城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

月別: 2017年8月

茅ヶ崎城 − Chigasaki Castle

早渕川に張り出す丘陵上に築かれた茅ヶ崎城の中郭は高い土塁で囲まれていた

神奈川県横浜市都筑区茅ヶ崎[a]神奈川県茅ヶ崎市とは異なる。ここは横浜市都筑区(よこはまし・つづきく)である。は旧港北区の北西部にあたり、現在は横浜市の行政区として再編され港北ニュータウンとして生活拠点に指定された街であるが、その街を流れる鶴見川の支流・早渕川(はやぶちがわ)中流右岸にある三角山[b]現在の横浜市営地下鉄のセンター南駅付近の旧名称である。から東へ連なる標高28m〜35mほどの丘陵上に茅ヶ崎城[c]この茅ヶ崎周辺は標高が低い盆地にあるので、比高差は意外と大きい。がある。この城の近くには、往時は関東各地と鎌倉を結ぶ鎌倉道のうち「中の道」が通っており、東には相模国と武蔵国江戸を結ぶのちの中原街道が、そして西には矢倉沢街道に通じており、まさに交通の要衝の地に築かれた平山城であった。この城の築城とその年代については正確な史料がないため、平成2(1990)年から始まった発掘調査の結果から築城年代は14〜15世紀前半頃で、少なくとも二度に渡る大規模な改築跡が認められた。それにより15世紀後半の相模国と武蔵国は関東管領・山内上杉氏の所領であり、その後は小田原北条氏の支配を受けていたと考えるのが専らとされている。現在残る遺構も、早渕川に張り出した丘陵上に複数の郭が連なり、それらを取り巻く空堀や堀切、外縁部に築かれた高い土塁、そして中郭東にあった二重土塁などは「北条流築城術」が伺え、その保存状態も良好である。

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a 神奈川県茅ヶ崎市とは異なる。ここは横浜市都筑区(よこはまし・つづきく)である。
b 現在の横浜市営地下鉄のセンター南駅付近の旧名称である。
c この茅ヶ崎周辺は標高が低い盆地にあるので、比高差は意外と大きい。

横須賀城 − Yokosuka Castle

城内に船着場を持つ横須賀城本丸南下は大井川の河原石を用いた玉石垣造りだった

今から400年以上も前の天正3(1575)年、織田信長・徳川家康らの連合軍38千は三河国の設楽原付近[a]現在の愛知県新庄市長篠にあたる。で武田勝頼が率いる騎馬軍15千と決戦を行い(長篠設楽原の戦)、これに勝利した。これを機に、家康はその前年に無念にも甲斐武田の手に陥ちた高天神城の奪還に向けて準備を開始した。しかしながら長篠の戦で惨敗し多くの重臣・将兵を失った勝頼ではあったが、その強力な甲州騎馬軍団は依然として侮りがたく、家康だけで[b]おそらく、長篠の戦後に信長からは「家康だけで」三河・遠江両国を取り戻すよう指示があったとされる。一気に力攻めするようなことはせずに、足掛け二年もの時間をかけて[c]この家康の『石橋を何度も何度も叩いてから渡る』といった異常なまでの慎重さは、今川家による幼年からの人質時代に培われたと考えられている。、まずは高天神城の周囲にある武田方の城や砦を一つづつ取り戻し、その上で周囲に六つもの附城を築き、高天神城への人的・物的補給路を完全に遮断して兵糧攻めによる攻城戦を選択した。その附城の一つとして家康の命を受けた大須賀康高が、馬伏塚(まむしづか)砦に続いて天正6(1578)年から築いた横須賀城は、現在の静岡県掛川市大渕にある。この城は、高天神城からおよそ6㎞という距離にあり、城の南側が遠州灘の入江となっているため船着場を持ち、さらに西と東にそれぞれ大手門を持つ両頭城で、高天神城攻めの軍事拠点として、そしてその周囲にある各砦の兵站拠点として活用されることになった。

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a 現在の愛知県新庄市長篠にあたる。
b おそらく、長篠の戦後に信長からは「家康だけで」三河・遠江両国を取り戻すよう指示があったとされる。
c この家康の『石橋を何度も何度も叩いてから渡る』といった異常なまでの慎重さは、今川家による幼年からの人質時代に培われたと考えられている。

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