福岡県太宰府市の観世音寺《カンゼオンジ》にあった岩屋城は、太宰府政庁[a]大和朝廷が移した宮家の一つで、奈良・平安時代をとおして九州を治め、西国の防衛と外国との交渉の窓口とした役所である。の背後にそびえる標高410mほどの四王寺山《シオウジヤマ》中腹にある急峻な岩屋山に築かれていた山城で、立花山城や宝満山城《ホウマンヤマジョウ》とともに筑前御笠郡支配の要衝として、豊後国《ブンゴノクニ》を拠点とする大友氏が城督を置いていた城郭である。その始まりは文明10(1478)年に周防国《スオウノクニ》守護職の大内政弘[b]のちに周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城といった七カ国の守護職を務めた戦国大名・大内義興の父である。が家臣を在城させていたのを初見とし、大内氏衰退後は大友氏の家臣・高橋鑑種《タカハシ・アキタネ》[c]大友氏庶流の一萬田氏の一族で、筑前高橋氏を継承し、主君・大友義鑑《オオトモ・ヨシアキ》の偏諱を受けて鑑種と改名した。が宝満山城の支城とした。しかし鑑種は、永禄4(1561)年に同じ筑前の秋月種実《アキヅキ・タネザネ》、肥前佐賀の龍造寺隆信としめし合わせて大友義鎮《オオトモ・ヨシシゲ》に反旗を翻した[d]鑑種の実兄・鑑相《アキザネ》の妻に、主人である大友義鎮(のちの大友宗麟)が横恋慕し、鑑相を誅殺して奪い取ったことに憤慨したという説あり。。そして大友の軍勢を引きつけておいた隙に中国から毛利元就の大軍を招き入れたが、永禄10(1567)年に戸次道雪《ベッキ・ドウセツ》[e]大友家内外から闘将と畏怖された戸次鑑連《ベッキ・アキツラ》、号して道雪。後世では立花道雪とも。大友家の三宿老の一人。が毛利軍を斬り崩し調略を加えて退去させた[f]実際には山中鹿介率いる旧尼子勢が出雲国に攻め込んだため、元就が九州撤退を決断した。。鑑種は降伏して助命され入道して宗仙《ソウセン》を名乗っていたが、不穏な空気をよんだ義鎮が同じ一族の吉弘鑑理《ヨシヒロ・アキマサ》の子・鎮理《シゲマサ》に高橋家を継がせて[g]この時に高橋鎮種《タカハシ・シゲタネ》と改名した。対抗した。彼がのちに「忠義鎮西一」と呼ばれた高橋紹運である。
一昨々年《サキオトトシ》は平成27(2015)年の夏に、広島出張に合わせて、九州は福岡県まで足をのばして立花宗茂ゆかりの城を攻めてきた。この時は前日に広島入りして、当日は早朝から移動できるようにしたのだけれど、残念なことに、この日の福岡は前日から大雨。広島から博多へ移動する新幹線こだま821号の中で少しは寝ておこうと思ったけど、やっぱり天気予報が気になってよく寝れなかった 。そして博多からは地下鉄空港線・西唐津行きに乗り換えて天神へ。そこから西鉄福岡駅へ移動し、西鉄天神大牟田線急行・花畑行きで西鉄二日市へ向かい、さらに西鉄太宰府線に乗り換えて太宰府に着いたのが朝9:00ちょっと前。
まず午前中は岩屋城跡。立花宗茂が登場する小説には必ずと云ってもよいほど登場する城で、ここを訪れるのが当時の念願だった。ただ駅前から空を眺めると雲は低く、いまにも雨が降ってきそうな天気だった。ここで雨雲レーダを確認して雲がやり過ごして天気が少しでも回復するまでの間、近くにある太宰府天満宮を訪問することにした。
こちらは太宰府駅前から眺めた岩屋城方面の遠景。このあと太宰府天満宮を散策している間に城跡周辺の靄がはけてくれた。麓から見上げると、放射状に延びる複雑な地形によって郭が隠され、城の規模を分かりづらくしているのも「守りに易く、攻めるに堅い」城であった一因であろう:
こちらは岩屋城を描いた絵図としては代表的な『筑前三笠郡岩谷城絵図』(個人蔵)。江戸時代後期の文化8(1810)年に、秋田藩士の田代政美某によって描かれたもので、廃城後200年以上は経過した「城跡」である。但し、あくまでも本丸と二ノ丸といった主要郭のみの描画で、それ以外に複数あった腰曲輪跡は省略されていた:
次の図(左手)は、近年の岩屋城跡における地表面観察によって作成された縄張り図で、縁辺《エンペン》部の書きもらしを除いて、実際も絵図と非常に似通った縄張り具合であることが判明したという。
ここ岩屋城は、本丸を中心に南側の太宰府政庁へ向かって走る3本の尾根に沿ってたくさんの腰曲輪が階段状に配置されていた。その尾根の一つが二ノ丸である。そのため太宰府政庁がある南側に大手があった:
今回の城攻めルートは、こちらの縄張図を参考に各部を巡ってきた。登城口までは駅前からタクシーで10分ほど[h]天気が気になったことが第一の理由。ちなみに復路は下りなので徒歩にした。車道脇をゆっくり歩いて駅前まで40分ほど。(当時1200円くらい)。岩屋城の戦いで討死した高橋紹運公をはじめとする勇士ら墓所は必見ながらも、その一人で二ノ丸下の砦を50人で守備していた萩尾大学の墓には、大雨で太宰府政庁跡へ向かう山道が通行止めのためお参りができなかった。機会があれば改めて巡ってきたい :
太宰府駅前 → (タクシーで四王寺山方面へ) → ①本丸登城口 → ②登城道(堀切跡) → ③本丸(甲ノ丸)跡 → ④「嗚呼壮烈岩屋城址」の碑 → ⑤腰曲輪跡 → ⑥櫓台跡 → ⑦二ノ丸(虚空蔵台)跡 → ⑧高橋紹運公と勇士らの墓所 → (四王寺山から下山) → ⑨浦之城跡 → 太宰府駅前
太宰府駅前からタクシーに乗って「岩屋城跡」と行き先を告げて、結構、急なカーブのある山道を上って行く途中に見かけた案内板:
岩屋城城址への入り口は四王寺山へ登る山道沿いにあった。この道路が本丸と二ノ丸を隔てていた:
①本丸登城口に建つ説明板と「岩屋城跡」の標柱:
岩屋城跡(本丸跡)
岩屋城は16世紀半ば(戦国時代)宝満城の支城として豊後大友氏の武将・高橋鑑種によって築かれた。同12年、彼は主家・大友宗麟に叛き城を追われ、代わって吉弘鎮理(後の名将・高橋紹運)が城主となった。紹運は天正14年(1586)、九州制覇を目指す島津5万の大軍を迎え撃ち、激戦十余日、秀吉の援軍到着を待たず玉砕し落城した。 太宰府市。
(句読点などを除き原文のまま)
まずは、ここにある階段から「甲ノ丸」と云われた本丸跡へ向かった。これは甲ノ丸の背後にあった②堀切跡で、この上の左手には二重堀が設けられていたようだが、この時は藪化のため確認できなかった。まさに堀底道が登城道であった:
さらに南へ折れた堀切に沿って登城道が本丸へ向かっていた:
こちらが岩屋城の③本丸(甲ノ丸)跡。太宰府市内を一望できる位置にあるが、かなり狭い郭だった。前述の絵図には「17間余、8間余」と記述されていることから廃城時は約31m☓約15mほどの規模であったと云う:
この郭の中には④「嗚呼壮烈岩屋城址」と彫られた石碑が建っていた。この石碑は高橋紹運公の家臣の子孫が建立したものだと云う:
天正6(1578)年に日向国の耳川で島津義弘が大友宗麟を痛破し、肥後島原で龍造寺隆信を討ち取ると、島津氏による北進の勢いがますます大きくなり、六年後の天正12(1584)年には薩摩・大隅・肥後・日向の四ヶ国を支配するに至り、さらに肥前・筑前・筑後まで触手をのばしはじめた。これに反大友氏を掲げる秋月・高橋入道宗仙らが加わって、大友宗麟は劣勢に陥る。
その中にあって大友氏の双璧と謳われた立花道雪と高橋紹運の働きで筑後を奪い返すまでに盛り返すも、天正13(1585)年9月に道雪が陣中で病没すると、宗麟自身の求心力低下もあいまって家中から離反するものが多くなった。そこで宗麟は、翌14(1585)年3月に大坂へ赴き、関白秀吉に臣従を誓って島津氏討伐を嘆願した[i]その際、高橋紹運とその嫡子で立花家の養子となった宗茂らの忠節に感動した秀吉が直参の大名に取り立てたと云う。。秀吉は島津氏に薩摩・大隅二国他を除いて全て手放すように通告するが、島津氏は下賤出身の秀吉に反発した。ときに秀吉は三河国の徳川家康と戦が始まりそうな状態であったため、すぐに島津氏を討伐できなかったこともあり、島津氏の北進は激しさを増して大友氏を一層猛烈に圧迫した。
しかし、その前途に立ちはだかったのが道雪亡きあとも忠義を尽くして主家を支え続けた高橋紹運と立花宗茂、そしてその弟の高橋統増《タカハシ・ムネマス》であった。紹運はここ岩屋城、宗茂は立花山城、そして統増は宝満山城にて島津勢を迎撃することとなった。
そして、ついに同14(1585)年7月、島津図書頭忠長と伊集院右衛門大夫忠棟を大将とした総勢5万もの大軍が、まずは岩屋城を攻めとるために太宰府政庁近くに布陣した。
こちらは本丸下の南側にある⑤腰曲輪跡。岩屋城の戦いでは、ここに立花山城から加勢として参陣していた吉田右京ら20数名が守備していた:
本丸跡から眺望は、生憎の天気のため霞んでいたが、それでも眼下に太宰府天満宮や太宰府政庁跡などを眺めることができた。まずは城址東側:
こちらは城址南側で、太宰府政庁跡を眺めることができた:
標高281mの場所にある⑥櫓台跡。本丸北側には4mほどの土塁があり、往時はここに櫓が建っていたとされる:
ここにあった櫓に高橋紹運公が立って指揮をとっていたが、最後はこの櫓の上で割腹したと云う:
こちらは櫓台跡から見下ろした本丸跡。細長く三角形をした狭い郭であるのがわかる:
本丸虎口あたりから二ノ丸(虚空蔵台)跡を見下ろしてみた。藪化してわかりづらいが、本丸との比高差は30mはあると思われる:
この後は本丸を下りて登城口へ戻り、車道を横切った西側にある二ノ丸跡へ向かった。
⑦二ノ丸(虚空蔵台)跡は車道から石段を下っていったところにある:
二ノ丸もまた狭く細長い郭であった。そして、この奥には⑧高橋紹運公と勇士らの墓所があった:
二ノ丸跡から比高差34mほどの本丸を見上げたところ。この辺りも複雑な地形によって、すぐに本丸の位置を把握できないところが、まさに堅城たる一因であろう:
それから二ノ丸跡に残されている高橋紹運公の胴塚[j]首塚は島津忠長の本陣が置かれた般若寺跡(現在の西鉄二日市駅近く)にあると云う。と、公と共に籠城し落城するまで死力を尽くして戦った勇士らの墓所をお参りしてから、今度は徒歩で下山し、西鉄太宰府駅へ向かった。
往時の岩屋城は前述の絵図に描かれた主要郭の他にも、現在の「岩屋谷磨崖石塔群」と呼ばれる辺りには、特に尾根と急崖を利用して複数の腰曲輪と堀切・竪堀が設けられていたと云われているが、残念ながら山岳を切り崩して通した現在の車道からは、かなり離れているので、その場所を見ることはできない。
こちらは、その車道脇の様子。右手には急崖が広がっていた:
麓あたりまで下りてくると⑨浦ノ城跡の碑が建っていた。観応4(1353)年に少弐《ショウニ》氏と菊池氏による攻防の舞台となった城であるが、昭和時代の宅地化で完全に消滅した城跡である:
岩屋城攻め (フォト集)
【参考情報】
- 日本の城探訪(岩屋城)
- 岩屋城跡に建っていた説明板
- タクジローの日本全国お城めぐり(福岡>筑前 岩屋城(太宰府市))
- 『城絵図が語る実像と虚像 〜岩屋城絵図をめぐって〜』(九州歴史資料館展示解説シート/PDF)
- 『福岡県中近世城館跡I〜筑前地域編1〜』(福岡県教育委員会)
- 週刊・日本の城<改訂版> (DeAGOSTINI刊行)
岩屋城の戦いと高橋紹運公の墓所
宝満山城・岩屋城の城督(城代)であった高橋紹運のもとに「薩摩軍きたる」という報はずいぶんと前から達していたようで、その時点で紹運自らが岩屋城に籠もり、関白秀吉が九州入りするまでの「時間稼ぎ」のために、5万もの大軍を一手に引き受けようという考えが固まっていたようだ。そのため二人の息子らの城の真ん中に位置し、支城のため城域は小さいながらも「小勢で守りやすく、大勢では攻めにくい」天然の要害である岩屋城を選び、そこで籠城に必要な準備を怠りなくすすめていた:
それ故に、立花山城の宗茂が家臣・十時摂津《トトキ・セッツ》を遣わし、「統増がいる宝満山へ退いて、ご籠城あるがよろしいと存ずる。」と勧め、さらに岩屋城代で腹心の一人である屋山中務《ヤヤマ・ナカツカサ》も「宗茂公のご諫言《カンゲン》もっともと存じます。当城は拙者が踏みとどまって防ぎ、叶わずは腹切って死に申す。」と説得したが、「たとえ薩摩の大軍が寄せてきても、儂が運命を限りに戦うならば14、5日は城を支え、寄せ手の3,000人を討ち取ることは可能であろう。島津勢がいかに鬼神と云えども、儂ら少数で3,000の人数を討ったとなれば、立花山の宗茂に至っては手強き奴と思うであろう。」と云って紹運は聞かなかった。
それを聞いた宗茂は立花山城から決死の援兵を募り、立花道雪の遺臣である吉田右京ら20余名が志願して、食料や弾薬を持って急ぎ岩屋城へ馳せ参じたと云う:
そして天正14(1586)年7月12日、ついに薩摩勢が岩屋城の麓へ押し寄せ、伊集院忠棟は観世音寺に、島津忠長は般若寺にそれぞれ本陣を置いた。この大軍は島津の本隊の他に、秋月・龍造寺・城井《キイ》・長野・千手《センジュ》・上原・原田・星野・門柱所など、豊後をのぞく筑紫地方の豪族全てが加勢していた。その大軍が駐屯していた太宰府政庁あたりは尺地《セキチ》の余地さえもなく、夜はこうこうと松明が焚かれて昼間のように明るかったと云う。
こちらは岩屋城跡から見下ろした、現代の観世音寺と太宰府政庁付近:
一方の岩屋城は、城内から女子や子供、老人や農民らを宝満山城へ退避させ、高橋紹運と重臣・屋山中務、福田民部、そして立花山からの加勢を加えた763名が籠城した。
本丸である甲ノ丸には高橋紹運が145名の直臣を指揮し、二ノ丸である虚空蔵台には福田民部少輔を大将として30数名、その南側にある大手城門には成冨左衛門以下50余名、さらに二ノ丸西南の城戸《キド》には家老であり、城代でもある屋山中務を大将として80余名、風呂谷口には土岐大隅と関内記ら10余名、東側にある水の手に伊藤惣右衛門ら60余名、秋月方の攻口には高橋越中ら30余名、百貫島西の山城戸は三原和泉入道紹心ら80余名、北の山城戸は弓削了意ら70余名、二重の櫓には萩尾隣可と萩尾大学ら30余名、立花山城からの援軍である吉田右京ら20余名が腰曲輪にそれぞれ配置された[k]以上は、筑前国福岡藩士で儒学者である貝原益軒が元禄元(1688)年に編纂した『筑前國続風土記』の一部を自己解釈した上で引用した。。
これは「岩屋城攻防戦(天正14年7月14〜27日)戦陣略図」(岩屋城址で配布していたパンフレットより):
寄せ手の大将の一人、島津忠長は大軍を以って岩屋城を陥落させるのは可能であるが、城中の士気が予想以上に高いことから味方の損害を憂慮して、まずは荘厳寺と云う僧を遣わし、降伏して岩屋城・宝満山城を空け渡すよう勧告した。
それに対して紹運は「関白殿下の家人となった今、岩屋城・宝満山城・立花山城は殿下の城であり、殿下の仰せによって守備している。主命を以って堅めている以上、守り通すのが武士の道である。」と云って追い返し、双方は決裂した。
決裂の翌日にあたる7月14日から激しい攻城戦が始まった。
高橋紹運ら岩屋城勢はよくよく防戦し、反対に寄せ手は連日、多大な損害を被った。しかし数十倍の大軍であり、次々と兵を繰り出して、その12日後の7月26日には外郭が突破された。ここで岩屋城勢は甲ノ丸と虚空蔵台に追い込まれることになるが、なおも激しく抵抗した。
そのとき、寄せ手から新納蔵人《ニイロ・クランド》なる者[l]一説に、島津義弘の右腕で「鬼武蔵」の異名を持つ勇将・新納忠元《ニイロ・タダモト》とも。この岩屋城の戦いでは義弘から軍監として派遣されていた。が矢止を乞うて大手門前まで馬で乗り出してきて口上した。「高橋紹運殿の主家である大友はひたすらに衰微の道をたどっているは明らかである。それはひとえに切支丹の邪宗を信じて、仏神をないがしろにし、神社仏閣を破壊する等の悪行の報いである。対する紹運殿ほどの武将がこの愚将と共に滅びるのは、まっこて惜しく存ずる。考えなおして降伏して欲しい。決して恥ではござらん。」と。
すると櫓の中から紹運自身が麻生外記《アソウ・ゲキ》と偽って返答した。「仰せの趣を紹運殿に申し渡すまでもござらん。総じて栄枯盛衰はこの世に生きる者には免れざることで、誰しもが知るところである。勢い尽き運衰《ウン・オトロ》うるによって志を変ずるのは弓矢とる武士の身の恥辱である。松寿千年保つとも、遂に枯死を免れず、人生は朝露のごとし。武士はただ名こそ惜しく思うもの。降伏するなど思いもよらぬ。」
その後も島津勢からかなり譲歩した条件で降伏勧告が出されたが、紹運は礼を持った返答を行い、とうとう最後の交渉も手切れとなった。島津義弘は秀吉の先遣隊である毛利・吉川・小早川と黒田官兵衛らが近いうちに後詰にくると云う情報を既に察知していたため、一刻も早く岩屋城を抜く必要があった。
そして早朝より始まった寄せ手の攻撃はこれまでとは異なり、味方の死者が堀切を埋め、その上を踏み歩いてでも攻め入らんとする壮絶な覚悟で猛攻を仕掛けてきた。こうなると多勢に無勢。倒しても倒しても寄せ手の攻撃は止むことはなく、大手門についで水の手も攻め破られ、守り手の勇士らがつぎつぎに討死する。福田民部、屋山中務も討ち取られ、三原紹心、萩尾隣可、萩尾大学、伊藤惣右衛門、土岐大隅、高橋越中、弓削了意らが此処かしこにて討ち死した。また立花より加勢の吉田右京らも残らず討死を遂げた。
櫓の上に立って情勢を見極めていた紹運は薙刀を持ち、数名の武者を左右に立てて甲ノ丸より打ち出して縦横に斬ってまわった。去れど寄せ手が、ついに甲ノ丸へ突入する気配をみせると、紹運は生存者が僅かとなった甲ノ丸へ戻り、「今は是迄ぞ」と櫓の上で切腹した。享年39。
辞世の句は:
屍《シカバネ》をば 岩屋の苔に埋《ウズ》みてぞ 雲井の空に 名をとどむべき
これより100年後の江戸時代は元禄元(1688)年に、筑前国福岡藩の儒学者・貝原益軒が編纂した『筑前國続風土記』の巻之二十四・古城古戦場(リンクはPDF)[m]本稿執筆時は福岡県の中村学園大学のサイトで現代語版を読むことができたが、現在は非公開の模様。改めて福岡県立図書館が公開している原文へのリンクに修正した。では、この岩屋城の戦いについて次のように締めくくっていた:
元亀元(1570)年に豊後よりこの城に移って十七年。主家の大友の威勢が衰え、麾下の諸将が皆大友に背く中、変わらず主君を支え続けた紹運は忠義深き士であり、武勇勝れて後れをとらず、終に節を守りて人生を全うした。
惣じて、岩屋の城中に籠もるところの士卒600余人は、誰一人も敵に降らず、皆戦死を遂げ、人臣の義を違へざるのは、ひとえに紹運の平時における情の深さによるものである。
高橋紹運公と勇士らの墓所は現在の二ノ丸跡にある。本丸跡から車道を渡って行くと案内板と石碑があった:
車道から降りていった二ノ丸跡に高橋紹運公胴塚と公碑銘、そしてそれを囲む勇士らの墓所が残っていた:
墓所中央にあるのが高橋紹運公の胴塚。公は岩屋城に火を付けることなく、敢えて自刃し自分の首を敵方に渡すことで、義を貫き玉砕戦を戦ったという証を遺した:
公の首級は、具足の引き合わせに付されていた一通の書とともに、麓の般若寺に本陣を置いて指揮していた寄せ手の大将の一人、島津忠長のもとに届けられた。書を披見すると、紹運より「此の度、降伏をすすめて頂いたが、それに従わなかったのはひとえに義によってである。了解していただきたい。」とあった。それを読んだ忠長は床几をおりて地面に正座し、「類まれなる勇将を殺してしまったものよ。この人と友になれたら、いかばかり嬉しいことであったろうに。弓矢とる身ほど恨めしいものはない。」と涙を流し、首級を丁重に弔ったと云う。現在、高橋紹運公の首塚と言われている場所が、西鉄二日市駅そばの般若寺跡近くにあるのだと云う[n]詳細は「筑紫野市指定文化財・高橋紹運首塚伝承地」(PDF)なるドキュメントが参考になる。。次に機会があれば是非とも訪問したい。
この戦で討死した輩の末裔が筑後国柳川藩の家人にあって、毎年七月の魂祭には、この岩屋城跡に燈籠を燃やし、亡きあとを弔うのが慣例となったと云う:
高橋紹運公の胴塚を囲むようにして、高橋家の勇士らの墓所があった。
こちらは高橋紹運の右腕であり、家老であり、そして岩屋城代でもあった屋山中務少輔の墓。この虚空蔵台の西南にある西の砦を守備した:
他の墓石に刻まれた文字が見えなかったため、特定はできないが、ここ岩屋城の戦いで紹運公と共に義を貫いて散っていった勇士たちである:
そして「岩屋城戦没者之碑」:
二ノ丸跡の脇から岩屋谷道の入口がある。この先に磨崖石塔群なる遺構があるようで、さらに降りていくと勇士の一人である、萩尾大学の墓所があるらしい。実際に降りてみたが、前日の大雨で泥濘み滑りやすくなっていたので断念した。こちらも機会あれば訪問したい:
この戦いで岩屋城は玉砕したが、寄せ手の島津勢もまた3000余人が討たれ、手負いとなると1500人余にのぼり、補給や補充といった軍備の立て直しが必要になった。そのような状況で島津勢は、岩屋城の東側にあり、紹運公の次男・統増と紹運公の正妻、そして筑紫広門の家臣らが籠っていた宝満山城を力攻めせずに計略をもって開城させたが、博多を望む立花山城に籠もっていた立花宗茂については、関白秀吉の援軍がすぐそこに迫っているため無理攻めはせずに、秋月種実らを残して陣所を引き払い帰国の途についた。8月24日のことである。そして8月26日には毛利三家と黒田官兵衛の先鋒隊が北九州の門司《モジ》に上陸し、すぐさま小倉城を陥落させると島津勢の与力であった諸城の大方がつぎつぎと降伏した。
その結果、翌年3月には秀吉本隊と蒲生氏郷らが豊前小倉に着到、巖石城をまたたくまに落とすと、島津勢の抵抗は虚しく、遂に降伏させるに至った。高橋紹運公による岩屋城玉砕戦は、島津家の九州統一の野望を打ち砕いた楔となったのである。
高橋紹運公と勇士らの墓所 (フォト集)
【参考情報】
- 二ノ丸跡入口に建っていた説明板
- 岩屋城跡で配布していたパンフレット『岩屋城[1586年] ー玉砕覚悟の籠城戦ー』
- 海音寺潮五郎『武将列伝 〜 江戸編』(文春文庫刊)
- 歴史上の人物の考察(立花宗茂異聞「高橋紹運」その弐)
- 『筑前國続風土記』の巻之二十四・古城古戦場(本稿執筆時は、中村学園大学HP【図書館>貝原益軒アーカイブ】)
- 童門冬二『小説・立花宗茂』(集英社文庫刊)
- Wikipedia(高橋紹運)
- Wikipedia(岩屋城の戦い)
参照
↑a | 大和朝廷が移した宮家の一つで、奈良・平安時代をとおして九州を治め、西国の防衛と外国との交渉の窓口とした役所である。 |
---|---|
↑b | のちに周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城といった七カ国の守護職を務めた戦国大名・大内義興の父である。 |
↑c | 大友氏庶流の一萬田氏の一族で、筑前高橋氏を継承し、主君・大友義鑑《オオトモ・ヨシアキ》の偏諱を受けて鑑種と改名した。 |
↑d | 鑑種の実兄・鑑相《アキザネ》の妻に、主人である大友義鎮(のちの大友宗麟)が横恋慕し、鑑相を誅殺して奪い取ったことに憤慨したという説あり。 |
↑e | 大友家内外から闘将と畏怖された戸次鑑連《ベッキ・アキツラ》、号して道雪。後世では立花道雪とも。大友家の三宿老の一人。 |
↑f | 実際には山中鹿介率いる旧尼子勢が出雲国に攻め込んだため、元就が九州撤退を決断した。 |
↑g | この時に高橋鎮種《タカハシ・シゲタネ》と改名した。 |
↑h | 天気が気になったことが第一の理由。ちなみに復路は下りなので徒歩にした。車道脇をゆっくり歩いて駅前まで40分ほど。 |
↑i | その際、高橋紹運とその嫡子で立花家の養子となった宗茂らの忠節に感動した秀吉が直参の大名に取り立てたと云う。 |
↑j | 首塚は島津忠長の本陣が置かれた般若寺跡(現在の西鉄二日市駅近く)にあると云う。 |
↑k | 以上は、筑前国福岡藩士で儒学者である貝原益軒が元禄元(1688)年に編纂した『筑前國続風土記』の一部を自己解釈した上で引用した。 |
↑l | 一説に、島津義弘の右腕で「鬼武蔵」の異名を持つ勇将・新納忠元《ニイロ・タダモト》とも。この岩屋城の戦いでは義弘から軍監として派遣されていた。 |
↑m | 本稿執筆時は福岡県の中村学園大学のサイトで現代語版を読むことができたが、現在は非公開の模様。改めて福岡県立図書館が公開している原文へのリンクに修正した。 |
↑n | 詳細は「筑紫野市指定文化財・高橋紹運首塚伝承地」(PDF)なるドキュメントが参考になる。 |
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