城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

月別: 2017年12月

大多喜城 − Ōtaki Castle

江戸時代に焼失した大多喜城の天守は昭和の時代に古絵図を元にして再建された模擬天守である

千葉県夷隅郡大多喜町にある大多喜城は、夷隅川(いすみがわ)[a]江戸時代には御禁止川(おとめがわ)と呼ばれていた。城主が魚を捕ることを禁止していたことが由来で、この川に住む「むらさき鯉」を将軍家に献上していたと云う。を天然の外堀とし、その蛇行による曲流に囲まれた半島状の台地の西北に築かれ、郭を西側の山塊が東へ延びた突端に並べていた連郭式平山城である。この城は大永元(1521)年に真里谷(まりやつ)武田信清[b]真里谷武田氏は上総武田氏の一族で、清和源氏の一門である源義光を始祖とする。武田家と云うと甲斐国の他に安芸国、若狭国、そしてここ上総国に庶流を持つ。が築城したと云われ、往時は「小田喜(おたき)」城と呼ばれていた。戦国期は天文13(1544)年に、安房国の里見義堯(さとみ・よしたか)が配下で「槍大膳」の異名を持つ正木時茂[c]小田原北条氏との国府台合戦で討死した正木大膳信茂の父にあたる。によって攻め落とされ、四代にわたって[d]正確には、最後の当主は里見義頼の次男で、嫡男がいなかった正木氏を継承した。上総正木宗家の居城となった。その後は天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原仕置で、徳川家康が三河国から関八州に国替させられた際に重臣で徳川四天王の一人である本多平八郎忠勝に上総国10万石[e]最初は同じ上総国の万喜城(まんぎじょう)に入城したが、翌年には小田喜に拠点を移した。を与えて里見氏の抑えとした。小田喜城に入城した忠勝は大改修を行い、本丸・二ノ丸・三ノ丸に縄張し直した上に、西は尾根を断ち切る空堀、南は夷隅川に落ち込む急崖、北と東は水堀を配し、さらに城下町を建設するなどして要害堅固な「大多喜城」が完成した。慶長14(1609)年に台風で遭難し保護されたスペイン人のドン・ロドリゴが大多喜城を訪れた際[f]この当時は忠勝の次男・忠朝が城主だった。、彼の著書『日本見聞録』にその大きく豪華な城の造りに驚いたと書き残している。

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参照

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a 江戸時代には御禁止川(おとめがわ)と呼ばれていた。城主が魚を捕ることを禁止していたことが由来で、この川に住む「むらさき鯉」を将軍家に献上していたと云う。
b 真里谷武田氏は上総武田氏の一族で、清和源氏の一門である源義光を始祖とする。武田家と云うと甲斐国の他に安芸国、若狭国、そしてここ上総国に庶流を持つ。
c 小田原北条氏との国府台合戦で討死した正木大膳信茂の父にあたる。
d 正確には、最後の当主は里見義頼の次男で、嫡男がいなかった正木氏を継承した。
e 最初は同じ上総国の万喜城(まんぎじょう)に入城したが、翌年には小田喜に拠点を移した。
f この当時は忠勝の次男・忠朝が城主だった。

丸子城 − Mariko Castle

丸子城の本曲輪の西側には大鈩曲輪との間に麓まで落ち込む大きな竪堀が設けられていた

旧東海道の鞠子宿(まりこじゅく)[a]東海道五十三次で20番目の宿場である。東海道中で最も小さい宿だったとか。を見下ろす通称、三角山(みかどやま)の頂上に築かれた丸子(まりこ)城は東西を泉ヶ谷(いずみがや)と大鑪(おおだたら)と云う深く大きな谷に挟まれた天然の要害で、室町時代後半から戦国時代にかけて駿河国守護今川氏の拠点であった駿府防衛で西側の関門として重要な役割を担った城の一つであった。山頂の本曲輪に向かう尾根上には大小の曲輪が土塁や竪堀・横堀、そして虎口を組み合わせながら連なるように配置されている。さらに弱点とされた城の南側には出曲輪や袖曲輪を効果的に配置して補強するなど巧みな縄張りを残しており、これは甲斐武田氏の駿河侵攻後に大きく拡張されたことによるものである。築城年は不詳であるが今川氏による支配が始まった南北朝時代にまで遡る説が有力である。そして今川家第8代当主で今川義元の祖父にあたる義忠(よしただ)が隣国・遠江の国人衆らの反乱鎮圧に向かい、その流れ矢に当たって落命してしまうと、僅か6歳の嫡男・龍王丸[b]のちに駿河・遠江国守護となる今川家第9代当主・氏親。今川義元の父にあたる。とその叔父・小鹿範満(おしか・のりみつ)[c]俗に云う堀越公方の足利政和の勢力である。との間で家督争いが起こり、龍王丸の生母である北川殿は、この時期に今川家の食客であった弟の伊勢新九郎[d]北川殿の弟で、伊勢宗瑞(いせ・そうずい)または早雲庵宗瑞(そううんあん・そうずい)とも。のちの北条早雲で、小田原北条家の始祖となる。の手を借りて丸子城に籠もることとなった。

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参照

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a 東海道五十三次で20番目の宿場である。東海道中で最も小さい宿だったとか。
b のちに駿河・遠江国守護となる今川家第9代当主・氏親。今川義元の父にあたる。
c 俗に云う堀越公方の足利政和の勢力である。
d 北川殿の弟で、伊勢宗瑞(いせ・そうずい)または早雲庵宗瑞(そううんあん・そうずい)とも。のちの北条早雲で、小田原北条家の始祖となる。