城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

横須賀城 − Yokosuka Castle

城内に船着場を持つ横須賀城本丸南下は大井川の河原石を用いた玉石垣造りだった

今から400年以上も前の天正3(1575)年、織田信長・徳川家康らの連合軍38千は三河国の設楽原付近[a]現在の愛知県新庄市長篠にあたる。で武田勝頼が率いる騎馬軍15千と決戦を行い(長篠設楽原の戦)、これに勝利した。これを機に、家康はその前年に無念にも甲斐武田の手に陥ちた高天神城の奪還に向けて準備を開始した。しかしながら長篠の戦で惨敗し多くの重臣・将兵を失った勝頼ではあったが、その強力な甲州騎馬軍団は依然として侮りがたく、家康だけで[b]おそらく、長篠の戦後に信長からは「家康だけで」三河・遠江両国を取り戻すよう指示があったとされる。一気に力攻めするようなことはせずに、足掛け二年もの時間をかけて[c]この家康の『石橋を何度も何度も叩いてから渡る』といった異常なまでの慎重さは、今川家による幼年からの人質時代に培われたと考えられている。、まずは高天神城の周囲にある武田方の城や砦を一つづつ取り戻し、その上で周囲に六つもの附城を築き、高天神城への人的・物的補給路を完全に遮断して兵糧攻めによる攻城戦を選択した。その附城の一つとして家康の命を受けた大須賀康高が、馬伏塚(まむしづか)砦に続いて天正6(1578)年から築いた横須賀城は、現在の静岡県掛川市大渕にある。この城は、高天神城からおよそ6㎞という距離にあり、城の南側が遠州灘の入江となっているため船着場を持ち、さらに西と東にそれぞれ大手門を持つ両頭城で、高天神城攻めの軍事拠点として、そしてその周囲にある各砦の兵站拠点として活用されることになった。

一昨年は、平成27(2015)年のGWは「城攻め三昧」なウィークであったが、最後の二日間は静岡県掛川市まで足を延ばして、その周辺にある城跡をいくつか攻めてきた。その最終日は横須賀城跡。掛川駅前の宿をチェックアウトし、8:17amのJR東海道本線・浜松行きに乗って二駅ほどいったところの袋井駅で下車。それから8:40amに駅前にあるバスターミナルから秋葉バスの「大東支所・横須賀車庫前」行きのバスに乗って20分ほどの七軒町と云うバス停で下車して城跡を目指した。

まず、こちらはGoogle Map 3Dを利用して、現代の城址周辺と往時の縄張の位置関係を重畳させてみたもの:

城址の南側に走るR41に沿って、往時は仲土居があり、その南側は遠州灘の入江だった

横須賀城址の鳥瞰図(Google Map 3Dより)

城址南側を東西に走っているのが県道R41で、おおよそ往時の仲土居にあたる。その土居を挟んで北側に外堀(水堀)が設けられ、南側は遠州灘の入江(海)になっていた。更に西側と東側にそれぞれ大手門があるのも特徴である。現在は西の丸・本丸・北の丸・松尾山といった遺構が「横須賀城跡公園」(赤破線の領域)として保存されており、それ以外のほとんどは埋め立てられ宅地化されるなどして残ってはいない:

本丸から北の丸・松尾山にかけて丘陵になっていることから平山城に分類されている横須賀城

横須賀城址の縄張図

そして今回の城攻めルートがこちら。R41沿いにあるバス停から直ぐ近くに西大手門跡があるので、そこからスタートし住宅街を進んで城址公園へ向かった:

城址の北西すぐの所に撰要寺が建っており、ここには初代横須賀城主である大須賀康高の墓所や不明門があるらしい

横須賀城の城攻めルート(拡大版)

また、バス停から北へ徒歩5分ほどの所に建つ撰要寺(せんようじ)は、初代横須賀城主である大須賀康高公が創建したお寺で、横須賀城北西隅にあった不明門(あかずのもん)を明治時代の廃城時に移築した山門や大須賀氏の墓所があるらしい。こちらは後で知ったので今回は訪問できなかった。残念 :(

秋葉バス「七軒町」停留所 → ①西大手門跡 → ②西櫓跡 → ③外堀跡 → ④二の丸跡 → ⑤西の丸西斜面 → ⑥腰曲輪跡 → ⑦西の丸跡 → ⑧本丸南下門跡 → ⑨本丸跡 → ⑩天守台跡 → ⑪本丸南側虎口 → ⑫三日月井戸 → ⑬北の丸跡 → ⑭松尾山(まつおざん) → ⑮米倉跡 → ⑯三の丸跡 → ⑰妙徳寺 → ・・・ → 秋葉バス「七軒町」停留所


まずは西大手門跡を目指して、バス停からR41沿いを東へ歩いてく。写真右手のR41が往時の仲土居道(土塁の上に設けられた道路)にあたり、西から東へ南外堀沿いに設けられていた。そして仲土居の更に南は遠州灘の入江になっていたと云う:

西大手門前あたりから外堀に沿って往時は土塁の上に道が設けられていた

仲土居道跡

そして、ここの左手奥には①西大手門跡がある。往時は城内の東西二ヶ所にあった大手門の一つで、現在は埋没保存されているため実際に門跡を見ることはできないが、民家脇の生け垣が枡形のような形をしていて一応は趣が残っていた ;)

東西に長い構造を持つ横須賀城には東西2ヶ所に大手門があった

西大手門跡

遺構は埋没保存されているため、枡形風の虎口で復原されていた

枡形風の虎口

この門跡の直ぐ近くには②西櫓跡があった。「遠州横須賀城図」には二層二階の櫓が描かれている:

西大手門のすぐ東隣には二層二階の櫓が建っていた

西櫓跡

さらにR41沿いを東へ向かうと③外堀跡の標柱が見えてきた。現在は埋め立てられているが、往時は城の南側にあった外堀で、仲土居道を挟んだ向こう側(さらに南側)は入江だった。しかしながら江戸時代は宝永4(1707)年の南海トラフ全域に及んだ大地震で入江が隆起し、遠州灘が南側へ移動してしまい現在のように陸地になったと云われている:

城の南側は外堀と仲土居道と入江となっていた

南外堀跡

往時は城の西側(写真右手)から東側(同左手)へ外堀と仲土居道が走っていた

南外堀跡と仲土居道跡

このあとは民家の脇を通って城址公園へ向かった。正面の森のようにみえる高所が西の丸や本丸のある西の丸台地で、ここを左折すると右手に公園入口があった:

西の丸跡・本丸跡・北の丸跡、そして松尾山までが公園化されて残っていた

横須賀城址公園

さらに公園入口の対面にはゲートボール場があるが、そこが④二の丸跡であると云う。往時、ここには御殿や庭園があり、平時は城主の政務や生活の場所だった。また、発掘調査では五段積みの玉石垣で形造られた池跡(または堀跡)が北端まで続いていたことが判明した:

二の丸にあった御殿の庭園跡で、ここには玉石垣で造られた池があった

御殿池跡 (南端部分出土地点)

平時に城主が住んでいた御殿が建っていた場所である

二の丸跡

こちらが城址公園の入口。手前には駐車場、左手にはトイレがあり、正面の左右に遊歩道があった:

駐車場・トイレ・国史跡・横須賀城跡の説明板があり、左右に遊歩道がある

城址公園入口

こちらは公園入口の説明板に描かれていた『遠州横須賀城図』。大手門が西と東の2ヶ所にあり、右下(東側)の入江に面した部分(侍屋敷)には船着場らしきものも確認できる:

公園入口に建つ「国史跡・横須賀城跡」の説明板に描かれていた縄張図

遠州横須賀城図(拡大版)

そして入口に向かって右手にある遊歩道から城址へ。こちらの遊歩道は長い階段になっているが、これが⑤西の丸西斜面にあたり、実際に発掘調査では傾斜角30度くらいの石段が見つかっている。往時は城主の居住区であった二の丸から本丸のある西の丸台地との連絡路であったと云う。また、往時の石段は大井川で採れた砂岩質の川原石を用いており、表面がすべすべした石で雨の日は滑りやすくなるため、復原では表面が凸凹して滑りにくい木曽石を使用しているのだとか:

この斜面の上が西の丸の帯曲輪になり、往時も石段と塀、そして門があったらしい

西の丸西斜面の階段

石段は地元産の砂岩質の川原石で造られていたが、現在は木曽石で復原されていた

復原された石段

長い時間を経た遺構は壊れやすく貴重な史料でもあるので、現在は全て埋没保存され、その上に復原遺構が造られていた。さらに遺構としては腐食などあって実際には検出できなかったが、絵図に描かれている石段の両脇にあったであろう土塀の姿を、現在は刈りこんだ生垣で表現しているのだとか。
石段を上がりきったところには西の門(仮称)の門跡であろう石敷が検出された:

門の正式名は不詳とのことだが、石敷や柱石などが発掘されたことから門跡とされる

西の門(仮称)跡

石敷の大きさは横3.27m、縦1.90cmで、西辺の両端には特に大きな石が置かれていたことから門の柱石と考えられている。二つの柱石の中心幅は2.60m、この間に内側に開く門扉があったとされる:

実際の遺構はこの下に埋没保存されている

門跡の石敷と柱石(復原)

門跡の石敷から続いて、南側に曲がる六列の螺旋状石段が検出された。それらの石段は1.4mや2.9mといった大きさがまちまちであったと云う:

検出された六列の石段は大きさがばらばらであったのだとか

門跡から続く六列の螺旋状石段(復原)

西斜面の石段を上がって西の門(仮称)をくぐった先には西の丸下の⑥腰曲輪跡がある:

西の丸台地に築かれた西の丸の一段下にある曲輪である

腰曲輪跡

この腰曲輪は西の丸台地上に築かれ、西の丸を囲むように設けられていた曲輪である:

西の丸や本丸が築かれていた比高10mほどの台地である

西の丸台地

西の丸を囲む腰曲輪と西の丸からなる台地状の隆起であった

西の丸台地

このあとは一旦、腰曲輪跡から西門(仮称)跡まで戻り、西斜面の石段とは反対方向につづく階段を登って⑦西の丸跡へ:

右手は本丸方面だが、特に堀切などはなくそのままつながっていた

西の丸跡

西の丸の東側には本丸が並んで配置されていたが、特に堀切などは設けられていなかった。往時は塀に囲まれて本丸との間に門があったとされる。現在は刈りこんだ生け垣で往時の土塀をイメージさせている他に建物礎石があった:

西の丸台地は瓢箪型に両端が広くなっており、西側を西の丸、東側を本丸としていた

建物礎石跡

ここから本丸跡ではなく、腰曲輪を経由して本丸南下の、最も横須賀城らしく綺麗に整備された玉石垣を見ることにした:

西の丸跡東側の腰曲輪跡から眺めた横須賀城本丸南下周辺の玉石垣造りの眺めは素晴らしかった

本丸南下の玉石垣(拡大版)

こちらは西の丸跡を含めた本丸虎口周辺の玉石垣の眺め(パノラマ)。右手の住宅地がある辺りは、江戸時代の中頃まで遠州灘から深く入り込む入江があって、湊が置かれ大きな踏めの寄港して水上交通と物流の拠点にもなっていたのだとか。しかし宝永大地震による地盤隆起によって入江は干上がって湊も利用できなくなったと云う:

左手の本丸前には高石垣と石段が三個設けられ、右手は外堀、仲土居道と続いて入江があった

本丸虎口周辺の玉石垣(パノラマ)

ここ⑧本丸南下門跡あたりは本丸や天守台へ至る城内でも重要な虎口にあたり、天然の尾根や谷を巧みに利用して門や塀などの施設により厳重に固められていた:

本丸虎口は城の南側に設けられ、周囲はたま石垣で厳重に守備されいた

本丸南下門跡と虎口

古絵図の『遠州横須賀城図』によると、本丸南下には一の門と二の門が建っていたが、現在は一の門とその遺構は残っておらず、二の門の台座石垣が復元されていた。詳細は、本丸跡に展示されていた横須賀城跡復原模型[d]この模型は設置後から心無い来訪者によって度々破壊行為を受けていたと云う。二度の修理後の姿がこれである。馬鹿者としか言いようがない。を見るとよく分かる:

本丸虎口を固めていた一の門と二の門の存在と、西の丸台地の上に築かれた本丸と天守台の位置がよく分かる

史跡・横須賀城跡復原模型(拡大版)

これが、その一の門があったとされる場所から二の門跡を眺めたところ:

この台座石垣の上には城内で最大級の櫓門が建ち、実際にスローブ状の遺構も発見されたのだとか

本丸南下二の門跡(拡大版)

この二の門は城内で最も大きな櫓門であったと推定されている。さらに発掘調査では、門の台座石垣の基礎となる石の列や虎口につながるスローブ状の石段が出土したと云う:

実際にこのようなスローブ状の石段が遺構として検出されており、多量の廃棄瓦が堆積していたと云う

本丸南下虎口と二ノ門台座石垣(拡大版)

スローブ正面の両脇には二の門の台座石垣が復原されていた。ここで使用した石は大井川から採取した川原石で、一般的によく見る石垣とは異なる玉石垣造りであった:

一般的な石垣とは一味違う趣を持つ玉石垣である

二の門台座石垣(復原)

本丸虎口に建つ櫓門の台座石垣は大井川の川原石で復原されていた

二の門台座石垣(復原)

虎口に向かって右手の台座石垣には、雨水などで石垣が崩れないようにした排水溝の暗渠(あんきょ)が設けられていた。その上にある赤茶色の石は発掘調査で出土した石らしい。現在は危険防止のため暗渠の口を扁平な石で閉じられていた:

現在は危険防止のため穴の口は閉じられていた

暗渠

玉石垣で造られた本丸石垣。川原石と云う全国でも珍しい造りであった:

虎口下から見上げた本丸石垣も玉石垣造りであった

本丸の玉石垣

他の城には見られない川原石を使った石垣であった

玉石垣造り

本丸石垣の上から見下ろした二の門跡と復原された台座石垣・スローブ。櫓門をくぐると、意外と広い枡形の曲輪があり、さらに本丸へ登る石段が設けられていた:

城内でも最も大きな櫓門をくぐると枡形となり、さらに石段が続いていた

本丸南下二の門跡

この枡形のある本丸南側斜面下には、古絵図によると高石垣と三つの上り道が設けられていた。現在は復原整備された石段があった。ちなみに石段は発掘調査では検出されていないが、古絵図からその位置を決めて設置したものらしい。また、この辺りからは五段目までの石積みが残る石垣も出土したのだとか:

枡形の正面には玉石造りの高石垣があり、石段で西の丸や本丸へ移動できる

本丸南下の枡形と高石垣

発掘調査では検出されていないが古絵図を元に位置を決めて復原したという

本丸へ至る石段

石段を上がった先には北側を土塁で囲まれた⑨本丸跡がある:

本丸の北側は土塁が設けられ、西には西の丸跡、北隅には天守台跡がある

本丸跡

ここには城址の碑や本丸跡土坑(ほんまるあと・どこう)群などがあった:

題字は明治まで横須賀城城主を務めた西尾氏の子孫の方のものらしい

横須賀城址の碑

土杭(どこう)とは色々な用途のために地面に掘られた穴のこと

本丸跡土坑群

本丸の北東隅には⑩天守台跡がある。横須賀城の天守は建坪が40坪余[e]およそ132.2㎡である。で、三層四階の建物だったと記録されている。天守台の周囲には低い石垣が設けられ、東南隅には出入口とされるスローブがあった:

ここには三層四階の天守が建っていたと云う記録があるらしい

天守台跡

また、ここからは礎石と礎石を抜き取った穴がおおよそ2m間隔で碁盤の目状に27ヶ所検出された。天守台跡の周囲からは、天守に使われた瓦が大量に出土しており、西側からは鯱瓦(しゃち・がわら)の頭部が、南側からは尾の部分がそれぞれ出土している:

礎石と礎石を抜き取った穴が碁盤目状に27箇所も検出されたらしい

天守台跡

古絵図によると本丸北側に設けられた土塁の上には白壁塗りの土塀があったとされ、現在は代わりに生け垣が往時の趣を伝えていた。さらに、この土塁上からは北の丸跡と松尾山を眺めることができた:

古絵図には、この土塁の上に白壁塗りの塀が描かれていた

本丸北側に設けられた土塁

ここから約6km先に高天神城跡がある

北の丸跡と松尾山

ここ横須賀城は高天神城から南西6kmほどの位置にあり、高天神城と同じ小笠山(おがさやま)から西に張り出した尾根とそれに続く長い砂嘴(さし)地形を利用して築かれた城で東西に長い形をしている。築城当時は山城として築かれた本丸・松尾山に、江戸時代に拡張されて二の丸や三の丸といった平城部分が付け加わった平山城である。
こちらが高天神城と横須賀城の位置関係。二つの城の間に小笠山の尾根が広がっている:

高天神城と横須賀城は同じ小笠山の異なる尾根にそれぞれ造られた城である

遠州小笠山の尾根に二つの城あり

武田方の手に落ちた高天神城とは1.5里(約6km)と云った近さだった

遠州小笠山に二つの城あり

天正9(1581)年に家康の手によって落城した高天神城はすぐに廃城となったが、横須賀城は江戸時代を経て明治2(1869)年の廃城まで横須賀藩の拠点となった。初代城主は、天正2(1574)年に武田勝頼が高天神城を攻め落とした際に城を守備していた大須賀康高で、落城時に浜松へ退去していた家康譜代の家臣の一人である。大須賀氏のあとは渡瀬氏、有馬氏、松平氏、井上氏、本多氏と続き、天和2(1682)年からは西尾氏八代が廃城まで城主を務めた。


このあとは本丸南虎口から三日月池を経由して北の丸跡へ。
こちらは本丸南面の高石垣と玉砂利敷遺構で、右手に少し見えるのが⑪本丸南側虎口。往時、この場所には建屋があり、高石垣の下に見える黒色っぽい玉砂利が引き詰められた石敷の部分が土間にあたるのだそうだ。なお、実物の遺構は他と同様に埋没保存されている:

石垣の下に見える黒色っぽい石敷が玉砂利敷遺構で、往時は建屋があり土間にあたるものらしい

本丸南側の高石垣(拡大版)

現在、この南側虎口から公園外へ向かって長いスローブが設けられているが、古絵図によれば、往時も西の丸台地の東端部から三日月井戸方面へ下るスローブ状の坂と石段が描かれている:

発掘調査ではスローブ脇から玉砂利遺構や石垣基礎石列が検出された

南側虎口から伸びるスローブ

そして、こちらが⑫三日月井戸。往時の堀のうち現在残っているのが、この三日月井戸(または三日月池、三日月堀)だそうで、高天神城攻略のために築城当時からあった内堀の名残であるのだとか:

往時の堀で残っているのは、この池だけで、初期の内堀に相当する

三日月井戸(池)

往時は内堀であったと云われ、それ故に三日月堀とも呼ばれる

三日月井戸(堀)

ここで再び公園内へ移動して北の丸跡を目指した。北の丸へは本丸のある西の丸台地の脇を北上していくと小さな祠があった。いつの時代のお姫様かは不詳であるが、現在も地元の人達に祀られていた:

天守台北側にある北の丸から本丸南側を結ぶ通路のような細長い部分である

西の丸台地の東側を進む

由緒や名前は不明だが地元の人たちに今も祀られていた

お姫様の祠

ここが⑬北の丸跡。数練の建物があったところで武器倉跡と考えられている。また城主の家族などが住んでいた御殿があったとも:

建物いくつか建ち、武器庫跡とも云われる

北の丸跡

北の丸跡から眺めた本丸のある西の丸台地。本丸の南側は玉石垣で築かれていたが、北側は土で築かれているという特徴を持つ:

玉石垣造りの南側とは対照的に北側は土造りの台地であった

北の丸跡から見た本丸跡

北の丸を挟んで本丸の北東隅にあるのが松尾山(松の丸跡)。松尾山の向こう側には「牛池」と呼ばれる池があったらしく、水の手であったと同時に搦手側の独立した防御陣地であったと推測される:

横須賀城の搦手を守る独立した陣地であったと推測されている

北の丸跡から見た松尾山

この曲輪にはいろいろな石列遺構が見つかっている。まずは、北の丸建物跡石列遺構(きたのまる・たてもの・せきれつ・いこう)。建物の仕切り壁がのる地覆の席列と考えられているが、建物の基壇の石積みの可能性もあるとのこと。古絵図には倉庫と考えられる4棟の建物が描かれていた:

石列上に建物の仕切り壁が載る地覆か、または基壇の石積みであった

北の丸建物跡石列遺構

こちらは地覆石溝状石列遺構(じふくいし・みぞじょう・せきれつ・いこう)。松尾山の西斜面に接して造られた石列の上には建物の壁が載り、石列の間は雨落溝だったと考えられている:

縦に走る石列の上に建屋の壁が載っていたと考えられている

北の丸地覆石溝状石列遺構

最後は溝状石列遺構(みぞじょう・せきれつ・いこう)。北の丸平坦面の北端にあることから排水溝、または庭園等の一部と考えられている。実物は、他の遺構と同様に埋没保存されている:

排水溝の機能の他に、景観に配慮した庭園等の一部だったとも

溝状石列遺構

北の丸や本丸の北東隅にあるのが⑭松尾山(松の丸跡)。現在、その西斜面には階段が設けられていた:

北の丸川に面した松尾山の西斜面には遊歩道用の階段があった

松尾山

松尾山への登り口は二つあり、こちらは北側で綺麗に整備されていた

松尾山登り口

松尾山は横須賀城の最東端にあり、築城当時はこの付近が本丸ではなかったかとも云われており、この山頂の削平地には(多聞)櫓が建っていた:

北の丸に対して松の丸とも云われていた搦手側の曲輪である

松尾山の頂上

こちらは松尾山の山頂から見下ろした北の丸跡と本丸跡がある西の丸台地:

松尾山は松の丸と呼ばれ、横須賀城の最東端に位置する搦手を守備する曲輪だった

松の丸跡から見下ろした北の丸跡と本丸跡(拡大版)

松尾山の東側は空堀に接し、まさに城域の境界に位置する防衛上重要な曲輪であった。古絵図によると、松尾山の東側と北側には空堀があり、それに接するように細長い多門(多聞)櫓らしき建屋があったという。この多門(多聞)櫓は、城の縁(へり)に建てられた長屋状の建屋が城壁の役割を兼ねた施設であり、戦時は攻守において活用された櫓の一種で、平時は倉庫などに使用された:

松尾山の北東に設けられた空堀に接する重要な場所には多聞櫓が建っていた

松尾山建屋跡

発掘調査では、山頂の削平地より約1.7m高い櫓台の上に南北16.5m、東西4.5mの範囲から長さ2〜30cmの自然石を据え付けた跡が見つかったと云う。現在は、想定される建屋の範囲を土色に簡易舗装し、外側に生垣を設けて土塀のイメージを出していた:

外壁の位置にそって礎石が発見された(実際の遺構は埋没保存されている)

復原された建屋跡

こちらは櫓台跡から松尾山の北側と西側の空堀跡を見下したところ。現在は大部分が埋め立てられて農地化されていた:

現在、堀は埋められ大部分が茶畑になっていた

松尾山西側の空堀跡

この下は三の丸跡で、僅かながら掘跡が残っていた

松尾山北側の空堀跡

このあとは松尾山を下りて、北の丸跡を西へ横断して公園入口の北側にある遊歩道を西の丸台地を横目に歩いていると⑮米倉跡があった。往時は北の搦手あたりに数棟の米倉が建っていたと云う:

西の丸台地の北側には備蓄米などを納める倉が建っていた

米倉跡

さらに、米倉跡のそばには『たたき製防火水槽』なる石棺が置かれていた。現在は残っていないが、おそらく石蓋があったと考えられている。さらに、その側面に彫られている印は横須賀城主・西尾氏の火消し紋らしい:

城主が西尾氏の時代の防火水槽で米蔵の近くに置かれていた

たたき製防火水槽

ここで一旦、公園外に出てぐるりと南側を周って城址公園の東側へ移動した。道路にそって歩いていると⑯三の丸跡の案内板が見えてきた:

11代城主の井上正利が築いた曲輪で、太鼓櫓や牛池や東外堀があった

三の丸跡

三の丸は寛永5(1628)年に横須賀藩を継いだ井上正利が築いた曲輪で、古絵図によると、東南隅には太鼓櫓、西側に牛池、東端には外堀が設けられ、曲輪の中には少なくとも5棟の建屋が確認できたと云う:

正面の森あたりに牛池があり、その先には松尾山がある

三の丸跡

三の丸は廃城後も江戸時代の地形を保っていたが、昭和30(1955)年に東外堀が石垣をそのままにして埋め立てられて現在に至る。この辺りには三の丸の庭園にあった牛池跡:

この先に松尾山下の巨大な空堀跡がある

牛池跡

こちらは空堀跡から見上げた松尾山こと松の丸跡:

松尾山(松の丸)は北と東にあった巨大な空堀で囲まれた曲輪であった

三の丸跡から見上げた松の丸跡(拡大版)

最後は東外堀跡に建てられた⑰妙徳寺(日蓮宗)。もう60数年前に堀は埋められてしまっており、石垣などの遺構を見ることができなかった:

三の丸に東側に設けらた外堀を埋め立てた場所に建っていた

日蓮宗・妙徳寺

高天神城を奪還した後、ここ横須賀城は遠江国東部における拠点となり、280余年で8家、20代の城主が横須賀藩を治めた。明治2(1869)年の廃城後は外堀は埋められて、土地や建物が民間に払い下げられたが昭和46(1971)年に本丸跡の宅地化計画が持ち上がった際に地元の住民らの声で、昭和56(1981)年に国の史跡に指定されて、横須賀城跡公園として整備され、現在に至る。

最後に、公園内にあった注意書き:

当たり前のことだが「犬のフンは持ち帰ろう」

See Also横須賀城攻め (フォト集)

【参考情報】

参照

参照
a 現在の愛知県新庄市長篠にあたる。
b おそらく、長篠の戦後に信長からは「家康だけで」三河・遠江両国を取り戻すよう指示があったとされる。
c この家康の『石橋を何度も何度も叩いてから渡る』といった異常なまでの慎重さは、今川家による幼年からの人質時代に培われたと考えられている。
d この模型は設置後から心無い来訪者によって度々破壊行為を受けていたと云う。二度の修理後の姿がこれである。馬鹿者としか言いようがない。
e およそ132.2㎡である。

1 個のコメント

  1. ミケフォ

    城址としても保存の具合が良く、観光客も少ないのでゆっくりと堪能できます。高天神城とペアでオススメ。

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