黒目川が取り巻く舌状台地に築かれた岡城は太田道灌が関与しているとも

かって「岡の城山《オカ・ノ・シロヤマ》」とも呼ばれていた埼玉県朝霞市岡にある城山公園は、今から約8000〜4500年前の縄文時代から遺る遺跡[a]貝塚が発見されている。であり、戦国時代前期には黒目川(《クロメガワ》[b]東京都および埼玉県を流れる荒川水系の一級河川である。を真下に見る舌状《ゼツジョウ》台地の先端部を利用した岡城[c]朝霞城《アサカジョウ》とも呼ばれていた。なる連郭式平山城が築かれていたとされる。この当時の築城者や城主については現在のところ不詳であるが、文化・文政期の地誌『新編武蔵風土記稿《シンペン・ムサシ・フドキコウ》』の中には名将・太田資長[d]読みは《オオタ・スケナガ》。持資《モチスケ》とも。出家したのちに道灌《ドウカン》と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。や、その曾孫・太田新六郎康資[e]読みは《オオタ・シンクロウ・ヤススケ》。もとは太田源六郎で、太田道灌の孫・太田資高の次男。小田原の伊勢新九郎氏康(のちの北條氏康)の麾下にあった頃、氏康より幼名「新」の字を賜り新六郎に、さらに偏諱で「康」の字を賜り康資と名乗った。との関係ついて記述があると云う。築城の才が豊かな道灌は稲付城の例にあるように、台地の先端が「舌」のような形になっている舌状台地を利用して城を築くことが多いようで、北は河越城岩付城、南は赤塚城志村城、稲付城といった規模の大小を問わずに江戸城の防衛線を構築していたのではないかと見ることができる。岡城が築かれた台地は西から東へ延びており、西側にある日蓮宗・本仙寺《ホンセンジ》付近で細く括れた独立丘陵状を呈しており、標高は約19mで周囲の低地との比高は12〜14mほどで、城内は堀切や「折れひずみ」と呼ばれる空堀、そして土壇によって区分けされた郭が連なっていたとされる。

一昨年は、平成27(2015)年のGW後に再開した太田道灌ゆかりの城攻め第三弾は3つの城を攻めてきた。まずはJR武蔵野線北朝霞駅から徒歩およそ20分ほど東へ移動した所にある「城山公園」で、ここは昭和44(1969)年に埼玉県選定重要遺跡に指定された「岡の城山」と呼ばれていた城館跡である。県の説明によれば、ここは戦国時代に築造された平山城で、土塁や空堀がよ く現存するらしいとのこと。公園化されているのであまり期待していなかったのだが、実際に攻めてみると規模は小さいながらも堀切跡や丘陵上に設けられた郭《クルワ》などを見ることができたが意外だった。

こちらは園内に置かれていた「城山公園案内図」。広場のある中央の台地が遺構に相当する部分である:

西から東へ伸びた台地は黒目川を真下に見る舌状台地の先端部に立地している

城山公園案内図(拡大版)

そしてGoogle Earth 3Dによる現在の城山公園を俯瞰したもの(上が北側):

往時の「郭(くるわ)」がそのまま公園の「広場」となって残っていた

岡城(岡の城山)跡周辺の俯瞰図(Google Earth 3Dより)

東から北へ底地を流れる黒目川が城の北側斜面を取り巻くように走り、西から延びた舌状台地の東側先端に向かって土壇[f]土塁のこと。室町時代から戦国時代初め、特に関東地方での呼び方らしい。によって区分けされた郭が並んでいたと云う:

現在も荒川水系の一級河川である黒目川(くろめがわ)が、往時は天然の外堀になっていた

岡城(岡の城山)跡周辺の俯瞰図(コメント付き)

城内にあった郭は一ノ郭、二ノ郭、三ノ郭、四ノ郭で、他に外西側の虎口、堀切、北側の搦手口、南側の腰郭、櫓台、犬走りなどが設けられていたとされるようだが、このうち、現在の城山公園では一ノ郭から四ノ郭跡、櫓台跡、郭と郭の間の堀切と、「折れひずみ」[g]屏風折れの別称。を確認することができた。城の南側にあった腰曲輪跡は「わんぱく広場」のようだが土壇以外は公園化によりかなり改変されているようで、今ひとつ不明な部分が多かった。

JRの駅から歩いてくると城山通りにぶつかるので、その道なりに黒目川・荒川方面へ緩やかな坂を降りていくと公園北側の入口が見えてくる。公園入口と民家があるその周辺との間の高低差が台地跡の趣を出していた:

周囲の民家の屋根を拝める高台にある公園入口

城山公園北側入口

土壇を階段を使って上って行くと四ノ郭跡があり、直進すると腰郭跡がある

北側入口の広場

この後は階段を上って四ノ郭跡へ向かった。ちなみに、階段を登らずにそのまま奥へ進むと「花と水の広場」があり、その先は腰郭跡の「わんぱく広場」と公園南側の入口へ至る。

階段を上がったところが四ノ郭跡:

四の郭跡は公園案内図には記載はなかった

四ノ郭跡

この郭から東(正面)へ向かって郭が連なった(直線)連郭式になっているのがよく分かる。

こちらが三ノ郭跡(三の郭広場):

やや馬出のように湾曲した小さい郭であった

三ノ郭跡

やや馬出のように湾曲した小さい郭であった

三ノ郭跡

三ノ郭跡から二ノ郭跡へ向かうと堀切がある。階段を設ける程のことでもない緩やかな斜面であった:

斜面はかなり緩やかで、幅広になっていた

三ノ郭と二ノ郭の間の堀切

この堀切を渡って二ノ郭側(手前)から見下したところ:

二ノ郭(手前)の方が三ノ郭(奥)よりも若干、高い位置にあるのが分かる

三ノ郭と二ノ郭の間の堀切

そして堀切の堀底。左手が二ノ郭跡、右手が三ノ郭跡になる:

二ノ郭(左手)と三ノ郭(右手)と間にある堀切を堀底から見上げたところ

三ノ郭と二ノ郭の間の堀切

こちらが二ノ郭跡(二の郭広場)。城内で最も広い郭にあたるが、土壇のようなもので囲まれている訳でもない削平地になっていた:

特に周囲に土壇が残っている訳でもない単なる広場だった

二ノ郭跡

二ノ郭から一ノ郭の間には堀切があり、その上に木橋が架かっていた:

堀切の上に架かる木橋は後世の造物である

二ノ郭と一ノ郭間の堀切

二ノ郭と一ノ郭の間にある堀切:

二ノ郭(左手)と一ノ郭(右手)の堀切は深さ3m、幅7mほどである

二ノ郭と一ノ郭間の堀切

堀切に架かる橋から降りて堀底から鈎型の「折れひずみ」跡へ向かう

二ノ郭と一ノ郭間の堀切

橋を降りて堀底を南へ向かって行くと、古くは「折れひずみ」と呼ばれていた、いわゆる屏風折れが残っていた:

二ノ郭と一ノ郭との間の堀切は屏風折れになっていた

「折れひずみ」の空堀

屏風折れの先は城南側の腰郭へつながっている

「折れひずみ」の空堀(コメント付き)

木橋を渡って一ノ郭跡(一の郭広場)へ向かった。こちらの郭の周囲は若干、高低がかっていたが土壇の名残であろう:

周囲が若干凸凹になっているのは土壇跡だろう

一ノ郭跡

一ノ郭の南側には腰郭を見下ろすかのような物見櫓跡が残っている:

とは言っても、案内板がないと気づかないほどの規模だった

物見櫓跡

城内で展望のきく要部に配置して周囲を監視するための櫓があったと云う:

一ノ郭跡の南側から櫓台らしき土壇を見たところ

物見櫓跡

物が建っていたかのように削平されているのは後世の改変か?

物見櫓跡の頂点

一ノ郭跡から城の南側にある腰郭跡(わんぱく広場)へ。ここが公園南側の入口となる:

ここは腰郭跡に造られたわんぱく広場である

城山公園南側入口

公園入口側にあるトイレの建物には「室町時代、太田道灌築城の岡城(平山城)のイメージ図」」なる絵が描かれていた:

城山公園の南側のトイレの壁に描かれていた

「室町時代、太田道灌築城の岡城のイメージ図」(拡大版)

実際のところ岡城の築城年や築城者、城主はもちろん縄張など詳細は不明であり、太田道灌が築いたものかどうかも定かではない。遺構の残り具合からみても、それほど利用されていた城では無いとも云われている。
そして黒目川に架かる橋の上から眺めた岡城跡:

往時は城を取り巻くように流れていた黒目川が天然の堀であった

黒目川と岡城跡

この川伝いの先に北朝霞駅・朝霞台駅がある

黒目川(拡大版)

See Also岡城攻め (フォト集)

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【参考情報】

参照

参照
a 貝塚が発見されている。
b 東京都および埼玉県を流れる荒川水系の一級河川である。
c 朝霞城《アサカジョウ》とも呼ばれていた。
d 読みは《オオタ・スケナガ》。持資《モチスケ》とも。出家したのちに道灌《ドウカン》と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。
e 読みは《オオタ・シンクロウ・ヤススケ》。もとは太田源六郎で、太田道灌の孫・太田資高の次男。小田原の伊勢新九郎氏康(のちの北條氏康)の麾下にあった頃、氏康より幼名「新」の字を賜り新六郎に、さらに偏諱で「康」の字を賜り康資と名乗った。
f 土塁のこと。室町時代から戦国時代初め、特に関東地方での呼び方らしい。
g 屏風折れの別称。