江戸幕府が箱館開港を機に築いた五稜郭は西欧の城塞都市に似た稜堡式城塞だった

幕末の箱館開港を機に、それまで箱館山の麓に置かれていた箱館御役所[a]箱館奉行所の前身。の移転先として築かれ、当時ヨーロッパ各地の城塞都市で使われていた稜堡(りょうほ)式城郭を採用し、五つの突角が星形の五角形状に配置され、土塁と水堀が巡らされていることから五稜郭と呼ばれた北海道で唯一の国指定特別史跡は、現在は函館市五稜郭町にある五稜郭公園として観光の名所となっている。それまでの御役所は箱館湾そばにあって、箱館山から見下ろすと全てが丸見えといった環境にあったため、湾内にいる軍艦からの砲撃から射程外となる場所へ移設する必要があった。そこで当時の諸術調所(しょじゅつ・しらべしょ)教授で、蘭学者でもあった武田斐三郎成章(たけだ・あやさぶろう・なりあき)によって設計された城郭は、安政4(1857)年から7年をかけて竣工、主に従来の櫓や土塀ではなく、砲弾の緩衝帯となるべく幅広く高さのある土塁で庁舎他20数棟の建物を覆い隠していたと云う。そして慶応3(1867)年の大政奉還後には明治政府によって箱館府が設置されたが、その翌年の明治元(1868)年10月には榎本武揚(えのもと・たけあき)率いる旧幕府軍が五稜郭を無血占拠して「蝦夷共和国」を樹立し、約半年間に及ぶ箱館戦争が始まった。

一昨々年(さきおととし)は平成27(2015)年のお盆休みに実家へ帰省して、そのついでに片道4時間ほどかけて日帰りの函館旅行へ。もちろん目的は五稜郭攻め。札幌駅から06:30amの特急に乗って函館に着いたのが10:00amすぎ。そこから函館市電で五稜郭公園駅まで20分、さらに駅から徒歩で15分ほど。五稜郭公園の手前には五稜郭タワーがあるが、今回は後回しにした。まずは早めのお昼を済ませてから公園へ向かった。

今回の城攻めルートは次のとおり。大手口にあたる公園入口の表門から城内に入って、復元された箱館奉行所を見学し(有料)、搦手にあたる裏門から一度、城外へ出て、再び城内に戻って稜堡を半周し表門から五稜郭タワーへ移動した:

①一の橋 → ②半月堡 → ③二の橋 → ④表門跡 → ⑤門番所跡 → ⑥見隠土塁 → ⑦稜堡・本塁 → ⑧土蔵 → ⑨箱館奉行所 → ⑩仮牢跡・公事人腰掛跡 → ⑪近中長屋跡、他 → ⑫大砲を運んだ坂の跡 → ⑬見隠土塁 → ⑭裏門橋 → ⑮役宅跡 → ⑯稜堡・本塁 → ・・・ → ⑰五稜郭タワー

こちらが Google Earth 3D を基にした俯瞰図と今回の城攻めルート:

日本初の西洋流の築城法で築かれた五稜郭は、徳川幕府によって蝦夷地の管理と箱館防衛を目的として築かれた城塞であった

五稜郭公園の俯瞰図(Google Earthより)

五つの角に石垣と土塁からなる本塁(ほんるい)を配置し、その外側にも同様の構造を持つ低塁(ているい)を巡らせて、一番外側には水堀を配置した。本来は全ての稜堡と稜堡の間に設ける予定であった半月堡(はんげっほ)は、予算の都合で南側にのみ築かれた。さらに城内3ヶ所にある虎口には内部が見透かされないように見隠土塁(みかくし・どるい)がそれぞれ築かれていた:

残念ながら、星形をした城郭の全体像は、やはり五稜郭タワーの展望台から眺めないと分からないだろう

城攻めルート(コメント付き)

五稜郭を出たあとは、平成18(2006)年に新たに開業された五稜郭タワーに上って展望台(約90mと約86m)から五稜郭を見下ろす感じで眺めてきた。やはり特徴ある城郭全体を俯瞰するにはタワーに上がる必要あるが、混雑する中を行列することは必至なので:O、先に空いているときに切符(大人840円/当時)を購入しておいた方が良い。


まずは一の橋前に建つ城址の碑と「特別史跡・五稜郭跡」のレリーフ。五稜郭は、安政元(1854)年の日米和親条約によって箱館が開港した際、それまで箱館山の麓に設けられていた箱館奉行所をいわゆる砲撃戦から防御するために築かれた「城塞」であった:

昭和27(1952)年3月29日に国指定の特別史跡になった

「特別史跡・五稜郭跡」の碑

往時、郭内には箱館奉行所の他に20戸もの建物があったらしい

特別史跡・五稜郭跡のレリーフ(拡大版)

一の橋は城下から大手口へ向かう途中にある橋で、大手口を守備する半月堡に架かっている:

手前が城下、橋を渡った先が半月堡で守備された大手口となる

一の橋

一の橋を渡るとすぐに②半月堡(はんげっほ)がある。その石垣の上から二段目に、「武者返し」と呼ばれる日本古来からある刎ね出しを持つのが特徴で、外部からの侵入を防ぐ構造になっている[b]自分は、この刎ね出しを人吉城で初めて見た。。まさに五稜郭は西洋風の城に和風の技術が融合した城郭であった:

「武者返し」または「忍び返し」とも呼ばれる刎ね出しを持つ石垣が特徴的である

半月堡石垣(拡大版)

この半月堡は西洋式土塁に三角形をした一種の堡塁(防御陣地)で、馬出塁(うまだし・るい)とも。郭内に入る大手口を守備するために設けられていたもので、設計時には五つの稜堡の間にそれぞれ設置することになっていたが、工事規模の縮小などの理由から大手口側のみ造られることとなった:

大手口の前に設けられ、刎ね出し石垣の上が半月堡となっている

刎ね出しのある石垣

設計図には半月堡が五ヶ所にあった

初度設計図

こちらは半月堡の南側上面先端部分。ちなみに北側は土塁になっていた:

半月堡の下には堀があり、その外側に土塁と枝堀があった

半月堡の頂点部分

刎ね出し石垣の上から見たところ

半月堡の頂点部分

半月堡から郭内にはいるために大手口から水堀である本堀に架かった③二の橋を渡る:

手前の大手口から五稜郭の周囲を巡る水堀に架かった橋である

大手口と二の橋

そして、こちらが本堀:

右手が半月堡で、そこには貸しボート屋があり、水堀でボートを楽しめるようだ

本堀

二の橋を渡って低塁を過ぎた先に門が建つ④表門跡がある。ちなみに、郭内にある箱館奉行所は平成22(2010)年に復元された:

郭内に入る際に通過する表門跡

表門

ここで郭内に入る前に、表門跡の周辺にある石垣や土塁を見ることにした:

郭内への出入口となる南西側の本塁石垣は他の石垣よりも高く、上部には刎ね出しが設けられている

表門跡付近の石垣と空堀(拡大版)

さらに稜堡の方まで足をのばしてみると、その脇あたりに矩形形をした空堀があった:

稜堡の脇には、このような小さな空堀(往時は水堀?)が設けられていた

稜堡石垣と空堀

稜堡から二の橋と本堀、そして半月堡を眺めたところ:

本堀と二の橋、そして左上の半月堡の上に見える白い塔が五稜郭タワー

稜堡のある低塁からみた南側

その先に見えるアンテナは北海道警察函館方面本部のもの

稜堡のある低塁からみた南側(コメント付き)

それから表門跡まで戻って郭内へ。こちらは⑤門番所跡。五稜郭には虎口が3ヶ所あり、それぞれ本塁と門が設置され、その内側には門番所があった:

6畳と5畳半の二部屋と、土間・縁側の間取りで、外に便所があった

門番所跡

こちらが虎口付近。左手が見隠土塁、右手が稜堡である:

城内に3つあるうち大手口がある南側の虎口である

虎口付近

そして虎口の前にど〜んとそびえる石垣が⑥見隠土塁(みかくし・どるい)。虎口をとおして郭内を見透かされないようにするための高石垣である[c]日本では古来から「蔀(しとみ)」と呼ばれていた。自分は蔀を新府城の本丸跡で初めて見た。

郭の出入口には郭内が見えないように見隠し塁が築かれていた

見隠土塁(拡大版)

ここで稜堡にのぼって、実際に目隠しの役割を果たしているのか確認してみた。ちょっと桜の木やらが多いのでなんとも言えないけど:|、たしかに虎口からは奉行所を含めた郭内が隠されていた:

郭内が見えないように築かれた見隠土塁と、その奥に少し見えているのが復元された箱館奉行所

見隠土塁と郭内(拡大版)

ついでなので少し⑦稜堡・本塁の上を歩いてみた。完全に平坦だった:

本塁は外側にあり、内側が稜堡である (正面に五稜郭タワーが見える)

本塁と稜堡

いったん稜堡から下りて郭内へ。まずは元治元(1864)年の箱館御役所開設と同年代に建設された⑧土蔵。明治4(1871)年の廃城後に郭内にあった建物のほとんどが解体されたが、それを免れて現在に唯一残る遺構となっている:

残っていたのは板蔵だったが、往時は土蔵だったことが現在の呼称の由縁

土蔵

その後は陸軍省所管となり、大正時代に函館区に無償貸与され、大正3(1914)年から公園の一部として開放された。その後、老朽化や破損が進行したため昭和47(1972)年に解体工事が実施された。その工事前は「兵糧庫」としての板蔵であったが、築城当時の目論見図には「土蔵」と記されていたことから、平成の修理時に土蔵造りとなった。中を見学することができ、五稜郭や函館にゆかりある史料が展示されていた。

これは函館市のホームページに掲載されていた史料の一つ、「五稜郭跡内の建物遺構配置図」。緑色の付属建物の一つに土蔵がある:

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こちらは土蔵前に展示されていた大砲で、箱館戦争の時に旧幕府軍と新政府軍がそれぞれ使用していたもの:

ともに明治元(1868)年の箱館戦争で使われたものらしい

昭和になって発見された大砲

奥にあるのが「ブラッケリー砲」(1865年イギリス製)で射程は推定1,000m。箱館湾に侵攻してきた新政府軍を砲撃する際に使用されたものらしい。手前が「クルップ砲」(1860年ドイツ製)で射程は推定3,000m。旧幕府軍の軍艦・蟠竜丸(ばんりゅうまる)[d]もともとはイギリスのビクトリア王から譲与された王室専用のヨット(蒸気船)であって軍艦ではない。に撃沈された新政府軍の軍艦・朝陽丸(ちょうようまる)の艦載砲と云われている。

また郭内には土塁も残っていた:

郭内に残る土塁で、向こうに見えるのが復元された箱館奉行所

土塁

郭内に残る土塁で、向こうに見えるのが稜堡

土塁

そして平成22(2010)年に140年の時を超えて復元された⑨箱館奉行所。屋根の棟に設けられた太鼓櫓が印象的だった:

平成18(2006)年から4年をかけて古写真や文献史料、発掘調査結果等のデータを基に忠実に復元整備された建物である

箱館奉行所(拡大版)

こちらも函館市のホームページに掲載されていた「箱館奉行所復元立面図」:

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箱館奉行所(前・箱館御役所)は、安政元(1854)年の日米和親条約の箱館開港[e]他に南伊豆の下田港も開港された。により設置された江戸幕府の役所である。箱館戦争後は、明治4(1871)年に開拓使によって奉行所庁舎を含むほとんどの建物が解体された。

五稜郭内にあった20数棟の付属建物は、この奉行所を中心に配置されていた

箱館奉行所(拡大版)

現在復元されているのは往時の奉行所庁舎全体のおよそ1/3(約1,000㎡)であり、その一部は平面復元とされている部分もあった。こちらも函館市のホームページに掲載されていた「復元対象範囲」の図。なお、五稜郭内庁舎の平面図の実物は函館市中央図書館に保存されているのだとか:

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屋根の中央に太鼓櫓を配置した木造和風建築である奉行所は元治元(1864)年に完成し、その七年後に解体され、実に140年ぶりに、その姿が復元された。鬼瓦は徳川家紋である葵御紋。奉行所内も公開されていた(大人500円/当時):

木造平屋建(太鼓櫓は五層)、桟瓦葺き(約38,000枚)の屋根、高さは約12m、太鼓櫓を含めると16.5mの規模を持つ

箱館奉行所の玄関(拡大版)

中庭と平面復元部分、軒先、そして格子窓:

往時の1/3の規模が復元されているが、それ以外は平面復元となっている

中庭と平面復元部分(未復元)

往時の設計図と全国から結集した宮大工ら職人によって復元された

格子窓

この後は、実際に復元された奉行所の内部を観てきた。入口から玄関に入り、靴を脱いで、まずは幕末の奉行所を忠実に再現した「再現ゾーン」へ。こちらは畳廊下と庭。庭の中央にある蝦夷アカマツは樹齢150年を越えるのだとか:

大広間に沿って長い畳が敷かれていた廊下

畳廊下

畳廊下に面した庭で、大広間に接する部分だけ塀に囲まれていた

そして襖(ふすま)を開け放つと72畳の広さになる大広間。手前から四之間、参之間、弐之間、壹之間と4つの部屋がそれぞれ4枚の無地の襖で仕切られていた:

四之間、参之間、弐之間、壹之間と連なる合計72畳の大広間で、主に奉行の執務室として使われた

復元された大広間(拡大版)

各間には床の間も設けられ、有名な詩書(複製)が書かれた掛け軸を見ることができた。
これは榎本武揚が箱館戦争に敗れ、東京へ護送される際の心境を詠んだもの[f]榎本の書の大半は晩年のものが多く、このように箱館戦争に関するものは殆ど残っていないらしい。やはり敗軍の将という立場を偲んだものだろうか。

箱館戦争で敗北し降伏したのち、二年半投獄されていた

詩書・榎本武揚・筆

壹之間は箱館奉行が接見に使用した部屋で、床の間には二代目の箱館奉行・堀織部正利煕(ほり・おりべのしょう・としひろ)の書が掛けられていた:

二代目の箱館奉行で、五稜郭の築造が始まった頃に揮毫されたもの

書・堀利煕・筆(複製)

大広間の奥にある表座敷(奉行の執務室)。ここには最後の箱館奉行・杉浦兵庫頭誠の書が掛けられていた:

ここには最後の箱館奉行杉浦兵庫頭誠の書が掛けられていた

表座敷の床の間

こちらは太鼓櫓を下から見上げたところ。現在は置かれていないが、この櫓には時報のための太鼓が置かれていた:

太鼓櫓の内部を下から見上げたところ

太鼓櫓の内部

太鼓櫓に置かれて、時報・招集号令などに利用していた

太鼓(寄贈品)

中庭を挟んだ部屋には他にも「歴史発見ゾーン」や「建築復元ゾーン」など幾つかの見学コーナがあった。
このあとは内玄関から外に出て平面復元エリアへ。向こう側に砂利の部分が見えるが、そこには御白洲[g]江戸時代の奉行所など訴訟機関における法廷が置かれていた場所。があった:

実物で復元されたのは全体の1/3で、それ以外は平面復元となっている

平面復元エリア(拡大版)

次は奉行所の隣りにある⑩仮牢(かりろう)跡・公事人腰掛(くじにん・こしかけ)、そして板蔵(いたくら)跡へ。仮牢は罪人を一時的に勾置するための牢屋で、公事人腰掛は裁判や訴訟のために来訪した者の控え場所となる建物があった。板蔵は奉行所の裁きに関する記録や物品を保管していた建物である:

ここも平面復元として展示されていた

仮牢跡・公事人腰掛跡・板蔵跡

これらの隣にあるのが⑪近中長屋(きんじゅう・ながや)徒中番大部屋(かちなかばん・おおべや)給人長屋(きゅうにん・ながや)、そして湯遣所(ゆつかいどころ)[h]それぞれの配置(レイアウト)は近くに建っている説明板を見たほうが良いので、ここでは詳細は割愛する :D。それぞれ箱館奉行に仕える近習、徒士(かち)・中番、そして給人が居住していた建物と土間・台所に相当する建物があった:

箱館奉行所に務める近習らが生活していた場所とされる

近中長屋跡・徒中番大部屋跡・給人長屋跡・湯遣所跡

そして背後に見える稜堡に向かっていくと⑫大砲を運んだ坂がある。稜堡の上に大砲を運ぶ際に使用したようで、箱館戦争の時に追加で築かれたとされている:

箱館戦争の時に、五ヶ所の稜堡にそれぞれ設けられたとされる

大砲を運ぶための坂

箱館戦争の時にそれぞれ設けられた

箱館戦争時に追加された坂

江戸幕府崩壊後の明治元(1868)年8月、勝海舟からの命令[i]江戸無血開城後、軍艦奉行の勝海舟は軍艦を新政府へ引き渡すように榎本武揚に要求していた。をふりきって品川沖を出帆した榎本武揚[j]江戸生まれで長崎海軍伝習所出身。旧幕府の軍監並で開陽丸艦長。が率いる開陽丸(かいようまる)など軍艦4隻、咸臨丸(かんりんまる)など輸送船4隻の合計8隻に乗り込んだ旧幕府脱走軍2000人は、同年10月に仙台で桑名藩主・松平定敬(まつだいら・さだあき)、旧幕臣の大鳥圭介、新選組副長の土方歳三らを加えて蝦夷地の鷲ノ木(わしのき)へ到着した。ここで戊辰戦争の最後の戦いとなる箱館戦争の幕が切って落とされ、旧幕府脱走軍は数手に分かれて五稜郭を目指し、10月26日には五稜郭に無血入城[k]実際には新政府軍が五稜郭を放棄した。するに至った。この後は、松前や江差方面も旧幕府脱走軍によって占拠されることになり、同年12月15日には榎本武揚を総統とする「蝦夷共和国」樹立が宣言された:

アイヌ語で「湾の端」という地に館を築いて、形が箱に似ていることから「箱館」と呼ばれるようになった

現在の函館(Google Earthより)

箱館湾開戦で軍艦の多くを失った旧幕府軍は五稜郭に籠もって最後の抵抗をした

箱館戦争の激戦地(コメント付き)

しかし明治2(1869)年4月に乙部に上陸した黒田清隆率いる新政府軍8000人が反撃を開始、蝦夷共和国側はたのみであった開陽丸を箱館湾海戦で失うと、次第に新政府軍の兵力・火力に圧されて連戦連敗となった。まもなく箱館山の麓に築かれていた蝦夷共和国側の最大の砦である弁天台場の大部分が壊滅、五稜郭から救援に向かった土方歳三は一本木関門(いっぽんぎ・かんもん)を通り、異国橋あたりで銃撃にあって討死した:

弁天岬に設けられ、24門の大砲が備えられた共和国側の拠点だった

弁天台場の古写真(拡大版)

一時は箱館湾内で新政府軍の軍艦・朝陽丸(ちょうようまる)を共和国側の播龍丸(ばんりゅうまる)が沈没させることで優勢になるやに見えたが、旗艦であり浮き砲台となった回天丸も焼かれて箱館湾内は新政府軍が完全に制圧した。さらに五稜郭の北東方向には東照宮を守備するために急造した四稜郭[l]五稜郭の支城とも。四つの堡塁を持ち、空堀に囲まれた砦で、四つの堡塁には砲座が設けられていた。も僅か半日で陥落し、5月16日には千代ヶ岡(ちよがおか)陣屋が壊滅状態で新政府軍の手におちると、共和国側の敗北が決定的となった。
そして5月18日には五稜郭に籠城していた榎本武揚をはじめとする共和国側が降伏し、七ヶ月にも及んだ箱館戦争が終結し、五稜郭は新政府軍に接収された。

なお、共和国側の幕僚13人の中でただ一人討死した新選組『鬼の副長』土方歳三の遺体は五稜郭に運ばれて郭内のいずこかに埋葬され、現在でも静かに眠っている。


このあとは、もう一つの虎口から裏門跡へ向かった。こちらは、その裏門側の虎口前に置かれた⑬見隠土塁

この辺りが裏門跡になる

見隠土塁

この辺りが裏門跡になる

見隠土塁

裏門跡を抜けて⑭裏門橋へ:

五稜郭の頂点側にある虎口から城外に向かう唯一の橋である

裏門橋

裏門橋の上から眺めた本堀と稜堡・本塁と石垣。築城当時、裏門側の石垣が足りなくなり、近くの亀田川から持ってきた石を野面積みした状態だった:

裏門側は亀田川からとってきた石を野面積みした状態だった

裏門側の本掘(水堀)

裏門側は亀田川からとってきた石を野面積みした状態だった

裏門側の本掘(水堀)

裏門橋を出て直ぐの場所が⑮役宅跡。五稜郭の築城と前後して、その北側には奉行所に務める役人の居住宅が⑯軒建てられた。五稜郭内には箱館奉行とその家族のみ居住でき、それ以外の役人は郭外に居住した。現在は宅地化されて遺構は残っていない:

箱館奉行以外の役人が住んでいた役宅が50軒近く建っていた

役宅跡

このあとは再び郭内に入って稜堡の上に登ることにした。こちらの⑯稜堡・本塁にも空堀が設けられていた:

こちらには長い空堀が設けられていた

裏門近くの稜堡

長い空堀が設けられていた

裏門近くの稜堡

こちらが稜堡の上面:

郭内を覆い隠すように建っていた稜堡

稜堡上面

箱館戦争の時には、この上に大砲が並べられて箱館湾へ向けて放たれた

稜堡上面

郭内を覆い隠すように建っていた稜堡

稜堡上面

稜堡の上から五稜郭タワーと本堀を眺めたところ。その先に見える雲がかかったところが函館山である:

その先には雲がかかっているが函館山・函館湾方面である

稜堡からみた本堀と五稜郭タワー

本塁もまたかなりの高さを誇っていた:

稜堡や本塁の周囲には桜の木が植えられていた

本塁

郭内からみた本塁:

この高さだと二階建程度の建物ならば外部からすっぽり見えなくなる

郭内から見た稜堡

最後に⑰五稜郭タワーの展望2階に展示されていた「五稜郭復元模型」(1/250スケール):

五稜郭タワーの展望台に展示されていた1/250スケールの模型

五稜郭復元模型(拡大版)

See Also五稜郭攻め (フォト集)

【参考情報】

参照

参照
a 箱館奉行所の前身。
b 自分は、この刎ね出しを人吉城で初めて見た。
c 日本では古来から「蔀(しとみ)」と呼ばれていた。自分は蔀を新府城の本丸跡で初めて見た。
d もともとはイギリスのビクトリア王から譲与された王室専用のヨット(蒸気船)であって軍艦ではない。
e 他に南伊豆の下田港も開港された。
f 榎本の書の大半は晩年のものが多く、このように箱館戦争に関するものは殆ど残っていないらしい。やはり敗軍の将という立場を偲んだものだろうか。
g 江戸時代の奉行所など訴訟機関における法廷が置かれていた場所。
h それぞれの配置(レイアウト)は近くに建っている説明板を見たほうが良いので、ここでは詳細は割愛する :D
i 江戸無血開城後、軍艦奉行の勝海舟は軍艦を新政府へ引き渡すように榎本武揚に要求していた。
j 江戸生まれで長崎海軍伝習所出身。旧幕府の軍監並で開陽丸艦長。
k 実際には新政府軍が五稜郭を放棄した。
l 五稜郭の支城とも。四つの堡塁を持ち、空堀に囲まれた砦で、四つの堡塁には砲座が設けられていた。