日暮里駅前には江戸城の周囲に砦城を築いた太田道灌の騎馬像が建っていた

室町時代後期の武将で、武蔵国の扇ヶ谷上杉家に仕えて30余度にも及ぶ合戦を指揮した太田資長[a]読みは《オオタ・スケナガ》。持資《モチスケ》とも。出家したのちは道灌《ドウカン》と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。は軍略・軍才はもちろんのこと築城の才能も抜群で、康正2(1456)年から長禄元(1457)年にかけて江戸城河越城、そして岩付城を築いたことは有名であるが、他にもこれらの城の支城や砦なども築いており、500年以上経った都内各所には現在も遺構や伝説が残っている。その中で武蔵野台地北東端に天然の地形を利用して築かれたとされる稲付《イナツケ》城は、東京都北区赤羽の静勝寺《ジョウショウジ》にあたり、道灌が築いた戦国時代初期の砦跡と伝えられている。後年、彼の子孫が城址を含めた土地を寄進し、道灌と彼の父・道真の法号により自得山静勝寺と改称したと云う。また文化・文政期の地誌『新編武蔵風土記稿』にも「堀蹟」として記述があるのだとか。そして稲付城南東にある飛鳥山[b]現在の東京都北区王子にある飛鳥山公園のこと。から上野へ向かって南下した台地の縁にある道灌山もまた道灌が江戸城の出城として築いたと云う伝承があり、現在はその一部が西日暮里公園として残されている。かって、この台地に広がる寺町あたりは「ひぐらしの里」と呼ばれ、寺社が競って庭園を造り、花見の名所でもあった他にも筑波山や日光山を展望することができたと云う。

一昨年は、平成27(2015)年のGW後のある週末、しばらく遠ざかっていた太田道灌ゆかりの城攻めを再開した。思い起こせば、これより二ヶ月ほど前の河越城攻めで川越市役所本庁舎前に立っていた公の銅像を拝見したのが最後であった。また東京都の他にも、千葉県や神奈川県にはまだまだ道灌に縁のある場所があるようなので、何とかこの年内(当時)に巡りきりたいという気持ちがあった(これも当時) ;)。この日は晴天で灼熱であるかのような暑さだったこともあり、再開の烽《ノロシ》は近場の都内に限定することになったけど:D。午前中は東京都北区赤羽にある稲付城跡、お昼を挟んで午後から荒川区にある道灌山を巡ってきた。

まずGoogle Earth 3Dでそれぞれの位置関係を確認してみると、太田道灌の居城であった江戸城からかなり距離があるようだけれど、それらが荒川とそれによって造成された台地に沿って築かれていたと考えれば、だだっ広い関東平野には必要十分な拠点であったのかもしれない:

道灌が築いた中世の江戸城の規模は不明だが、現在の富士見櫓が建つ舌状台地にあったと推定した

江戸城と稲付城と道灌山(Google Earth 3Dより)

ちなみに現代の皇居は、徳川家康ら徳川将軍家によって江戸時代は寛永15(1638)年の天下普請をピークとした近世城郭を基本としているが、太田道灌が築いた江戸城の中世城郭はそれよりもずっと小さかった。往時、道灌は居城であった江戸城の周囲に多くの支城や砦を築いていたとされる:

太田道灌は居城である江戸城と河越城の間に、荒川に沿っていくつかの支城や砦を築いていたと云う

江戸城と稲付城と道灌山(コメント付き)

簡単ながらも今回の城攻めルートはこちら:

JR赤羽駅 → ①静勝寺(稲付城跡) → (JR赤羽駅付近でお昼休み) → JR西日暮里駅 → ②西日暮里公園(道灌山跡) → ③諏訪神社 → (徒歩で谷中霊園) → JR日暮里駅東口 → ④太田道灌騎馬像

稲付城

①稲付城は現在の東京都北区赤羽にある静勝寺境内一帯にあたり、永禄年間(1558〜1569年)頃に名将・太田道灌が江戸城防衛の目的に築いた中世時代の砦であったと云われている。この城は荒川低地を望む標高21mほどの舌状台地先端にあり、砦の北面と東・西面は急崖で、南面が台地続きの平坦な地形になっている上に、岩槻街道[c]現在の鎌倉街道。日光御成街道の別称で、同じく道灌が築いた岩付城の渋江口あたりを通る。の要衝に位置していたと云う。JR赤羽駅西口から都道R460を渡った先に見えた台地は、周囲にビルが立ち並ぶ現代の街中でもその面影をいくらか知ることができる:

標高21mほどの高台の上に建つ静勝寺が城址であった

稲付城址の遠景

お寺の参道入口まで近づいてみると、その両脇に走っている坂道から崖端に築かれた砦であることが伺える:

遺構ではないが、この坂道が稲付城の存在を偲ばせてくれた

静勝寺入口左側の道路

この石段の上が境内であり、そこが主郭であったとされる

「都旧跡・稲付城跡」の碑

遺構ではないが、この坂道が稲付城の存在を偲ばせてくれた

静勝寺入口右側の道路

参道である石段を登った先には山門が建っている。ちなみに山門は東側と南側の二つあった:

東側の石段を登った高台の上に静勝寺の境内がある

静勝寺の山門(東側)

山門に向かって右手前には、昭和62(1987)年に静勝寺南側で実施された発掘調査の際に出土した16世紀前半頃の遺物が展示されていた:

静勝寺南側からは他に空堀も確認されているのだとか

発掘調査で出土した遺構

静勝寺南側からは他に空堀も確認されているのだとか

発掘調査で出土した遺構

山門の先が静勝寺の境内であるが、実際にこの台地の平坦面に主郭が置かれていたと考えられている:

ここの境内が主郭であったらしい

山門からのぞいた境内

境内には本堂や庫裡などの建物の他に、太田道灌公の木造坐像が安置された道灌堂なる建物(木造太田道灌坐像附厨子)がある。この建物は公の250回忌にあたる享保20(1735)年7月に建立され、厨子は350回忌にあたる天保6(1835)年7月に造られ、東京都北区指定有形文化財に指定されている。公の月命日である毎月26日には開帳されるらしい:

この厨子の中に太田道灌公の木造坐像が安置されている

道灌堂

公の坐像の写真がJR赤羽駅から静勝寺へ向かう途中に立っていた案内板に描かれている他、北区飛鳥山博物館千葉市立郷土博物館には複製が展示されている。この像は頭を丸めており、公が剃髪した文明10(1478)年から同18(1486)年に没するまでの晩年の姿を映しているものとされる。また胴服を着け、左脇には刀一振が置かれ、正面を向き、右手で払子《ホッス》を執って、左手でその先を支え、左膝を立てて畳座に坐しているその像高は44.5cm、檜材の寄木造である。:

JR赤羽駅西口の高架下にある案内板から拝借した

太田道灌の木像の写真

千葉市立郷土博物館に展示されていた

木造太田道灌坐像(複製)

現在のところ、道灌公が築城したと云う確固たる根拠は存在していないものの、荒川を全面にひかえ河越城や岩付城とともに、江戸城の北方の防御を担う位置づけであったということと発掘調査の成果などから、往時、砦の南側に勢力を持っていた扇ヶ谷上杉氏に関わりのある砦であったこと、そしてその家宰であった公の築城と云う推測に至っているのだとか。

往時は主郭であった平坦地に、現在は本堂や庫裡が建てられていた:

ここが往時の主郭跡にあたる

静勝寺の本堂

往時の主郭跡にあたり、見事な松の木が立っていた

庫裡と松の木(拡大版)

太田道灌が暗殺された後は、孫の太田資高《オオタ・スケタカ》が入城し、祖父謀殺の遺恨から主家の扇ヶ谷上杉朝興《オウギガヤツ・ウエスギ・トモオキ》に謀反して、小田原北條氏綱の勢力下に入り、江戸城を奪還した[d]しかし資高は江戸城の城代には任命されず、ここ稲付城主のままであった。彼の次男・康資《ヤススケ》は、この待遇に不満を持ち、反北條氏として安房里見氏と共に国府台合戦で北條氏康と敵対することになる。

明暦元(1655)年には、道灌公の子孫・太田資宗《オオタ・スケムネ》が静勝寺の堂舎を建立し、公と父資清の法号にちなんで寺号を自得山静勝寺と改めた。その後も江戸時代を通じて太田氏は道灌堂や厨子を造営するなど菩提寺としていた。

そして、こちらが静勝寺南側の山門。こちら側は台地の陸続きになっており、往時は虎口として利用されていたようで、発掘調査では幅約12m、深さ約6mの空堀が発見されたらしい:

こちら側で空堀が発見されたことから虎口だった可能性がある

静勝寺南側の山門(南側)

See Also稲付城攻め (フォト集)

【参考情報】

道灌山

道灌山は上野から飛鳥山へと続く台地上に築かれており、その名の由来としては、『新編武蔵風土記稿』によると中世、新堀[e]日暮里の旧名。の土豪・関道閑《セキ・ドウカン》が屋敷を構えた場所であるとし、あるいは『江戸名所図絵』では太田道灌が築いた江戸城の出城(斥候台)との記録があるようだが、現在では前者の説が有力で「道閑」が「道灌」に転じて伝承されたというのがもっぱらである。むしろ江戸時代に入ってから、この台地上一帯に広がっていた寺町と共に「ひぐらしの里」と呼ばれ、荒川の雄大な流れや富士山、そして筑波・日光山といった山影を望むことができる景勝地となり、、明治時代には正岡子規ら文豪も訪れる場所であったことの方が確かな記録となっている。

明治7(1874)年には、この道灌山一帯が旧加賀藩前田家に売却され同家の墓地となり、前田家第十二代当主の斉泰《ナリヤス》から四代にわたって神武の墓地として使われたが、昭和47(1972)年には国許である石川県金沢市に改葬されたことにより、翌48(1973)年、その跡地に西日暮里公園が開園され、荒川区民の憩いの場となって現在に至っている。

こちらが道灌山通り[f]都道R457の通称で、正式名は「東京都道457号駒込宮地線」で、東京都文京区と荒川区を結ぶ一般道である。から道灌山跡の②西日暮里公園を見上げたところ。本来は、この辺りも台地になっていたが道灌山通りが貫いた状態で北と南に分断したようになっていた:

道灌山通りが貫いて分断された台地で、江戸城の出城とも云われた

道灌山跡

東京都文京区と荒川区を結ぶ一般都道である

道灌山通り

こちらは道灌山から見下した道灌山通りとそれによって分断された北側の道灌山、そしてJR西日暮里駅を見下したところである。この道灌山北側にあたる開成学園グランドからは縄文時代から江戸時代までの住居跡、土器などの遺構が出土しているのだとあか:

道灌山を削って敷かれた道灌山通りによって分断された状態であった

道灌山通りと西日暮里駅

現在は西日暮里公園となっている道灌山の一部:

道灌山の台地上の削平地に公園が造られている

西日暮里公園

西日暮里公園に建つ案内版には安藤広重画の「江戸百景・道灌山」が描かれていたが、これが描かれた安政年間(1854〜1859年)には既に「道灌」の字が充てられていたようだ:

江戸百景(安藤広重画)の一つ

安藤広重画の「道灌山」

太田道灌が築いたと云う出城説は、天保7(1836)年に刊行された『江戸名所図絵』の「道灌舟繋松《ドウカン・フナツナギノマツ》」についての記録によるものらしく、それによるとかってこの地には太田道灌の砦に荷を運んでいた舟人が目印にしたのが、この台地に立っていた青雲寺の境内にうっそうとそびえていた二株の松ことらしい。現在も園内には見事な松の木が立っていた:

園内には、往時、青雲寺の境内の名残を残す松の木が立っていた

西日暮里公園

かっては道灌の砦に荷を運んでいた舟人が目印としていた松が立っていた

園内に立つ松の木

こちらが荒川区立西日暮里公園の入口。道灌山の南側にある:

ここから南側には、諏訪神社の他に現在も多くの寺社や墓所があった

西日暮里の入口

西日暮里公園を出てJR日暮里駅に向かって南へ移動していくと往時の寺町を彷彿させるように寺院が立ち並んでいたが、その中に③諏訪神社があった。この神社も道灌山の出城跡の一部であったとされている:

信濃国上諏訪社(長野県)と同じ建御名方命を祀る

諏訪神社

ここは、信濃国上諏訪社(現在の長野県)と同じ建御名方命《タケミナカタノミコト》を祀る神社で、元久2(1205)年、豊島左衛門尉経泰《トシマ・サエモンノジョウ・ツネヤス》の造営と伝えられ、江戸時代には徳川三代将軍・家光に社領五石を安堵され、日暮里・谷中の総鎮守として広く信仰を集めたのだとか:

拝殿脇には江戸時代から由緒ある庚申塔が建っていた

諏訪神社の拝殿

この道灌山のある諏訪台脇には、現在はJR東日本が走っていた。この諏訪台は縄文・弥生時代から居住区となっていた場所であり、景勝地としても知られている:

諏訪神社が建つ諏訪台脇から眺めたところ

道灌山

諏訪台下にはJR東日本の東北・山手・新幹線が走っていた

諏訪台下のJR

諏訪神社を寺町にそって南下していく途中に「関東の富士見百景」の一つである富士見坂なる場所があった。現在でも富士山を望むことができる坂らしいが、この時は空が霞んで見ることができなかった。往時、ここにあった妙隆寺が「花見寺」と呼ばれたことから、この坂も通称「花見坂」または「妙隆寺坂」と呼ばれたのだとか:

現在でも富士山を望むことができる坂らしい

富士見坂

最後に、JR日暮里駅東口に建つ④太田道灌公騎馬像。これは公に縁ある「山吹の里」の伝説に出てくる鷹狩の場面なのだとか:

「山吹の里」の伝説に出てくる鷹狩の場面だとか

太田道灌騎馬像

See Also道灌山攻め (フォト集)

【参考情報】

参照

参照
a 読みは《オオタ・スケナガ》。持資《モチスケ》とも。出家したのちは道灌《ドウカン》と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。
b 現在の東京都北区王子にある飛鳥山公園のこと。
c 現在の鎌倉街道。日光御成街道の別称で、同じく道灌が築いた岩付城の渋江口あたりを通る。
d しかし資高は江戸城の城代には任命されず、ここ稲付城主のままであった。彼の次男・康資《ヤススケ》は、この待遇に不満を持ち、反北條氏として安房里見氏と共に国府台合戦で北條氏康と敵対することになる。
e 日暮里の旧名。
f 都道R457の通称で、正式名は「東京都道457号駒込宮地線」で、東京都文京区と荒川区を結ぶ一般道である。