており、左手に折れて進むと本堂へ向かう勅使門がある(一般開放なし):

右手奥にあるのが山門で、左手奥へ進むと本堂へ向かう勅使門がある

参道

山門。門前の車止めには「拝観謝絶」の文字が:

この時は事前に連絡を入れていたので開門されていた (感謝)

山門

「拝観謝絶」の立て札があるが、原則的に大名墓所の見学は可能である

拝観謝絶

山門をくぐって、前田家から移築された大書院の脇を進むと正面に庫裡が見えてくる。扉には後北条家の三つ鱗紋が付けられていた。ここを右へ折れて、大書院の前を通って庫裡の背後にある大名墓地へ移動した:

ここを右手に折れて大書院の脇を抜け、庫裡の背後にある大名墓地へ

庫裡

こちらは前田家から移築された大書院の棟端飾瓦として使われていた獅子口。鬼瓦には加賀前田家の梅鉢紋が付いていた:

近年、瓦葺から銅葺に葺き替えされたそうで移築時の遺構が展示されていた

大書院の棟端飾瓦

これは大名家墓地の案内図:

庫裡の北側が墓地で、西側が大名家墓地、東側は塔頭ごとの一般墓地

大名家墓地の案内図(拡大版)

この大名家墓地には立花宗茂公の墓所の他に、会津松平家、小笠原家、織田家、小出家、小堀家、加賀前田家、柳生家、秋月家などのそうそうたる名家の墓所があった。案内図にはもう一つ「立花」の文字が見えるが、あとで調べてみると、これは宗茂公の実弟・統増こと立花直次の墓所(法号は大通院殿)だと思われるが、案内板も無かったので詳細は不明。

こちらが柳川藩初代藩主・立花家の区画。正面が江戸柳原の藩邸で亡くなった立花左近将監宗茂公の墓所(法名は大圓院殿前飛州太守松陰宗茂大居士)で、その左が実母で高橋紹運公の正妻である宋雲院殿の墓所(法名は宋雲院殿花獄紹春大姉):

正面が立花左近将監宗茂公。その左は実母で大友家重臣・斉藤鎮実の妹(氏名は不詳)である宋雲院殿の墓所

立花家墓所(拡大版)

慶長3(1598)年8月に太閤秀吉が死去し、五大老の命により朝鮮の役からの撤退し博多に戻ったのが同年12月。宗茂公32の時である。それから二年後の慶長5(1600)年に関ヶ原の戦が起こった。故太閤の恩義に感ずることが深い宗茂公は、大坂の招きに応じて西軍に味方することにした。一説に柳川を発して大坂へ向かう途中、家康から勧誘の手紙を受け取ったが、既に大坂方につくと決めた上に、父子の間で脈々と継承された「義」を重んじて手紙を破り捨てたと云う。
ただし実際のところ、公は美濃国不破郡関ヶ原には出陣していない。その前哨戦となった大津城攻めに弟・統増、そして義兄弟の小早川秀包らと参加し、開城後は大津城の守備を命ぜられていたのである。この城攻めで、朝鮮の役でも勇名を馳せた立花家の鉄砲隊は籠城していた京極高次勢はもちろん、味方の西軍諸将らもまた圧倒するほどの火力を見せつけた。あまりの銃撃の猛烈さに、立花勢の攻め口に向かった城側の矢狭間(銃眼)は閉めきったままだったと云う。そして降伏勧告を拒否していた京極高次は、堀が埋められ3万の軍勢による総攻撃で二ノ丸まで落ちたことで開城を決心した。
しかし本戦が西軍の惨敗で終わると、公は大津から撤退し伏見を経由して大坂へ下り、西軍の大将であった毛利輝元や増田長盛らに大坂城での徹底抗戦を説いたが、彼らにとって関ヶ原の戦はすでに終わっており、勝者である家康を刺激するようことはしたくなかったため態度を保留した。これに腹を立てた宗茂は柳川へ帰国の途についた。
同年9月、帰国の海上で宗茂公の船団は、やはり関ヶ原の戦で西軍に味方して、後世に「島津の退き口」として伝わる敵陣突破で帰国途中だった島津維新斎義弘(しまづ・いしんさい・よしひろ)の舟に遭遇した。宗茂公が文禄の役の殊勲者なら、義弘は慶応の役の殊勲者である。義弘は泗川の戦(しせんのたたかい)で明・朝連合軍20万をわずか7千の兵で痛破した[x]この報告を聞いた徳川家康は「前代未聞の大勝利」と評し、朝鮮の役ののち島津家を唯一加増とした。猛将である。こんなことで、両者は互いに尊敬し合っている上に、今は同じく敗者の身の上である。宗茂公が義弘の舟を訪問すると、義弘は喜び歓待した。それ以降、両家の船団は並んで九州へ向かったが、ある日、公の家臣が「島津が兵ことのほか手薄であります。御実父・高橋紹運様のご無念を晴らし給うよき機会と存じます。」と云った。公はかっと怒って「阿呆なことを申すな!」と怒鳴りつけ、「いかにも島津は父の仇だ。しかし、故太閤殿下のおとりなしで既に和解して久しく、今は親しい輩(ともがら)だ。その上、共に豊臣家に味方して不幸戦いに敗れ帰国する身である。相手の備え少ないに付け込んで、これを討つなど武人として不名誉なことだ。」と説いて聞かせたと云う。この後、豊後沖で両者は分かれるが、義弘は別れ際に:

『豊後・豊前は黒田如水の兵が固めていると承る。その中を押し切るのは難儀なことと存ずる。一緒に薩摩へ参られぬか。貴殿と拙者とが合力して戦うなら、後の世の語り草になる戦も出来ようと存ずる。』

と誘ったが、宗茂公は辞退して別れ、誰に遮られることなく無事に柳川城へ帰還した。

柳川へ戻ってまもなく隣国の肥後鍋島勢3万が押し寄せてきた。鍋島勝茂はもともとは東軍につく予定であったが、運悪く西軍に味方することになり、伊勢方面で東軍の諸城を攻めていたが、父・直茂から西軍敗報を聞いて狼狽し、黒田長政と井伊直政を頼んで家康に降伏を申し入れた。すると家康は「罪は許すが、償いを見せよ。隣国の立花を討って差し出せ」と返してきた。勝茂率いる鍋島勢3万は柳川城の北一里半の八ノ院辺りまで進出、同じく黒田如水・加藤清正も柳川城へ進軍した。宗茂は小野和泉守鎮幸を先鋒とした兵3千で鍋島勢を邀撃(ようげき)し、十二段に構えた敵勢を九段目まで撃破したが、兵力差はいかんともしがたく、小野和泉守は瀕死の重傷を負って退却した。ここで清正から使いを受けた鍋島勢は追撃には出ずに八ノ院に留まった。宗茂公の武勇と人柄を惜しんだ如水と清正は戦闘はせず、特に朝鮮の役での恩義を忘れない清正は宗茂公に降伏を勧め、立花家主従の身柄は自らの命にかえても保証すると説得した。その結果、宗茂公は開城・降伏を受け入れた。同年11月初め、宗茂公34の時である。
この時、領内の百姓らが多数道の脇に土下座して「儂ら百姓共は忠義一途であり、お侍方に少しも劣らぬものであります。兵糧米もあるので、ご開城ご降伏は切に思いとどまり下さいませ。」と泣いて徹底抗戦を説いたと云う。さらに、薩摩国に帰国していた島津義弘は宗茂公のために柳川へ援軍を送ったが、援軍が柳川へ到着したのは開城後のことだった。あるいはまた、家康は島津討伐を決定し如水と清正にその先鋒を命じたが、その際に二人は宗茂に功を立てさせて家康の心象を良くしようとして同道を勧めたが、公は「この期になって、我が身いとしさに親しき友を討つことは出来申さん。」として断ったという。すべて宗茂公の人物像が伺える場面である。
加藤家預かりとなっていた宗茂公は慶長6(1602)年に肥後を去って京へ上った。この時、由布雪下、十時摂津以下19人が従ったが、一の家老である小野和泉守以下残りは誾千代守護のために肥後に留まることになった。しかし、その翌年の10月に誾千代が死去、享年34。法名は光照院殿。宗茂公36の時である。

圓満山・廣徳寺
東京都練馬区桜台6-20-19

See Also立花宗茂公他大名家、宇喜多秀家公、服部半蔵、千姫他の墓所巡り (フォト集)

【参考情報】

  • 海音寺潮五郎『武将列伝・江戸編』(文春文庫刊)
  • 特別展「立花宗茂」図録(立花宗茂家史料館刊)
  • 『歴史街道〜碧蹄館の真実』2015年9月号(PHP研究所刊)
  • 立花家十七代が語る立花宗茂と柳川
  • 圓満山・廣徳寺のパンフレット
  • 童門冬二『立花宗茂』全一冊(集英社文庫刊)
  • 葉室麟『無双の花』(文春文庫刊)
  • 第13回練馬まちづくり『歴史と文化講座』レジュメ
  • Wikipedia(立花宗茂)
  • 週刊・日本の城<改訂版> (DeAGOSTINI刊)

参照   [ + ]

a. 大友氏の重臣・吉弘鑑理(よしひろ・あきまさ)の次男・鎮理(しげまさ)で、筑後国・高橋氏の名跡を継いで高橋鎮種と称し、号して高橋紹運と改めた。
b. 立花文書によるもので、現代文だと「九州の逸物」の意味。
c. 筑後国の御池・山門両郡すべて、下妻・三瀦(みずま)両郡の一部を含めた13万2000石。
d. 柳川藩主立花家の邸宅跡。江戸時代には、この辺りが「御花畑(おはなばたけ)」と呼ばれていたことから。
e. 江戸中期の臨済宗・大徳寺208世。
f. とは云っても、一般参詣(いっぱん・さんけい)は認められていないので門前までだけど。
g. 養嗣子となった直後は「高橋弥七郎統虎」から「戸次弥七郎統虎」と改名、程なく「戸次左近将監統虎」に改められ、最後が「立花左近将監統虎」である。この「左近将監」はいわゆる通称にあたる。
h. この前年に大友氏は耳川の戦いで薩摩・島津氏に大敗し、求心力が低下した隙を付いて肥前・龍造寺氏に寝返った北九州の諸勢力との戦いに明け暮れることになった。
i. 立花家の御道具帳では「月輪文(がちりんもん)」と記す。
j. 大友家重臣・斉藤鎮実の妹で、名は不詳。法名から宋雲院殿と呼ばれる。
k. 吉川元春の三男。父で猛将の吉川元春は病身の体で出陣していたが、豊前小倉城を落とした後に死去した。享年57。
l. 旧柳川藩士の説で、他には若年(35歳)時という説もあり。
m. のちに宗茂公の所用となり、立花家史料館蔵として現存する。
n. 肥前蒲池氏が籠もる柳川城攻めで年越があった時に、年末年始は戦は無いであろうと無断で帰郷した者があったので、大いに怒った道雪は追手を差し向けて容赦なく親ともども成敗させたと云う。
o. 毛利元就の九男。嫡子のいない兄・隆景公の養子となり小早川姓を名乗る。
p. 当初は、主家で大友宗麟の嫡男・義統が従五位にあったことから、自らが主人を追い越すことは出来ないと固辞したが、秀吉は初め従五位に置いておいて、ほどなく従四位に叙したと云う。
q. 立花の兵3000は、他家の兵10,000の軍勢に匹敵する、と云う意味。
r. 前名は安田作兵衛国継。明智光秀の家臣。天正10(1582)年の本能寺の変で信長に槍をつけ、森蘭丸を討ち取ったと云う武将。一時はお尋ね者だったが、罪を許され、名を改めて立花家に仕えていた。
s. およそ戦いと云うものは、正攻法で始めて、型破りな奇法で最終的な勝利を納める、と云う意味。
t. 官職を辞して隠居すること。通説として齢70歳のこと。
u. その境内の広さは「恐れ入谷の鬼子母神」に対し、「びっくり下谷の廣徳寺」と狂歌で詠まれる程だったという。
v. 観光目的での一般公開はしていない、と云う意味。
w. そのうち、ここ練馬の寺域には1棟、他は上野や秩父に別院として存在している。
x. この報告を聞いた徳川家康は「前代未聞の大勝利」と評し、朝鮮の役ののち島津家を唯一加増とした。