城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

月別: 2018年3月

柳川城 − Yanagawa Castle

城の内外に無数の堀を持つ柳川城の本丸には、かっては五層五階の天守閣が建っていた

筑後平野が有明海へ臨む地に、筑後川や沖端川(おきのはたがわ)、塩塚川(しおづかかわ)などの水を利用して、永禄年間(1558〜1569)に蒲池鑑盛(かまち・あきもり)[a]名の「鑑」の字は大友義鑑(のちの宗麟)からの偏諱である。忠義に篤く、一度没落した幼少の龍造寺隆信を保護した。主家の大友氏に忠節を尽くし、天正6(1578)年の耳川の大敗では宗麟を逃がすために討死した。が、それまでの砦規模から本格的な天然の要害に造作した柳川城は、現在の福岡県柳川市本城町にある。筑後南部の戦国大名で大友氏の幕閣にあった蒲池氏の本城として、水の利を十分に活かしたこの平城は、九州でも屈指の堅城で難攻不落の水城として知られていた[b]水堀に設けられた水門の扉を開閉することによって、城内の堀の水位が増減できるようなメカニズムを導入していた。。実際、鑑盛の次男・蒲池鎮漣(かまち・しげなみ)は、天正8(1580)年に龍造寺隆信と鍋島直茂ら2万の軍勢を相手に数カ月に及ぶ籠城戦に勝利し、柳川城攻略を挫折させた[c]しかし翌年には龍造寺隆信から再三の和議と接待の申し入れがあり、当初は固辞していたが、遂に断れずに向かった佐嘉城近くで襲撃され自害、さらに柳川にいる一族もまた皆殺しとなり、蒲池一族は滅亡した。。さらに龍造寺家の支配下にあった時には、大友家で筑後攻略を担当していた戸次道雪と高橋紹運らの猛攻を受けるも一指だも染め得なかった[d]戸次(立花)道雪公は柳川城攻めの最中に高良山の陣中で没した。天正13年9月11日、享年73。。その後、天正14(1583)年の関白秀吉による九州仕置では岩屋城の戦いや立花山城の戦いで功のあった立花宗茂が筑後13万石の柳川城主となり、主家の大友氏から独立して秀吉に仕えるが、秀吉死後の関ヶ原の戦いで敗れ、在城わずか十三年にして改易となり、代わって石田三成捕縛の功により、田中吉政が筑後一国32万石余の領主として入城すると、石垣を高くして天守閣を築いた。

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a 名の「鑑」の字は大友義鑑(のちの宗麟)からの偏諱である。忠義に篤く、一度没落した幼少の龍造寺隆信を保護した。主家の大友氏に忠節を尽くし、天正6(1578)年の耳川の大敗では宗麟を逃がすために討死した。
b 水堀に設けられた水門の扉を開閉することによって、城内の堀の水位が増減できるようなメカニズムを導入していた。
c しかし翌年には龍造寺隆信から再三の和議と接待の申し入れがあり、当初は固辞していたが、遂に断れずに向かった佐嘉城近くで襲撃され自害、さらに柳川にいる一族もまた皆殺しとなり、蒲池一族は滅亡した。
d 戸次(立花)道雪公は柳川城攻めの最中に高良山の陣中で没した。天正13年9月11日、享年73。

岩屋城 − Iwaya Castle

衰退する大友家を支えた高橋紹運は岩屋城の甲ノ丸に立ち、島津軍と激しい攻防戦を繰り広げた

福岡県太宰府市の観世音寺(かんぜおんじ)にあった岩屋城は、太宰府政庁[a]大和朝廷が移した宮家の一つで、奈良・平安時代をとおして九州を治め、西国の防衛と外国との交渉の窓口とした役所である。の背後にそびえる標高410mほどの四王寺山(しおうじやま)中腹にある急峻な岩屋山に築かれていた山城で、立花山城や宝満山(ほうまんやま)城とともに筑前御笠郡支配の要衝として、豊後国(ぶんごのくに)を拠点とする大友氏が城督を置いていた城郭である。その始まりは文明10(1478)年に周防国(すおうのくに)守護職の大内政弘[b]のちに周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城といった七カ国の守護職を務めた戦国大名・大内義興の父である。が家臣を在城させていたのを初見とし、大内氏衰退後は大友氏の家臣・高橋鑑種(たかはし・あきたね)[c]大友氏庶流の一萬田氏の一族で、筑前高橋氏を継承し、主君・大友義鑑(おおとも・よしあき)の偏諱を受けて鑑種(あきたね)と改名した。が宝満山城の支城とした。しかし鑑種は、永禄4(1561)年に同じ筑前の秋月種実(あきづき・たねざね)、肥前佐賀の龍造寺隆信としめし合わせて大友義鎮(おおとも・よししげ)に反旗を翻した[d]鑑種の実兄・鑑相(あきざね)の妻に、主人である大友義鎮(のちの大友宗麟)が横恋慕し、鑑相を誅殺して奪い取ったことに憤慨したという説あり。。そして大友の軍勢を引きつけておいた隙に中国から毛利元就の大軍を招き入れたが、永禄10(1567)年に戸次道雪(べっき・どうせつ)[e]大友家内外から闘将と畏怖された戸次鑑連(べっき・あきつら)、号して道雪。後世では立花道雪とも。大友家の三宿老の一人。が毛利軍を斬り崩し調略を加えて退去させた[f]実際には山中鹿介率いる旧尼子勢が出雲国に攻め込んだため、元就が九州撤退を決断した。。鑑種は降伏して助命され入道して宗仙(そうせん)を名乗っていたが、不穏な空気をよんだ義鎮が同じ一族の吉弘鑑理(よしひろ・あきまさ)の子・鎮理(しげまさ)に高橋家を継がせて[g]この時に高橋鎮種(たかはし・しげたね)と改名した。対抗した。彼がのちに「忠義鎮西一」と呼ばれた高橋紹運である。

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a 大和朝廷が移した宮家の一つで、奈良・平安時代をとおして九州を治め、西国の防衛と外国との交渉の窓口とした役所である。
b のちに周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城といった七カ国の守護職を務めた戦国大名・大内義興の父である。
c 大友氏庶流の一萬田氏の一族で、筑前高橋氏を継承し、主君・大友義鑑(おおとも・よしあき)の偏諱を受けて鑑種(あきたね)と改名した。
d 鑑種の実兄・鑑相(あきざね)の妻に、主人である大友義鎮(のちの大友宗麟)が横恋慕し、鑑相を誅殺して奪い取ったことに憤慨したという説あり。
e 大友家内外から闘将と畏怖された戸次鑑連(べっき・あきつら)、号して道雪。後世では立花道雪とも。大友家の三宿老の一人。
f 実際には山中鹿介率いる旧尼子勢が出雲国に攻め込んだため、元就が九州撤退を決断した。
g この時に高橋鎮種(たかはし・しげたね)と改名した。

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