江戸末期の東海地震で倒壊した天守は140年ぶりに戦後初の木造で再建された

室町中期、懸川城[a]現在の静岡県掛川市掛川にある掛川城と区別して『掛川古城』とも。は今川義元の祖父・義忠の重臣であった朝比奈泰煕(あさひな・やすひろ)によって遠江国佐野郡にある子角山(ねずみやま)丘陵に築かれた城であり、朝比奈氏が代々城代を務めた。そして泰煕の子・泰能(やすよし)は手狭になった古城から現在の掛川城公園がある龍頭山(りゅうとうざん)に新しい掛川城を築いた。それから永禄3(1560)年に今川義元が桶狭間にて討死、さらにその8年後には義元亡き今川家を強く支えていた母の寿桂尼(じゅけいに)が死去して甲斐武田氏と三河徳川氏による駿河侵攻が本格化すると、当主の氏真は駿河国の今川氏館を放棄してここ掛川城へ逃げのびた。しかし家康に執拗に攻め立てられた城主・朝比奈泰朝(あさひな・やすとも)は後詰のない籠城戦に堪えられぬと開城を決意し、主と共に小田原北条氏の庇護下に落ちた。家康は重臣の石川家成を城代とし、その後に武田氏と敵対すると、ここから近い高天神城諏訪原城で激しい攻防戦が繰り広げられた中にあっても武田氏滅亡まで徳川氏の属城であり続けた。そして天正18(1590)年に家康が関東八州へ移封されると、秀吉の直臣である山内一豊(やまうち・かつとよ)が入って大幅な拡張を施し、三層四階の天守を建てて近世城郭へと変貌させた。

一昨年は、平成27(2015)年のGWは「城攻め三昧」なウィークであったが、その後半の二日間は静岡県掛川市まで足を延ばして、その周辺にある城跡をいくつか攻めてきた。初日の午前中は掛川城。この日の朝は4:00am起きして、6:40amのJR新幹線こだま631号に飛び乗り、8:11amに掛川駅に到着した。駅の北口から掛川城のある掛川城公園まで、途中に再建された大手門があるが、駅からまっすぐ北上して徒歩10分ほどだった。
まずは今回の城攻めルート:

逆川を外堀とした典型的な近世城郭であり、天守閣の他に重要文化財の二の丸御殿も見所である

掛川城の鳥瞰図(Google Map 3Dより)

『懸川古城跡』は城攻め後に知ったので残念ながら攻められなかったが見事な堀切が残っているらしい

掛川城の城攻めルート(コメント付き)

なお掛川城の北東にある子角山(ねずみやま)は今川氏時代の懸川城跡らしいが、残念ながら、その存在を後日知ったため今回は攻めることができなかった。同じく竹之丸跡も、こちらは全く頭には無かった:Oのだけれど今回は攻めていない:

JR掛川駅北口 → ①大手門 → 大手門番所 → ②逆川(緑橋) → ③松尾池跡 → 三の丸跡 → ④三日月堀(南側から) → ⑤四足門 → ⑥十露盤堀 → ④三日月堀(北側から) → 本丸櫓台石垣 → ⑦太鼓櫓 → ⑧本丸跡 → 天守丸 → ⑨天守閣 → ⑩腰曲輪跡 → ⑪二の丸御殿 → 二の丸美術館・二の丸茶屋 → ⑫土塁跡 → ・・・ → JR掛川駅北口

まずは①大手門。天守閣に続いて平成7(1995)年に復元された。掛川城内に入る際に最初にとおる門で、天正18(1590)年より慶長5(1600)年まで在城した山内一豊が中町に開かれた松尾口の大手筋跡に大手郭を造り、その正門として設けたもの:

楼門造りの本格的な櫓門は木造本瓦葺き入母屋造りである

大手門(復元)

これは楼門造りの櫓門で、間口は約12.7m、奥行は約5.4mの二階建て。棟までの高さは約1.6mあり、二階は漆喰塗篭(しっくい・ぬりごめ)造りで格子窓付の門櫓を載せ、庇屋根(ひさしやね)を付け、さらに左右二箇所づつ鉄砲狭間が設けられていた:

中央に門扉、左手に潜戸があり、鏡柱は約66cmに約45cmもある

大手門(復元)

一階の中央に両開きの門扉(もんぴ)、左手には通用口として片開きの潜戸(くぐりど)が設けられている。一階の門扉を支える黒ずんだ鏡柱の太さは66cmあり、冠木(かぶき)、梁、垂木(たるき)なども全て大木を用いた壮大な造りになっている。冠木下の高さが約4.4mもあるのは乗馬のままで通行できるようにしたためだとか:

手に見えるのは大手門番所(掛川市指定文化財)である

城内跡から見た大手門(復元)

大手門は嘉永7(1856)年の安政東海地震で一度倒壊し、安政5(1858)年に再建されたが、明治になって掛川城が廃城となったあとに民間に払い下げられて火災で焼失したらしい。ちなみに、大手門の本来の位置はここでから50m程南側(JR掛川駅方面)にずれたところだったらしい[b]復元時には、既に施行されていた区画整理事業で道路が敷かれ、民間の家屋に支障を来すおそれがあったため。

こちらは復元された大手門の中に展示されていた門の礎石根固め石(そせき・ねがためいし)と歴代城主のプレート。根固め石は平成5(1993)年の発掘調査で発見された12個あるものの一つで、直径2m、深さ1.5m程の大きな穴に40cm前後の河原石を円形に何段も重ねておき、その上に礎石が置かれていたと云う:

大きくて重量のある櫓門の礎石を支えていたまさに「縁の下の力持ち」である

大手門礎石根固め石

今川氏、徳川氏、豊臣氏らの重臣が城代を務めていた(右側が古い)

掛川城の歴代城主(拡大版)

そして、この場所には大手門番所(市指定文化財)が建っていた。往時、この番所で大手門を出入りする者らを監視・警備するための役人が詰めていたと云う。この番所は嘉永7(1854)年の大地震で倒壊した後、安政6(1859)年に再建された現存遺構であり、廃城後に元藩士宅として譲り受けていたものを昭和53(1978)年に市へ寄贈され、この場所に移築・復元されたが、大手門との相対位置は往時と同じなのだとか:

大手門の復元と同時に、同じ相対位置に配置されてた

大手門番所(現存)

当時、この大手門前で何やらフェスティバルが行われる予定だったようで、大手門前にドカドカと車や機材が置かれていた。観光客はお構いなしって感じ。後で見た時は『大手門』とは全く関係のないロックを大音量で流していたが:$

この後は②逆川(さかがわ)を渡って掛川城の内郭へ移動した。こちはら逆川に架かる緑橋の袂から眺めた天守閣と太鼓櫓:

往時は天然の外堀であった逆川に架かる緑橋の袂から眺めた天守閣と太鼓櫓

天守閣と太鼓櫓(拡大版)

東から流れててきた逆川が龍頭山に当たり、川は深い淵となり急崖を作った。鎌倉時代から『懸河』と呼ばれていたこの場所が掛川の地名の由来であり、往時は天然の外堀であったとされる:

掛川の地名の由来ともなった逆川は太田川水系の二級河川である

逆川

ちなみに大手門や天守閣復元際の資料となった『正保城絵図[c]正保元(1644)年に江戸幕府が諸藩に命じて作成させた城下町の地図集で、現在は国立公文書デジタル・アーカイブで参照できる。によると、往時は逆川に架かるこの緑橋は存在してはいないが、この橋を渡り向かって左手が本丸跡(掛川城公園)、右手が三の丸跡(模擬石垣で囲まれた掛川城三の丸広場)になっている。そして本丸跡の手前には電話ボックスと公衆トイレがあり、そこは『懸河旧址』なる標柱が立っているが、そこには往時は本丸南側を囲んでいた③松尾池と呼ばれる水堀があった場所である:

往時は本丸南側に設けられた水堀であるが現在は説明板が残るのみである

松尾池跡

まずは三の丸跡に設けられた掛川城三の丸広場から本丸への出入口である四脚門と天守閣の眺め:

正面にあるのが復元された四脚門、右手先にこちらも復元された三日月堀がある

掛川城公園の入口(拡大版)

そして、こちらが二の丸・本丸・天守丸の縄張図(四足門前にある有田焼による城址の立体模型の説明板より):

正保城絵図を元にした有田焼の立体模型の説明図から

掛川城縄張図(拡大版)

二の丸跡から眺める「東海の名城」とも謳われた美しい外観を持つ天守閣は、先ほどの大手門同様に嘉永7(1856)年の安政東海地震で大部分が損壊し、再建されることなく廃城を迎えた。その後、掛川市民の熱意と努力により、平成6(1994)年に140年ぶりに木造で再建された。その際は、山内一豊が掛川城のあとに手がけた高知城の天守閣も参考にしたのだとか[d]遠州掛川に思い入れ深い山内一豊はのちに土佐一国を与えられて高知城を築いたが、その天守閣は掛川城のものの影響を受け継いでいるとされる。

140年ぶりに木造で再建された三層四階の天守閣は高知城の天守閣も参考にしたのだとか

掛川城の天守閣(拡大版)

こちらは④三日月堀(復元)。本丸へ入る四足門の前面に設けられた三日月状の水堀で、往時は深さが8mもあったと云う。発掘調査では堀の南側から石垣が見つかっており、実際にそれらの石垣も復元されていた。また、その石垣の下には柱穴(ちゅうけつ)が並んで見つかったことから、堀の周囲には塀が設けられていたと考えられる:

深さ8mほどの三日月状の水堀を復元したもの

三日月堀(北側)

堀の南側から出土した石垣も一緒に復元されていた

三日月堀(南側)

この後は、三日月堀脇に建つ「掛川城公園の石碑」の前を通って⑤四足門(復元)へ。発掘調査では門跡につながる遺構は発見されなかったが、『正保城絵図』に描かれていた門を基に復元したものらしい:

『正保城絵図』に描かれていた門を復元したもので実在したかどうかは不明

四足門(表)

門の内側には入場者を調べる番所があったらしい

四足門(裏)

往時、門をくぐった先には本丸への出入りを監視・警備するための番所がおかれていたとのことだが、『正保城絵図』は描かれてない。ちなみに現在は掛川城公園の出入口になっている。

本丸跡へ足を踏み入れたあとは⑥十露盤堀(復元)へ。こちら三日月堀と同様に本丸を囲む重要な水堀の一つで、その名の由来については明らかではないが、水が溜まった部分が十露盤(そろばん)の箱のように見えたと云う説が有力なのだとか:

三日月堀と同様に、これも発掘調査と『正保城絵図』による復元

十露盤堀

細長く復元された十露盤堀ごしに四足門側を眺めたところで、正面に見える建物は⑦太鼓櫓:

十露盤堀ごしに眺めたところ

四足門・十露盤堀・太鼓櫓

そして四足門から本丸跡へ向かう登城道の両脇には本丸櫓門台座石垣がそびえ立っていた:

『正保城絵図』によると、この石垣の上には櫓門が建っていた

本丸櫓門台座石垣

しかし、本丸櫓門は復元はされていなかった

本丸櫓門台座石垣

『正保城絵図』によれば、往時はこの石垣を跨ぐように本丸櫓門が建ち、その脇に荒和布櫓(あらめ・やぐら)と呼ばれた見張りの櫓が建っていたという。しかし、現在は昭和30(1955)年に三の丸から移築された⑦太鼓櫓が建っていた:

何回かの移築の末に、この場所に落ち着いた櫓らしい

太鼓櫓

この太鼓櫓は嘉永7(1854)年の安政東海地震以後に建てられたもの[e]この櫓は何回も移築された経緯があるそうで、その度に用材を新規にしたりしているため文化財に指定することはできないらしい。で、その名のとおり刻を知らせる太鼓が置かれていた。ちなみに、この太鼓は現在は二の丸御殿(掛川城御殿)の広間に展示されている:

何回か移転の末に昭和30(1955)年に三の丸からここに移築されたもの

太鼓櫓

往時使われていたもので、現在は掛川城御殿の広間に展示されている

太鼓櫓の太鼓

本丸櫓門台座石垣を過ぎたところ天守閣・御殿に入場する際の券売機が置いてあり、当時は大人410円だった[f]他に二の丸美術館の入場券をセットしたものあったが。

そして、こちらが券売機前から見上げた天守閣:

天守閣のある天守丸へ行くには正面の石段を登ることにある

本丸跡から見上げた復元天守

安政東海地震で半壊した後、平成6(1994)年に140年ぶりに木造で復元された掛川城天守閣は本瓦葺き、外観は三層で内部は四階(地上二階、塔屋二階)からなる複合式望楼型天守で、棟高石垣上端から最上階の鯱まで約16.18m:

平成6(1994)年に「東海の名城」と呼ばれた美しさのまま日本初の木造天守閣として復元された天守

複合式望楼型の復元天守(拡大版)

発掘調査の結果、天守閣のある天守丸までの登城道には腰石垣(こしいしがき)と玉石側溝(たまいし・そっこう)があったらしい。実物は復元された石垣の下に埋没保存されている:

土塁の裾(腰)から玉石積みの石垣と側溝が見つかったらしい

天守閣へ向かう登城道

本丸跡。往時は藩主の住まいの本丸御殿があったようだが、現在は掛川城公園の花広場になっていた:

往時は藩主の住まいの本丸御殿があったらしい

本丸跡

登城道へ戻って天守丸に建つ⑨天守閣へ向かう:

登城道の石段は何度も折り曲げた狭い階段になっており、敵の侵入に備えていたと云う

登城道から見上げた復元天守閣(拡大版)

天守閣の外側は白漆喰塗籠(しろしっくいぬりごめ)の仕上げで京都聚楽第の建物に倣い、最上階の出入口である引分け戸と廻縁(まわりえん)・高欄(こうらん)は黒塗の仕上げで、こちらは豊臣秀吉の大坂城天守閣に倣ったとされる。軒唐破風の下に小さく見えるのは慶長時代の象徴でもある花頭窓(火燈窓/かとうまど):

最上階の望楼部が極端に小さいのは殿舎の上に物見のための望楼を載せ た時代のなごりと云われている

天守丸に建つ復元天守閣(拡大版)

現在、復元された天守閣がある天守丸の虎口には冠木門が建っているが『正保城絵図』では天守下門と云う二層の櫓門が描かれていた。山内一豊が入城する前までは、ここが本丸として使われていたようで、一豊が城域を拡張した際に本丸とは独立した曲輪になったのだとか:

天守閣が建つ曲輪を天守丸と呼んでいたらしい

天守丸虎口

なお復元に際しては掛川市民や地元企業からの募金よるもので、大部分が『正保城絵図』を基に忠実に再現されている他、山内一豊がこのあとに手がけた高知城の天守閣を参考にし、それに近い構造にしたのだとか[g]実際の復元工事は鹿島建設が請け負ったようだ。
ということで、全く同じ角度からではないけれど、参考のために、この前年に攻めた時の高知城の天守閣と並べてみた:

最上階の入口引分け戸と廻縁・高欄は黒塗であった

掛川城の天守

(同じフォルムを持つ適当な写真が無かったのが残念・・・)

高知城の天守(拡大版)

冠木門をくぐって天守丸へ入ると左手に「霧吹き井戸」なる伝説を持つ井戸跡があった。その伝説とは、永禄12(1569)年の三河徳川氏による駿河侵攻で、今川氏真が立て篭もる掛川城を家康が攻めた際に、この井戸から立ちこめた霧が城をすっぽりと覆い隠し、寄せ手の攻撃から城を守ったと云うもの。なお井戸そのものは室町時代の大永2(1522)に1年もかけて掘られたもので深さは45mもあり、国内第三位の深さを誇るのだとか:

大永2(1522)年に掘られた井戸で、戦国時代の伝説より雲霧城とも呼ばれている

霧吹井戸

この後は天守閣の内部へ。入口は天守閣脇に設けられた附櫓。当時はいろいろなものが展示されていたり、眺めが良かった。
まずは山内一豊公の騎馬像。これは高知公園で見た騎馬像と同型らしい。まるで、内助の功として知られる妻・千代が貯めていた黄金で購入した馬に乗って馬揃えに向かうかのような勇姿である:

馬揃えの際に、妻・千代は蓄えた黄金で良馬を買って武士の面目を施したと云う

山内一豊公の騎馬像

天守丸から見下ろした二の丸御殿(掛川城御殿)。江戸時代後期に再建された現存遺構である。今川氏の時代は、ここが三の丸だった:

現存する数少ない城郭御殿である

二の丸御殿

こちらは城址東側の眺望。中央に見える丘陵が子角山(ねづみやま)で、今川氏時代に重臣・朝比奈泰煕が築城した懸川古城の本丸があったところ:

今川氏の時代に築かれた懸川古城跡が見えた

天守閣から東側の眺望

代々、懸川城は今川家重臣の朝比奈氏が城代を務めていたと云う

天守閣から東側の眺望(コメント付き)

こちらは城址南東側の眺望。すぐ下には三の丸跡と復元された大手門があるが、今川氏の時代は二の丸だった:

ちょうど三の丸跡に造られた三の丸広場と逆川の向こうには大手門が見えた

天守閣から南東側の眺望

朝比奈氏が城代を務めていた時代は二の丸だった

天守閣から南東側の眺望(コメント付き)

さらに、こちらは城址南側の眺望。直下には太鼓櫓と復元された大手門がある。そして、右手はるか先が高天神城方面になる:

太鼓櫓、大手門を見下ろすことができた

天守閣から南側の眺望

ちょっと遠いが、右手が有名な高天神城方面になる

天守閣から南東側の眺望(コメント付き)

最後は城址南西側の眺望。中央はるか先には、家康による高天神城攻略戦の際の附城(つけじろ)であった横須賀城方面になる:

東海道本線・新幹線の先に見えるのが小笠山(標高265m)である

天守閣から南西側の眺望

小笠山の裏側には家康が築いた附城の横須賀城跡がある

天守閣から南西側の眺望(コメント付き)

再び、展示品を観てみると、鎧兜(革製朱塗紺糸威五枚胴七間五段下り)があった他に、天守鯱の原寸大複製があった。現在は、袋井市油山寺に移築保存されている掛川城玄関下御門の鯱を参考に、高知城と同じ青銅製で作成したもので高さ1.2m、200kgもある:

青銅で複製された高さ1.2m、200kgの鯱

天守鯱の原寸大複製

この後は天守閣の外へ出て二の丸跡へ。
まず天守閣の出入口に設けられた附櫓。こちらも天守閣と同様に本瓦葺き、一層一階、外部は天守部分と同様に白漆喰塗籠(しろしっくいぬりごめ)、内部は壁嵌板(かべはめいた)の一部が漆喰真壁の仕上げとなっている:

天守閣の背後に付けられた櫓で、現在は出入口になっていた

天守閣の附櫓

そして、これは高知城でも見かけた忍者返し:

石垣と白壁の境目には忍者返しなる刺が設けられていた

忍者返し

そして天守丸虎口から石段を下りて⑩腰曲輪跡へ。天守丸と本丸との間にある腰曲輪には、往時は二つの櫓と井戸があったらしい。そして、もっと幅広な曲輪であったらしいが廃城時に本丸にあった十露盤堀を埋め立てる土砂を作るために一部が削られてしまったのだとか:

天守丸を下りると十露盤堀がある本丸との間に腰曲輪があった

腰曲輪跡

往時は幅広だったが明治中頃に十露盤堀を埋立てる土砂を作るために削られた

腰曲輪跡

この曲輪跡には二の丸御殿(掛川御殿)や二の丸美術館方面へ下りる階段があるので、そこから本丸跡を出て二の丸跡へ移動した:

腰曲輪跡から二の丸方面へ下りる階段から天守閣を見上げると、東西に設けられた張り出し部が見えた

本丸跡から二の丸跡へ(拡大版)

こちらは国指定重要文化財である⑪二の丸御殿の玄関にあたる車寄せ。この玄関屋根には起破風(むくり・はふ)と蕪懸魚(かぶらげぎょ)が設けられていた:

玄関屋根は非常に珍しい上向きに凸型になった起破風である

二の丸御殿の玄関屋根

二つの異なる破風の他に蕪懸魚との組み合わせは掛川城御殿の特徴である

起破風と入母屋破風

一般的に屋根の軒にある三角形の部分を「破風」と呼び、破風板が上向きの凸型で反っているものを起破風と云う。そして棟木の端を隠す飾りが「懸魚」(げぎょ)で、木造の建物を火災から守る火除のまじないとして取り付けられるものであり、その形状が蕪(かぶ)になっているものを特に蕪懸魚と呼んでいる:

蕪のような形状の下垂の部分に人の字型の筋彫刻を施した蕪懸魚

蕪懸魚

鬼瓦は掛川城の最後の城主であった太田家家正紋の桔梗紋

鬼瓦と蕪懸魚

この二の丸御殿は、江戸時代後期は文久元(1861)年に再建された建築物で、儀式・公式対面などの掛川藩の公的式典の場であり、藩主の公邸であり、そして藩内の政務を司る役所であるという三つの側面を合わせ持った施設であったそうだ。現存する、いわゆる『城郭御殿』としては京都二条城、川越城本丸御殿、そして山内一豊ゆかりの高知城とあわせて全国に四箇所しかない貴重な建築物の一つになっている。なお築城当時は本丸にも御殿があったが、老朽化や震災による倒壊によりここ二の丸に移された:

御書院上の間や次の間あたりの軒先

二の丸御殿(国指定重要文化財)

木造瓦葺平屋の御殿は、七棟からなる[h]但し、現在は台所に相当する建物や蔵、厩、塀は存在していない。書院造と呼ばれる建築様式で、畳を敷き詰めた多くの部屋が連なり、用途に応じて設けられた約20室の部屋は襖で仕切られてた。最も重要な対面の儀式が行われる書院棟は主室の「御書院上の間」と、謁見者の控える「次の間」と「三の間」からなる。

こちらが御書院上の間。城主が政務を行ったと云う部屋で、床の間にかかる「虎」の掛軸は最後の城主・太田氏家老の太田資逢の筆。名将・太田道灌の直系子孫にあたる:

框(かまち)を入れ畳を敷いた床の間と、脇には違い棚が設けられ、右手には付書院を略した障子窓がある

御書院上の間(拡大版)

こちらは藩主の公邸にあたる小書院棟で藩主執務室であった小書院。この棟には他に藩主の居間として使われた長囲炉裏(ながいろり)の間がある:

藩主の執務室として使われた

小書院

長囲炉裏の間の天井。太田家家紋の桔梗紋と、替紋である鏑矢(かぶらや)紋が彫られていた:

太田家家正紋の桔梗紋と替紋の鏑矢紋が彫られていた

長囲炉裏の間の天井

こちらは長囲炉裏の間などに囲まれていた小さな裏庭:

左手が長囲炉裏の間、正面が厠、右手が足軽目付、手前が大目付である

裏庭

そして中庭から御殿西側の棟を眺めたところ:

藩主の公邸の小書院棟は小書院と長囲炉裏の間からなる

小書院棟

書院棟は御書院上の間と次の間と三の間からなる

書院棟

二の丸御殿にある棟のうち台所に相当する棟は存在していないが井戸は残っていた:

二ノ丸台所の大井戸で、二の丸美術館脇にある

勝手台所の井戸跡

こちらは二の丸御殿前から見上げた復興天守閣:

二の丸御殿の庭園ごしに見上げた復興天守

二の丸からの天守閣(拡大版)

最後は二の丸御殿の横に残る⑫土塁跡:

美術館と蓮池の間辺りにある

二の丸御殿脇の土塁跡

美術館と蓮池の間辺りにある

二の丸御殿脇の土塁跡

See Also掛川城攻め (フォト集)

【参考情報】

参照   [ + ]

a. 現在の静岡県掛川市掛川にある掛川城と区別して『掛川古城』とも。
b. 復元時には、既に施行されていた区画整理事業で道路が敷かれ、民間の家屋に支障を来すおそれがあったため。
c. 正保元(1644)年に江戸幕府が諸藩に命じて作成させた城下町の地図集で、現在は国立公文書デジタル・アーカイブで参照できる。
d. 遠州掛川に思い入れ深い山内一豊はのちに土佐一国を与えられて高知城を築いたが、その天守閣は掛川城のものの影響を受け継いでいるとされる。
e. この櫓は何回も移築された経緯があるそうで、その度に用材を新規にしたりしているため文化財に指定することはできないらしい。
f. 他に二の丸美術館の入場券をセットしたものあったが。
g. 実際の復元工事は鹿島建設が請け負ったようだ。
h. 但し、現在は台所に相当する建物や蔵、厩、塀は存在していない。