文明18(1486)年8月25日[a]これは西暦で換算したもので、陰暦だと7月26日にあたる。、主君・扇ヶ谷上杉定正(おうぎがやつ・うえすぎ・さだまさ)の居館である相州糟屋(かすや)館に招かれた太田道灌は入浴後に曽我兵庫祐賢(そが・ひょうご・すけかた)らに襲撃され右袈裟懸けに斬り倒された。享年55。曽我兵庫は太田家子飼いの武将の一人であって「江戸と河越との間の調停役」を務めるために定正の下へ遣わされていた人物であった[b]江戸城は太田道灌の居城、河越城は主君・上杉定正の居城で、道灌は主人との確執も予感していた。兵庫はのちに定正に重用されて重臣の一人となった。。この室町時代後期に文武両道で稀代の築城軍略家であった太田資長(おおた・すけなが)、号して備中入道道灌は扇ヶ谷上杉氏の家宰職にあって父・道真と共に享徳の乱や長尾景春の乱などで活躍した。それらの功により太田家の軍事力は主家を凌駕するまでに至ったとされ、それを妬んだ定正が謀反の嫌疑で誅殺するのではなどの噂が公然とたつほどであった。また扇ヶ谷上杉氏が補佐していた関東管領・山内上杉顕定(やまのうち・うえすぎ・あきさだ)も道灌に脅威を感じていた者の一人であったと云う。道灌は死に際に『当方滅亡』[c]自分が居なくなった主家に未来はないであろうという予言らしい。『寛永資武状』(かんえいすけたけじょう)より。と言い残したというが、その予言どおり扇ヶ谷上杉氏はのちに山内上杉氏と対立し、同じ相州で台頭してきた新興勢力の伊勢新九郎とその一族に所領を奪われることになった。
一昨年は、平成27(2015)年のそろそろ梅雨入りかと思わせながらも晴れ上がったとある週末に、神奈川県伊勢原市周辺にある太田道灌公の墓所を巡ってきた。ここ伊勢原市の上粕屋町(かみ・かすやまち)は、かって相模国守護であった扇ヶ谷上杉家の別館と云われる糟屋庄(かすやのしょう)なる居館があったところらしく、そこで公が謀殺されたと伝わっているが、実際のところ、その館跡の子細については何も分かっていないらしい。ただ、その近隣には公のものと伝わる胴塚や首塚が残っていた。
まず、こちらは洞昌院(とうしょういん)と云う曹洞宗の寺院前に建っていた「観光めぐり〜太田道灌公の墓付近をたずねて〜」なる伊勢原市による公ゆかりの地の案内板である。ちなみに、この洞昌院は小田急伊勢原駅北口からバスで10分もかからない場所にある[d]最寄りのバス停は「道灌塚」(当時は片道175円だった)。:
室町時代中期から戦国時代初頭にかけて関東地方は「中央」の京都から見れば「東国」にある僻地の一つであった。その関東では中央から派遣された二人の公方と、同じく中央から任命された地元の守護らを中心に、そのほか多くの国衆や地侍連中を巻き込んだ権力闘争が繰り広げられていた。そもそも中央の将軍に相当する「公方」が関東に二人いる時点で勢力争いの種となるのは予想できるのだが、そこに関東独特の土地柄や複雑な相続関係、そして主従の思惑なども絡みあい、一種の秩序不安定な「乱世」を形成していた[e]その後は『応仁の乱』と『下剋上』が付け加わって、日本は本格的な地方争乱の戦国時代に突入する。。
こちらは文明3(1471)年ごろの関東の勢力図。この時代は「享徳の乱」の真っ只中で、古河公方と堀越公方、そして関東管領らが三巴の戦いを展開してた:
鎌倉公方(足利成氏)による関東管領(山内上杉憲忠)の謀殺を発端とした享徳の乱(きょうとくのらん)は享徳3(1454)年から28年間、関東一円の国衆・地侍らを巻き込んだ内乱である。この乱で関東の政権は二分され、室町幕府と(有名無実の)堀越公方、それを補佐する関東管領・山内上杉氏、そして相模国の守護・扇ヶ谷上杉氏らの勢力は利根川と荒川[f]この時代の利根川は荒川と合流して隅田川となり江戸湾へ注いでいた。を挟んで古河公方らの地方勢力と対峙していた。
こちらが享徳の乱時の簡単な勢力図:
ここで山内上杉氏の関東管領を実質的に取り仕切っていた家宰(家老)職は代々、長尾家が務めることになっており、長尾家の分家(白井・惣社・犬懸・足利)で持ち回っていた。一方の相模守護・扇ヶ谷上杉氏の家宰は太田家である。ちなみに「山内」と「扇ヶ谷」の両上杉氏はともに相模国鎌倉郡を拠点としていた武士団で、現在でも神奈川県鎌倉市には「山ノ内」と「扇ヶ谷」といった地名が存在している。
この時代に扇ヶ谷上杉氏の家宰を務めていた太田資清(おおた・すけきよ)の嫡子として、永享4(1432)年に相模国で生まれた道灌は幼名が鶴千代、元服して源六郎持資(げんろくろう・もちすけ)、のちに資長(すけなが)と称した。「道灌」は彼が47歳で出家してからの号である。
幼少時代から非常に利発で周囲から神童と噂された道灌は9歳から11歳まで鎌倉五山の寺院[g]京都にある臨済宗の五大寺格であった「京都五山」に並ぶ東国の、いわゆる禅宗のメッカに相当する。一説に建長寺とも云われている。で学問を修めた。そして享徳の乱最中の康正元(1455)年、道灌は24歳で家督を継いだ。
次は室町時代の軍記物の一つで、現代においても信頼性の高い史料とされる『永享記(えいきょうき)[h]永享記の現代語訳を公開している芝蘭堂さんのホームページが参考になる。』にある「19. 太田道灌の事。」の一説:
「道真の一男千代丸とて、世に隠れなき童形あり。九歳の比(ころ)より學窓に入り、十一歳の秋迄終(あきまでつい)に不帰父家(いえにかえらず)。蛍雪の功積て五山無双の学者たり。」
このような生い立ちから幼少時の道灌は持ち前の頭の回転の早さと類稀な修学力でしばしば大人さえも舌をまくことがあったらしく、父・資清があまりに才気走る息子・鶴千代を諌めたと云う問答が残っている:
父: 「昔から智謀のあるものは偽りが多いと申す。偽りの多い者はとかく禍をこうむるものだ。人は真っ直ぐであるのが良い。例えば障子のようなものだ。真っ直ぐゆえに立ち、曲がれば立たたぬものだ。」
それを聞いた鶴千代はいきなり部屋を出て屏風を引きずって戻り、こう答えた。
鶴千代: 「父上、なれど屏風は真っ直ぐでは立ちませぬが、曲げればほれ、このように見事に立ちまするぞ。」
父: 「・・・・・」
父は顔を朱にして返答に窮してしまったと云う。
他にも次のような挿話がある:
床の間に掛けた「驕者不久(おごるものはひさしからず)」なる大書を背に父・資清は鶴千代を呼んで、この掛け軸の意味を問うた。
鶴千代は返答する代わりに「父上、その書に二字を書き加えさせて下され」と云って、許可をもらうと「不」と「又」という文字を書き入れた。
「不驕者又不久(おごらざるものもまたひさしからず)」
さすがに激怒した資清が扇子で打とうとすると、鶴千代はさっと逃げてしまったと云う。
道灌は家督を継いだ翌年に古河公方に対抗して、それまで居た武蔵国荏原郡品川(むさしのくに・えばらぐん・しながわ)から同じ武蔵国の豊嶋郡(としまぐん)にある江戸に居を移して江戸城の普請を始め、一年ほどで完成をみている。と云っても勿論、現代の皇居が建つ近代城郭の江戸城ではない。さらに江戸の地は道灌創始ではなく、それよりも300年前から住み着いていた豪族・江戸氏の居館跡である。往時の江戸城は、それまでの山城主義[i]代表的な例は楠木正成が築い千早城や赤坂城で、彼が築いた戦術的な城郭はこれまでの武士の戦い方を一変させることになった。から大きく転換して、平地にある天然の台地を利用して本郭・二ノ郭・三ノ郭といった複数の郭(くるわ)と人工的に嗽た(うがいた)堀と土塁を追加することで防御力を格段に向上させた「中世城郭の先駆け」となる城だった。ちなみに道真・道灌父子は既に武蔵国入間郡に河越城を、そして埼玉郡に岩付城を築いているが、これらの城と共に道灌が発案した「足軽戦法」を実現すべく多くの兵士を駐屯させてすぐにも出撃できる拠点として利用されることになった。
そして、享徳の乱の最中の大きなイベントが京都における応仁の乱[j]応仁元(1467)年から約11年続いた全国規模の内乱である。と山内上杉氏の家宰職の継承に不満をもった長尾景春による反乱である。後者は道灌が室町幕府の命令で駿河国今川氏の家督争いの援軍として駿河に駐留していた留守を突いての蜂起であった[k]最終的には、敵方として同じく援軍として進駐していた北条早雲こと伊勢新九郎を介して和議を結ぶこととなった。:
景春の従兄弟にあたる道灌は再三の勧誘を断り、山内上杉顕定へ景春の懐柔策[l]一説に武蔵国の守護代に任命するなどで景春を宥め(なだめ)ようとしたと云う。を進言するも聞き入れられず、最終的には景春らを組み入れた古河公方の勢力といっそう激しく対立することになった。
この時、道灌は景春勢に呼応した石神井城の豊島泰経(としや・やすつね)らを電撃的に打ち破り、さらに矢野兵庫が籠もる小机城を包囲[m]道灌が兵士らを鼓舞するために作った「小机は先ず手習いのはじめにて、いろはにほへとちりぢりになる」なる歌は有名である。し落城させた。さらに下総千葉氏を「自称」する千葉孝胤(ちば・のりたね)を境根原(さかいねはら)合戦で痛破し、孝胤と千葉氏当主の座を争っていた千葉自胤(ちば・よりたね)を味方につけて道灌は臼井城・臼井田宿内砦で弟の太田図書資忠(おおた・ずしょ・すけただ)と太田家譜代の勇士らの多くを失うも辛くも勝利した。
打てばことごとく当たる道灌の戦略と見事な軍略を前にして連戦連敗となった景春勢をさし置いて、文明14(1482)年には山内・扇ヶ谷両上杉氏と古河公方との間に和議が成立、ここに30年近く続いた享徳の乱は終結した。この功により道灌の威望と実績はますます大きくなり、扇ヶ谷上杉氏の上に君臨する山内上杉氏にとっても道灌の存在が脅威となってきた。もし景春と道灌が手を結ぶようなことがあれば、両上杉氏の存在が危うくなるのは誰の目から見ても自明であった。
そして享徳の乱の終結から4年経った文明18(1486)年に道灌は主人の館で謀殺された。辞世の句は残っておらず、いつからか『当方滅亡』なる言葉のみが現代に伝わる。道灌死後、山内・扇ヶ谷上杉両氏は約18年間も争うことになった上に、享徳の乱後に伊豆へ隠遁していた堀越公方を攻めて追放した伊勢宗瑞にその間隙をに突かれ、宗瑞の孫の代の伊勢新九郎氏康(のちの北条氏康)によって扇ヶ谷上杉氏は滅ぼされることになり、まさしく道灌が予言したとおりになった:
伝・扇ヶ谷上杉氏館(糟屋館)跡とその周辺
太田道灌は、文明18(1486)年8月25日に相模国糟屋にあった主人の館「府第(ふてい)」の新築祝いに招かれ、館の一角にある蒸し風呂の小口から出てきたところを曽我兵庫に襲われた。場所としては、現在の神奈川県伊勢原市上粕屋にある産業能率大学(産能大)湘南キャンパス付近であるらしいが、そこで昭和50(1975)年に実施された発掘調査では遺構は発見されなかっため実際のところは不明なのだとか。
往時、相模守護であった扇ヶ谷上杉持朝(おうぎがやつ・うえすぎ・もちとも)はその守護所(政庁)を、ここ糟屋に置いていた。その三男・上杉定正(うえすぎ・さだまさ)は、のちに道灌の進言で河越城を築いて拠点を移したがここ糟屋の館は残されていたとされる:
現在は、明治時代から上粕屋に残る立原、的場、そして馬防口(ませぐち)といった地名から産能大がある台地が館跡として有力なのだとか。この東西に延びた舌状台地(東西1600m、南北700m)に加えて、その南・北・東側の三方は堀に囲まれていたと云う。その堀幅は最大100mもあったのだとか。
これは案内板に描かれていた「からぼり」付近で、洞昌院から伝・上杉糟屋館跡へ向かう途中にあった谷津:
洞昌院から歩いて10分ほどのところにあり、ちょうど道路が土橋のような位置にあった。しかしながら幅がかなり広いので、道路を通した際に改変されていないのであれば、普通の谷であったと考えられている:
こちらは谷津(空堀跡)を挟んで伝・上杉糟屋館跡の南側に建っていた上粕屋神社。勧請の年月は不明であるが、この社殿は江戸時代は元禄4(1691)年頃の再建らしい:
そして上粕屋神社と洞昌院との中間くらいに「七人塚」と呼ばれる墓所があった。これは道灌の護衛として江戸城から付き従ってきた家臣の墓所とのこと:
実際には道灌が謀殺された際に刺客らの襲撃を一手に引き受けて討死した家臣七名の墓のうちの一つが移設された場所で、もともとは上粕屋神社の境内に七つ並んでいたが、明治末の開墾作業で一つだけ残された供頭のものがここに移されたのだとか。七名の家臣には若年ながら太刀の達人で、常に道灌の側から離れなかった新井太兵衛の他、鶴丸、四郎次郎、祐介、男女之介、勘介、権左衛門といった馬上足軽の身分の者であったと云う:
伝・扇ヶ谷上杉氏糟屋館跡(推定)
神奈川県伊勢原市上粕屋1418
蟠龍山洞昌院
蟠龍山(ばんりゅうざん)洞昌院(とうしょういん)は関東管領・山内上杉氏が政治を執り行った公所に由来する場所に建つ禅宗の寺院である:
この境内の一角の玉垣をめぐらした中に道灌公の胴塚と呼ばれる宝篋印塔(ほうきょういんとう)が建っていた。この両脇に立っている大木は道灌死後50年ほどの頃に植えられていたものだとか:
死後は洞昌院の裏山で荼毘に付され、ここに胴を、そして下糟屋の大慈寺に首を葬ったと伝わる:
文武両道に優れた道灌公の若年は武略のみを心がけ、文の道は顧みなかったとされる。しかし「鷹狩と山吹の里」として語りつがれたように後年は歌や学問も志した。都より後進の東国に生まれ、東国で育った武将の中で都の文人にも劣らなかった文化人としても一流であった。
洞昌院
神奈川県伊勢原市上粕屋1160
このあとは徒歩で東名高速道を越えて「道灌濠」なる千石堰用水跡を見たあとに近くにあった豚丼屋でお昼を摂り、さらに小田急伊勢原駅まで歩いて移動した。そして駅北口から粕屋経由愛甲石田駅行(伊76)のバスに乗って道灌公のもう一つの墓所へ向かった[n]最寄りのバス停は「中沢中学校前」(当時は片道186円だった)。。
法雨山大慈寺
法雨山(ほううざん)大慈寺(だいじじ)は元々は鎌倉にあった臨済宗・鎌倉建長寺の末寺で、道灌公がここ伊勢原に移したものとされている。中興の開祖は道灌公の叔父とも甥とも伝わる周嚴叔悦禅懌(しゅうげんしゅくえつぜんえき)禅師:
山門と本堂。なお道灌公の墓所はこちらの境内ではなく道路を挟んだ西側にある:
こちらは大慈寺所蔵の太田道灌画像の写真:
そして道路を渡って西側にある公の墓所へ移動した:
かっての下糟屋の集落を東西に流れる渋田川に面したところに公の墓所ある:
江戸時代は文化・文政期の地誌『新編相模風土記稿』(しんぺん・さがみ・ふどきこう)[o]国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる。によると、墓所の周囲は水田で三基の五輪塔が建ち、中央の塔が公の首塚とされている:
公の戒名は「大慈寺殿心円道灌大居士」。そして、ここの墓所はいつからか「首塚」と呼び習わされ、現在は伊勢原市指定文化財となっていた:
大慈寺
神奈川県伊勢原市下糟屋364-1
このあとは徒歩10分ほどのところにある伊勢原市役所へ。市役所前には太田道灌公の銅像があった:
お馴染みの鷹狩姿であった:
このあとは伊勢原市を出て鎌倉市へ。小田急、相鉄、JRと乗り継いで1時間以上かかったけど。
東光山英勝寺・亀谷山寿福寺の周辺
鎌倉駅東口を出てJR横須賀線沿いに源氏山公園へ向かって行くと東光山(とうこうざん)英勝寺があるが、その英勝寺近辺にも道灌公にゆかりの場所と首塚が残っていた。
ここ英勝寺は相模国鎌倉郡で唯一の浄土宗の尼寺で、元々は太田家の屋敷があった場所とされている。この尼寺は道灌公の子孫にあたる太田康資(おおたやすすけ)の娘で、のちに徳川家康の側室となったお勝局(おかつのつぼね)[p]出家して英勝院と名乗る。「戦では必ず勝利をもたらした」と云う験を担いで「お勝」と呼ばれた。後に家康の命により水戸家初代藩主・徳川頼房の養母となった。が家康の死後、徳川三代将軍・家光から先祖の土地を拝領して寛延13(1636)年に建立したと云う[q]今回は残念ながら時間の都合で拝観しなかった。。
まず英勝寺境内に建つ「太田道灌邸旧跡」の碑:
そして英勝寺前の踏切を渡った先に「扇ヶ谷上杉管領屋敷跡」の碑が建っていた。ちょうど鎌倉鶴岡八幡宮、建長寺、英勝寺、そして寿福寺がある辺りは現在でも「扇ヶ谷」と呼ばれているらしい:
このあとは英勝寺とその南側にある寿福寺(じゅふくじ)の裏(西側)にある墓地から源氏山公園へ向かった。この寺は鎌倉時代の初代征夷大将軍であった源頼朝公が没した翌年に、彼の妻・北条政子が建立した鎌倉五山の寺の一つで、三代将軍の源実朝(みなもとさねとも)公とその母である政子自身の墓(五輪塔)がある他に、俳人・高浜虚子や作家・大佛次郎(おさらぎ・じろう)といった著名人の墓があるらしい:
夕暮れと静寂に包まれる墓地の参道を源氏山公園へ向かって登って行くと、その脇に太田道灌公の首塚なる碑と五輪塔があった。此の墓碑には「太田道灌齋大居士」と刻まれており、文政9(1826)年に水戸徳川家の子孫である英勝寺住職がそれまであった墓所を再建したものらしい:
東光山・英勝寺
神奈川県鎌倉市扇ガ谷1-16-3
太田道灌公墓所巡り (フォト集)
【参考情報】
- 洞昌院・大慈寺・英勝寺などに建てられていた説明板・案内図
- 『小説太田道灌』(馬場駿 2006年)
- 歴声庵 (神奈川県伊勢原市:太田道灌墓所、上杉氏糠谷館跡)
- 茅ヶ崎の釣り好き父ちゃんのサイト(伊勢原・太田道灌公の墓地)
- 埋もれた古城(伝上杉氏館)
- 太田道灌(今、時代は再び太田道灌)のサイト
- Wikipedia(太田道灌)
- 『叛鬼』(伊藤潤 2014年 講談社文庫)
- 『戦国軍師列伝』(加来耕三 2013年 人物文庫)
参照
↑a | これは西暦で換算したもので、陰暦だと7月26日にあたる。 |
---|---|
↑b | 江戸城は太田道灌の居城、河越城は主君・上杉定正の居城で、道灌は主人との確執も予感していた。兵庫はのちに定正に重用されて重臣の一人となった。 |
↑c | 自分が居なくなった主家に未来はないであろうという予言らしい。『寛永資武状』(かんえいすけたけじょう)より。 |
↑d | 最寄りのバス停は「道灌塚」(当時は片道175円だった)。 |
↑e | その後は『応仁の乱』と『下剋上』が付け加わって、日本は本格的な地方争乱の戦国時代に突入する。 |
↑f | この時代の利根川は荒川と合流して隅田川となり江戸湾へ注いでいた。 |
↑g | 京都にある臨済宗の五大寺格であった「京都五山」に並ぶ東国の、いわゆる禅宗のメッカに相当する。一説に建長寺とも云われている。 |
↑h | 永享記の現代語訳を公開している芝蘭堂さんのホームページが参考になる。 |
↑i | 代表的な例は楠木正成が築い千早城や赤坂城で、彼が築いた戦術的な城郭はこれまでの武士の戦い方を一変させることになった。 |
↑j | 応仁元(1467)年から約11年続いた全国規模の内乱である。 |
↑k | 最終的には、敵方として同じく援軍として進駐していた北条早雲こと伊勢新九郎を介して和議を結ぶこととなった。 |
↑l | 一説に武蔵国の守護代に任命するなどで景春を宥め(なだめ)ようとしたと云う。 |
↑m | 道灌が兵士らを鼓舞するために作った「小机は先ず手習いのはじめにて、いろはにほへとちりぢりになる」なる歌は有名である。 |
↑n | 最寄りのバス停は「中沢中学校前」(当時は片道186円だった)。 |
↑o | 国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる。 |
↑p | 出家して英勝院と名乗る。「戦では必ず勝利をもたらした」と云う験を担いで「お勝」と呼ばれた。後に家康の命により水戸家初代藩主・徳川頼房の養母となった。 |
↑q | 今回は残念ながら時間の都合で拝観しなかった。 |
本稿執筆中に見つけた「太田道灌」なるサイトで、2020年の東京オリンピックの年に太田道灌をNHK大河ドラマの主人公にしようと頑張っている運動を見かけた。ホント、ドラマでも映画でももっと太田道灌を取り上げるべきだと思った。おまけに、この陳情をあげた人は道灌の末裔らしい。
本日は令和元(2019)年7月15日に横浜市歴史博物館で開催されていた「道灌以後の戦国争乱」なる企画展を観覧してきた。どちらかと云うと道灌の孫・ひ孫についての情報が主で、戦国時代に呑まれて消えてしまった武将としてのイメージが大きかったなぁ。