筑後平野が有明海へ臨む地に、筑後川や沖端川(おきのはたがわ)、塩塚川(しおづかかわ)などの水を利用して、永禄年間(1558〜1569)に蒲池鑑盛(かまち・あきもり)[a]名の「鑑」の字は大友義鑑(のちの宗麟)からの偏諱である。忠義に篤く、一度没落した幼少の龍造寺隆信を保護した。主家の大友氏に忠節を尽くし、天正6(1578)年の耳川の大敗では宗麟を逃がすために討死した。が、それまでの砦規模から本格的な天然の要害に造作した柳川城は、現在の福岡県柳川市本城町にある。筑後南部の戦国大名で大友氏の幕閣にあった蒲池氏の本城として、水の利を十分に活かしたこの平城は、九州でも屈指の堅城で難攻不落の水城として知られていた[b]水堀に設けられた水門の扉を開閉することによって、城内の堀の水位が増減できるようなメカニズムを導入していた。。実際、鑑盛の次男・蒲池鎮漣(かまち・しげなみ)は、天正8(1580)年に龍造寺隆信と鍋島直茂ら2万の軍勢を相手に数カ月に及ぶ籠城戦に勝利し、柳川城攻略を挫折させた[c]しかし翌年には龍造寺隆信から再三の和議と接待の申し入れがあり、当初は固辞していたが、遂に断れずに向かった佐嘉城近くで襲撃され自害、さらに柳川にいる一族もまた皆殺しとなり、蒲池一族は滅亡した。。さらに龍造寺家の支配下にあった時には、大友家で筑後攻略を担当していた戸次道雪と高橋紹運らの猛攻を受けるも一指だも染め得なかった[d]戸次(立花)道雪公は柳川城攻めの最中に高良山の陣中で没した。天正13年9月11日、享年73。。その後、天正14(1583)年の関白秀吉による九州仕置では岩屋城の戦いや立花山城の戦いで功のあった立花宗茂が筑後13万石の柳川城主となり、主家の大友氏から独立して秀吉に仕えるが、秀吉死後の関ヶ原の戦いで敗れ、在城わずか十三年にして改易となり、代わって石田三成捕縛の功により、田中吉政が筑後一国32万石余の領主として入城すると、石垣を高くして天守閣を築いた。
一昨々年(さきおととし)は平成27(2015)年の夏に、広島出張に合わせて、九州は福岡県まで足をのばして立花宗茂公ゆかりの城を攻めてきた。午前中は福岡県太宰府市にあり、宗茂公の実父にあたる高橋紹運公らが玉砕覚悟で島津軍と戦った岩屋城跡を攻め、午後は同じ福岡県は柳川市にある柳川城跡、宗茂公らの墓所や柳川藩別邸の御花(おはな)、そして立花家史料館を訪問してきた。
この時は太宰府から西鉄二日市を経由して、西鉄柳川へ着いたのがお昼ちょっと前。駅構内にあった観光案内所で「柳川まち歩きマップ」を入手して、午後一杯を使ってすべて徒歩で巡ってきた。駅から柳川城の本丸跡まではざっと片道30分程だったけど、城跡の周辺も一緒に巡ってきたので、もう少し時間がかかったと思う。
こちらは西鉄柳川駅から柳川城址周辺を含めた航空写真(Google Map より)。柳川名物のお掘りめぐり(川下り)は城址の堀を巡ることができるようだが、今回は時間の都合で諦めることに :
こちらが今回の城攻めルート。残念ながら、現在は柳川城の遺構がほとんど残っていないため、見て回るところは城跡の規模を示す標柱の他、学校の敷地内にある天守閣跡くらい。とは言え、立花家史料館では見事な甲冑を観賞することができたし、福厳寺においては立花家歴代の城主の墓所をお参りすることができたのは良かった。あと柳川城主の一人であった田中吉政公の菩提寺にも立ち寄ってきた:
西鉄柳川駅 → 外堀 → 柳川城堀水門 → ①真勝寺(田中吉政公菩提寺) → 中堀 → ②田中吉政公銅像 → ③三ノ丸戌亥門跡 → ④十時邸 → ⑤小野邸 → 城湟西北隅 → 城湟西南隅 → ⑥天守閣跡 → 天守閣跡の石垣 → 本丸跡(柳城中学校) → 城湟東北隅 → ⑦二ノ丸跡(柳川高等学校) → 城湟東南隅 → ⑧立花家史料館 → ⑨御花 → ⑩福厳寺 → ・・・ → 西鉄柳川駅
なお、⑧立花家資料館と⑩福厳寺についてはこちらで詳しく紹介する。
まずは西鉄柳川駅。当時は完成してすぐの真新しい駅舎だった:
駅を出て国道R208から立花通りへ入って水路沿いに南下した。この水路は、往時の外堀に相当する:
しばらく南下していくと「史跡・柳川城堀水門」があった。外堀(手前)と中堀(水門奥)へ向かう、いわゆる「水上の虎口」であり、堰板(せきいた)付きの石組水門である。往時は扉の開閉により城内の水堀の水位を調節していたと云う。実際、お堀めぐりで「どんこ舟」がこの狭い水門をくぐって外堀から中堀へ向かっていたのを目撃した:
陸上からは水門を経て中堀には入れないので、まずは水門を迂回して、さらに南にある①真勝寺へ:
ここ真勝寺は、関ヶ原の戦における西軍・石田治部少輔三成を捕縛した功により筑後一国を賜った田中吉政の菩提寺である。彼の遺命により、四男で二代目柳川藩主である田中忠政が、慶長16(1611)年に吉政の遺骸を葬った墓上に一大伽藍を建立したのが、その本堂であると云う。そのため本堂自体が吉政の墓となっている(墓石は説明板に掲載されていた写真より) :
豊臣秀次の家老であった田中吉政は、天正18(1590)年の小田原仕置後に徳川家康が関八州へ移封されたあと、山中城攻略の功績もあって三河岡崎城主となった。主である秀次が自害された際には、多くの家臣が処分を受けたが、吉政ら宿老にはお咎めがなかった[e]この時に同郷で交友関係があった石田三成が関与したとの説がある。。
そして関ヶ原の戦後に立花宗茂に代わって柳川城に入城した吉政は、三河国岡崎城での土木工事の経験を踏まえて、城の大改築を実施し天守閣を築造した他、筑後川・矢部川の治水事業、道路の新設と整備といった土木事業に多くの業績を残し、現在の柳川市につながる基盤を作ったと云う:
真勝寺を出て、次は中堀沿いに西へ向かい、柳川城跡の西北隅方面を目指した:
お堀めぐりで利用されている水路は、往時は柳川城にとって重要な防御施設の一つであった:
途中、日吉神社の境内を横切ると②田中吉政公銅像が建っていた:
先に述べたとおり関ヶ原の戦後に筑後一国を拝領した田中吉政は、天文17(1548)年に近江国[f]現在の滋賀県。石田三成とは同郷で歳は12離れていた。で生まれ、織田信長、豊臣秀吉、豊臣秀次、そして徳川家康に仕えた。関ヶ原では東軍につき、味方が勝利した後に伊吹山中に逃亡していた石田三成を捕縛すると云う大功を挙げた。筑後の国主としては土木事業に大きな業績を残したが、慶長14(1609)年の江戸参勤の途中、京都伏見で客死(かくし)した。享年62。こののち跡目を継いだ四男の忠政に嫡子が居なかったため、元和6(1620)年に柳川藩田中氏は改易となった。
このあとは中堀を渡ってすぐのところにある③三ノ丸戌亥門跡へ。門の通称は「弥兵衛門(よべえもん)」と云うらしい:
この門より先が三ノ丸跡になり、往時は主に重臣らの屋敷が建っていたと云う。現在でも、最後の柳川藩主・立花家重臣の邸宅が一部残っていたので、柳川城へ向かう前に寄ってみることにした。
十時家は立花家の家老を輩出する家柄であり、代々「摂津家」(せっつけ)を襲名する世襲家である。特に、立花道雪・立花宗茂の二代に仕え立花四天王の一人である、十時連貞(ととき・つれさだ)[g]「連」の字は、主である立花道雪こと戸次鑑連(べっき・あきつら)からの偏諱である。こと十時摂津が有名である。道雪の命で他家から婿入りした宗茂の一の家臣となり、関白秀吉の九州仕置では宝満山城開城で島津方の捕虜となっていた宗茂の弟・高橋統増(たかはし・むねます)と生母・宋雲院殿[h]豊後大友氏の重臣の一人、で耳川の戦で討死した斎藤鎮実(さいとう・しげざね)の娘で、義将・高橋紹運の妻。を救出した。慶長8(1603)年、関ヶ原の戦後に宗茂が改易され浪人として人知れず江戸に居た頃には、虚無僧となって生活費を稼いでいた。ある時、いつものように尺八を吹いて町中で托鉢(たくはつ)していると、暴れ者三人が喧嘩を売ってきた。摂津は主の境遇を思って、最初は事を荒立てぬように尺八であしらっていたが、ついに逃げ切れなくなり、相手の刀を奪うやいなや、忽ちに三人を斬って捨てた。これが町奉行に知られることになり、さらに幕府の老中である土井大炊利勝(どい・おおい・としかつ)が聞き及ぶまでになった。最後は二代将軍秀忠の耳に入り摂津は無罪放免、翌年の正月に宗茂は江戸城へ召し出され、5000石に封じられた上に御相伴衆(ごしょうばんしゅう)に取り立てられることになった。
十時邸から堀沿いに南下していったところには、芸術家オノ・ヨーコの祖父である小野英二郎氏の屋敷(⑤小野邸)跡があった:
小野氏は柳川藩士の末裔であり、のちに日本興業銀行総裁を務めた財界人である。この屋敷跡は江戸時代の「柳川藩御家中屋敷図」に小野平治の名で記載されていたもので、その先祖は立花四天王の一人で、日本七槍の一人でもある小野鎮幸(おの・しげゆき)こと小野和泉守との説あり。
立花道雪・宗茂の二代に使え[i]宗茂が改易された後は、肥後の加藤清正に仕えた。、「立花家双翼」[j]主である道雪が孫子の兵法「奇正相生」を引き合いに出して、由布惟信(ゆふ・これのぶ)と共に「正」と「奇」の両翼に例えたことから。の一人と謳われた小野和泉守は「豪勇にして智謀あり」とされ、慶長の役の碧蹄館(へきていかん)の戦いでは先鋒大将である筑前宰相・小早川隆景より『立花が3千は余人の1万にも劣るまじけれ』[k]立花の兵3,000は、他家の兵10,000の軍勢に匹敵する、と云う意味。と絶賛された立花軍中で、常に先陣を務めた。関ヶ原の戦で敗れて柳川城へ戻った宗茂を鍋島直茂・勝茂父子が攻めた際に、城より北一里半の八ノ院辺りで和泉守を先鋒として鍋島勢と激突、十二段に構えた鍋島勢を九段まで撃破し勇戦奮戦したが兵力が続かず、小野自身も瀕死の銃創を受けて退却した。予想外の損害を出した鍋島勢はこれより追撃には出ず、結局は加藤清正と黒田如水のとりなしで、宗茂は柳川城を開城・降伏した。それから立花家は改易となり、宗茂以下が肥後加藤家預かりになったのち、宗茂が浪人となって京へ上ると、傷の療養中であった和泉守は残る家臣団[l]浪人となった宗茂は家臣団の全てを養うことはできず、彼に付き従って上京した僅かな家臣以外の殆どは加藤清正の配下になった。の取りまとめ役として、そして宗茂の正妻・誾千代を護るために加藤家に残り、浪人となった宗茂にたびたび送金などしていた。宗茂が陸奥国棚倉藩1万石の大名(赤館城主)に復帰していた慶長14(1609)年に肥後で死去した。享年64。このあと宗茂が柳川城主に返り咲くと、彼の子孫が呼び戻され柳川藩の家老を再び世襲した。
このあとは再び中堀を越えて城址方面へ移動した。こちらが城址周辺図(Google Earth より):
まずは柳川城の北西隅にあたる場所に置かれた「城湟西北隅」の碑。往時は内堀であったが、現在は水路として一部残っているだけで、殆どが埋め立てられて柳城中学校の敷地になっていた。このまま内堀跡に沿って南下し南西隅へ向かった:
こちらが城址の南西隅に建つ「城湟西南隅」の碑。このまま県道R767沿いに東へ向かった:
こちらは柳城中学校の校門。往時は正面に内堀があり、その先に本丸があった:
さらに東へ進んでいくと中学校と高校と境界にあたる脇道があり、そこを折れて中へ進むと柳川城址の碑が建っていた。復元図などを参照すると、正面あたりが本丸南西隅の天守台あたり、右手が本丸御殿と二ノ丸になるようだ:
古絵図を見ると、往時は二ノ丸側に欄干橋が架かって大手道とされていたようで、それは現在地で云うと、ここから更に県道沿いに東へ向かった柳川高校側になるが橋も二ノ丸御門も残ってはいない:
ここはひとまず内堀を埋め立てて作った脇道を通って⑥天守閣跡へ向かうことにした:
本丸南西隅には田中吉政の時代に天守が築かれた。高さ約8mの石垣が積まれた石垣高台(天守台)は15m☓19mほどの広さを持ち、その上に建つ5層5階の天守は高さ36mを誇っていたと云う。屋根は千鳥破風と唐破風を組み合わせた八棟(やつむね)造り、最上階には四隅に戸袋の付いた腰窓様式の望楼を持ち、筑後国一帯と有明海を一望できたと云う。
しかし、立花宗茂公が柳川城に返り咲いてから明治維新を迎えるまでの約250年間、悠然と建っていた天守閣は明治5(1872)年1月に原因不明の出火[m]一説に、明治政府による廃藩置県の混乱を鎮めるために計画的な放火とも。により本丸や二ノ丸とともに焼失した:
現在は柳城中学校の校庭の一隅に小丘と石垣の一部を残すのみとなっている:
これは御花本館の御役間(おやくま)に展示されていた「柳川城天守閣の模型(縮尺1/60)」(門註所砂夫・作)で、現存している唯一の写真から想像して作成したものらしい:
往時は内堀であった中学校の敷地から眺めた天守閣跡の小丘。往時、左手は全て内堀(水堀)だった:
本丸の中央には御殿が建ち、天守閣が建つ南西隅を除く三方にそれぞれ三重櫓が建っていたようだが、現在は中学校の敷地内のため残念ながら立ち入りできなかった:
かって戦国動乱期に蒲池鑑盛が二度も強敵を退けた柳川城のことを「柳川三年、肥後三月、肥前・筑前朝茶の子[n]堅城で名高い肥後の熊本城でも三ヶ月あれば陥とせるが、柳川城を陥とすには三年かかる。肥前の佐賀や久留米城はお話にならない、と云う意味。」とうたわれたのは、まさに柳川城の堅固さを如実に物語った戯歌(ざれうた)である。
そして、再び脇道側に下りて天守閣跡にある1.5m程の高さの石垣を見てきた。本丸にあった石垣の大部分は明治7(1874)年の台風により決壊した海岸堤防の補強に転用されたと云う:
このあとは城址北東隅へ移動した。こちらが「城湟東北隅」の碑:
ここから県道R766沿いに南下して二ノ丸跡に建つ柳川高校の前を通過してきた。本丸跡に建つ中学校同様に、こちらも敷地内をみることはできず。こちらの敷地は二ノ丸全部と本丸の一部を含んでいるので、なんとも残念 :
そして県道R766とR767の交差点あたりが城址東南隅にあたり、往時は三の丸の境界にあった黒門が建っていた。現在は「城湟東南隅」の碑が建っている:
柳川城は蒲池氏4代、龍造寺氏(城代)、立花氏12代、そして田中氏2代がそれぞれ居城としていた城郭で、鶴が舞うのに似ていることから「舞鶴城」との優美な別称を持つのとは裏腹に難攻不落の平城として明治初めまで残っていたほかに、城下町は縦横に掘割が巡らされていた。その面影を少しだけ感じることができた。
柳川城攻め (フォト集)
【参考情報】
- 日本の城探訪(柳川城)
- 真勝寺・柳川城跡に建っていた説明板
- 海音寺潮五郎『武将列伝・江戸編』(文春文庫刊)
- Wikipedia(柳川城)
- Wikipedia(蒲池鑑盛)
- 東郷隆『初陣物語』(実業之日本社刊)
- 週刊・日本の城<改訂版> (DeAGOSTINI刊行)
立花氏庭園・御花
柳川城址をひと回りした後はしっかりと柳川名物「鰻のせいろ蒸し」を頂いてから、旧柳川藩主・立花家の邸宅と庭園、そして立花家史料館がある⑨御花(おはな)へ。江戸時代に「御花畠」と呼ばれていたことが由来で、現在は立花家が経営する料亭旅館を中心とした観光名所となっていた。庭園を含め、ほとんどの建築物は立花家14代当主・立花寛治氏によって新築されたものらしい。と云うこともあって正門前には大型の観光バスが止まって、観光客で大変な賑だった。
西洋館、本館、日本庭園の松濤園(しょうとうえん)、そして立花家史料館は有料だった(共通/大人500円/当時)。
正門から入ると、その正面に建っているのが西洋館:
そして西洋館の裏手にあるのが本館:
本館北側は100畳の広さを持つ大廣間(おおひろま)がある。立花家の御客間として明治時代に建てられた:
こちらは西洋館側の中庭:
そして日本庭園の「松濤園(しょうとうえん)」。黒松に囲まれた池庭で、本館の大広間からの眺望を楽しむ観賞式の庭園。あいにくの天気であったけど景観は素晴らしかった:
池庭に大小の中島や岩島を配して大海をあらわし、その周囲に黒松が茂る庭景となっている:
園内には約280本の黒松が植えられているのだとか:
こちらは御役間(おやくま)とそこで展示されていた品々。この建物は入母屋造、二階建て。家政局として使われ、のちに改装されているが、骨組みの大部分は明治時代に建てられたままの状態で維持されているのだとか:
最後は⑧立花家史料館。文字どおり、立花家伝来の近世大名道具や近代伯爵家資料などが収蔵されており、観るだけで十分に楽しめた:
立花史料館と御花 (フォト集)
参照
↑a | 名の「鑑」の字は大友義鑑(のちの宗麟)からの偏諱である。忠義に篤く、一度没落した幼少の龍造寺隆信を保護した。主家の大友氏に忠節を尽くし、天正6(1578)年の耳川の大敗では宗麟を逃がすために討死した。 |
---|---|
↑b | 水堀に設けられた水門の扉を開閉することによって、城内の堀の水位が増減できるようなメカニズムを導入していた。 |
↑c | しかし翌年には龍造寺隆信から再三の和議と接待の申し入れがあり、当初は固辞していたが、遂に断れずに向かった佐嘉城近くで襲撃され自害、さらに柳川にいる一族もまた皆殺しとなり、蒲池一族は滅亡した。 |
↑d | 戸次(立花)道雪公は柳川城攻めの最中に高良山の陣中で没した。天正13年9月11日、享年73。 |
↑e | この時に同郷で交友関係があった石田三成が関与したとの説がある。 |
↑f | 現在の滋賀県。石田三成とは同郷で歳は12離れていた。 |
↑g | 「連」の字は、主である立花道雪こと戸次鑑連(べっき・あきつら)からの偏諱である。 |
↑h | 豊後大友氏の重臣の一人、で耳川の戦で討死した斎藤鎮実(さいとう・しげざね)の娘で、義将・高橋紹運の妻。 |
↑i | 宗茂が改易された後は、肥後の加藤清正に仕えた。 |
↑j | 主である道雪が孫子の兵法「奇正相生」を引き合いに出して、由布惟信(ゆふ・これのぶ)と共に「正」と「奇」の両翼に例えたことから。 |
↑k | 立花の兵3,000は、他家の兵10,000の軍勢に匹敵する、と云う意味。 |
↑l | 浪人となった宗茂は家臣団の全てを養うことはできず、彼に付き従って上京した僅かな家臣以外の殆どは加藤清正の配下になった。 |
↑m | 一説に、明治政府による廃藩置県の混乱を鎮めるために計画的な放火とも。 |
↑n | 堅城で名高い肥後の熊本城でも三ヶ月あれば陥とせるが、柳川城を陥とすには三年かかる。肥前の佐賀や久留米城はお話にならない、と云う意味。 |
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