早渕川に張り出す丘陵上に築かれた茅ヶ崎城の中郭は高い土塁で囲まれていた

神奈川県横浜市都筑区茅ヶ崎[a]神奈川県茅ヶ崎市とは異なる。ここは横浜市都筑区(よこはまし・つづきく)である。は旧港北区の北西部にあたり、現在は横浜市の行政区として再編され港北ニュータウンとして生活拠点に指定された街であるが、その街を流れる鶴見川の支流・早渕川(はやぶちがわ)中流右岸にある三角山[b]現在の横浜市営地下鉄のセンター南駅付近の旧名称である。から東へ連なる標高28m〜35mほどの丘陵上に茅ヶ崎城[c]この茅ヶ崎周辺は標高が低い盆地にあるので、比高差は意外と大きい。がある。この城の近くには、往時は関東各地と鎌倉を結ぶ鎌倉道のうち「中の道」が通っており、東には相模国と武蔵国江戸を結ぶのちの中原街道が、そして西には矢倉沢街道に通じており、まさに交通の要衝の地に築かれた平山城であった。この城の築城とその年代については正確な史料がないため、平成2(1990)年から始まった発掘調査の結果から築城年代は14〜15世紀前半頃で、少なくとも二度に渡る大規模な改築跡が認められた。それにより15世紀後半の相模国と武蔵国は関東管領・山内上杉氏の所領であり、その後は小田原北条氏の支配を受けていたと考えるのが専らとされている。現在残る遺構も、早渕川に張り出した丘陵上に複数の郭が連なり、それらを取り巻く空堀や堀切、外縁部に築かれた高い土塁、そして中郭東にあった二重土塁などは「北条流築城術」が伺え、その保存状態も良好である。

一昨年は、平成27(2015)年のGW明けの城攻めは自宅から車で移動できる距離にあり、住宅街の中に残る城跡で、現在は城址公園として横浜市都筑区が整備している茅ヶ崎城にした。この時は公園近くにある駐車場に車を止めて、10分ほど歩いて城址へ向かった。

まずはGoogle Earthを利用した現在の城址周辺の俯瞰図に往時の縄張を重畳させたもの(写真上が北方向):

城址の北には天然の外堀だった早渕川が流れ、丘陵のくびれ部を堀切に利用した連郭式平山城である

茅ヶ崎城跡の俯瞰図(Google Earth 3Dより)

城の北側を流れる早渕川に張り出す独立丘陵上に築かれた城は、その丘の「くびれ」を堀切として利用し複数の郭が連なる平山城になっている。なお築城当初は東郭と西郭のみであったが、小田原北条氏の属城となった頃には土塁の改築と空堀の堀り直しが行われ、郭が追加されて四つになったと考えられている:

築城当時は東郭と西郭の二つであったが、後北条流築城術に従って北郭と中郭が増え、堀も深くなった

茅ヶ崎城の縄張図(Google Earth 3Dより)

実際のところ、この城の築城年代は不詳ながらも過去に実施された何度かの発掘調査によって室町後期から戦国時代に至る中世城郭としての通説が一般的となっている。その時代背景からは15世紀半ばの鎌倉公方と関東管領・山内上杉氏の対立、そして扇ヶ谷上杉氏を巻き込んだ上杉氏内紛、名将・太田道灌と下克上の走りである長尾景春[d]伊藤潤作の『叛鬼(はんき)』(講談社文庫)の主人公である。らによる関東を中心とした大規模な戦乱期と、15世紀終りの伊勢新九郎盛時(北条早雲)による関東一円の支配拡大期である。新九郎は明応4(1495)年の小田原城奪取を始めとして関東各地に支城を中心としたネットワークを構築し、その支配理念は彼の嫡男・氏綱と孫の氏康によって完成し、その頃にはここ茅ヶ崎城も小田原北条氏の家臣団のうち小机衆と呼ばれた座間氏や深沢備後守らが城代を務めていたと云う。

そして、こちらが最終的な発掘調査の結果に基づく縄張図(上が北方面):

この図には描かれていないが、後北条流築城術の一つである二重土塁などの遺構も見つかっているのだとか

平成12(2000)年発掘調査時の茅ヶ崎城址(拡大版)

それほど複雑な縄張ではないし、綺麗に整備された説明板が随所に建っているので、今回は城攻めルートを割愛するが、一応は次のような順番で攻めてきた:

①公園入口(西側) → ②北郭(きたぐるわ)跡 → <中郭跡> → ③東郭(ひがしぐるわ)跡 → ④腰郭(こしぐるわ)跡 → ⑤中郭(なかぐるわ)跡 → ⑥西郭(にしぐるわ)跡 → <公園入口(西側)> → ⑦寿福寺観音堂
<斜体>内は経由点 

市営地下鉄のセンター南駅近くの駐車場から、それこそ住宅街の中を歩いて行くとそれらしい丘陵が見えてきた。この辺りは低地が続いていたこともあり、ホントにそれだと分かる丘陵であった:

周囲は住宅街で、その中に一際目立つ丘陵が城址公園である

茅ヶ崎城跡の遠景

そして住宅街を抜けて高台へ登って行くと①城址公園入口[e]公園には北側の東西に二つの入口があるが、こちらは西側にあるもの。がある:

もう一つの入口は、この眼の前の道を道なりに進んだ東側にある

茅ヶ崎城址公園入口(西側)

この入口脇の階段を登っていくと、いきなり主郭付近に到達するが、ここは大手道ではないようだ。そして階段を登っていく途中には北郭の城塁によって設けられた堀切のようなものが見えてくるが、実際のところ階段も堀底上に造られたようにも見えた:

ここを登ると北郭虎口跡に至るが、大手道ではない

登城道

公園入口の階段を上って行く途中にある堀切のような跡

浅い堀切跡

そして、ここが城域北側にある分岐点。案内板のとおり左右の進むと北郭・中郭の堀切、中郭・西郭の堀切の堀底道をそれぞれ利用した遊歩道につづく:

左手は北郭跡方面、右手は西郭跡方面で、正面の城塁は中郭跡である

北郭虎口付近の分岐点

まずは左手の②北郭跡へ。この遊歩道は北郭(左手)と中郭(右手)の間に設けられた空堀の堀底道になっている:

北郭(左手)と中郭(右手)の間に設けられた空堀の堀底道である

空堀跡

②北郭跡。後北条氏の属城となった際に追加された郭(くるわ)なのだとか:

後北条氏の時代に追加された郭の一つである

北郭跡

南側を除く周囲に土塁が設けられていてた

北郭跡

往時、北郭の北側には堀があり、その先に北平場1に至る土橋(北郭土橋)が設けられていたと云う。実際には堀の中央西部を掘り残したものだった。この土橋の城域側には北郭虎口が設けられ、虎口の両脇には対となる柱穴が発見されたことから、木戸に相当するものが建っていたと推測されている:

ここには北郭の虎口であり、城の北側にあった堀を挟んで平場へ通じていた

北郭虎口と北郭土橋跡

しかしながら現在は都市整備ため北郭土橋は存在していない。この土橋は上幅は約2.9m、下幅は4.5m以上で幅広の台形型をしていたというが、城址公園北側の道路からみると、その形がよく分かる:

右手上が北郭虎口で、ちょうど道路が北堀に相当する

分断された北郭土橋

北郭には井戸もあったらしい。城内に幾つかあったものの一つであるが、上端の直径が約4m、深さ約5m程であるが、かなりの量の水を確保できていたと推測されている。また井戸の周囲には水を汲む簡素な施設が建っていた遺構が見つかっている:

この周囲に横板や梁などを渡して水を汲む施設が建っていたらしい

北郭井戸跡

現在は完全に埋没していた

北郭井戸跡

北郭跡から東郭方面へ向かうが鉄製のフェンスが設けられていて、その先は宅地化さており、それ以上は東へ移動することができないが、そのフェンス越しに東郭(写真左手)と中郭(同右手)の間にあった堀切と土橋を見ることができる:

正面中央に見えるのが土橋であるが、往時はもっと下にあり、さらに右手にはもう一つ空堀と土塁があったらしい

東郭と中郭との間の堀切と土橋(拡大版)

そのためいったん中郭跡を経由して、この中郭土橋を実際に渡って東郭方面へ向かうことにした。
中郭跡(写真手前)と東郭跡(同奥)との間には上幅約14m、深さ約7mの堀切によって隔てられ、その中央部に設けた土橋によって連結している。中郭土橋は上幅約2m、下幅約15mで、上面は中郭よりも約2m、東郭より約4m低い位置にあり、東郭への上り坂は急斜面になっている:

この先の空堀には東郭方面へ向かうために設けられた土橋がある

中郭跡から東郭跡へ

左右に走る堀切の中央付近に中郭土橋があり、その向こうに東郭跡が見える

中郭跡から見た東郭との間の堀切と土橋(拡大版)

この土橋は盛土によって造られ、中郭東側(左手)にあった土塁と東郭西側(右手)にあった土塁が破壊されていことから、往時は存在しておらず、廃城時に空堀が埋められて通路にされた可能性があるのだとか。となると、ここには引き橋が架かっていた可能性もある:

この土橋は廃城時前後に空堀が埋められたと同時に造られた可能性が高い

埋められた堀切と中郭土橋

このまま堀切を辿っていったん城址南側へ移動してから東郭跡へ向かった。こちらはその東郭の城塁を見上げたところ:

一際目立つ城塁の上に築かれた東郭は城内で最も高い位置にある

東郭の土塁(拡大版)

こちらが③東郭跡。城内で最も高い位置にある郭で、中原街道や矢倉沢街道といった主要な街道筋を見渡せるほどの見晴らしが良いことから物見台などが建っていたとされる:

いざと云う時は、この郭に逃げ込んで最後まで抵抗するための場所だった

東郭跡

また、往時はこの物見台からは茅ヶ崎城を支城としていた小机城を眺めることができたのだとか。小机城は約3.8kmほどの直線距離上にある:

Google Earth で現在の横浜市都筑区周辺を俯瞰した図である

茅ヶ崎城と小机城(Google Earth 3Dより)

小田原北条氏の時代には茅ヶ崎城は小机城の支城であったとされる

茅ヶ崎城と小机城(コメント付き)

この郭から堀切ごしに見た中郭跡。ちなみに向こうに見える中郭がこの城の主郭だったとされ、いざという時に主郭(中郭)が落とされても、この東郭へ渡って木橋を落とし、最後の抵抗をみせる「詰郭」的な役割を持っていたとも考えられる:

茅ヶ崎城の主郭である中郭が落ちたら、木橋を落として、こちらの詰郭に籠城した可能性がある

東郭跡から見た中郭跡(拡大版)

東郭の一段下には東西約60mの帯状をした④腰郭があったされる。この郭の北側は北堀、東側には平場があり、武者溜まりとして利用されていたのだとか:

 

東郭の一段下にある郭で、武者溜として利用できる平場があった

腰郭跡

こちらは東郭南側に存在していたと云う虎口(東郭虎口)。この下には根小屋(ねごや)と呼ばれる平時の居住区があることから、併せてここが大手道とされている:

東郭南側に位置する虎口の存在が推測されているが詳細は不明だとか

東郭虎口跡

再び中郭跡方面へ向かう途中に根小屋の説明板があった。平時に城主や重臣たちが生活し政ごとを行っていた居住区は、城の南と東の崖面裾に幅約10〜20m、東西600mに及ぶ平場があり、発掘調査では蔵骨器(ぞうこつき)や板碑(いたび)といった遺構が発見されている。現在はほぼ宅地化されていて残っていないが、説明板あたりから見下ろした崖面の下にあったとされる:

城主や重臣らの平時の居住区があった平場で、左手下にある

根小屋の説明版

現在はほぼ全域が宅地化されているが、発掘された遺構もあるのだとか

根小屋跡を見下したところ

そして茅ヶ崎城の主郭として使われていたであろう⑤中郭跡:

周囲は高い土塁で囲まれており、主郭的な役割を持つ郭である

中郭跡

周囲は土塁が巡らされ、城内でも良い状態で土塁が残っていた:

この郭の周囲に巡らされた土塁は良好な状態で残っており、現在の城址公園でも一番の高位にあると云う

高い土塁で囲まれた中郭跡(拡大版)

こちらは中郭北側にある虎口と土塁。右手の虎口を下りて行くと北郭跡に至る。実際に土塁の上から北郭跡を見下ろしてみた:

この虎口は中郭と北郭を結ぶ通路上にある

中郭北側の虎口と土塁

中郭に設けられた虎口の土塁から見下したところ

中郭跡から見た北郭跡

平成17(2005)年の発掘調査では、ここ中郭跡から土坑や基壇、そして柱穴などの遺構が発見されたことから、倉庫といった掘立柱建物が並び、郭内の南側にある土塁との間に塀で仕切りを設けていたことが判明した。現在はそれらの一部が平面復元されていた:

中郭内には蔵といった掘立柱建物が並んでいたらしい

建物遺構

この後は中郭北側の虎口から北郭跡方面へ下り、堀底道に沿って西郭跡方面へ向かった。こちらが最初に通った分岐点:

今度は西郭方面へ向かう

北郭虎口付近の分岐点

しばらく進むと北郭虎口跡があり、その先には西郭の土塁が残っていた:

ただし、ここに虎口があったと云うのは推定であり、未だに発掘調査は継続されているのだとか

北郭虎口跡と西郭土塁(拡大版)

こちらが中郭(左手)と西郭(右手)の間にある堀切(空堀)で、北郭側と同様に堀底道が公園の遊歩道になっている。中郭跡の城塁の高さは6mほど。また関東は水がそのまましみ通るローム層が主体で、水堀にすることが難しいため、底が逆台形をした「箱堀」式の空堀が多く造られていたとか:

ローム層が多い関東は水堀にしづらく箱堀式の空堀が多用された

堀切(空堀)

このまま右手にある⑥西郭跡に入る。この郭は二段に分かれており、遊歩道があるのが一段目、左手の南側が二段目となる:

こちらが一段目、南側(左手)の高くなっているところが二段目である

西郭跡

一段目から南側にある二段目に向かって垂直に堀切のようなものが伸びていた:

西郭の一段目から二段目を見たところ

左手中の二段目にある堀切

このまま西郭跡を半周すると城址の南側に至り、中郭跡と堀切を反対側から眺めることができる。西郭南側の城塁の高さは5mほど:

高さは5mほどで、左手下には南平場1(腰郭)跡がある

西郭南側の城塁

南側からの眺めで、左手が西郭跡、右手が中郭跡になる

堀切(空堀)

この城の主郭的な郭の城塁高さは6mはあった

中郭南側の城塁

以上で茅ヶ崎城攻めは終了。このあとは公園から出て茅ヶ崎観音堂へむかった。

こちらは、その途中に城の西側へ周って西郭の城塁を見上げたところ:

この城址自体が高台の上にあるので、西郭跡もかなり高い位置にあることが分かる

西郭北側の城塁(拡大版)

そのすぐ目の前に⑦寿福寺観音堂がある。平安初期弘法大師の創建。茅ヶ崎城主・多田行綱の孫の代に開基。多田氏の菩提寺とされ、正観世音菩薩の碑が建つ:

平安初期弘法大師の創建らしい

寿福寺観音堂

行基が回国修行で長門国であった老人に予言された観音様を祀っている

正観世音菩薩の碑

 

See Also茅ヶ崎城攻め (フォト集)

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【参考情報】

参照

参照
a 神奈川県茅ヶ崎市とは異なる。ここは横浜市都筑区(よこはまし・つづきく)である。
b 現在の横浜市営地下鉄のセンター南駅付近の旧名称である。
c この茅ヶ崎周辺は標高が低い盆地にあるので、比高差は意外と大きい。
d 伊藤潤作の『叛鬼(はんき)』(講談社文庫)の主人公である。
e 公園には北側の東西に二つの入口があるが、こちらは西側にあるもの。