千葉県市川市国府台にある里見公園は埼玉県東部から千葉県北部一帯に走る下総台地の西端で、江戸川沿いの台地上にあり、往時は下総国の国府が置かれたことから国府台(こうのだい)と呼ばれ、下総国の政治や文化の中心となった場所であった上に、室町から戦国時代の関東動乱の舞台ともなった国府台城が築かれていた。その由緒としては、歴史書の『鎌倉大草紙』(かまくらおおぞうし)[a]室町時代の鎌倉公方・古河公方を中心とした関東地方の歴史を記した軍記物である。には文明10(1478)年に扇ヶ谷上杉氏の家宰・太田資長[b]読みは「おおた・すけなが」。持資(もちすけ)とも。出家したのちは道灌(どうかん)と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。が、ここ国府台に陣城を築いたとあり、これを始まりとする説がある。他に、それより前の康正2(1456)年に武蔵千葉氏[c]武蔵千葉氏は後に下総千葉氏に分裂し、さらに下総千葉氏は小田原北条氏が継ぎ、北条氏の滅亡と同時に千葉氏も所領を没収された。宗家・千葉実胤(ちば・さねたね)と自胤(よりたね)兄弟が市川城なる砦に立て籠もって、古河公方・足利成氏(あしかが・しげうじ)に抵抗したと云われているが、この市川城と道灌の陣城との関係は不明である。その後、国府台は二度にわたり争乱の表舞台に立つことになる。まずは天文7(1538)年に伊勢氏綱と小弓公方(おゆみくぼう)足利義明(あしかが・よしあき)・里見義堯(さとみ・よしたか)連合軍との合戦、そして永禄6(1563)年から二年に渡る北条氏康と里見義弘との合戦で、ともに里見勢は敗退し、下総から里見氏の勢力が駆逐されていくことになった。
一昨年は、平成27(2015)年のGW後に再開した太田道灌公ゆかりの城攻め第二弾は千葉県のJR市川駅から徒歩30分ほどの国府台城跡で、現在はバラ園としても有名な里見公園である。ここ国府台城跡はほとんど遺構は残ってなく、公園化に伴って大きな改変が加えられた上に説明板なども少なく、本当に土塁かどうかの判断が難しいと云ったところ。そうかと思うと、公園北側には古代古墳跡が残っていたり、矢穴の開いた石片が無造作に落ちていたりと意外性はあるがあまり期待しないほうが良いかも[d]実際も東京スカイツリーを拝めた以外は、大きな発見はなかったが。。
まず、こちらは園内に置かれていた「里見公園案内図」。公園の敷地面積は8.4haで、東側は完全に公園化されおり、バラ園が開催される花壇広場や噴水、遊戯施設、そして駐車場(無料)などがあり、この日も大勢の家族連れで賑わっていた:
そしてGoogle Earth 3Dによる現在の里見公園を俯瞰したもの(上が北側):
往時の国府台城は標高20〜25mの下総台地の西端の、江戸川[e]もともとは利根川。「江戸川」の呼称になったのは江戸時代に伊奈忠次らによる利根川東遷事業から。に並行して南側へ張り出した大きな舌状丘陵上に築かれ、その東側は低湿地が入り込み、北側の丘陵先端へ向かっていくほど細長くなるため、まさに連郭式の城郭を築くのに適した場所だった。また現在の里見公園の北側にある總寧寺(そうねいじ)や国府台天満宮がある場所も城域とされている:
また往時、国府台城の北西を流れる中川を越えた先には北条氏綱・氏康父子が攻略した葛西城があり、さらに国府台城から北西側にある江戸川とその河川敷は二度目の国府台合戦で北条氏康軍が国府台へ向かって江戸川を渡河した「からめきの瀬」と云う浅瀬らしい。
JR市川駅からR14の千葉街道を江戸川方面へ向かい、県道R1に入って江戸川の河川敷の土手に上がり、そのまま里見公園までサイクリングロードに沿って移動した。10分ほど歩くと正面に城跡である丘陵が見えてきた:
里見公園へ向かう前に周囲を見渡してみると、江戸川の他に京成本線、霞んではいたが東京スカイツリーを眺めることができた:
このままサイクリングロードに沿って里見公園南側の入り口へ向かって行くと、城址のあった下総台地と堀切らしき跡が見えてきた。現在は車道になっているが、このカーブと両側の切岸はいかにも堀底道といった雰囲気があった:
この左手の丘陵上が里見公園で、その下に階段があるが、その脇に羅漢の井(らかんのい)と呼ばれている井戸が残っていた。これは下総里見氏が、ここ国府台に布陣した際に飲用水として利用したものと伝えられている。天保5(1834)年の江戸名所図会に描かれた羅漢の井の目の前には街道らしき通りが描かれており、堀切跡に造られた現在の車道と一致することが分かる:
階段を登って国府台城跡に作られた公園の中に入ると、いきなり石垣が。さすがに、これは後世の造物である:
こちらは物見台跡。一見すると園内に造られた山にも見える[f]実際にたくさんの子供たちが遊んでいた。が、これは城址の中でも貴重な遺構の一つである:
現在は周囲の木々が邪魔で、往時のように江戸川の対岸に集結した北条氏康軍を見渡せるほど眺めは良くないが、頂上は小さいながらも櫓などが建つくらいの広さを持つ削平地になっていた:
また、この物見台跡の周囲には矢穴風!?の穴の開いた巨石なんかも無造作に落ちていた:
この物見台跡から公園西側へ進んでみると、生い茂る木々の合間から江戸川対岸と東京スカイツリーを眺めることができた。小田原北条氏康と下総里見義堯が決戦に挑んだ二度に渡る国府台合戦では、江戸川(当時は利根川)の対岸に北条勢が集結していたであろう光景を想像することができた:
そして、物見台跡近くには「夜泣き石」なる石が置いてあった。言い伝えによると、永禄7(1564)年の二度目の国府台合戦で戦死した里見広次の娘が父の霊を弔うためにはるばる遠い安房国から国府台を訪ね、そばにあった石にもたれ幾日か泣き続け、とうとう息が絶えてしまった。それ以来、夜になるとこの石から悲しい声が聞こえてきたという悲しい伝説を秘めた石らしい:
ちなみに夜泣き石の台座になっている板石は、このあとで紹介する明戸古墳石棺の蓋を流用したもので、筑波山麓から切り出された、いわゆる筑波石と呼ばれるものらしい。
この石の隣には、夜泣き石にまつわる里見広次ならびに里見軍将士亡霊の碑がたっていた。左から里見諸士群亡塚、里見諸将霊墓、そして里見広次公廟。二度目の国府台合戦では里見氏の一門や正木氏ら重臣一族の多くが討死したと云う。その後、里見郡戦死者の亡霊を弔う者がいなく、江戸時代の文政12(1829)年に、これらの墓碑が建てられたという:
ここから北西側に伸びた広場へ向かって移動していくと二重土塁をみることができた。但し、公園化に伴う改変によって本来の土塁の形がわかりづらくなっていた:
このまま公園北西側へ向かって行くと一際目立つ土塁が見えてくるが、実はこれは明戸古墳(あけど・こふん)と呼ばれる西暦6世紀後半に造られた前方後円墳で、全長は40mほど、周辺からは大量の埴輪が採集されたという。そういう地形だったことから、往時はここにも物見台などが建てられていた可能性があるのだとか:
そして古墳の上を後円墳がある方へ歩いて行くと2基の石棺が置かれていた。これが「明戸古墳石棺」で、筑波山麓から切り出した筑波石の板石を組み合わせた箱式石棺である:
これらの石棺は『江戸名所図会』(えどめいしょずえ)によると、一つは里見越前守忠弘(さとみ・えちぜんのかみ・ただひろ)[g]安房の戦国大名・里見義堯(さとみ・よしたか)の五男で、義弘の弟。の嫡男・広次(前述に紹介した夜泣き石にまつわる武人)の墓で、もう一つは里見家臣の一人である正木内膳信茂[h]正木大膳信茂が正しい。正木時茂の嫡男で、里見義弘とは義兄弟の仲である。国府台合戦で討死した。享年25。の墓あるとされていたが、江戸中期に古墳が崩れて石棺が現れ、櫃の中の宝物や土偶から、里見広次の墓でも正木内膳の墓でも無いことがわかったと云う。なお、ここで出現した宝物は近くにある総寧寺に収蔵されているらしい:
公園北西部にあるのは、古墳の他に若干の屈曲を伴った二重土塁(というか土塁跡)を見ることができる。実際にどこまでが遺構であるかは全く不明であった:
このあとは土塁跡に設けられた遊歩道に従って公園の東側へ移動した:
公園の東側は市民に開放された広場として整備されており、噴水や遊戯施設などがある他、市川市の記念事業としてバラ園が設けられていた。そのため城跡の痕跡は全くない:
そんな公園の片隅には、真っ黒になって誰も気に留めそうもない国府台城跡の碑がある:
この後は里見公園を出て、公園の北側にある安国山・総寧寺(そうねいじ)へ向かった。
こちらは總寧寺の入り口に建つ「曹洞宗里見城跡総寧寺」と彫られた石碑。これには「里見城」と記されており、国府台城は里見城と呼ばれていたと思われる:
總寧寺の山門と本堂。もともとは近江守護で観音寺城主・佐々木氏[i]のちの六角氏。が現在の滋賀県米原市あたりに建立したものであるが、戦乱により焼失し、住職らは常陸国(現在の茨城県)に落ち延び、天正3(1575)年には小田原北条氏政によって関宿城の梁田氏に対する牽制策として関宿に移築された。しかし度重なる江戸川の水害により、寛文3(1663)年に徳川家綱によってここ国府台に移転されたと云う歴史を持つ:
そこから更に北側へ向かうと国府台天満宮があった。これは文明11(1479)年に、国府台の鎮守として太田道灌が寄進したと伝えられている。但し、もともとは法皇塚[j]現在の東京歯科大学市川総合病院あたり。の墳頂部に祀られていたものを明治8(1875)年にこの場所に移動したとのこと:
最後に、里見公園のバラ園にあった「プリンセス・ミチコ」と名付けられたバラ。作出当時の皇太子妃時代の美智子妃殿下に捧げられたバラで、中輪系の銘花の一つで、濃いオレンジ色の半八重咲きが有名だとか:
国府台城攻め (フォト集)
【参考情報】
- 日本の城探訪(国府台城)
- 市川市HP (ホーム→市政情報→施設のお知らせ→緑と公園→里見公園)
- 里見公園に建てられていた説明板・案内板(市川市教育委員会)
- 埋もれた古城(国府台城)
- 余湖図コレクション(千葉/市川市/国府台城)
国府台合戦
文明10(1478)年頃に太田道灌が、のちに千葉家宗家となる千葉自胤(ちば・よりたね)を助け、自胤と敵対する千葉輔胤(ちば・すけたね)・孝胤(たかたね)父子と戦うために下総国府台に陣屋を構え、境根原合戦[k]現在の千葉県柏市酒井根から光ヶ丘団地付近。に出陣し、輔胤父子を討ち破った。そこで破れた孝胤は臼井城へ逃れ籠城することになった。
こののちの国府台は、天文7(1538)年と永禄6〜7(1563〜1564)年の二度にわたり、小田原北条氏と安房里見氏をはじめとする房総諸将との間で激戦が繰り広げられることになった。一般に、前者を第一次国府台合戦、後者を第二次国府台合戦と呼んでいる。
天文7(1538)年の第一次国府台合戦は、小田原の北条氏綱・氏康父子が小弓公方[l]関東足利基庶流で公家の一つ。古河公方の分家筋にあたる義明の代で急成長し、本家の古河公方と覇権を争うまでになった。の足利義明と里見義堯らの連合軍と国府台の北にある相模台城[m]現在の千葉県松戸市岩瀬にある松戸中央公園・相模台公園・千葉地方裁判所あたり。周辺で衝突した。この戦いはあくまでも古河公方と小弓公方らの戦いであり、それぞれ北条氏と里見氏が支援した。戦況は数に有利な北条軍が矢切台あたりまで進出して連合軍を圧倒し、弟と嫡男が討死にしたという報告に逆上した足利義明が北条勢に突撃して討死、それを知った里見義堯は一度も交戦することなく戦場を離脱することになった。
一方、永禄6〜7(1563〜1564)年の第二次国府台合戦の開戦については諸説あるようで、一つは越後の長尾政虎による小田原城攻めのあと、息を吹き返した北条氏康は甲斐の武田信玄と共闘して、長尾方の太田資正が城代を務める武州松山城を攻略した際に、長尾方の援軍であった安房の里見義弘が国府台で北条氏康と激突したと云う説である。そして、もう一つは北条方だった葛西城代・太田康資(おおた・やすすけ)が恩賞や待遇に不満を抱き、同族の太田資正に同調して里見氏に寝返ったことを発端とする説である。
ここで、康資の父である太田資高(おおた・すけたか)は名将・太田道灌の孫にあたり、祖父が謀殺されたのちも主君・扇ヶ谷上杉氏に仕えて江戸城代であったが、そのような背景から次第に小田原の北条氏綱に通じ、祖父の仇討ちと称して上杉朝興(うえすぎ・ともおき)の代に反旗を翻し、江戸城を占領した。資高は氏綱の幕閣に加わり、引き続き江戸城代でいられると思っていたが、氏綱は彼を用いず遠山綱景と富永直勝[n]北条氏康麾下の部隊で、北条五色備のうち青備えを担当した武将。らを北条家江戸衆として城代とした。
失意の資高は出家して引退し、次男の康資と共に江戸城の北にある武州稲付城で暮らしていた。彼の妻は北条氏綱の娘であったため、北条氏には手向かいせず、無念のうちにこの世を去った。
息子の康資は、『関東古戦録』には若年ながら身の丈6尺[o]身長182cm。を越え、筋骨は太く、声は太く、雷が震えるほどの大声をあげ、普通の男が30人程でやっと持ち上がる巨岩を軽々と持ち上げるほどの偉丈夫(いじょうふ)であったと云う。北条氏康は彼を家中一の強者として、偏諱を与えて康資と名乗らせた。それから第二次国府台合戦の前年にあたる永禄5(1562)年に里見義弘の支配下にあった葛西城を攻め陥としたが恩賞は少ない上、期待していた祖父の城・江戸城代になる夢も潰え、父の夢を叶えることができなくなり、遂に北条氏に反旗を翻し、同族の太田三楽斎資正を通じて里見義弘を総大将とする国府台城に入城した。
激怒した氏康は翌永禄7(1564)年に二万の軍を引き連れて葛西城を経由して国府台と江戸川を挟んた対岸にある市河二日市場に向かった。一方の里見義弘は、越冬した越後勢のために食料調達を国府台あたりで行っていたが、その隙を狙った北条軍の進撃に遅れをとった。北条方の先陣を賜った遠山綱景と富永直勝は、親族であった太田康資の寝返り[p]康資の妻は遠山綱景の娘であり、氏康の養女となって娶った。に責任を感じ、本隊である北条氏康・氏政父子の到着を待たずして江戸川の「からめきの瀬」を押し渡り無謀な突撃を敢行した。
この写真の奥が「からめきの瀬」と呼ばれる場所で、現在は「矢切の渡し」と呼ばれている:
「からめき」とは関東ローム層の下にある岩盤が露出したもので、転じて江戸川の川底にそのような岩盤があった場所のことを云うようになったのだとか。ちなみに江戸時代に入ると「矢切の渡し」と呼ばれるようになった。この「からめきの瀬」と国府台合戦については『北条五代記』や『関東八州古戦録』に記述がある。
こちらは、対岸にたどり着いた遠山綱景と富永直勝が見上げたであろう国府台城跡:
坂上から北条勢を迎え撃った里見勢は太田康資と、里見家譜代の家臣にして関八州にその名を知られた正木大膳信茂であった。信茂は緋縅し(ひおどし)の鎧に六十二間の筋兜、前立は大鍬形。紅の総掛をめぐらせた馬に騎乗し、手には長さ4尺6寸、身幅は2寸と云う蛤歯(はまぐりば)の大太刀を構えていたと云う。
遠山と富永は討死し、緒戦を有利に進めた里見軍であったが、正月明けの戦で勝利したということで戦勝祝いに酔いしれた夜半に、北条氏康と氏政の軍に挟撃されて大敗、正木大膳は討死、里見義弘は救出されて戦場を離脱したと云う。
その後、ついに安房・里見氏は再びこの地を治めることはなかった。
【参考情報】
- 里見公園に建てられていた説明板・案内板(市川市教育委員会)
- 埋もれた古城(国府台城)
- DELLパソコン・モバイル旅行記 (千葉県/市川市の国府台城)
- 東郷隆『初陣物語』(実業之日本社刊)
- Wikipedia 国府台合戦
参照
↑a | 室町時代の鎌倉公方・古河公方を中心とした関東地方の歴史を記した軍記物である。 |
---|---|
↑b | 読みは「おおた・すけなが」。持資(もちすけ)とも。出家したのちは道灌(どうかん)と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。 |
↑c | 武蔵千葉氏は後に下総千葉氏に分裂し、さらに下総千葉氏は小田原北条氏が継ぎ、北条氏の滅亡と同時に千葉氏も所領を没収された。 |
↑d | 実際も東京スカイツリーを拝めた以外は、大きな発見はなかったが。 |
↑e | もともとは利根川。「江戸川」の呼称になったのは江戸時代に伊奈忠次らによる利根川東遷事業から。 |
↑f | 実際にたくさんの子供たちが遊んでいた。 |
↑g | 安房の戦国大名・里見義堯(さとみ・よしたか)の五男で、義弘の弟。 |
↑h | 正木大膳信茂が正しい。正木時茂の嫡男で、里見義弘とは義兄弟の仲である。国府台合戦で討死した。享年25。 |
↑i | のちの六角氏。 |
↑j | 現在の東京歯科大学市川総合病院あたり。 |
↑k | 現在の千葉県柏市酒井根から光ヶ丘団地付近。 |
↑l | 関東足利基庶流で公家の一つ。古河公方の分家筋にあたる義明の代で急成長し、本家の古河公方と覇権を争うまでになった。 |
↑m | 現在の千葉県松戸市岩瀬にある松戸中央公園・相模台公園・千葉地方裁判所あたり。 |
↑n | 北条氏康麾下の部隊で、北条五色備のうち青備えを担当した武将。 |
↑o | 身長182cm。 |
↑p | 康資の妻は遠山綱景の娘であり、氏康の養女となって娶った。 |
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