城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

高天神城 − Takatenjin Castle

古来「高天神を制するものは遠州を制す」と謳われた高天神城は鶴翁山頂に築かれていた

静岡県は掛川市上土方嶺向《カケガワシ・カミヒジカタ・ミネムカイ》にある高天神城は、小笠山《オガサヤマ》から南東へ延びた尾根の先端にある標高132mで比高100mほどの鶴翁山《カクオウザン》を中心に築かれていた山城である。この城は駿河国から遠江国の入口にあたり、小笠山の北を通る東海道を牽制できる要衝、通称『遠州のヘソ』に位置していたことから、古来より『高天神を制するものは遠江を制す』とも謳われ、群雄割拠の時代には三河徳川氏と甲斐武田氏との間で激しい争奪戦の舞台になった。この城の眼下には下小笠川など中小の河川が外堀を成し、城域にある尾根の三方は断崖絶壁で、残る一方が尾根続きという天然の要害であり難攻不落の城とも云われていたが、実際は東西二つの尾根のうち西峰にある西の丸や堂の尾曲輪が陥ちると、その対面の東峰にある本丸が陥とされかねないと云う弱点を抱えていた。武田勝頼が父・信玄没後の天正2(1574)年に2万5千もの大軍を率いて猛攻した際、徳川方の守将・小笠原長忠[a]長忠には、これより三年前の元亀2(1571)年に高天神城を武田信玄が攻めたものの落城させることができずに撤退させたと云う功績がある。は一ヶ月間の籠城によくよく耐えたが、弱点とされた西の丸が攻略された上に徳川家康や織田信長から後詰のないまま[b]長忠から矢のような後詰の催促を受け取った家康は信長に援軍を依頼するものの、越前一向宗門徒の掃討に忙殺されていたため援軍が遅れることになり、結局は援軍の望みが断たれることになった。開城勧告に応じざるを得ず、ついに落城した。

一昨年は、平成27(2015)年のGWは「城攻め三昧」なウィークであったが、最後の二日間は静岡県掛川市まで足を延ばして、その周辺にある城跡をいくつか攻めてきた。初日は午前中に掛川城を攻めた後、お昼を摂ってエネルギーを補給し、掛川駅北口から掛川大東浜岡線・大東支所行き(日祝日の時刻表)の「しずてつジャストラインバス」に乗って20分ほどの土方《ヒジカタ》と云うバス停で下車して高天神城址を攻めてきた。

まず、こちらはGoogle Map 3Dによる追手門のある城址南側からの鳥瞰図:

高天神城は小笠山南峰の標高123mの鶴翁山にある東西の尾根上に築かれていた

高天神城跡の鳥瞰図(Google Map 3Dより)

土方のバス停近くには①千人塚と云う武田方の戦死者を祀る祠や何かの標柱が残っていた。県道R38を南下したところに②追手門入口の大きな看板が建っており、そこから田園風景を眺めながら15分程歩いたところに城址公園南側の駐車場(トイレあり)があって、その先が③追手門跡をはじめとする城跡がある:

城址公園には北と南に駐車場と登城口が設けられており、バス停からの距離はさほど違いはない

高天神城跡の鳥瞰図(コメント付き)

これが①千人塚。天正9(1581)年に武田方だった高天神城が落城した時の戦は壮絶だったらしく、数多くの武将が命を落としたと云う。ここ小笠橋《オガサバシ》のたもとには戦場で散った名も無き武将らを埋葬・供養する祠が残っていた:

土方のバス停脇の田んぼを見渡すと白い標柱が見えた

田んぼの真ん中に残る千人塚

現在でも地元の人たちによって手厚く祀られていた

千人塚の祠

また小笠橋近くには他にも石製の標柱も立っていた。正確には何と彫られているのか不明だが「高天神」の文字を確認することはできた:

風化していて正確には不明だが「高天神」の文字が彫られていた

小笠橋たもとに残る石柱

この後はバス停がある国道R38を南下して徒歩5分ほどの所に建つ②追手門入口から、今度は西へ向かった:

土方のバス停から徒歩5分ほどの場所に建つ案内板

高天神城址・追手門入口

ここから追手門跡のある城址南側の駐車場までは徒歩で15分ほど。それまでは長閑《ノドカ》な田園風景が広がり、その向こうには高天神城があった鶴翁山が見えてきた:

追手門へ向かって移動すると標高132mの鶴翁山に築かれた高天神城跡が見えてきた

高天神城跡の遠景(拡大版)

田園風景が茶畑に変わったあたりで「高天神城跡南口」の看板が見えてきたので、それに従ってさらに進んで行くと駐車場に到着した:

ここを右折して、更に坂を登ったところに南側駐車場があった

城址南口への案内板

駐車場の他にトイレもあった

高天神城南側駐車場

こちらが今回の城攻めルート:

標高130mの鶴翁山の三方は断崖絶壁、一方が尾根続きという天然の地形を利用した要害だった

高天神城の鳥瞰図(Google Map 3Dより)

今回は追手門跡から始めて、東西の両峰を攻めた後に搦手門跡から出るルートとした

城攻めルート(コメント付き)

ここは城址公園としても、そして自然公園(「高天神保健休養林」と呼ぶらしい)としても散策路がよく整備されており、東側の峰から尾根伝いに西側の峰へ、そして最後は搦手門跡から出るといった標準的なルートで城攻めを楽しむことができた:

「土方」停留所 → ①千人塚 → ②追手門入口 → ③追手門跡 → ④着到櫓跡 → ⑤三の丸跡 → ⑥御前曲輪跡 → ⑦本丸跡 → ⑧的場曲輪跡 → ⑨大河内政局石窟 → ⑩玉場跡 → ⑪鐘曲輪跡 → ⑫井戸曲輪跡 → ⑬二の丸跡 → ⑭堂の尾曲輪跡 → ⑮井楼曲輪跡 → ・・・ → ⑯西の丸跡 → ⑰馬場平跡 → ・・・ → ⑱三日月井戸 → ⑲搦手門跡 → ⑳岡部・板倉の碑 → ㉑渥美源五郎屋敷跡 → 「土方」停留所


駐車場の奥には鳥居が建っているが、そこが追手門の入口であり、そして西の丸に建つ高天神社への参道を兼ねていた:

高天神社の参道を兼ねた追手道が整備されていた

追手門入口

こちらが追手門入口に建っていた「高天神城想像図」。ちなみに、この城は西峰と東峰にそれぞれ曲輪が配置されていたことから一城別郭の城とも云われた:

追手門側の駐車場に立っていたもので、東西の峰にそれぞれ曲輪が配された一城別郭の城だった

高天神城想像図(拡大版)

追手門入口にある鳥居を過ぎると大手道となり、急坂な経て坂入虎口である追手口へ続いていた:

鳥居をくぐったこの先から大手道となる

高天神城指標

急坂となる大手道は屈折した坂入虎口へと続いていた

大手道

しばらく大手道を登って行くと巨大な杉が立っていた。これは樹齢300年以上、目通り2.4m、樹高25mで、ここ鶴翁山で随一の老木と云われる高天神追手門跡スギ(市指定天然記念物)とのこと:

樹齢300年以上の老木

高天神追手門跡スギ

そして③追手門跡(大手門ノ趾)。武田氏と徳川氏との間では激しい争奪戦が繰り広げられた場所でもあり、武田方では内藤昌豊や山縣昌景、徳川方では本多忠勝などそうそうたる面々が攻撃にあたったと云う。この狭い門跡を通る大手道は屈曲し、さらに眼前(右手)は急坂となっており、寄せ手にはかなり苦労したであろうことが想像できた:

この場所は屈曲し、右手は急坂と云うかなりの難所である

追手門跡

そして追手門跡を過ぎた眼前には④着到櫓跡が残っていた。これで、仮に追手門を何とか突破したとしても櫓上からの攻撃を受けることになったであろうと想像する。元々は城主が追手門に到着したことを本丸に伝えるための櫓であったらしい:

追手門の真上に位置し、元々は城主の到着を知らせる櫓が建っていた

着到櫓跡

そして着到櫓跡の上もまた屈曲した急坂になっていた:

追手門周辺は屈曲した大手道と急坂で守られていた

着到櫓跡を見下したところ

しばらく大手道を登って行くと西側の峰へ向かう道と東側の峰へ向かう道の分岐点㋐となった:

急坂ではあるが、階段など整備が行き届いていた

大手道

西の峰(左手)と東の峰(右手)への遊歩道の分岐点である

分岐点㋐

そこで、この後は三の丸や本丸のある東の峰へ向かった。すると今度は本丸跡と三の丸跡への分岐点㋑となったので、このまま三の丸跡がある尾根の南側へ移動した。この小さな曲輪の両脇には土塁が残っていた:

この奥が三の丸跡、手前が御前曲輪・本丸跡である

分岐点㋑

こちらが⑤三の丸跡。天正2(1574)年に武田勢が攻めてきた際には、小笠原与左衛門清有を大将として、城兵250余騎で守備したことから与左衛門曲輪とも呼ばれている:

大手道から本丸を守るための曲輪だったとか

三の丸跡

ここは城址の東と南の展望に開け、追手から本丸に登る大手道を監視し守備するための曲輪で、周囲は土塁で囲まれていた上に、その外側は急峻な崖になっていた:

片隅に残る土塁で、この下は急崖でありながら武者走りがあった

土塁

三の丸の土塁上から下をのぞき込んだところ

急崖と武者走り

高天神城は今から1千年以上前の延喜12(913)年に藤原鶴翁山頂に宮柱を建てたことを起源とし、鎌倉時代には現在の地名にもなっている地頭の土方次郎義政が城砦を築いたと云う。室町時代に入り、今川氏が守護大名から戦国大名に成長する過程で本格的な城郭に拡張され、遠州を攻略する拠点として利用された。今川家で家督争い(花倉の乱)が勃発した折には家中随一の猛将と云われた福島上総介正成《クシマ・マサカゲ》[c]のちに甲斐守護の武田信虎と一戦交えた。一説に、小田原北條氏の重臣で玉縄北條氏の祖である綱成は正成の嫡男と云われている。また豊臣氏恩顧の福島正則は福島正成の流れ汲む同族とも云われている。が城主となった。桶狭間の戦いで今川氏による支配力の衰退が始まった永禄7(1564)年には小笠原与八郎長忠が城主となり、その2年後の徳川氏と武田氏による駿河侵攻で取り交わされた「大井川境界協定」で、高天神城は徳川氏の属城となった。


ちなみに三の丸跡からの眺望の素晴らしさは現代でも健在だった。こちらは城址北東にあった諏訪原城方面の眺め:

(肉眼でも望遠でも確認できないくらい遠いが・・・・)

諏訪原城方面(拡大版)

さらに城址南東の先には遠州灘のある御前崎方面。ちなみに海岸線に沿って風力発電用の風車が見えるあたりが南遠大砂丘《タンエン・ダイサキュウ》:

城址の南東には風力発電用の風車や砂丘、そしてウィンドサーフィンで有名な御前崎を望む

遠州灘方面(拡大版)

このあとは再び分岐点㋑へ戻って、大手道に合流し本丸跡を目指した:

この下へ下りると分岐点㋐になる

分岐点㋑

三の丸からさらに高い尾根に御前曲輪と本丸があった

大手道

東峰の山頂にある本丸跡へ向かう大手道の片側は急崖になっていた:

緩い坂道であるが片側は急崖になっていた

大手道

右手の切岸が御前曲輪跡になる

大手道

すると大手道で3つ目の分岐点㋒となった。この先を左手に折れて登っていくと本丸跡、まっすぐ登っていくと御前曲輪跡に至る:

この先に本丸跡と御前曲輪跡があり、手前の右下が三の丸方面である

分岐点㋒

ここでは直進して⑥御前曲輪跡へ。すると突然出現した、この城には不釣り合いな顔ハメ看板。モデルは徳川方の城主・小笠原与八郎長忠とその奥方らしい。その背後にコンクリート製の基礎が残っているが、これは昭和9(1934)年に地元の古老らが往時を偲び二層の模擬天守を建てた時のものらしい。終戦の年の昭和20(1945)年に落雷で焼失してしまったらしいが[d]一説には帝国陸軍が駐屯していたので空爆時に目立つことを理由として爆破されたとも。

顔ハメ看板の背後にあるのは模擬天守跡らしい

御前曲輪跡

三の丸より高い場所にある御前曲輪からの眺めも素晴らしかった:

城址の東側の眺めで、下に見えているのは農地の用水を貯留しておく田ヶ池

御前曲輪跡からの眺望(拡大版)

曲輪の脇には、江戸時代に西の丸へ移されるまで高天神社があった。現在は鳥居と祠が残っていた。さらに松幹化石[e]珪化木《ケイカボク》とも。火山灰で覆われた木の幹は酸素が届かず密封状態のまま化石状態になることらしい。なんて云う珍しいものも残っていた:

西の丸に天神社を移すまで、ここに本堂があったとされる

元天神社

黄色の破線で囲んだものが化石なんだとか

松幹化石

このまま御前曲輪跡を進んでいくと⑦本丸跡になる。標高132mの山頂に位置し、東峰で最も高い位置にある曲輪である。甲陽軍艦によれば、ここは千畳敷とも云われ、城内で一番広い曲輪でもあったらしい。おそらく実質的に御前曲輪と本丸は一つの曲輪であったと思われる:

千畳敷ともいわれた城内で一番広い曲輪である

本丸跡

一時は共同で駿河を「強奪」した三河徳川氏と甲斐武田氏であったが、それも長くは続かず、元亀2(1571)年に信玄が2万5千の大軍で来攻、高天神城を包囲した。城方は小笠原長忠率いる2千で籠城、ここ本丸には軍監・大河内武者奉公渥美勝吉以下500と遊軍170が詰めていたと云う。信玄は緒戦、追手門を激しく攻め立てたが人的損害に憂慮し、無理攻めはせずに包囲を解いて東三河へ退却した[f]信玄は、この翌年秋に「西上作戦」を発動、三河に侵攻して三方ヶ原の戦いへと続くことになる。


本丸跡の西側と北側にはそれぞれ虎口が残り、周囲には僅かに土塁が残っていた:

この下は、御前曲輪を攻める前に通った分岐点㋒である

本丸西側の虎口

この下は西側下段にあたる的場曲輪に続いていた

本丸北側の虎口

本丸北側虎口の側に残る土塁である

土塁跡

これは本丸を北側から眺めたところ。ここには水飲み場が設けられていた。今から400年以上前の徳川氏による兵糧攻めでは飲水も枯れ、本丸でも大勢の餓死者が出たと云う:

このようにして眺めると意外と広い曲輪だったのがよくわかる

本丸跡(拡大版)

(400年前の兵糧攻めでは水も欠き、城内の窮乏は厳しかったであろう・・・)

水飲み場

ここで本丸下段にある的場曲輪へ下りる前に、本丸北端から見下ろしてみた:

奥に見えるのは高天神城跡の碑である

本丸土塁跡

こちらが土塁跡から見下した腰曲輪にあたる的場曲輪。比高差10mはありそうだった:

この下には的場曲輪跡がある

本丸跡の北端

本丸の下段に位置する的場曲輪との比高もなかなかのものである

本丸跡の北端

そして北側虎口から⑧的場曲輪跡へ:

この坂下には本丸の腰曲輪にあたる的場曲輪がある

本丸北側の虎口

この曲輪からは兵糧を備蓄する蔵の石敷き遺構が発見された

的場曲輪跡

こちらは的場曲輪跡から本丸跡を見上げたところ。先ほどは本丸跡から見下ろしたが、下から見上げた方が比高差がよく分かる。なお近年の発掘調査によると、本丸跡と的場曲輪跡から兵糧を備蓄するための蔵の石敷き遺構が発見されたのだとか:

的場曲輪跡から本丸跡を見上げると、その比高差がよく分かる

本丸跡の切岸

この曲輪はちょうど東峰の北端にあたり、その下は急峻な崖になっていた:

東峰の曲輪群は急峻な崖を利用していた

的場曲輪を囲む急崖

東峰北端にある的場曲輪は急峻な崖で守られていた

的場曲輪を囲む急崖

この曲輪の北東隅に大河内政局石牢道入口と云う標柱が建っていたので、そこをしばらく降りていくと帯曲輪があり、そこには⑨大河内幽閉の石風呂(石窟)が復元されていた。天正2(1574)年に四郎勝頼の猛攻を受けて落城した際に、本丸守備に詰めていた軍監・大河内源三郎政局は一人頑として降伏しなかったため、このあと徳川氏が高天神城を奪還するまでの8年間、ここに幽閉されることになった:

右手の階段を下りた本丸下に幽閉場所が復元されていた

大河内政局石牢道入口

本丸に詰めていた軍監・大河内源三郎政局は落城後に幽閉されたと云う

大河内政局石窟

再び的場曲輪跡へ戻り、そこから大手道に合流した。ちなみに、この大手道は分岐点㋐の延長線上にある:

左手は西峰方面、右手は的場曲輪跡、正面は玉場跡である

分岐点㋐から続く大手道

ここから写真左手の階段を下りて行くと鐘曲輪跡になり、写真中央に見える小屋の先には玉場跡があった。そこは的場曲輪跡の真下に位置する腰曲輪にあたり、ここで鉄砲の練習をしたことが名前の由来なのだとか:

本丸、的場曲輪に対する腰曲輪にあたる場所

玉場跡

このあとは西峰にある曲輪を攻めるため大手道へ戻り、搦手口のある⑪鐘曲輪跡へ。この曲輪と、その西側にある井戸曲輪は高天神城の東西の峰を結ぶ鞍部《アンブ》に相当し、本丸の次に重要な曲輪であった[g]なお、この城で一番重要な曲輪は本丸ではない。

左手の石段を上がると井戸曲輪跡、右手奥が搦手道、手前が西峰方面である

鐘曲輪跡

鐘曲輪跡から本丸や三の丸などがある東側の峰を見上げたところ

東峰

そして、この曲輪の南側は鹿ヶ谷と呼ばれ、大池(溜池)があった。近年は、この池の南側から西側へ伸びる尾根に、新たに三重の竪堀と虎口らしき遺構が発見されたのだとか:

東西の峰に挟まれた鐘曲輪の南側には大池があった

城址南側の鹿ヶ谷

城の南側から西へ伸びる鹿ヶ谷の尾根に三重の竪堀と虎口が見つかったらしい

高天神城の大池

鐘曲輪跡から石段を登ってさらに西へ移動すると⑫井戸曲輪跡がある:

かな井戸と呼ばれる井戸があることが名前の由来だとか

井戸曲輪跡

ここには、天正8(1580)年に高天神城包囲網を完成させた徳川方により城下の水の手を奪われた武田方が掘った「かな井戸」と呼ばれる井戸が残っており、それがこの曲輪の名前の由来なのだとか。ついでに、現代はこの場所にも水飲み場が設置されていた:

籠城中に水の手を奪われた武田方が掘った井戸らしい

かな井戸

(現代は、なんとも恵まれた世界ではないかと思ったり・・・)

水飲み場

井戸曲輪跡には尾白稲荷大神と天神城合戦将士英魂之碑が建っていた。この稲荷大神が建つ場所でも激しい攻防戦があったらしい:

ここでも激戦があったらしい

尾白稲荷大神

二度に渡る徳川氏と武田氏との激戦の犠牲となった将士が眠る

高天神城合戦将士英魂之碑

このあとは井戸曲輪跡から西峰の北側に設けられた曲輪をいくつかみてきた。まずは⑬二の丸跡:

上段と下段に分かれているようだが、下段が袖曲輪とも

二の丸跡

斜面に設けられた二の丸は上・中・下の三段に分かれており、直ぐ脇の袖曲輪跡の先にある虎口を経由して堂の尾曲輪跡へ向かった:

二の丸と隣接する小さな曲輪で、この先には堂の尾曲輪があった

袖曲輪跡

その途中にあったのが二の丸虎口跡。この下に堂の尾曲輪が続く:

この下の尾根に沿って堂の尾曲輪が北に伸びていた

二の丸虎口

二の丸は袖曲輪を含めて三段の曲輪で構成されていた

虎口から二の丸跡

こちらは二の丸跡のすぐ北にあった徳川方の城将・本間八郎三郎氏清とその弟の丸尾修理亮義清の戦死の址。天正2(1574)年に武田勝頼が2万5千の大軍で高天神城を包囲した際に、二の丸の守将であった本間八郎氏清は物見櫓で城兵300を指揮していたが、寄せ手・穴山梅雪配下の西島七郎右衛門に狙撃され絶命(享年28)、代わりに櫓にて指揮を執っていた丸尾修理亮義清もまた狙撃により討死した(享年26)と云う:

兄弟が討死してまもなく高天神城は開城となったという

二の丸を守備した本間・丸尾兄弟の墓

西峰の尾根上に連なっていた二の丸と堂の尾曲輪との間には複数の堀切が設けられ、寄せ手の侵攻を遮断していたという。
これは一番目(南側)の堀切跡で幅約9m、深さ約6mを有し、さらに発掘調査では堀底に橋脚が二箇所発見された。平時は橋を架けて通行し、戦時になると橋を取り払って敵の侵入に備えていたと考えられている:

左手が堂の尾曲輪跡、V字型の堀切を挟んで右手が二の丸跡である

一番目(西峰南側)の堀切跡

そして、この堀切の切岸を上がっていくと⑭堂の尾曲輪跡がある。ここは天正2(1574)年に勝頼が落城させた後に拡張された曲輪で、緩やかな尾根沿いに堀切と横堀で囲んだ縦長の曲輪であった:

曲輪の上には土塁がが残り、周囲は横堀と堀切で囲まれていた

堂の尾曲輪跡

こちらは二番目(北側)の堀切跡。西峰は、東峰とは異なり緩やかな尾根伝いに寄せてくることが多いため、堀切や横堀、そして土塁を多用し、随所に防御の工夫が施されていたと思われる。この堀切を挟んだ向こう側が井楼曲輪跡:

手前が堂の尾曲輪跡、堀切の先に長く伸びる郭が井楼曲輪跡である

二番目(西峰北側)の堀切跡

堀切越しに眺めた⑮井楼曲輪跡。この曲輪の北端には物見櫓が建っていたらしい:

この先が西峰の北端であり、往時は物見櫓が建っていた

井楼曲輪跡

ここで堂の尾曲輪跡を下りて尾根沿いに設けられていた長大な横堀を見ることにした。これは一番目の堀切が伸びた所にある土橋と、それを挟んで見た北側(左手)と南側(右手)に伸びる横堀(空堀)跡で、堀底が箱堀になっているのが特徴である:

西峰の緩やかな尾根に沿って長大な横堀が設けられていた

横堀跡

この正面が二番目の堀切で、左手が井楼曲輪跡、右手が堂の尾曲輪跡

土橋跡

こちらは西峰の南側にある二の丸方面に伸びる空堀

横堀跡

これが尾根の北端に向けて設けられた横堀(空堀)跡。全長は100mにも及んだと云う。また痕跡は見当たらなかったが、この横堀は堀内障壁を伴う障子堀だったと云う説もある:

右手が井楼曲輪跡で、この先が尾根の北端に至る

横堀跡

いずれにしろ西峰が高天神城の弱点であったようで、いろいろ工夫して防備を固めていたことが伺える:

この辺りが横堀(空堀)の北限のようで、その先は急崖だった

横堀跡

横堀の北限から振り返ったところで、左手が井楼曲輪跡、この先が堂の尾曲輪跡、二の丸跡になる

横堀跡(拡大版)

このあとは堂の尾曲輪跡、そして二の丸跡を経由して井戸曲輪跡へ戻り、そこから高天神社の鳥居をくぐり、その先の石段を登って西の丸跡へ移動した:

井戸曲輪跡の高天神社の鳥居をくぐって石段を登ると西の丸跡がある

井戸曲輪跡の上が西の丸跡

石段を登っていくと高天神社の社務所があり、⑯西の丸跡の標柱が建っていた。天正7(1579)年以降、西の丸は武田方の城代・岡部丹波守元信[h]真幸とも。今川氏の旧臣で、桶狭間の戦では織田信長から今川義元の首級を取り戻した勇将。のちに武田信玄に仕え、ここ高天神城を枕に討死した。享年70。が守備していたことから丹波曲輪とも呼ばれていた:

城主の岡部丹波守元信が直接指揮をとらねばならぬほど重要な曲輪であった

西の丸跡

更に石段を登って行くと高天神社の拝殿があり、その背後には土塁が残っていた。先ほどの社務所のある場所と合わせて西の丸だったと思われる:

拝殿が建つこの場所も西の丸だったと思われる

高天神社裏の土塁

この場所と一段下の社務所がある場所を含めて西の丸と思われる

高天神社の拝殿

武田信玄が病没した翌年は天正2(1574)年に、2万5千の大軍を率いて高天神城を包囲・攻撃した勝頼は城の弱点である西の丸を落し、落城がままならない状況にした上で籠城している守将・小笠原長忠に降伏勧告を行い開城させることに成功した。父の信玄でさえも落とすことができなかった堅城を落として気を良くした勝頼は、さらに一層の外征政策を推し進めるようになった。それと同時に、高天神城を対徳川の前線基地とすべく、弱点である西峰に巨大な横堀や土塁を築き、甲州流築城術で難攻不落の城に拡張した。

しかしながら勝頼の外征政策は周囲に敵を作ることとなり、四面楚歌の状態で長篠設楽原の戦で織田・徳川連合軍に惨敗し完全に劣勢になると、家康は静かに反撃を開始した。


ここ西の丸は、城代が守備するほど(本丸よりも)重要な曲輪であった。なぜなら勝頼が攻めたいわゆる「第一次高天神城攻め」、そして家康が奪還した「第二次高天神城攻め」のいずれも西峰にある堂の尾曲輪と西の丸が真っ先に陥ちていることから、西峰は常に戦いの最前線となり、激烈な攻防戦が繰り広げられた場所だったからである。

そして高天神社の裏へ回ると西の丸と馬場平との間には堀切が残っていた:

手前の西の丸と、その先の馬場平とを隔てる堀切である

西峰に残る堀切

この堀切を渡ると⑰馬場平跡があった:

「番する場」という番場が馬場となったとも言われている西峰の西端

馬場平跡

「番する場」と云う番場から「馬場」になったと云う説もある西峰最西端の削平地には、かっては城の南側を監視するための番屋が建っていたのだとか:

空気が澄んでいれば、南アルプスまで眺めることができるそうだ

馬場平跡

そういうこともあって、ここからは北側にある南アルプスよりも南側の平野部とその先にある遠州灘への眺めの方が良かった:

周囲が鬱蒼としているこの時期は南アルプスよりも、むしろ南側に開ける眺望の方が良かった

遠州灘方面の眺望(拡大版)

この曲輪の西隅には「甚五郎抜け道」と呼ばれた、ここから約1kmの尾根続きの険路「犬戻り猿戻り」へ至る出口があった。天正9(1581)年の第二次高天神城の戦で、落城の直前に武田方の軍監・横田甚五郎尹松《ヨコタ・ジンゴウロウ・タダマツ》が本国に子細を知らせるため、岡部丹後守と城兵が討って出たのと同時にここから脱出して信州を経て甲州へと抜け去ったと云う:

第二次高天神城の戦で落城の詳細を報告すべく横田甚五郎尹松が脱出した

甚五郎抜け道

このあとは西の丸跡と井戸曲輪跡を経由して鐘曲輪跡から搦手口へ移動した:

この左手下が搦手道で、右手は本丸や三の丸がある東峰方面である

鐘曲輪跡の搦手口

この先は断崖の間をぬうような急峻な搦手道となる

搦手道

この搦手道をしばらく降りていくと⑱三日月井戸がある:

搦手脇の岩盤を刳りぬいたような場所に今でも水が滲み出ていた

三日月井戸

搦手脇に残る小さな池であり、見事な水源という訳ではない

三日月井戸

現在、搦手側は追手側よりも綺麗に整備されていたが、それは急峻な断崖の間をぬうような急坂だったからだと予想できる:

距離は短いが急峻な坂が続く搦手道である

搦手道

こんな感じで急坂が続く搦手道:

この長く勾配のある坂は降りる時よりも登ってくるほうがキツイ

搦手道

振り返って搦手道を見上げると両脇は急峻な切岸がそびえ立っていた:

まさに急峻な搦手階段と迫りくる切岸が印象的であった

振り返って見上げた搦手道(拡大版)

石段を15分位降りていくと⑲搦手門跡に到着した:

落城前に城兵はこの辺りで演じられた幸若に涙を流し玉砕したと云う

搦手門跡

そして高天神城跡の碑と「高天神保健休養林[i]「保健休養林」とは人に安らぎを与え、ハイキングやキャンプ、森林浴などの戸外レクリエーションの場として活用できる森林のことらしい。案内図」:

この辺りは綺麗に整備され、近くには北側駐車城も完備していた

史跡・高天神城跡の碑

(ざっと見る限り「保健休養林」としてよりは「城跡」としての情報の方が多いように見えるが・・・?)

高天神保健休養林案内図(拡大版)

こちらはGoogle Map 3Dによる搦手門のある城址北側からの鳥瞰図:

高天神城は小笠山南峰の標高123mの鶴翁山にある東西の尾根上に築かれていた

高天神城跡の鳥瞰図(Google Map 3Dより)

鶴翁山の山頂から放射線状に伸びた尾根が入り組み、谷が入り込んだ複雑な地形を利用し、往時は最先端の築城術を用いてまれに見る堅城を誇っていたとされる:

城址公園北側には結構な広さを持つ駐車場と妙な形をしたトイレがあった

高天神城跡の鳥瞰図(コメント付き)

搦手門を過ぎ、北側駐車場を横目に、一旦は城址公園の外に出てから、馬場平跡から続いていた甚五郎抜け道の出口のある林の谷池へ向かった:

左手へ進むと城址の搦手門跡、右手奥は林の谷へ至る

高天神城址の案内板

天正3(1575)年の長篠・設楽原の戦後、徳川家康は高天神城奪還のために長期戦を踏まえた包囲網の構築に力を注いだ。これは有能な重臣らを失い四面楚歌となった勝頼が後詰する余裕のないことを確信した上での判断であった。まずは高天神城の近隣にある諏訪原城二俣城を攻略し、天正4(1576)年には前線基地として横須賀城を築かせた。さらに包囲網を狭めるため、二年がかりで小笠山砦・獅子ヶ鼻砦・中村砦・能ヶ坂砦・火ヶ嶺砦といった附城(高天神六砦)を築き、高天神城への補給路の完全封鎖を実施した。これにより高天神城は孤立し、兵糧攻めが完成した。一方、城方は岡部丹波守元信以下900ほどの城兵が籠城していたが、天正9(1581)年になると城内の窮乏は一段と厳しくなり後詰も期待できないことから、ついに降伏・開城を申し入れることにした。しかし家康は降伏を許さず、敢えて落城させることで勝頼の求心力の低下と、武田に味方する他の国衆らの動揺を誘う作戦に出た。

降伏の途が閉ざされた城内は兵糧が底を尽き、餓死者が続出して悲惨な状況になる中、城代である元信は亡き信玄公への恩義に報いるため最後の突撃を決断する。その日の夜、元信は徳川方にその旨を伝え、幸若舞のリクエストを出し、城兵らに酒を振るまって最後の宴を開いた。城兵は搦手門近くで演じられた幸若舞に涙を流し、その夜、元信以下700余の城兵が城門から「こぼれ落ちる[j]『信長公記』の一説より。午後10時前後、元信以下城兵は囲みの柵を打ち破って、こぼれ落ちるように城門から出撃し、やせ衰えた将士らは次々と討ち取られた。」ように突撃を敢行、討死を遂げ、高天神城はついに落城した。


こちらは林の谷池へ向かう途中に眺めた高天神城の遠景(パノラマ):

城址北側からの眺めで、中央が西峰、左手奥が搦手口方面、右手が林の谷池方面である

高天神城の遠景

この先が林の谷池:

最後の城址の案内版から徒歩で10分くらいのところである

林の谷池方面

途中、⑳岡部・板倉の碑があった。左が徳川方の板倉喜蔵定重の墓、右が武田方の岡部丹波守元信討死の碑:

徳川方の板倉喜蔵定重の墓(左)と武田方の最後の城主・岡部丹波守討死の碑

岡部・板倉の碑

こちらは「甚五郎抜け道」の出口にあたる林の谷池の土塁と池:

ここが甚五郎抜け道の出口となる

林の谷池の土塁

鶴翁山の尾根が入り込み、谷が入り込んだ場所にあった大きな池である

林の谷池(拡大版)

そして池の脇には馬場平からの遊歩道(甚五郎抜け道)があった:

現在は整備されてトレッキングコースの遊歩道になっていた

甚五郎抜け道

以上で高天神城攻めは終了。このあとは㉑渥美源五郎屋敷跡の前を通って再び土方のバス停へ向かった:

横須賀城を築いた大須賀康高の配下の一人である

渥美源五郎屋敷跡

最後に高天神城跡で見かけた「火気に注意」の看板:

「火気に注意」の看板

See Also高天神城攻め (フォト集)

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【参考情報】

参照

参照
a 長忠には、これより三年前の元亀2(1571)年に高天神城を武田信玄が攻めたものの落城させることができずに撤退させたと云う功績がある。
b 長忠から矢のような後詰の催促を受け取った家康は信長に援軍を依頼するものの、越前一向宗門徒の掃討に忙殺されていたため援軍が遅れることになり、結局は援軍の望みが断たれることになった。
c のちに甲斐守護の武田信虎と一戦交えた。一説に、小田原北條氏の重臣で玉縄北條氏の祖である綱成は正成の嫡男と云われている。また豊臣氏恩顧の福島正則は福島正成の流れ汲む同族とも云われている。
d 一説には帝国陸軍が駐屯していたので空爆時に目立つことを理由として爆破されたとも。
e 珪化木《ケイカボク》とも。火山灰で覆われた木の幹は酸素が届かず密封状態のまま化石状態になることらしい。
f 信玄は、この翌年秋に「西上作戦」を発動、三河に侵攻して三方ヶ原の戦いへと続くことになる。
g なお、この城で一番重要な曲輪は本丸ではない。
h 真幸とも。今川氏の旧臣で、桶狭間の戦では織田信長から今川義元の首級を取り戻した勇将。のちに武田信玄に仕え、ここ高天神城を枕に討死した。享年70。
i 「保健休養林」とは人に安らぎを与え、ハイキングやキャンプ、森林浴などの戸外レクリエーションの場として活用できる森林のことらしい。
j 『信長公記』の一説より。午後10時前後、元信以下城兵は囲みの柵を打ち破って、こぼれ落ちるように城門から出撃し、やせ衰えた将士らは次々と討ち取られた。

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