千葉県夷隅郡大多喜町にある大多喜城は、夷隅川(いすみがわ)[a]江戸時代には御禁止川(おとめがわ)と呼ばれていた。城主が魚を捕ることを禁止していたことが由来で、この川に住む「むらさき鯉」を将軍家に献上していたと云う。を天然の外堀とし、その蛇行による曲流に囲まれた半島状の台地の西北に築かれ、郭を西側の山塊が東へ延びた突端に並べていた連郭式平山城である。この城は大永元(1521)年に真里谷(まりやつ)武田信清[b]真里谷武田氏は上総武田氏の一族で、清和源氏の一門である源義光を始祖とする。武田家と云うと甲斐国の他に安芸国、若狭国、そしてここ上総国に庶流を持つ。が築城したと云われ、往時は「小田喜(おたき)」城と呼ばれていた。戦国期は天文13(1544)年に、安房国の里見義堯(さとみ・よしたか)が配下で「槍大膳」の異名を持つ正木時茂[c]小田原北条氏との国府台合戦で討死した正木大膳信茂の父にあたる。によって攻め落とされ、四代にわたって[d]正確には、最後の当主は里見義頼の次男で、嫡男がいなかった正木氏を継承した。上総正木宗家の居城となった。その後は天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原仕置で、徳川家康が三河国から関八州に国替させられた際に重臣で徳川四天王の一人である本多平八郎忠勝に上総国10万石[e]最初は同じ上総国の万喜城(まんぎじょう)に入城したが、翌年には小田喜に拠点を移した。を与えて里見氏の抑えとした。小田喜城に入城した忠勝は大改修を行い、本丸・二ノ丸・三ノ丸に縄張し直した上に、西は尾根を断ち切る空堀、南は夷隅川に落ち込む急崖、北と東は水堀を配し、さらに城下町を建設するなどして要害堅固な「大多喜城」が完成した。慶長14(1609)年に台風で遭難し保護されたスペイン人のドン・ロドリゴが大多喜城を訪れた際[f]この当時は忠勝の次男・忠朝が城主だった。、彼の著書『日本見聞録』にその大きく豪華な城の造りに驚いたと書き残している。
一昨年は、平成27(2015)年の真夏、鬱陶しい梅雨が去った晴天のとある週末に房総半島の真ん中にある大多喜城跡を攻めてきた。この日は早朝に錦糸町まで移動して、そこからJR房総特急新宿わかしおに乗り換え千葉県の大原駅に到着。そこから大多喜までは自身初乗車のいすみ鉄道で移動した。途中、いすみの「ムーミン谷」でムーミンやスナフキンらが出迎えてくれたっけ 。およそ30分くらいのローカル線の電車旅ではあったけど、東京近郊とは思えない長閑さが残っていた。
まず大多喜駅構内に鎮座していた本多平八郎忠勝公に挨拶をして外に出ると、目の前に大多喜町観光協会[g]地元では「観光本陣」と呼んでいるらしい。があったので立ち寄って『大多喜城(千葉県立中央博物館・大多喜城分館)』と『房総の小江戸・大多喜・城下町散策マップ』を入手した。
今回の城域や遺構はそれほど多くないので午前中一杯を使ってゆっくり見て回り、お昼を挟んで午後は城下町の遺構、そして本多平八郎忠勝公の墓所や銅像などを巡ってきた:
観光本陣 → 夷隅川とメキシコ通り → 大多喜城址の碑 → 大多喜城二之丸公園 → 本丸跡 → 模擬天守 → 模擬天守内部(千葉県立中央博物館) → 本丸跡(土塁・土塀) → 薬医門(大多喜高校) → 大井戸 → 二ノ丸跡 → 三ノ丸跡 → 大手門跡 → 四ッ門跡 → 大多喜藩城下町の遺構 → (お昼) → 大多喜藩城下町の遺構 → 良玄寺 → 忠勝公園 → 本多忠勝公らの墓所 → 行徳橋 → 本多忠勝公像 → 大多喜駅
まずは、いすみ鉄道沿線を歩いて「メキシコ通り」へ向かった。これは、その途中に建っていた観光用の大手門。本来の大手門はここよりも西側にあった:
そして、こちらがメキシコ通り。この通りは江戸時代に日本に漂着したスペイン人のドン・ロドリゴ[h]フィリピンのマニラ総督などを歴任した植民地政治家の一人。一行を大多喜藩の本多忠朝が救助・厚遇した返礼として、昭和53(1978)年に当時のメキシコ大統領が大多喜町を訪問した際、その記念として夷隅川沿いを大多喜城まで整備した道路であるらしい。道路脇にはメキシコに関係のあるオブジェをいろいろ見かけた:
こちらは二之丸公園へ向かう途中に建っていた「大喜多城之絵図」(右下が北)。これは元禄年間(1688〜1704年)に描かれた絵図らしい。上から下へZ文字のように描かれているのが夷隅川で、城域は上から本丸、二ノ丸、三ノ丸と並び、右手下に大手門が置かれている:
また、こちらは本丸跡に建つ模擬天守内の博物館に展示されていた城周辺のジオラマ。標高73mの台地に築かれた大多喜城は房総半島中央にそびえる急峻な夷隅山系に囲まれ、城の北西側は標高が130〜270mにも達する房総山脈がうねり、城域を囲むように流れる夷隅川(外堀)に削られた崖をもって、寄手の攻撃を不可能とする縄張りとなっていたと云う:
そして左手に夷隅川を眺めつつ坂道となったメキシコ通りを上って行くと右手に急崖が見えてきた。この急崖の上が二ノ丸跡で、現在は大多喜高校の敷地だった:
これが往時は大多喜城の天然の外堀であった夷隅川:
大多喜城の本丸下を流れるこの川は、江戸時代に魚を捕ることを禁止したことから御禁止川(おとめがわ)と呼ばれていた。城主[i]本多家の後は阿部家と松平家が城主となった。が参勤交代の折には御禁止川の「むらさき鯉」を檜のたらいに入れて将軍家に生きたまま献上したと云われている:
川岸には二の丸浄水場なる施設があった。城とは関係はないようだが :
しばらくメキシコ通りを歩いて行くと二股にあたるので城跡方面に向かい、さらに坂を上がっていくと「大多喜城址」の碑が建っていた。このあたりから本丸跡となる:
城址の碑を過ぎたところに町営の駐車場があり、そこにはトイレと御土産屋兼軽食(うどん・そば)があった。時間的にまだ開いていなかったが。
さらに本丸跡へ向かて上って行くと「大多喜水道」なる立て札が立っていた。県内で最古の水道らしい。そもそも大多喜藩の城下町はあまり良い水に恵まれていなかったようで、大多喜城の最後の城主・松平正質(まつだいら・まさただ)[j]江戸幕府老中の五男で、松平正和の養子となり老中格に進む。鳥羽伏見の戦いに出陣し大政奉還を迎えると大河内(おおこうち)と改姓し大多喜藩の知事となった。280余年にわたる大多喜城の最後の城主である。の時代にやっと水道工事が具現化して明治3(1870)年に完成したと云う。こちらも城とは関係はないようだが :
そして道路の敷設で出来たかのような土塁を過ぎたところに空堀跡がある。しかしながら、今上がってきた道路が横切って大部分が破壊されているらしい:
その先には「大多喜城二之丸公園」なるところがあった。しかし、ここは本丸跡で二ノ丸跡ではないのだが :
この公園は二段構成になっており、四阿(あずまや)が建っている下段にはなんとも趣のある切り通しがあった。遺構であるかどうかは不明:
奥にある階段を使って公園上段へ行くことができる:
上段には鐘楼が建つなど意外と広かったのだが、もしかしたらここも本丸遺構の一部ではなかったのだろうか:
道路の敷設で一部が破壊されていた本丸土塁。この先に模擬天守が建つ本丸跡がある:
こちらは先に紹介したジオラマを本丸がある城址南側から眺めたものである。本丸はその下にある二ノ丸や三ノ丸を見下ろすように眺めることができる一番高い位置にありながら2000坪の広さを持ち、そこに本多忠勝は天守閣に相当する御三階櫓(ごさんかいやぐら)を建てた:
本丸に建っていた天守閣は三層四階の櫓で、天保13(1842)年の火災で焼失した後は再建されることはなかった。そして昭和50(1975)年、古絵図[k]一説に文政10(1827)年頃に描かれた絵図らしい。に描かれた御三階櫓などを参考にして鉄筋コンクリート製の模擬天守が建造された:
この模擬天守の内部は千葉県立中央博物館・大多喜城分館となり、房総地方の中世・近世の城郭や往時の武家社会や城下町の生活などに関する史料の他、ここで紹介したジオラマが展示されていた。入場料は大人200円(当時):
こちらは模擬天守の石垣。石垣は野面積みと打込み接ぎの中間の方法で作られているのだとか:
本丸跡には模擬天守の他に、若干ながら土塁が残っていた:
そして模擬天守を引き立たせていた土塀:
土塀の瓦には本多家家紋の「丸に立葵」(まるにたちあおい)が付いていた[l]模擬天守の瓦には本多家と松平家の両方の家紋が付けられているらしい。:
近世の大多喜城は本多忠勝とその次男・忠朝、そして甥・政朝の3代が城主となり、その後は阿部・青山・稲垣氏へと引き継がれ、元禄16(1703)年に松平氏が入城する。以後、松平氏は9代続き明治時代の廃藩置県を迎えた。
父に劣らぬ猛将であった忠朝が大多喜城主だった慶長14(1609)年頃、領内の岩和田(いわわだ)沖合にドン・ロドリゴが乗るスペイン船サン・フランシスコ号が台風で難破した。忠朝はロドリゴ一行に衣服や食料を与え、城下で37日間、手厚く保護したと云う。この時のことをロドリゴは彼の著書・日本見聞録に「城は高台にあり、第一の門の外に深い堀があって吊橋が架けられていた。」、「鉄製の城門は厳しく、約15mの高い城壁が建ち、武装した射手100人が待機していた。」などと記している。
こちらは本丸跡から見下ろした二ノ丸跡。現在は県立大多喜高校のグランドになっていた:
二ノ丸には御殿が建っていたとされ、現在は大多喜高校の校舎あたりだったと云う:
この後、本丸跡を下りて再びメキシコ通り沿いに二ノ丸跡方面へ移動した:
この手前に二ノ丸跡がある大多喜高校へ向かう脇道がある:
大多喜高校の玄関東側には、昭和47(1972)年に大修理がなされ、現在に残された大多喜城ただ一つの建築遺構である薬医門が建っていた:
この門は本柱が中心よりも前方にあり、背後に控柱を付けた薬医門形式で、天保13(1842)年の火災のあとに建てられた二ノ丸御殿の裏門であったとされ、廃藩置県の際に民間に払い下げられていたが大正時代に校門として寄贈され、一時期に解体保存されたが再び復元建造され、現在は県指定有形文化財となっている:
そのまま高校の敷地へ入る[m]この井戸あたりまでは入ることは可能。それ以外の建造物や敷地への無断侵入は勿論、不可。と駐車場あたりに鉄柵に囲まれた井戸が見えてきた:
この井戸は城内にあった20数個の井戸の一つで、初代大多喜城主・本多忠勝が築城した時代に掘られたと云う周囲約17m、深さ約20mの巨大な井戸である。水が尽きることなく湧き出たことから「底知らずの井戸」とも呼ばれていたのだとか:
この井戸の脇に建つ大多喜高校の校舎は二ノ丸御殿跡に立っているらしい。これは二ノ丸跡から模擬天守のある本丸跡を見上げたところ。二ノ丸と本丸との間には水堀があり、比高差が60mくらいあるようだが、本丸が急斜面の高台に設けられていたことがわかる。往時は周囲を土塁で囲んでいたので、実際もこんな感じの視界だったのかもしれない:
この後は三の丸跡を通って大手門跡へ向かった。二ノ丸跡の大多喜高校からだと、ちょうどメキシコ通りに出る手前にあるテニスコート脇の道に入って大多喜駅方面へ向かうルートとなる。現在、三の丸跡は民家や畑になっているが、忠勝が城主の時代も三ノ丸は畑だったらしい。ちゃんと模擬天守を望むことができた:
しばらく進むと大手門跡がある。この奥には八幡神社(はちまん・じんじゃ)があった。標柱の裏に僅かながら土塁が残っていた:
八幡神社は弓矢の神とも云われる第十五代応神(おうじん)天皇こと誉田別命(ほんだわけのみこと)を祭神としている社で、大多喜城の二ノ丸にあったものが廃城後に現在の三ノ丸跡に移された。境内からは真正面に模擬天守を眺めることができた;
このまま道なりに進んで、いすみ鉄道の踏切を渡ると四ッ門公園がある。ここは四ッ門跡で、城内から数えて四番目の門であることが名前の由来で、本多忠勝による城下町建設時に建てられたと云う。ここには馬上のまま通過できる高さの冠木門が建ち、扉に大きな鋲をうった豪壮な門であった:
大多喜城下町
往時は四ッ門をくぐると城下町となり、近世は「房総の小江戸」とも云われていたようで、現在はそのまま商店街になっていた。この絵図をみてわかるように城下町は鈎の手(L字形)に屈折した通りが貫いていた:
その中には重要文化財にも指定されている建築物かいくつか残っていた。
こちらは「渡辺家住宅(国指定重要文化財)」。嘉永2(1849)年に建造された江戸時代後期の代表的な商屋造りの建物。寄棟桟瓦葺(よせむねさん・がわらぶき)の二階建てで、正面入口は縦格子戸を、表板戸には上下戸が取り付けられている:
こちらは、なんと民間に払い下げられた大多喜城大手門の材料を使った建築物らしい。屋根の瓦には松平家の家紋が付いていた:
これらも国登録の有形文化財:
こちらは大多喜名物「最中十万石」の津和家(つちや)。店頭に本多忠勝の兜『黒時代仕上十二間椎形鹿角脇立兜』が飾ってあった:
こちらは夷隅神社。ここには雨水を集めて作った水路で有名な社。里見家の重臣・正木大膳亮時堯が再築したと伝わり、それ以降は大多喜城主代々が篤く崇敬・加護したと云う:
大多喜城攻め (フォト集)
【参考情報】
- 日本の城探訪(大多喜城)
- 大多喜城跡とその周辺に建てられていた説明板・案内板
- 「大多喜城」パンフレット(千葉県立中央博物館・大多喜城分館)
- 「房総の小江戸・大多喜・城下町散策マップ」(大多喜町観光協会・大多喜町役場)
- 日本の城訪問記(大多喜城)〜本多忠勝十万石居城
- 週刊・日本の城<改訂版>(DeAGOSTINI刊行)
- Wikipedia(大多喜城)
本多忠勝公墓所と金澤山良玄寺、行徳橋の本多忠勝公の銅像
徳川家康の関八州移封により10万石を賜って大多喜へ入城した本多平八郎忠勝が文禄4(1595)年に菩提寺として開基したのが良玄寺の前身である良信寺で、下総小金東斬寺の僧・了学(りょうがく)を招いて開山とした。忠勝は関ヶ原の戦が終わった翌年は慶長6(1601)年に伊勢桑名へ移封となり、次男・忠朝が5万石で入城した。しかし忠朝が元和元(1615)年の大坂夏の陣で毛利勝永隊の猛攻を受けて討死したため、彼の法名[n]法名は「三光院殿前雲州岸譽良玄大居士」。墓所は討死した現在の大阪府天王寺にある一心寺にもある。をとって良玄寺と改めた:
墓所がある右手奥へ向かうと「忠勝公園」なる憩いの場があった:
園内にはトイレの他に物見台が設けられており、そこから大多喜城の模擬天守を拝むことができる:
さらに進んだところにある墓地の一番奥に本多忠勝公夫妻、忠朝公の五輪塔と墓碑が建っていた。忠勝公は移封した伊勢桑名にて慶長15(1610)年に亡くなった。享年63。ここ良玄寺には遺言で分骨されている。やはり初めて大名となった大多喜の土地には深い思い入れがあったのだろう:
忠勝公は天文17(1548)年の三河国生まれで、愛用の槍は「蜻蛉切」。姉川合戦では朝倉勢一の武勇を誇る真柄直隆を討ち取ったり、武田信玄による三方ヶ原の戦いの前哨戦・一言坂(ひとごとざか)の合戦では殿を務め、武田勢の山縣昌景や内藤昌豊らの猛攻を阻止し家康の本隊を無事に浜松城へ退却させた。さらに秀吉と家康との間で始まった小牧・長久手の合戦では豊臣勢きっての猛将・加藤清正と一騎打ちがあったとも。常に軍功をたてて勇名一世に轟いた徳川四天王の一人である。
大多喜から移封した先の伊勢桑名で慶長9(1604)年に病を理由に隠居を申し出たが家康に慰留され、それから5年後に家督を嫡男に譲って完全に隠居した。生涯大小合わせて57回の戦場でかすり傷一つ負わなかった。敵の武田軍からは「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」との狂歌をもって賞賛され、太閤秀吉からは「西国無双の立花宗茂と天下無双の本多平八」と引き合いに出された。なお公の墓石の横には正室・於久の方の墓石もあった。
忠朝公は忠勝公の次男で、父子で天下分け目の決戦・関ヶ原の戦いに従軍した。大多喜城主の時代には遭難したスペイン人のドン・ロドリゴ一行を厚遇し幕府との仲介役を果たした。そして慶長19(1614)年の大坂冬の陣では酒を飲んでいたために不覚をとって敗退し、その汚名返上のため大坂夏の陣の天王寺の戦いでは先鋒を務め、猛将・毛利勝永隊に正面から突撃して奮戦むなしく討死した。大坂の菩提寺から分骨されて、ここ良玄寺に父子で眠っている:
ここ良玄寺には本多忠勝の肖像画として有名な「紙本著色本多忠勝像」(千葉県指定有形文化財)が所蔵されている。この画像の由来は、絵師に命じて肖像画を描かせること八幅に及んだが、会心の作には至らず、九幅目に及んで初めて上出来なりとして大いに満悦し、表装をして良信寺(往時)住職・了学上人に贈ったものだとか:
良玄寺から徒歩3分ほどのところにある行徳橋の欄干には本多忠勝公の銅像が建っていた:
本多忠勝公坐像:
そしてレリーフには大多喜城と本多忠勝公の合戦絵巻が描かれていた:
橋のもう一方側は立像だった:
最後に、こちらはいすみ鉄道・大多喜駅構内に展示されていた本多忠勝公:
本多忠勝公墓所 (フォト集)
【参考情報】
- 日本の城探訪(大多喜城)
- 良玄寺に建てられていた説明板・案内板
- 「大多喜城」パンフレット(千葉県立中央博物館・大多喜城分館)
- 夷隅地域の寺・神社にある国・県指定文化財ついて(千葉県HP)
- 武将の銅像と墓参り − 良玄寺にて本多忠勝の墓
- Wikipedia(本多忠勝)
- Wikipedia(本多忠朝)
参照
↑a | 江戸時代には御禁止川(おとめがわ)と呼ばれていた。城主が魚を捕ることを禁止していたことが由来で、この川に住む「むらさき鯉」を将軍家に献上していたと云う。 |
---|---|
↑b | 真里谷武田氏は上総武田氏の一族で、清和源氏の一門である源義光を始祖とする。武田家と云うと甲斐国の他に安芸国、若狭国、そしてここ上総国に庶流を持つ。 |
↑c | 小田原北条氏との国府台合戦で討死した正木大膳信茂の父にあたる。 |
↑d | 正確には、最後の当主は里見義頼の次男で、嫡男がいなかった正木氏を継承した。 |
↑e | 最初は同じ上総国の万喜城(まんぎじょう)に入城したが、翌年には小田喜に拠点を移した。 |
↑f | この当時は忠勝の次男・忠朝が城主だった。 |
↑g | 地元では「観光本陣」と呼んでいるらしい。 |
↑h | フィリピンのマニラ総督などを歴任した植民地政治家の一人。 |
↑i | 本多家の後は阿部家と松平家が城主となった。 |
↑j | 江戸幕府老中の五男で、松平正和の養子となり老中格に進む。鳥羽伏見の戦いに出陣し大政奉還を迎えると大河内(おおこうち)と改姓し大多喜藩の知事となった。280余年にわたる大多喜城の最後の城主である。 |
↑k | 一説に文政10(1827)年頃に描かれた絵図らしい。 |
↑l | 模擬天守の瓦には本多家と松平家の両方の家紋が付けられているらしい。 |
↑m | この井戸あたりまでは入ることは可能。それ以外の建造物や敷地への無断侵入は勿論、不可。 |
↑n | 法名は「三光院殿前雲州岸譽良玄大居士」。墓所は討死した現在の大阪府天王寺にある一心寺にもある。 |
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