栃木県佐野市富士町にある唐澤山城[a]現代は「唐沢山城」と綴るが、ここでは固有名である城名は『唐澤山城』、その他の地名などは当用漢字の「唐沢山」とした。は県南部の唐沢山一帯に複数の曲輪を配し、標高242mの山頂に本丸を持つ連郭式山城で、周囲を急崖と深い谷に囲まれた天然の要塞をなし、山麓に広がる根小屋(ねごや)地区との比高差は約180mにも及ぶと云う。その城域からの眺望は関東八州を一望に、遠く北より日光連山、西に群馬連山や秩父、南アルプス、秀峰富士、そして東に筑波山を眺めることができたと云う。築城は田原藤太(たわらのとうた)こと藤原秀郷(ふじわらのひでさと)公により、今から一千年以上前の平安時代中期は延長年間(923〜931年)とされている。公は下野国(しもつけのくに)の在庁官人である押領使(おうりょうし)[b]現代で云う軍人または警察官職のこと。の役に任ぜられ、父祖伝来の此の地に城を築いて善政を施したと云う。公が征東大将軍に任じられ平将門追討で功をなした後はその末裔が代々城主となり、戦国時代には後裔氏族[c]藤原秀郷の子孫は中央(京都)には進出しなかったため、関東中央部を支配する武家諸氏の祖となった。の一つである下野佐野氏の居城として中世山城の城郭に整えられたとされる。そして佐野氏第15代当主・昌綱(まさつな)は小田原の北条氏康と越後の長尾景虎の二大勢力のはざまにあった中で長尾氏につくと、永禄3(1560)年に唐澤山城は北条氏政率いる35千人の大軍に包囲された。
一昨年は、平成27(2015)年の梅雨入り前のよく晴れた週末に栃木県にある城を攻めてきた。自身初の栃木県入りで選んだ記念すべき最初の城は関東七名城[d]誰が云ったかは知らないが、他に河越城、忍城、厩橋城、新田金山城、宇都宮城、多気城がある。の一つである唐澤山城。この日はJRを乗り継いだ先の久喜から東武伊勢崎線で館林へ移動し、そこから東武佐野線に乗り換えて田沼駅で下車。ここまでざっと3時間ほど。それから県道R115をひたすら東へ。この時期に水が枯れた秋山川を渡って唐澤山の麓までの2.7kmを歩くこと20分。現在、唐澤山城が建つ唐沢山一帯は栃木県の自然公園の一部でハイキングコース(PDF)が整備されていて、そのコースの一部となっている「関東ふれあいの道[e]県道R115を車で登れば唐澤山城に至るが、それに対してこちらは旧道にあたる。」なる山道をさら20分ほど登ると城跡に到着する。そこへ行くだけでも結構な時間がかかるが、その価値は十二分にあった。
唐沢山の麓にある無料駐車場には「国指定史跡・空和佐山城跡案内図」があった。かなりデフォルメされてはいるが、城攻めのポイントがしっかり盛り込まれているので城址へ登る前に確認しておくのがオススメ:
こちらはGoogle Earth 3Dで城址を中心とした唐沢山周辺を俯瞰したもの(上が北側):
山頂付近には西から東へ向かって延びる尾根上に複数の曲輪を配し、急峻な崖には幾段もの段曲輪が設けらていた上に、本丸周辺には400年以上も前に築かれた高さ8mを越える高石垣が残っていた:
永禄3(1560)年、北条氏康の子・氏政が率いる大軍に唐澤山城を包囲されていた城主・佐野昌綱は越後の長尾景虎のもとへ救援を求め、景虎率いる越後勢の後詰を期待して籠城した。一方の北条氏康は、この堅牢な山城を攻略することで反北条派であった他の関東諸将を小田原方に下らせる絶好の機会と考えていた。
8千の兵を率いて唐澤山城へ向かった景虎は、城の西方5里に至ると進軍を停止し、自ら物見に出て城の攻防戦の様子を検分した。ここで景虎は驚くべく行動に出る。『関八州古戦録』によると、景虎は本隊を後詰に置き、総勢わずか45騎で35千の敵中を通過して城中へ入ったと云う。この時の景虎は甲冑をつけず、黒馬に金覆輪(きんぷくりん)の鞍を置いて騎乗し十文字の槍を掲げた。彼の前には「無」の文字の旗を押し立てた槍奉行と大太刀を担いだ16人の屈強な若侍、そして白布で鉢巻をした12人の騎馬武者が前駆した。さらに景虎の周りには白布で鉢巻をした徒歩立ちの近習が警固したと云う。45人の一団が畏れる気配もなく大軍の真っ只中へ分け入っていくと、十重二十重に唐澤山城を包囲していた敵兵は気を呑まれ誰も手出しできず、黙って道を開いた。氏政は毘沙門天の化身である越後の大将の並外れた胆力に恐怖し、包囲を解いて退却したと云う。
長尾景虎が唐澤山城へ乗り込んだ時のように、最寄り駅である東武佐野線の田沼駅から県道R115沿いに西から東へ歩いて行くと唐澤山城跡の遠景を望むことができた。この辺りから城址のある山頂までは比高180mほど:
唐澤山城の西側を守る「天然の外堀」は利根川水系渡良瀬川支流の秋山川であるが、6月なのに水が枯れていた:
秋山川に架かる唐沢橋を渡り駐車場を過ぎると唐澤山神社の鳥居が見えてくる:
このまま道なりに登って行くとハイキングコース(関東ふれあいの道)の登山口が見えてくる。案内板によると唐澤山神社のある城跡まで約0.9kmらしい。ちなみに、このまま県道R115に沿って登っていくことも可能だが、このハイキングコースを使った方が近い:
そして実際に登る前に、こちらが今回の城攻めルート:
まず登城口から旧道(関東ふれあいの道)を使って山頂まで移動し、城域西側から本丸を経由して東側と南側にある曲輪の一部へ、それから現在はキャンプ場が置かれている北東側の曲輪まで順に攻めてきた。しかしながら、実際には見所が多くて行ったり来たりすることになったが。予想外に広範囲に歩き回ったので、おおよその所要時間は(昼休みを入れて)約3.5時間くらい:
東武佐野線「田沼」駅 → (秋山川) → 登城口 → (横堀・土塁) → ①土矢倉跡 → ②鏡岩 → ③蔵屋敷跡(レストハウスでお昼) → ④喰い違い枡形 → ⑤天狗岩 → ⑥西城跡 → ⑦大炊井 → ⑧腰曲輪 → ⑨避来矢の砦 → ⑩四つ目堀 → ⑪三つ目堀 → ⑫帯曲輪跡 → ⑬三の丸跡 → ⑭二つ目堀 → ⑮桜馬場跡 → ⑯本丸高石垣 → ⑰二の丸跡 → ⑱本丸跡 → ⑲引局跡 → ⑳南城跡 → ㉑車井戸 → ㉒武者詰跡 → ⑰二の丸跡(北側虎口) → ㉓長門丸跡 → ㉔金の丸跡 → ㉕杉曲輪跡 → ㉖北城跡 → ㉗鳩の峰跡 → ㉘北東端の曲輪跡 → ㉙北城北東の石垣 → ・・・ → ③蔵屋敷跡 → (旧道) → 登城口 → 東武佐野線「田沼」駅
登城口を過ぎて最初は比較的緩やかな旧道(登城道)を登っていくと、進行方向に向かって右手下に急崖が出現する:
その急崖下は登城道と並行して横堀と土塁が走っていた:
後半は急な坂道なるが、概ね整備されていて歩きづらいことはない:
山頂近くになると簡易階段が出現するが、最後の急坂を登って山頂へ:
旧道を登り切った先には県道R115と駐車場が見えてくる。その先が唐澤山城跡となる:
一度は長尾景虎に従属を誓った佐野昌綱であるが、越後勢が帰国した後、国境の裁定に不満を持った上に小田原北条氏の勢力が拡大するにおよんで、ついに離反して北条氏康に従属した。景虎は、翌永禄4(1561)年に相模小田原城に籠もる氏康殲滅の前哨戦を再開し、前年に小田原方の手に陥ちた武州松山城を猛攻して落城させたあと、昌綱と同様にのちに景虎に反旗を翻した上野和田城[f]のちの高崎城である。の和田業繁(わだ・のりしげ)や常陸小田城の小田氏治(おだ・うじはる)を攻撃し陥落させると、ただちに反転して唐澤山城を攻め、城方の善戦をものともせずに猛攻を繰り返した。景虎は情けをかけるが、仇をかけた相手は容赦しなかった。たまらず昌綱は謝罪して従属を誓った。
城跡に入る前に神の蔵と呼ばれる尾根に設けられた①土矢倉跡へ:
この土矢倉の崖側には石垣が一部残っていた:
この後もすぐには城跡に入らずに県道R115を南へ少し下りた大手道付近にある②鏡岩へ:
一見するとただの岩石であるが、伝説として長尾景虎が唐澤山城を攻めた際に西日を浴びた岩石が輝いて、寄手の越後勢の目をくらまし、その進軍を妨げたという。確かに岩の表面をよく見ると研磨されているようにみえる。一説には越後の精兵らの猛攻による兵火で岩面が焼かれてしまい、鏡面部分が相当けずられてしまったのだとか:
この鏡岩が唐澤山城の西側を向いていると云うことで、その眺望は素晴らしかった。空気が澄んでいれば群馬県の連峰や日光の男大山を拝めるのだとか:
残念ながらこの時期は木々が多く視界が狭かったため実現しなかったが、運が良ければ唐澤山城の北西にある男大山も拝めるようだ。また佐野市本光寺は唐澤山城主佐野家の菩提である。往時は秋山川の近くにあったらしい:
この後は大手道を通って城跡へ移動した:
大手門跡を登った先が③蔵屋敷跡である。現在はレストハウスの他に足尾山神社が建っている:
一旦レストハウスで昼休みをとってエネルギーを補給した。これはレストハウスで入手した「唐沢山城跡案内図」:
そして、こちらが城跡の入口。この上の丘陵は避来矢(ひらいし)の砦跡で、二段の腰曲輪が周囲を取り巻き、現在は避来矢山(ひらいしやま)霊廟が建っている:
これは「国指定史跡・唐澤山城跡」の碑。平成26(2014)年に国の史跡に指定された:
こちらが④喰い違い枡形。北にある避来矢(ひらいし)の砦と南の天狗岩との間の大手を防備する虎口で、往時は城門(大手表門)が建っていたと云う。この虎口は土塁を喰い違いに配置して、簡単には寄手を直進させないようにする工夫がされたいわゆる「喰い違い虎口」で、その先は枡形になっていた:
喰い違い枡形の南側にあるのが⑤天狗岩。「大険山」とも例えられる天然の奇岩で、往時は山頂からの良好な眺望を活かし、広く周囲を見張るために物見櫓が建っていたと云う:
脇にある石段を登っていくと巨岩が剥き出しになっていた:
この上を歩いて岩の突き出た城跡南面へ向かう。さすがに「唐沢七名石」の一つである。歩くだけでも靴底が痛くなる:
往時は、この辺りに三層の物見櫓[g]太鼓櫓との説もあり。が建っていたとされる。現在は「唐沢山天狗岩展望台」となっていた:
その展望台から関東八州を見下ろす。空気が澄んでいれば遥か南の新宿副都心の高層ビル群や富士山を眺めることができるのだとか:
この後は天狗岩を降りて⑥西城(天徳丸)跡へ。ここには石垣が少し残っていた:
西城跡から遊歩道を挟んだ北側には⑦大炊井(おおいのい)があった。東西32.7m、南北36.4mの広さを持ち、四つ目堀より東側にある帯曲輪より20mほど低い場所にあるので、大炊井側に高い土手が築かれていた。井戸は7.28m四方で、水ぎわまで1.82m、井戸中央の深さは9.1m、井戸の底に八角形の松材の枠が組まれ、その下を掘り抜いてあると云う:
唐澤山城の築城に際して厳島大明神に祈請(きせい)した際に掘られた井戸で、山上にありながらも現在まで枯れることなく水を湛えていると云う:
大炊井の側には「唐澤山八大龍王神」の祠と巨石があり、唐澤山御祭神である藤原秀郷公の蜈蚣(むかで)伝説が縁起となっていた:
この後は城跡入口で見上げた避来矢(ひらいし)の砦があった避来矢山(ひらいしやま)へ。この砦は二段の腰曲輪で囲まれた丘陵で⑩四つ目堀を背後から守備する外城の扱いだったと考えられている。
まず、こちらが一段目の⑧腰曲輪跡:
それから石段を登って二段目の⑧腰曲輪跡へ。この曲輪は組屋敷と呼ばれ、家臣の屋敷の他に武具蔵や兵糧蔵が建っていたと云う。長尾景虎率いる越後勢の攻撃で焼け落ちたそうで、そこからは遺構として焦げた米が出土した:
さらに石段を登った先には東西25.5m、南北32.8mほどの削平地があり、往時は⑨避来矢(ひらいし)の砦であった。現在は避来矢山霊廟が建っていた。「避来矢」とは藤原秀郷公が蜈蚣(むかで)を退治した時に龍神より贈られた鎧の名前なのだとか:
避来矢の砦跡を下りたところ。左手が砦の腰曲輪跡、右手が東城側で、少しだけ四つ目堀が見える:
このまま⑩四つ目堀の堀底を歩いて神橋が架かる遊歩道まで移動した:
この四つ目堀は、本丸がある城山と避来矢の砦との間の谷を利用して造られた幅9.1m、深さ3.64mの堀切で、城内で最も規模が大きいもの。この堀切を含め、東の本丸から西の大手門へ四本の堀切が設けられていた:
現在、四つ目堀には石造りの神橋が架かっているが、往時は木造の曳橋(ひきはし)で、いざという時は橋を引き揚げて寄手の侵入を防ぐ役割を担ったと云う。実際、長尾景虎(上杉謙信)ら越後勢はこの四つ目堀まで侵攻し、昌綱はここを境に侵攻を食い止めて落城を免れたと云う:
往時はもっと深かったと云う四つ目堀は、このまま南側の急斜面へ落ち込み山肌に食い込んでいた:
このまま神橋を渡って城の東側へ。その途中にわずかながら崖下に落ち込んだ⑪三つ目堀が見えた:
そして⑫帯曲輪跡。これは四つ目堀と三の丸の間に位置し北東へ土塁を巡らした細長い月形の曲輪である。三の丸より20m低く、四つ目堀からは高さ30.3mの場所に位置しており、別名は武者曲輪:
侵入してきた寄手を攻撃する城内で最も規模の大きな陣地であり、土塁に囲まれていた:
帯曲輪跡の東側にある石段を登って三の丸へ向かっていく途中には石垣が残っていた:
石段を登りきった三の丸虎口付近にも一部が落石していたものの、しっかりと石垣が残っていた:
そして⑬三の丸跡。東西27.3m、南北54.6mの城内最大の広さを持つ半月形の曲輪で、主に賓客を応接する建物が建ち、それに伴い詰所や厩舎があった:
三の丸跡から東へ進んでいくと馬場橋と云う橋があり、その下が堀切となっていた。これが⑭二つ目堀:
二つ目堀の下には1.8mほどの幅を持つ山道があり、通称、⑮桜馬場(さくらのばば)と呼ばれる馬の調練場だった。桜が多いのでこの名が付いたのだとか:
三の丸跡からさらに東へ向かって歩いて行くと、遠くに⑯本丸高石垣が見えてきた:
この高石垣下は表御殿があった取次の丸と云う曲輪で、この城の政庁(指揮所)が置かれていた:
この本丸高石垣は築城当時のままであるらしい。現在、高石垣の下には山桜が植えられているが、往時は下乗札が建っていたと云う:
廃城後の現在、一部の石垣が崩れていたがほぼ良好な状態で残っていた:
本丸南側の遊歩道はそのまま南城跡へ向かっていたが、この後は反対方向へ戻って二の丸跡へ進むことにした:
こちらが二の丸(南側の)虎口。ちなみに現在、二の丸には南側と北側とに虎口があるが、北側の虎口は明治の時代に石垣を壊して作ったものらしい:
こちらは二の丸跡の中から見た虎口。枡形を伴わない平入り虎口になっているのが分かる。左手が本丸石垣、右手が二の丸石垣である:
⑰二の丸跡に建つ神楽殿。ここは東西34.6m、南北20mの矩形をした曲輪で、往時は奥御殿直番(おくごてん・じきばん)の詰所があったと云う。また、ここから「延徳4(1493)年12月15日」と刻印された礎石が出土されようで、おそらく室町時代中期の城主・佐野盛綱が城の修築を行った時のものとされている:
ここ二の丸は本丸へつながる大手虎口の守りを固めていた曲輪であり、三の丸に面す西側は高さ2.12mほどの石垣で囲まれ、その上の三方には多聞櫓が建っていた:
二の丸西側を囲む武者走り状の石垣。この上に多聞櫓が建っていたとされる:
二の丸跡にあるもう一つの(北側にある)虎口がこちら。本来は存在しない虎口だが、本丸跡に唐澤山神社が創建された明治時代に石垣を壊して道路を通したという:
そして、こちらが二の丸の中から見た本丸虎口側。ある古地図では、ここを追手馬出と呼び、鈎の手の虎口であったらしい:
現在は唐澤山神社への参道になっている石段を上がっていくと左右に巨大な鏡石を持つ本丸虎口が出現した:
本丸虎口の両脇に鎮座する鏡石[h]鏡のように石の表面が平になっているのに加えて、その多くに巨石が多いことから、来城する者らに威圧感を与える城主の権力の象徴としてされている。また近世城郭では石工(いしく)職人の能力の高さをアピールする意味もあったらしい。:
ここが⑱本丸跡。現在は藤原秀郷公を祀る唐澤山神社の拝殿が建つが、往時は奥御殿が建っていた:
この神社は秀郷公とその旧臣族の末裔一族らが公の遺徳をしのび明治16(1883)年に創建したもので、以後は永くこの地方の守護神として崇めらている:
拝殿の右手奥には本丸の搦手虎口があり、石垣も残っていた:
本丸跡に残る苔むした石垣もまた築城当時のままである:
永禄4(1561)年に長尾景虎に降伏し従属を誓った唐澤山城主の佐野昌綱は翌5(1562)年には再び反旗を翻して小田原方に寝返った。その後16年もの間、昌綱は景虎に攻められては撃退するか降伏し、降伏してもすぐに離反するという背反行為を繰り返した。唐澤山城の攻防戦のうち実に10回も寄手を撃退しているのである。これは、何度も攻撃を受けた経験から城の弱点を補強していくことで元々の天険の要衝に加えて独自の築城術が生かされていたと考えられる。
そして長尾景虎(上杉謙信)が天正6(1578)年に死去して関東への影響力が小さくなり「強国のはざま」が無くなると、佐野昌綱の嫡男・宗綱は一転して常陸佐竹氏を中心とする反北条連合にくみして抵抗するものの、猪突猛進の宗綱が戦死すると嫡子が居ないため北条氏と和睦し、北条氏政の弟を養嗣子(ようしし)として迎え入れて御家の存続をはかることになった。
その後、天正18(1590)年の豊臣秀吉の小田原仕置で北条氏が没落すると佐野氏も一旦は断絶したが、宗綱の死後に出奔し秀吉に仕えていた佐野房綱(さの・ふさつな)が小田原仕置で功を挙げたおかげで、佐野氏が再興され唐澤山城主になることができた。
このあとは唐澤山神社の山門を下りて南城方面へ移動した:
本丸の一段下にある曲輪は⑲引局(ひきつぼね)跡で、奥女中の詰所があった:
さらに唐澤山神社の参道を南側へ降りていった先が⑳南城跡。本丸より南側に位置し東西14.56m、南北25.46mの規模を持ち、周囲は石垣が配された出丸的な位置づけの曲輪であった:
南城跡最南端からの眺望もよかった:
しかしながら、この眺望の良さがのちの下野佐野氏の行く末に影を落とすことになる。
佐野氏を再興した房綱は嫡子が居なかったため豊臣秀吉の奉行衆の一人である富田一白(とみた・いっぱく)の五男を養嗣子としてもらい受けて家督を譲った。後に秀吉から偏諱を受けた佐野信吉(さの・のぶよし)は佐野氏を江戸時代まで存続させた。しかし慶長7(1602)年に江戸で大火が発生した際、その様がここ唐澤山城から眺めることができたと云う。驚いた信吉は急ぎ江戸へ急行し消火活動に尽力したが、無届けで国から出たと云う理由[i]実際は、外様大名である佐野氏が江戸の出来事を「遠方から覗き知ること」ができてしまうという事態に憂慮したことが理由であるらしい。で幕府から咎められ、のちに実兄の富田信高(とみた・のぶたか)[j]初代伊予宇和島藩主で宇和島城主の富田信高は津和野城主の坂崎出羽守直盛との因縁が元で改易させられた。の改易と連座する形で自身も改易となった。徳川家康の命で唐澤山城は廃城とされ、その南方の平地に新たな居城として佐野城を築城中の出来事であった。
南城の石垣は高さ1.82mもある野面積みで、こちらも築城当時のまま:
これは南城の南側にある一つ目堀の堀底から高石垣を見上げたところ。隅石は算木積みであった:
一つ目堀の南側には物見櫓(番所丸)跡があり、入り組んだ谷間の眺望が良かった。さらに横矢の掛った堀切跡にそってハイキングコースが南へ続いていた:
この後は城跡の東へ向かうことにした。南城跡から本丸沿いに東へ向かって行くと㉑車井戸(がんがん井戸)があった。これは本丸の東側石垣直下41.8mと云う低いところにある深さ23.3m、口径1.51mほどの井戸である。明治初期の調査によると清水がこんこんと湧き出したのことで、おそらく奥台所・引局の台所で御茶の湯に使用されていたと思われる。他に竜宮城まで続いていたと云う伝説あるのだとか:
ここで車井戸あたりから本丸跡を見上げると鉢巻石垣が見えた:
このまま遊歩道を東へ向かって本丸の北側へ移動していくと㉒武者詰跡があり、土塁が残っていた:
武者詰を囲む土塁はところどころで切れており、その下に出撃用の虎口があった可能性があるとのこと:
ここから再び東へ向かうと㉓長門丸跡がある。弓削長門が直番したとされている曲輪で、南側を除いて土塁が巡り、東側には堀切がある。城で使用される薬草などを作っていたことから「お花畑」とも。現在は弓道場になっていた:
この道路は長門丸とその東側にある金の丸との間にある堀切跡。見るからに尾根を断ち切った風であった:
こちらが㉔金の丸(平城)跡。東西21.8m、南北30.9mの規模を持ち、長門丸よりも1.8m低い位置にある曲輪。ここには御宝蔵があったとされる。現在は金の丸ロッジとして唐沢山子供会の教育の場となっているらしい:
この金の丸の南側斜面には幾つかの段曲輪が連なり、ロッジ裏には土塁が残っていた。土塁の東側には杉曲輪との間に深さ5.5mの堀切があったが埋められていた:
金の丸跡の東側にあるのが㉕杉曲輪跡。平成19(2007)年まで唐沢成年の家なる建物が建っていたが現在は更地になっていた:
更地となった杉曲輪の奥へ進んでいくと若干の土塁が残っており、虎口のような切れ目が残っていた:
この土塁の切れ目から下をのぞくと杉曲輪(手前)と北城(奥)とを隔てる堀切が走り、その上に土橋があった:
この堀切を横から見るとこんな感じ。凹型のいわゆる薬研堀になっていた:
堀切を越えた先が㉖北城跡。東西27.3m、南北43.7mの規模を持ち、西にある杉曲輪より1.8m低い位置にある曲輪である。本丸からここまでの距離はおよそ158m。現在はキャンプファイヤー場(?)になっていた:
この曲輪の北東には、往時は平戸屋の大堀と呼ばれる巨大な二重の堀切があったようだが、現在はその一部がこの先のキャンプ場への通路となっていた:
この二重堀切は南側の斜面に落ちて、そのまま二重竪堀になっていた。一説に、これは長尾景虎ら越後勢の色部氏が城代をした時に構築されたものと考えられている:
二重堀切を越えてさらに北東へ進み、そのまま唐沢教育キャンプ場なる敷地に入る:
こちらが㉗鳩の峰跡。往時は砦または出丸であったと考えられている:
鳩の峰の北側にも薬研堀の堀切があった:
そして、こちらが㉘北東端の曲輪跡。さらに、この先にもいくつかの砦や堀切があった:
この曲輪の北側には唐澤山城で最古と云われる㉙石垣が残っていた:
この石垣のさらに奥には堀切があり、そこに架かる土橋もあった。藪化して分かりづらいが、ここには三本の堀切が存在し一体となって北側の防御を強化していたと思われる:
ここから先は京路戸(きょうろど)峠へ向かうハイキングコースが延びているようで、ここで城攻めを終了した。探せば、もっと沢山の眠った遺構を発見できるかもしれないと、そんな風に思わせる位の攻めごたえある山城であった。
最後に城跡で見かけた「猫を捨てないで下さい!」の注意書き。そう云われると、確かにここで沢山の猫たちに出会ったが・・・:

「動物を捨てるのは犯罪です。」
唐澤山城攻め (フォト集)
【参考情報】
- 日本の城探訪(唐沢山城)
- 「千年の古城跡 唐澤山」のパンフレット(唐澤山神社・唐澤山荘・レストハウス)
- 「国指定史跡・唐沢山城跡を探索しよう」のパンフレット(佐野市文化財課)
- 唐澤山城跡に建てられていた説明板・案内図
- 佐野市のホームページ(HOME/くらしの情報/文化・伝統/唐沢山城跡)
- 佐野が生んだ偉人=藤原秀郷
- 唐澤山神社のホームページ(トップページ/古跡・旧跡)
- 埋もれた古城(唐沢山城)
- Wikipedia(唐沢山城)
- 『武神の階』(津本陽 1991年 角川文庫)
参照
↑a | 現代は「唐沢山城」と綴るが、ここでは固有名である城名は『唐澤山城』、その他の地名などは当用漢字の「唐沢山」とした。 |
---|---|
↑b | 現代で云う軍人または警察官職のこと。 |
↑c | 藤原秀郷の子孫は中央(京都)には進出しなかったため、関東中央部を支配する武家諸氏の祖となった。 |
↑d | 誰が云ったかは知らないが、他に河越城、忍城、厩橋城、新田金山城、宇都宮城、多気城がある。 |
↑e | 県道R115を車で登れば唐澤山城に至るが、それに対してこちらは旧道にあたる。 |
↑f | のちの高崎城である。 |
↑g | 太鼓櫓との説もあり。 |
↑h | 鏡のように石の表面が平になっているのに加えて、その多くに巨石が多いことから、来城する者らに威圧感を与える城主の権力の象徴としてされている。また近世城郭では石工(いしく)職人の能力の高さをアピールする意味もあったらしい。 |
↑i | 実際は、外様大名である佐野氏が江戸の出来事を「遠方から覗き知ること」ができてしまうという事態に憂慮したことが理由であるらしい。 |
↑j | 初代伊予宇和島藩主で宇和島城主の富田信高は津和野城主の坂崎出羽守直盛との因縁が元で改易させられた。 |
0 個のコメント
4 個のピンバック