永禄11(1568)年に甲斐国の武田信玄は形骸化した甲相駿三国同盟を一方的に破棄して、三河国の徳川家康と共に駿河国の今川領に侵攻した。かって「海道一の弓取り[a]「海道」は東海道を表し、特に駿河国の戦国大名であった今川義元の異名として使われる。」と云われた今川義元亡き名門今川家当主の氏真は、甲州勢の怒涛の猛攻に堪えられず、三国同盟の絆である正室・早川殿のつてで、舅である相模国の北条氏康に支援を求めた[b]氏真は越後国の上杉輝虎にも駿河を奪われた事情を知らせ、関東で対峙している小田原北条氏と和睦して共に信玄を征伐して欲しいと懇願している。。氏真は駿府を捨てて掛川城へ避難するが、混乱のために妻の乗輿(じょうよ)が得られず侍女ともども寒中の野道を徒歩で辿る恥辱に耐え忍んでいたことを知った氏康は自分の娘を憂い、そして激怒して武田家との盟約を全て破棄、さらに急ぎ越後国の上杉輝虎[c]のちの上杉謙信。関東管領の上杉家を継いで長尾景虎から改名した。「輝」は将軍・足利義輝からの偏諱である。と和睦を成立させて信玄に対抗した。信玄は翌12(1569)年6月に伊豆まで侵攻して氏康を牽制、その本隊が伊豆に集合した隙をついて8月には2万の軍勢を率いて上野国から鉢形城や滝山城といった拠点を攻撃しつつ、10月に小田原城を包囲した。しかし籠城勢が挑発に応じないため無理な城攻めはせずに、城下を焼き払うと相模川沿いに三増峠を経由して帰国の途についた。小田原城を固く守備させていた氏康は、氏照と氏邦ら2万の軍勢を三増峠へ向かわせ、自らも伊豆を退陣し、氏政と共に2万の軍勢をもって帰路の信玄を挟撃する作戦を開始した。
月別: 2018年1月
北方は武蔵国、西方は甲斐国に接し相模国西北部に位置する標高532mほどの津久井山[a]この地名は永正7(1510)年)の関東管領・上杉顕定書状写から。それ以前は奥三保(おくみほ)と呼ばれていた。に築かれていた山城の津久井城は、八王子街道[b]現在の八王子から厚木・伊勢原、そして旧東海道を結ぶ街道。と甲州街道[c]江戸方面から多摩丘陵を通り、津久井方面を横断して甲斐を結ぶ街道。が交差する津久井往還に近く、古来から相模川を利用した交通の要衝の地に建っていた。現在は神奈川県相模原市緑区にある県立津久井湖城山公園として、城山ダムと山城を利用した憩いの場になっている津久井は「築井」とも呼ばれ、鎌倉時代後期には幕府の直轄地であり、中世の早い時期から経財と軍事の重要拠点であったとされ、その後は享徳3(1454)年から始まった享徳の乱、長尾景春の乱、そして後に小田原北条氏の祖となる伊勢新九郎[d]伊勢宗瑞(いせ・そうずい)または早雲庵宗瑞(そううんあん・そうずい)とも。のちの北条早雲で、小田原北条家の始祖となる。が相模国に進出した頃にも、その舞台の一つになった。特に太田道灌とその弟・資忠らは津久井山に籠もった景春勢を攻めたり、伊勢新九郎と敵対した扇ヶ谷上杉朝良と三浦道寸(みうら・どうすん)らが津久井山を攻めたと云った記録が残っている。そして相模一国が小田原北条二代目の氏綱によって掌握された頃には既に津久井城が存在し、内藤氏なる一族が城主を務めていたとされる。三代目の氏康の頃には津久井衆が組織されて小田原城に対する支城ネットワークの「ハブ」となり、甲斐武田氏との国境を監視・守備する需要な役割を果たしていたと云う。
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