旧東海道の鞠子宿《マリコジュク》[a]東海道五十三次で20番目の宿場である。東海道中で最も小さい宿だったとか。を見下ろす通称、三角山《ミカドヤマ》の頂上に築かれた丸子《マリコ》城は東西を泉ヶ谷《イズミガヤ》と大鑪《オオダタラ》と云う深く大きな谷に挟まれた天然の要害で、室町時代後半から戦国時代にかけて駿河国守護今川氏の拠点であった駿府防衛で西側の関門として重要な役割を担った城の一つであった。山頂の本曲輪に向かう尾根上には大小の曲輪が土塁や竪堀・横堀、そして虎口を組み合わせながら連なるように配置されている。さらに弱点とされた城の南側には出曲輪や袖曲輪を効果的に配置して補強するなど巧みな縄張りを残しており、これは甲斐武田氏の駿河侵攻後に大きく拡張されたことによるものである。築城年は不詳であるが今川氏による支配が始まった南北朝時代にまで遡る説が有力である。そして今川家第8代当主で今川義元の祖父にあたる義忠《ヨシタダ》が隣国・遠江の国人衆らの反乱鎮圧に向かい、その流れ矢に当たって落命してしまうと、僅か6歳の嫡男・龍王丸[b]のちに駿河・遠江国守護となる今川家第9代当主・氏親。今川義元の父にあたる。とその叔父・小鹿範満《オシカ・ノリミツ》[c]俗に云う堀越公方の足利政和の勢力である。との間で家督争いが起こり、龍王丸の生母である北川殿は、この時期に今川家の食客であった弟の伊勢新九郎[d]北川殿の弟で、伊勢宗瑞《イセ・ソウズイ》または早雲庵宗瑞《ソウウンアン・ソウズイ》とも。のちの北條早雲で、小田原北條家の始祖となる。の手を借りて丸子城に籠もることとなった。
一昨年は、平成27(2015)年の梅雨時期に天候を見計らって静岡県静岡市駿河区丸子にある丸子城跡を攻めてきた。この日は朝8時過ぎのJR東海道新幹線ひかり463号に飛び乗ってJR静岡駅に到着したのが朝9時ちょっと過ぎ。それから北口のバスターミナルへ移動して、しずてつ乗り場7番から中部国道線・藤枝駅前行のバス(当時)に乗って吐月峰駿府匠宿入口《トゲッポウ・スンプ・タクミシュク・イリグチ》で下車した[e]当時、片道大人350円で所要時間は20分ほど。。それから国道R1[f]東京都中央区から大阪府北区へ至る現代の東海道にあたる。を渡り、静清《セイシン》バイパスをくぐった先にある丸子城跡の登城口へ向かった。
まず「丸子城主郭見取図」。こちらは(甲斐武田氏が統治していた時代の)本曲輪跡に建っていたもの:
左端の「本丸」(本曲輪)が武田氏統治時代の本丸で、反対の右側にある「北の曲輪」(北ノ曲輪)が今川氏統治時代の本丸にあたるのだとか。ちなみに「東の曲輪」(大手曲輪)のさらに東側には外曲輪があった。図中、上下にあるのがそれぞれ泉ヶ谷と大鑪と云った谷である。ここでちょっと残念なのが、城跡には縄張図が複数あったものの上の図のように曲輪が明記されていなかったり名称が異なっていて統一されておらず、実際に攻めていると今いる場所がどこなのか判らなくなることがあった。現在は少しは良くなっているかもしれないが。
で、こちらが Google Earth 3D を基にした俯瞰図と今回の城攻めルート:
現在の城跡は今川氏統治のあとに甲斐武田氏が拡張した縄張である。なお写真右斜め上が北方面で、そちらには江戸時代の旧鞠子宿にあたり、写真左手の城址西側には鎌倉幕府征夷大将軍の源頼朝が創建し、のちに武田信玄が再建した誓願寺《セイガンジ》がある。
今回は城址東側にある登城口から登って、外曲輪・北ノ曲輪と順番に攻めてきた。さらに二ノ曲輪あたりから横堀まで降りたり、本曲輪跡から降りて竪堀などの保存状態の良い遺構をいろいろ堪能してきた。おおよその所要時間はお昼近くまでたっぷり3時間ほど。急いで見て回るのであれば、その半分で問題ないとは思うが:
登城口 → ①外曲輪跡 → ②三日月堀 → 土橋 → ③大手曲輪跡 → ④北ノ曲輪跡 → 竪堀 → ⑤三ノ曲輪跡 → ⑥横堀・堡塁 → ⑦二ノ曲輪跡 → 竪堀 → ⑧(本曲輪の)枡形虎口 → ⑨本曲輪跡 → 平虎口 → 袖曲輪跡 → 喰違い虎口 → ⑩大鑪(おおだたら)曲輪跡 → ⑪三日月堀 → ⑫長大竪堀1 → ⑬長大竪堀2 → ・・・ → 登城口
なお誓願寺訪問は別の日にした[g]単に、城攻め当時は「誓願寺」の存在を知らなかっただけなのだけど。。
こちらが登城口である「丸子城跡入口」。国道R1から静清バイパスを越えて「駿府匠宿おもしろ体験館」なる場所へ向かって行く途中にある:
ここを通って行くと北側から外曲輪を眺めることができ、そのまま途中まで整備された山道を登って行く:
すると旧東海道の鞠古宿の趣きが残る町並みを拝むことができた:
こちらは先ほど同様に Google Earth 3D で登城口のある城址北東から見た俯瞰図。この方角から見ると急峻な尾根上に竪堀などを設けて築かれた「要害」であったことが分かる。左右にある深く沈んだ谷も見事である。ちなみに左手にぎりぎり見える道路が東海道の国道R1と静清バイパス:
だんだんと急になってきた登城道が山道に変わるあたりが外曲輪である:
ほどなく①外曲輪跡に到着した。城内の兵士の集合場所として、いわゆる武者溜まりだった:
こちらは外曲輪跡に建つ丸子稲荷神社の奥宮。承平7(937)年に京都伏見稲荷大社から分祀して鞠子の氏神様として鎮祭《チンサイ》され、旧東海道の名社の一つとなっている。甲斐武田氏が駿河侵攻したのちに城代となった山縣昌景らが寄進し城の守護神にしたとある。その後は鞠子を統治した戦国大名らにより保護されていたが、昭和53(1978)年には静清バイパス建設により御鎮座1050年を記念して、この外曲輪跡に移転されたのだとか:
この外曲輪跡から先は尾根道なので坂ではあるが歩きやすかった。その際、何やら「武田菱」のようなものが落ちているのを見かけた。国土地理院の道標か何かだろうか:
このまま進むと大手曲輪虎口付近の土塁が見えてきた:
その周囲は山裾へ落ちる急崖になっており、まるで虎口を隠すかのような土塁であった:
この土塁を越えた先には大きく深い②三日月堀があった:
左手には土橋が見え、それを渡った先が大手曲輪跡である:
ここで土橋ではなく先に大手曲輪の北側を半円状に囲んでいた三日月堀をじっくりと見てきた。あとで大手曲輪跡を見ることになるが、どうも大手曲輪は馬出として使われていたとのことで、この三日月堀と併せて、まさに甲斐武田氏統治時代に造られた丸馬出であったと考えられる:
さらに三日月堀を回りこんで行くと大手曲輪のある尾根を断ち切るように竪堀に変化していた:
ここで再び土橋がある辺りへ戻って大手曲輪跡へ向かうことにした:
土橋を挟んで北側は三日月堀であり、南側は尾根を下る急崖であった:
土橋を越えて虎口を過ぎると③大手曲輪跡がある。武田氏が統治していた時代は、先ほどの三日月堀と背後の土塁とを併せてこの先にある北ノ曲輪を守備するための馬出[h]甲州流築城術では珍しく土塁が矩形になった角馬出《カク・ウマダシ》らしい。として機能させていたと考えられる:
こちらは、先ほど見てきた三日月堀が竪堀に変化したところを、大手曲輪跡から見下ろしたところ:
大手曲輪跡から再び尾根筋に沿って北ノ曲輪跡へ。これら二つの曲輪の間には小さな曲輪が連なり、その片側(南側)は急崖であった:
北ノ曲輪へ向かう途中にあった竪堀と、反対側の急斜面から尾根道を進んでいるのが分かる:
こちらが④北ノ曲輪跡。今川氏時代の本丸に相当する。従って①外曲輪跡〜④北ノ曲輪跡までが龍王丸や北川殿が籠もった時の城域となる:
そのため曲輪を囲む土塁は今までとは少し規模が違っていた:
父・義忠の不慮の死により、幼年の嫡子を擁する龍王丸派と、義忠の従弟で今川氏譜代家臣の支持をとり付けた小鹿範満《オシカ・ノリミツ》ら小鹿派との間で跡目争いが勃発した。これに加えて範満とは外戚関係[i]堀越公方・足利政和を補佐する関東管領・上杉正憲の娘が母親にあたる。にあった関東の扇ヶ谷上杉氏がその家宰・太田道灌を派遣し軍事介入してくる事態にまで発展した。この時に範満と道灌が龍王丸を討つ気配が生じたため、駿府館に居た龍王丸と母・北川殿は弟である伊勢新九郎長氏の手引で丸子城の居館に避難し、ここ北ノ曲輪に籠もったと云う。そして新九郎長氏は太田道灌と直接会談して、龍王丸が元服するまでの間は範満が家督を代行するという和解案を提示して見事に調停させた。おそらく道灌ら関東勢は未だに燻る長尾景春の反乱鎮定が急務であったと思われる。この後は小鹿範満が駿府の駿府館へ、龍王丸と北川殿は引き続き丸子の館に居住した。
しかし、その後の範満は龍王丸が元服しても依然として家督を返さず、逆に龍王丸らを再び圧迫するようになった。そこで太田道灌が謀殺された翌年の文明19(1487)年に、京都で第9代将軍・足利義尚に仕えていた伊勢新九郎が再び駿河へ下向して駿府館を強襲、範満は防戦するがかなわずに自刃した[j]小鹿派の負けは太田道灌の死と関東両上杉の対立から完全に後ろ盾を失った結果であった。。これにより龍王丸は今川氏親と名乗り、今川家第10代の当主となった。
これらの土塁の先には堀切が残っていた:
時代が経過して、だいぶ平らになっているが北ノ曲輪北側の尾根を断ち切る堀切であった:
さらに進むと北ノ曲輪跡の西端に到達する。この先には北ノ曲輪の尾根を断ち切るような向きに竪堀があり、その左手下には三ノ曲輪・本曲輪方面に向かう武者走が残っていた。実質、ここを境に手前が今川氏時代の城域で、この先にある尾根を断ち切るような向きに設けられた竪堀を境に武田氏時代の城域へと変わっていく:
こちらは三ノ曲輪との間にある竪堀から北ノ曲輪跡を見上げたところ。かなり高い切岸であった:
さらに尾根筋の両側をそれぞれ見下ろしてみると、右手(北側)は北ノ曲輪から本曲輪まで続く⑥横堀があった:
そして左手(南側)は急崖になっていた:
これは北ノ曲輪あたりから本曲輪がある南側に走る武者走り。右奥の土塁上が⑤三ノ曲輪跡になる:
そして北ノ曲輪(手前)から三ノ曲輪(奥)の尾根を断ち切る堀切と土橋。まさに武田氏と今川氏の城域の境界である:
この辺りから右手下(城址北側)に横堀が続いていた:
この城の北に設けられた100m以上に渡って設けられた⑥横堀には堡塁(銃座)なるコの字型の小さな曲輪があった
こちらは北ノ曲輪から本曲輪方面へ延々と延びる横堀と土塁:
と思ったら、横堀と堡塁はうねるように山腹を走り、巧妙な防御施設となっていた:
こちらは奥にある三ノ曲輪と手前の二ノ曲輪の間にある堀切から、横堀・堡塁を見下ろしたところ(パノラマ):
小さな三ノ曲輪跡を通過すると⑦二ノ曲輪跡に到着する:
そして二ノ曲輪の下にも続いていた横堀:
二ノ曲輪跡から本曲輪方面に向かって進んでいくと堀切にぶつかる。現在は土橋が架かっているが、往時は木橋であり、有事の際は木橋を曳き上げて寄せ手が進めないようにしたと云う:
この堀切は城址東側の山裾に向かって落ち込む竪堀に変化していた:
堀切を渡った先は本丸の⑧枡形虎口:
ここは大きな土塁によって先にある本曲輪を隠すかのように外枡形を成していた:
そして⑨本曲輪(一ノ曲輪)跡。武田氏時代は通称、千畳敷と呼ばれた広大な曲輪だった:
本曲輪には虎口のある北側と横堀がある西側に土塁が集中して設けられていた:
こちらは本曲輪に三個ある虎口の一つの平虎口。本郭の南側に設けられていた:
平虎口下は竪堀と、北ノ曲輪から続く武者走りがあった:
本曲輪搦手側の尾根筋には複数の袖曲輪が階段状に設けられていた:
本曲輪跡は南北100m、東西40mの広さを持ち、山城の「本丸」としては広い方である:
丸子川に沿って走る旧東海道を眼下に見る自然の要害に築かれていた丸子城は、駿河国の国府が置かれた駿府[k]「駿府」は駿河国府中の略である。防衛の西側の要として戦国期の守護今川氏にとって重要な城の一つであった[l]ちなみに北の守りは賤機山城と臨済寺、東の守りは愛宕山城、南の守りは八幡山城である。。今川氏第11代当主の義元が永禄3(1560)年の桶狭間の戦いで討死したのち、嫡子氏真が第12代当主となるとゆっくりであるが確実に支配力が衰え、追い打ちをかけるが如く義元の母・寿桂尼《ジュケイニ》が永禄11(1568)年に死去すると、甲斐国守護の武田氏とは手切れの関係になり、信玄は1万2千の軍勢で今川領に侵攻した。今川勢は1万5千で迎撃するも、父・義元の弔い合戦もままならない氏真の力量に不安を抱く国人衆は戦わずに退却を繰り返した。そして信玄が丸子城の西にある駿州田中城とともに安倍川西岸を制圧すると山縣昌景を丸子城に配置し、駿府に籠もる今川方に備えたと云う。
こちらは Google Earth 3D を利用して丸子城と駿州田中城、そして今川館の位置関係を示したもの:
甲斐武田氏の支配下に置かれた丸子城は甲州築城術より大規模な改修が行われ、現在まで残る中世山城の姿となったと云う。なお天正10(1582)年の甲斐武田氏滅亡後の丸子城は、三河の徳川家康による高天神城落城により開城となり、徳川氏の支配下に置かれた。一時は家臣の松平備後守が城代を務めていたが、天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原仕置で家康が関東移封されると同時に廃城となった。
こちらは本曲輪西側にある喰違い虎口:
この虎口の下には空堀や土塁の他に馬出(物見)曲輪や大鑪《オオダタラ》曲輪、そして長大竪堀が残っていた:
まず本曲輪のすぐ下にあるのが馬出曲輪(物見曲輪)跡:
馬出曲輪のさらに下にあるのが⑩大鑪曲輪跡。これは長大竪堀と三日月堀をともなった曲輪で、こちらも馬出だった:
こちらが⑫長大竪堀。二本あるもののうち、こちらは深さも落ち込む角度も見事な状態で残っていた:
麓まで落ち込んでいく角度がすごかった:
こちらが大鑪曲輪の北側に設けられていた見事な⑪三日月堀:
大鑪曲輪と三日月堀で甲州流築城術の丸馬出を形成し、さらに麓まで落ち込んだ長大な竪堀により複雑な構成になっていた:
この⑬長大竪堀は現在でも麓近くへまで落ち込んでいるのが分かるような状態だった:
大鑪曲輪跡から本曲輪側を見返したところ:
こちらは大鑪曲輪跡から眺めた横堀で、その西側は急崖になっている:
最後に静岡県庁展望ロビーから眺めた丸子城址方面:
丸子城攻め (フォト集)
【参考情報】
- 日本の城探訪(丸子城)
- 丸子城跡に建てられていた説明板・案内板
- 埋もれた古城(丸子城) 〜 龍王丸と北川殿を庇護した
- ちょっと山城に − 丸子城(静岡県静岡市)(リンク切れ)
- お城へ行こう! − 丸子城(静岡県静岡市のお城めぐり)
- Wikipedia(丸子城)
片桐且元公墓所と誓願寺
大鑪山誓願寺《オオダタラヤマ・セイガンジ》は建久年間(1190〜1199)に鎌倉幕府の征夷大将軍・源頼朝が両親の追善のために建立したものであるが、天文年間(1532〜1555)の丸子城の戦火で類焼したと云う。その後、永禄11(1568)年に駿河へ侵攻した甲斐の武田信玄がこれを惜しんで再建したものと伝えられている:
現在の誓願寺は丸子城跡の南側麓にあり、この時は丸子城攻めした時と同様に、静岡駅北口からしずてつの中部国道線藤枝駅前行きのバスに乗って二軒家大鈩不動尊入口なるバス停で下車した[m]当時、片道大人350円で所要時間は30分ほど。。そこから地下道を通って国道R1を渡り誓願寺へ。この日はあいにくの雨で、10月ながら結構寒かった。
こちらは山門を通った先の参道。正面が本堂になる:
ここ誓願寺には、慶長19(1614)年の大坂冬の陣の開戦前に徳川方との交渉を任されていた豊臣家の家老で、かっては「賤ヶ岳七本槍」[n]後年では物事を大袈裟に宣伝するのが好きな豊臣秀吉より創作されたものとされている。の勇士と謳われた片桐且元《カタギリ・カツモト》公夫妻の墓所がある。
且元は、秀頼が秀吉追慕のために建立した京都方広寺の鐘銘「国家安康」の文字について徳川方の林羅山から指摘された『言いがかり』について徳川内府に申し開きするために、ここ誓願寺に滞在したと云う。
この後の顛末は「方広寺大仏鐘銘事件」として伝えられているとおり、且元は豊臣家と徳川家の板挟みになり、淀殿や大蔵卿からは内通を疑われるなどして豊臣家における居場所がなくなって出奔、東西手切れとなると家康に人質を送って従属したと云う。翌元和元(1615)年の大坂夏の陣で豊臣家は滅亡することになるが、徳川方にいて秀頼らの助命嘆願に奔走したものの叶わなかった。この夏の陣から20日後に京屋敷にて病死した。享年60。
ここ誓願寺にある且元夫妻の墓は、彼の子孫の片桐石見守貞昌《カタギリ・イワミノカミ・サダマサ》によって建立されたのだとか。
且元夫妻の墓所は本堂に向かって左手に入った一画にある:
こちらが片桐且元公夫妻の墓所:
向かって左が且元公の墓所。墓前には「方広寺大仏鐘銘事件弁明のため誓願寺に滞在した豊臣家重臣」と書かれていた:
こちらは誓願寺の境内から眺めた丸子城跡:
片桐且元公墓所と誓願寺 (フォト集)
【参考情報】
参照
↑a | 東海道五十三次で20番目の宿場である。東海道中で最も小さい宿だったとか。 |
---|---|
↑b | のちに駿河・遠江国守護となる今川家第9代当主・氏親。今川義元の父にあたる。 |
↑c | 俗に云う堀越公方の足利政和の勢力である。 |
↑d | 北川殿の弟で、伊勢宗瑞《イセ・ソウズイ》または早雲庵宗瑞《ソウウンアン・ソウズイ》とも。のちの北條早雲で、小田原北條家の始祖となる。 |
↑e | 当時、片道大人350円で所要時間は20分ほど。 |
↑f | 東京都中央区から大阪府北区へ至る現代の東海道にあたる。 |
↑g | 単に、城攻め当時は「誓願寺」の存在を知らなかっただけなのだけど。 |
↑h | 甲州流築城術では珍しく土塁が矩形になった角馬出《カク・ウマダシ》らしい。 |
↑i | 堀越公方・足利政和を補佐する関東管領・上杉正憲の娘が母親にあたる。 |
↑j | 小鹿派の負けは太田道灌の死と関東両上杉の対立から完全に後ろ盾を失った結果であった。 |
↑k | 「駿府」は駿河国府中の略である。 |
↑l | ちなみに北の守りは賤機山城と臨済寺、東の守りは愛宕山城、南の守りは八幡山城である。 |
↑m | 当時、片道大人350円で所要時間は30分ほど。 |
↑n | 後年では物事を大袈裟に宣伝するのが好きな豊臣秀吉より創作されたものとされている。 |
梅雨シーズンの合間をぬって城攻めにやってきたこの日は晴れの天気であったが、前日までは雨だったようで山の中に入ると大変な湿気だった。おまけに、このような坂道を登って行くと汗もかくので大変だった。