津久井城の本丸にあたる本城曲輪は標高375mの山頂に土塁で囲まれた狭い郭であった

北方は武蔵国、西方は甲斐国に接し相模国西北部に位置する標高532mほどの津久井山[a]この地名は永正7(1510)年)の関東管領・上杉顕定書状写から。それ以前は奥三保(おくみほ)と呼ばれていた。に築かれていた山城の津久井城は、八王子街道[b]現在の八王子から厚木・伊勢原、そして旧東海道を結ぶ街道。と甲州街道[c]江戸方面から多摩丘陵を通り、津久井方面を横断して甲斐を結ぶ街道。が交差する津久井往還に近く、古来から相模川を利用した交通の要衝の地に建っていた。現在は神奈川県相模原市緑区にある県立津久井湖城山公園として、城山ダムと山城を利用した憩いの場になっている津久井は「築井」とも呼ばれ、鎌倉時代後期には幕府の直轄地であり、中世の早い時期から経財と軍事の重要拠点であったとされ、その後は享徳3(1454)年から始まった享徳の乱、長尾景春の乱、そして後に小田原北条氏の祖となる伊勢新九郎[d]伊勢宗瑞(いせ・そうずい)または早雲庵宗瑞(そううんあん・そうずい)とも。のちの北条早雲で、小田原北条家の始祖となる。が相模国に進出した頃にも、その舞台の一つになった。特に太田道灌とその弟・資忠らは津久井山に籠もった景春勢を攻めたり、伊勢新九郎と敵対した扇ヶ谷上杉朝良と三浦道寸(みうら・どうすん)らが津久井山を攻めたと云った記録が残っている。そして相模一国が小田原北条二代目の氏綱によって掌握された頃には既に津久井城が存在し、内藤氏なる一族が城主を務めていたとされる。三代目の氏康の頃には津久井衆が組織されて小田原城に対する支城ネットワークの「ハブ」となり、甲斐武田氏との国境を監視・守備する需要な役割を果たしていたと云う。

一昨々年(さきおととし)は、平成27(2015)年の暑い初夏の週末に攻めてきた津久井城跡。自宅から車で行ける距離にあり、帰りには城跡近くある三増峠合戦場跡をどうしても訪れたかったので、頑張って早起きして駐車場完備[e]37台も止めることができる立派な駐車場だった。の根古屋地区にある城山公園パークセンターまで:

根古屋地区の他にも水の苑地(62台)、花の苑地(94台)と設備が充実していた

県立津久井湖城山公園の碑(根古屋地区)

公園入口と、その背後にある津久井城跡の遠景。城山と呼ばれている津久井山は標高375mほど:

この先に「パークセンター」と云う公園管理事務所兼展示施設がある

津久井城跡の遠景

この日、10:00am過ぎに駐車場に到着した時には既に10数台止まっていた。夏に攻める山城は気温と汗が大敵であり、加えて藪蚊対策が必要なのでしっかりと準備して城攻めを開始。

こちらが公園に設置されていた案内図。といっても、これは山頂の本城曲輪跡に建っていたものなので、まずは麓にあるパークセンターへ立ち寄って「県立津久井湖城山公園ガイドマップ・城山散策絵図」を入手する必要がある:

これは山頂の本城曲輪跡に置いてあった案内図で、麓のパークセンターではガイドマップを入手する

津久井城案内図(拡大版)

現在、公園の一部として残されている津久井城跡の遺構の多くは小田原北条氏(内藤氏と津久井衆)によって整備拡張されたもの。一説に最初の築城は、鎌倉時代に三浦半島一帯に勢力を誇っていた三浦氏の一族である津久井氏によるものとされているが、鎌倉時代に津久井氏の勢力が現在の地域まで及んでいたとは考えづらく、加えて古文書に「津久井(築井)」の文字が現れるのはそれよりもずっと先のことである。

こちらはパークセンターに展示されていた小田原北条氏が支配していた頃の津久井城の想像図:

たくさんの竪堀と、山頂に築かれたいくつもの郭が中世時代の山城の姿を忍ばせていた

甲斐武田に対する相模北条の境目の城「津久井城」(拡大版)

城山公園はトレッキングコースとしても整備されていて、公園の周囲には複数の登城口があるようだが、今回はパークセンター側のいわゆる「根小屋(根古屋)地区」から攻めることにした。今回の城攻めルートは次のとおり。そして昼過ぎにはパークセンターを出て、三増合戦古戦場へ向かうことにした:

駐車場 → パークセンター(陣屋跡) → 城板橋(牢屋の沢) → 御屋敷広場(御屋敷跡/馬場跡) →  くるま坂(曲輪坂) → 山頂の合流地点(堀切跡) → 太鼓曲輪跡 → 引橋跡 → 腰曲輪跡(土蔵) → 腰曲輪跡(本城曲輪の外側) → 本城曲輪跡 → (山頂の合流地点) → 飯縄神社(飯縄曲輪跡)→ みはらし → 堀切跡 → 鷹射場跡 → (お昼) → ・・・ → パークセンター → 駐車場

で、こちらが Google Earth 3D を基にした現在の城山公園を南側から眺めた図。数カ所に展望エリアがあって、そこから津久井湖を初め、城址の周囲の風景を楽しむことができた:

城址の南(パークセンター)側からの眺めで、城山の標高は375mほど

津久井城址(Google Earth より)

そして今回のおおよその城攻めルート。山頂までの登城道は「男坂」(ちょっと険しいコース)と「女坂」(らくらくコース)の二種類あるが前者の男坂、別名「くるま坂」を利用した。坂を登って山頂へ向かって行くと、ちょうど西側と東側の峰の真ん中(山頂にある男坂と女坂の合流地点)に到着するので、まずは西側の峰を攻め、それから再び合流地点へ戻って東側の峰を攻めた:

くるま坂は別名が男坂で、いわゆる険しい登城道になっているが、それ程厳しい山道ではなかった

城攻めルート(コメント付き)

こちらは御陣屋(おじんや)跡。発掘調査の結果、江戸時代初頭まで代官が住む陣屋があった。現在はパークセンターや研修棟が建っている:

江戸時代初頭まで陣屋が建っていた

御陣屋跡

小田原北条氏が滅亡した後に関八州に入封した徳川家康は各地に藩主や代官を置いて支配した。ここ津久井城は、その際に廃城となったが、政務統治の拠点として機能が引き継がれて幕府の直轄地となり、代官が配置されていたと云う:

江戸時代初頭までは陣屋(市役所と警察署を合わせたような役所)があった

御陣屋跡

ちなみに、ここに建つパークセンターは公園管理事務所兼案内所となっており、津久井城のジオラマも展示されていたので、「津久井城ものがたり ー過去から未来へー」(神奈川県厚木土木事務所・津久井治水センター発行)と云う素晴らしいガイドブックを参考に縄張図を作成してみた:

小田原北条氏時代の津久井城のジオラマで、往時は当然ながら津久井湖は存在しない

津久井城のジオラマ(拡大版)

津久井湖は城山ダムによって貯水されて造られたダム湖なので、当然ながら往時は存在していない:

典型的な山城で、山頂にある郭は堀切で区切られ、竪堀が麓まで落ち込んでいた

津久井城のジオラマ(コメント付き)

御陣屋跡の先へ進んで行くと、山頂から落ち込んだ竪堀がそのまま尻久保川(蛭窪川)の支流になったような場所があって橋が架かっていた。往時は牢屋の沢と呼ばれていた、この辺りには水牢があったらしい:

この先の川は自然の堀であった

城板橋

江戸時代初頭には、ここに水牢があったと云う

牢屋の沢

城板橋を渡った先が新田(しんでん)跡。発掘調査では土塁や竪穴が見つかっている。左手にある大手道を進む:

左手が登城口、この辺りは「新田」跡で左近馬屋など根小屋地区の一部である

しんでん跡

この先には御屋敷跡や馬場跡がある

大手道

整備された大手道を登って行くと右手に左近馬屋跡、左手に御屋敷跡が見えてくる:

左手上が御屋敷跡、右手下は左近馬屋跡となる

大手道

御屋敷(おやしき)跡。小田原北条氏の時代に城主である内藤氏が館を構えていたとされる郭で、発掘調査では深さ25mの堀や半地下式の蔵、中国製の陶磁器や天目茶碗などが発見された。廃城後は陣屋関連の施設が置かれていた:

詰めの山城である津久井城の麓には平時に生活するための館が建っていたと云う

御屋敷跡(拡大版)

さらに大手道を上って行くと馬場跡となり、現在は展望広場として整備されていた:

広大な敷地に館が建ち、その一角に馬を調練する馬場が置かれていた

馬場跡

現在は展望広場となっている場所から馬場と御屋敷跡を見下ろしたところ。はるか先は丹沢・小田原方面となる。真下に土が盛られている箇所があるが、ここに遺構が埋没保存されているようだ:

手前が馬場跡、奥が城主・内藤氏が館を構えていた御屋敷跡である

馬場跡と御屋敷跡

こちらは城址南側の丹沢方面のパノラマ:

三増峠、志田山(標高417m)、雨乞山(標高429m)、そして明日原、東金原付近の眺望

南側の眺望(拡大版)

雨乞山(標高429m)、仏果山(標高747m)、高取山(標高705m)、鳥尾山(標高m1136)といった山を眺めることができる

南南西側の眺望(拡大版)

土沢集落、金丸集落と、その背後には霞んで見えないが袖平山(標高1432m)や黍殻山(標高1273m)がそびえていた

南西側の眺望(拡大版)

残念ながら、この時は津久井城址から小田原方面にそびえている蛭ヶ岳(標高1673m)、不動ノ峰(標高1614m)、丹沢山(標高1567m)、そして丹沢三峰(たんざわみつみね)といった山々は霞んで見えなかった。ちなみに仏果山と鷹取山の間が小田原城方面である:

三増峠、志田山(標高417m)、雨乞山(標高429m)、そして明日原、東金原付近の眺望

南側の眺望(コメント付)

雨乞山(標高429m)、仏果山(標高747m)、高取山(標高705m)、鳥尾山(標高m1136)といった山を眺めることができる

南南西側の眺望(コメント付)

土沢集落、金丸集落と、その背後には霞んで見えないが袖平山(標高1432m)や黍殻山(標高1273m)がそびえていた

南西側の眺望(コメント付)

展望広場をあとにして更に登って行くと山頂部へ向かう登山口が見えてきた。ここから「ちょっと険しいコース」(男坂)の山道となる:

ここから先は「男坂(くるわ坂)」と呼ばれるトレッキングコースとなる

城山公園・冒険の森の入口

それほど急ではない坂道をしばらく登っていくと「らくらくコース」(女坂)と合流する。ちなみに合流するまでの経路は、おそらく津久井城の大手道と思われる:

現在は「ちょっと険しい」トレッキングコース(男坂)になっていた

大手道(馬道)

右手がなだらかで距離の長い「女坂」、正面がやや急で距離の短い「男坂」

女坂と男坂の合流点

往時の大手道は、ここから女坂へ少し入ってから山頂にある本城曲輪(ほんじょう・くるわ)方面に向かって竪堀の間をぬうように伸びていたようだ。さらに大手道を「馬道」と呼んでいたとも。現在はそのルートは存在していなかった。

今回は、この合流点からそのまま男坂を進んで[f]これより先は「くるま坂(曲輪坂)」と呼ぶようだ。山頂を目指した。その途中には石積みのようなものが点在していた:

旧大手道からそれて山頂の郭へ向かう登山道

くるま坂(曲輪坂)

この先から石垣と思われるような遺構を見る機会が多くなった

石積みの一部?

さきほどの合流点から10分くらい登ると山頂の尾根筋に到着する。この時に分かるのだが登山道は西側の峰(本城曲輪群)と東側の峰(飯縄曲輪群)を隔てる堀切の堀底道であった:

左手が西峰の太鼓曲輪方面、右手が東峰の飯縄曲輪方面である

堀切跡

津久井城址の公式ページで公開されている『津久井城ものがたり』(神奈川県厚木土木事務所津久井治水センター編)と云うガイドブックには、この尾根筋に設けられていた郭(くるわ)の縄張図が紹介されていたので引用させていただく。中央にある堀切が、先ほど登ってきたくるま坂の山頂部にあたる:

中央の堀切を境に左手が西峰、右手が東峰となる

尾根筋の縄張図(『津久井城ものがたり』より)

津久井城の主な郭(くるわ)は標高375mの城山の山頂に設けられており、西峰の本城曲輪(ほんじょう・くるわ)と太鼓曲輪、そして飯縄(いいづな)神社のある東峰の飯縄曲輪を中心に、各尾根に小さい腰曲輪が階段状に配置されていた。尾根筋には寄せ手の侵攻を防ぐために三ヶ所に堀切が設けられ、山腹には谷筋を堀削・拡張した長大な竪堀が何本も設けられていた。

この堀切跡にはベンチが置かれ、西峰と東峰への案内板が立っていた。実際のところ女坂と男坂との合流地点でもあるわけで、前述の麓にある合流点につながっているようだ:

尾根筋の西峰は本城曲輪群、東峰は飯縄曲輪群と呼ぶらしい

西峰と東峰の合流点となる堀切跡

青色の女坂は、展望広場から登ってきた時の合流点まで延びている

女坂と男坂の合流点でもある

まずは西峰にある本城曲輪群を攻めることにした:

まずは堀切から西峰へ移動して、太鼓曲輪跡や本城曲輪跡を攻めてきた

本城曲輪群方面へ

太鼓曲輪跡までは尾根筋に設けられた小さな郭を進む:

この先には太鼓曲輪跡、堀切、米蔵跡、そして本城曲輪跡がある

尾根筋にある小曲輪

本城曲輪群の一つである太鼓曲輪跡。「しゃもじ」に似た形をした郭で、往時は先ほどの堀切側から攻めてきた寄手を防ぐために東側が土塁で固められ、その周囲の斜面を急角度に切り落とした切岸となっていたと云う。ただ現在は土塁を確認することはできなかった:

東峰の飯縄曲輪と堀切を挟んで西側にある防御用の郭だったらしい

太鼓曲輪跡

この太鼓曲輪の南側には段曲輪が設けられており、その一角は家老屋敷が建っていたらしく石垣が一部残っていた:

 太鼓曲輪跡の南側斜面には数少ない遺構が残っていた

家老屋敷あたりの石垣

また、この郭の名前は陣太鼓が置かれていたことが由来のようで、実際に城主内藤氏が寄進したと云う陣太鼓が麓のお寺に残されているのだとか。

そして太鼓曲輪の西端は剣先(けんさき)と呼ばれており、さらに先へ進んで振り返ってみると確かに細長くなった郭であることが見てとれた:

手前が本城曲輪跡の西峰側、奥が飯縄曲輪跡の東峰側となる

太鼓曲輪の剣先

剣先を過ぎると堀切があり、往時はそこに架かっていた引橋(ひきはし)を渡って本城曲輪へ移動していたとされる。現在は堀切の一部が埋められて土橋になっていた:

左手が太鼓曲輪方面、右手が本城曲輪方面である

引橋跡に残る堀切

現在は堀切の一部が埋め立てられて土橋になっていた

引橋跡(土橋)

左手が本城曲輪方面、右手が太鼓曲輪方面である

引橋跡に残る堀切

ガイドブックの『津久井城ものがたり』には引橋のイメージ図が掲載されていた。緊急時は引橋を引いたり、壊して落としたりして寄手の侵攻を防ぐようにしていたと予想できる:

津久井城本城曲輪手前の引橋のイメージ図

引橋のイメージ図(『津久井城ものがたり』より)

引橋跡を過ぎると、本城曲輪を囲む幾つかの腰曲輪に至る。それらは「土蔵」、「米曲輪」、「米蔵」、「松尾米蔵」などと呼ばれていた。

こちらはその一つで、奥にある本城曲輪から大きく下がった位置に設けられ、その周囲は土塁で囲まれた土蔵曲輪:

本城曲輪より低い場所にあり、周囲は土塁で囲まれていた

腰曲輪跡(土蔵)

この曲輪の一角には土蔵が建っていたらしい:

本城曲輪より低い場所に設けられた腰曲輪の一角にあった

土蔵跡

さらに土蔵跡あたりからは城址の北側にある八王子市への眺望が開けていた:

相模原市から八王子市方面への眺めを楽しめた

腰曲輪からの眺望(拡大版)

八王子市のビル街を眺めることができた

腰曲輪からの眺望(拡大版)

腰曲輪跡からさら登ると米曲輪という腰曲輪跡に至り、「津久井城の歴史や遺構」の説明板が建っていた:

これも本城曲輪を囲む腰曲輪の一つである

腰曲輪跡(米曲輪)

そして、その奥に見える一際高い土塁の中が津久井城の本丸に相当する本城曲輪跡になるので、ぐるりと周って行く必要があり、攻め込んできた寄手には土塁の上の守手から迎撃されることになる:

高い土塁に囲まれた本城曲輪へはぐるりと回っていく必要がある

腰曲輪跡(米曲輪)

この腰曲輪は城址南側への眺望が開けていた。ちなみに、この眺めは麓の馬場跡で見たのと同じ景色で、仏果山や高取山といった小田原城方面にあたる:

麓の展望広場で見たのと同じ方向の眺望である

城址南側の眺望(拡大版)

腰曲輪にある土塁をぐるりと周って本城曲輪跡へ向かう。こちらが本城曲輪の虎口である:

この左手先が土塁の中にある本城曲輪跡になる

本城曲輪虎口

虎口付近から腰曲輪(米曲輪)跡を見下したところ。往時は、ちょうどこの下あたりが大手道で、その周囲には複数の腰曲輪が階段状に設けられていたようだ。但し、現在は柵が設けられていて、大手道などは立ち入ることができなかったけど:

本城曲輪虎口あたりから見下ろしたところ

腰曲輪跡(米曲輪)

そして、こちらが本城曲輪の土塁。一種の防御壁で、加えて寄手の頭上から迎撃することもできた:

高い土塁は防御壁となった他に、敵の頭上から迎撃するためにも利用された

本城曲輪跡と土塁

この土塁は「く」の字の形で南東側を守備しており、現在は「築井古城記」なる石碑が建っていた:

くの字形をした土塁に囲まれた本城曲輪跡には石碑が建っていた

本城曲輪跡と土塁

本城曲輪跡に残されていた遺構は、「遺構保護」のためロープで登り下りが禁止されていた土塁の他に、石垣の一部などもあった:

遺構保護の理由で土塁を登ったり下りたりすることは禁止だった

登り下りが禁止だった土塁

こちらも立ち入りが禁止されていた

石垣の一部

ちなみに土塁の壁面は登り下りできないが上面を歩くことは可能だった。こちらは、その土塁の上から津久井湖を見下したところ:

正式名は「城山ダム」で、いわゆるダム湖なので戦国時代には存在していない

本城曲輪跡から見下ろした津久井湖(拡張版)

こちららは土塁の上に建っていた古碑「築井古城記の碑」。江戸時代の文化13(1816)年に撰文されたものらしく、津久井城の築城の由来や城主・内藤氏の系譜などが刻まれているのだとか:

建立者は根古屋地区の名主の一人で、当時でもそうそうたる著名人が関わったらしい

築井古城記の碑



津久井城は戦国時代前期から小田原北条氏の有力支城の一つとして機能していた。特に甲斐の武田氏に対する境目の城として最前線にあったことと、津久井城の周囲にあった城や砦の烽火台(のろしだい)を束ねる主要な支城の一つであったらしい。現在残っている遺構の殆どが小田原北条氏により整備されたものである。そのため家臣団の育成も早くから行われており、城主・内藤氏を中心に有力な国人衆らと津久井衆が組織されていた。また甲斐との国境に近い境目の土地のため、一部の領地は武田氏の支配が入り組んでいたため、領民は「敵知行半所務(てきち・ぎょうはん・しょむ)」と呼ばれる小田原北条氏と甲斐武田氏の領主に半分ずつ年貢を収めて微妙な力関係を維持していたと伝えられている。

こちらは小田原北条氏の領地変遷図(『津久井城ものがたり』より):

伊勢新九郎こと北条早雲から氏直までの五代、約100年にわたる関東支配である

小田原北条氏領地変遷図(拡大版)

天正18(1590)年、北条氏直が当主の時代にあった豊臣秀吉による小田原仕置では、津久井城主・内藤景豊は他の支城の城主らと同様に本城の小田原城に籠城していたため、老臣ら150騎ほどが籠城していたが、徳川勢の本多平八郎忠勝、平岩親吉、戸田忠次、鳥居元忠、松平康真ら12千人の軍勢に攻められて降伏開城した。その際の具体的な戦闘は不明であるが、井伊直政の部隊が津久井城から押し出してきた北条勢を討ち取ったこと、開城後の城の受け渡しでは徳川家康から具体的な指示があったことが史料として残っているのだとか。その後、津久井城は廃城となるが、徳川家康が関八州に移封になって江戸幕府が開府されると津久井周辺は直轄地となって代官が置かれることになった。


このあとは再び女坂と男坂の合流点まで戻って、そこから東峰にある郭を攻めてきた:

この先を上って行くと飯縄曲輪跡に至る

再び合流点へ

この尾根道は飯縄神社の参道も兼ねている

東峰へ向かう尾根道

大きな石段を登った先には飯縄(いいづな)曲輪跡があり、現在は飯縄神社が建っている。若干、高い場所に郭があるが、往時は天狗山とも呼ばれていたらしく、云うなれば天狗山の山頂に飯縄神社が鎮座しているといえる。ちなみに、この神社には飯縄権現が祀られているらしい[g]飯縄権現は不動明王の化身で、軍神として往時の戦国武将らに受け入れられていた。小田原北条氏は飯縄権現信仰の中心地である高尾山を篤く庇護しており、津久井城でも同様に祀っていたと考えられる。

意外と高い場所にあるが、往時は天狗山と呼ばれていたらしい

飯縄神社の参道

西峰と同様に、周囲には腰曲輪が幾つかある

飯縄神社

飯縄曲輪は長方形をした削平地で、この郭にとりつく腰曲輪の外縁の一部には土塁が残っていた:

鳥居や石碑、社が建っていたが、その周囲には土塁跡が残っていた

飯縄曲輪跡

飯縄曲輪の南側には「鐘撞堂・烽火台」が設けられていた。烽火台では狼煙の他に、雨の日には鐘や法螺貝なども利用していたと考えられている:

手前が鐘撞堂・烽火台跡で、この先に見える天狗山に飯縄曲輪がある

飯縄曲輪南側

津久井城の周囲にある城や砦との間で情報伝達する施設が建っていた

鐘撞堂・烽火台跡

そして、さらに南側には「みはらし」と呼ばれる出曲輪に継っていた:

烽火台とみはらしを利用して津久井城の周囲の情報を監視・伝達できた

みはらし跡

この「みはらし」からは三増峠方面をよく見渡せた。『甲陽軍艦』によると、永禄12(1569)年10月に小田原北条氏と甲斐武田氏が三増峠で衝突した三増合戦では、信玄が小幡尾張守重貞ら別働隊を津久井城の抑えに配置して牽制してきたため、津久井城の内藤氏と津久井衆は城に釘付けとなり加勢もできず敗戦の一因につながったとされる:

小倉山と、右手は三増峠方面で、周囲の砦には狼煙や音を使って周囲の城や砦と情報伝達していたと云う

みはらし跡からの眺望(拡大版)

「みはらし」をあとにして尾根筋へ戻ると宝ヶ池なる水の手が残っていた。『新編相模国風土記稿』によると、水が白く濁って見えるのは城兵が刀を研いだからと云う伝説があると云う。現在でも枯れることなく水をたたえていた:

左手は飯縄曲輪跡で、この先に宝ヶ池が残っていた

東側の尾根筋

現在でも枯れることなく水が溜まっていた

宝ヶ池

宝ヶ池の北側はそのまま男坂となって、城址北側の津久井湖方面へ下るトレッキングコースにつながっていた。その先を少し下リていくと、樹齢900年を越える御神木の大杉が立っていたようだが、この時より2年前の平成25(2013)年8月に落雷で焼失していたとのこと:

この下を降りていくと城址北側の登城口である津久井湖観光センターへ至る

城址北側の登城口へ向かう男坂

このあとは尾根筋に従って再び東へ。すると鎖場が見えてきた:

宝ヶ池を越えて東にある鷹射場へ向かう途中にあり、この先には堀切が残っていた

鷹射場跡へ向かう途中の鎖場(拡大版)

その先には飯縄曲輪と鷹射場(たかうちば)を断ち切る堀切があり、麓まで落ち込んだ竪堀になっていた:

宝ヶ池を越えて東にある鷹射場へ向かう途中にある

堀切(拡大版)

そして堀切部分が埋められて、ちょうど尾根筋がS字にクネッった土橋になっていた:

この土橋はトレッキングコース向けに堀切を埋め立てて作ったものらしい

堀切と土橋

飯縄曲輪と鷹射場を断ち切る堀切は竪堀となって麓へ落ち込んでいた

竪堀

この先は一本道の尾根筋となり、そのまま鷹射場跡へ向かった:

両脇は急崖になっていた

鷹射場跡へ続く尾根筋

こちらが鷹射場跡:

飯縄曲輪群の中で最も東端にある郭である

鷹射場の虎口

相模川を挟んで相模原台地が一望できる眺望を楽しめた

鷹射場跡

この津久井城東端の郭からは相模川が形成した河岸段丘の上に広がる相模台地を眺めることができた:

相模川を挟んで相模原・橋本方面を眺めることができる

鷹射場跡からの眺望(拡大版)

相模川の侵食によって形勢された段丘崖に連なる緑の帯の眺望はなかなか良かった:

相模川によって形成された河岸段丘の上に相模原台地がある

鷹射場跡からの眺望(拡大版)

以上で津久井城攻めは終了。最後に、こちらは本城曲輪跡の土塁に掲げられていた注意書き:

遺構保護のため土塁の側面からの登り下りは禁止です

See Also津久井城攻め (フォト集)

【参考情報】

参照

a この地名は永正7(1510)年)の関東管領・上杉顕定書状写から。それ以前は奥三保(おくみほ)と呼ばれていた。
b 現在の八王子から厚木・伊勢原、そして旧東海道を結ぶ街道。
c 江戸方面から多摩丘陵を通り、津久井方面を横断して甲斐を結ぶ街道。
d 伊勢宗瑞(いせ・そうずい)または早雲庵宗瑞(そううんあん・そうずい)とも。のちの北条早雲で、小田原北条家の始祖となる。
e 37台も止めることができる立派な駐車場だった。
f これより先は「くるま坂(曲輪坂)」と呼ぶようだ。
g 飯縄権現は不動明王の化身で、軍神として往時の戦国武将らに受け入れられていた。小田原北条氏は飯縄権現信仰の中心地である高尾山を篤く庇護しており、津久井城でも同様に祀っていたと考えられる。