唐澤山城の本丸南側の高石垣は藤原秀郷の子孫・佐野氏が拡張した時のもの

栃木県佐野市富士町にある唐澤山城[a]現代は「唐沢山城」と綴るが、ここでは固有名である城名は『唐澤山城』、その他の地名などは当用漢字の「唐沢山」とした。は県南部の唐沢山一帯に複数の曲輪を配し、標高242mの山頂に本丸を持つ連郭式山城で、周囲を急崖と深い谷に囲まれた天然の要塞をなし、山麓に広がる根小屋《ネゴヤ》地区との比高差は約180mにも及ぶと云う。その城域からの眺望は関東八州を一望に、遠く北より日光連山、西に群馬連山や秩父、南アルプス、秀峰富士、そして東に筑波山を眺めることができたと云う。築城は田原藤太《タワラ・ノ・トウタ》こと藤原秀郷《フジワラ・ノ・ヒデサト》により、今から一千年以上前の平安時代中期は延長年間(923〜931年)とされている。秀郷は下野国の在庁官人である押領使《オウリョウシ》[b]現代で云う軍人または警察官職のこと。の役に任ぜられ、父祖伝来の此の地に城を築いて善政を施したと云う。公が征東大将軍に任じられ平将門追討で功をなした後はその末裔が代々城主となり、戦国時代には後裔氏族[c]藤原秀郷の子孫は中央(京都)には進出しなかったため、関東中央部を支配する武家諸氏の祖となった。の一つである下野佐野氏の居城として中世山城の城郭に整えられたとされる。そして佐野氏第15代当主・昌綱《マサツナ》は相模の北條氏康と越後の長尾景虎の二大勢力の狭間にあった中で長尾氏につくと、永禄3(1560)年に唐澤山城は北條氏政率いる35千人の大軍に包囲された。

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参照

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a 現代は「唐沢山城」と綴るが、ここでは固有名である城名は『唐澤山城』、その他の地名などは当用漢字の「唐沢山」とした。
b 現代で云う軍人または警察官職のこと。
c 藤原秀郷の子孫は中央(京都)には進出しなかったため、関東中央部を支配する武家諸氏の祖となった。