城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

月別: 2017年7月

高天神城 − Takatenjin Castle

古来「高天神を制するものは遠州を制す」と謳われた高天神城は鶴翁山頂に築かれていた

静岡県は掛川市上土方嶺向(かけがわし・かみひじかた・みねむかい)にある高天神城は、小笠山(おがさやま)から南東へ延びた尾根の先端にある標高132mで比高100mほどの鶴翁山(かくおうざん)を中心に築かれていた山城である。この城は駿河国から遠江国の入口にあたり、小笠山の北を通る東海道を牽制できる要衝、通称『遠州のヘソ』に位置していたことから、古来より『高天神を制するものは遠州を制す』とも謳われ、群雄割拠の時代には三河徳川氏と甲斐武田氏との間で激しい争奪戦の舞台になった。この城の眼下には下小笠川など中小の河川が外堀を成し、城域にある尾根の三方は断崖絶壁で、残る一方が尾根続きという天然の要害であり難攻不落の城とも云われていたが、実際は東西二つの尾根のうち西峰にある西の丸や堂の尾曲輪が陥ちると、その対面の東峰にある本丸が陥とされかねないと云う弱点を抱えていた。武田四郎勝頼が父・信玄没後の天正2(1574)年に2万5千もの大軍を率いて猛攻した際、徳川方の守将・小笠原長忠[a]長忠には、これより三年前の元亀2(1571)年に高天神城を武田信玄が攻めたものの落城させることができずに撤退させたと云う功績がある。は一ヶ月間の籠城によくよく耐えたが、弱点とされた西の丸が攻略された上に徳川家康や織田信長から後詰のないまま[b]長忠から矢のような後詰の催促を受け取った家康は信長に援軍を依頼するものの、越前一向宗門徒の掃討に忙殺されていたため援軍が遅れることになり、結局は援軍の望みが断たれることになった。開城勧告に応じざるを得ず、ついに落城した。

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参照   [ + ]

a. 長忠には、これより三年前の元亀2(1571)年に高天神城を武田信玄が攻めたものの落城させることができずに撤退させたと云う功績がある。
b. 長忠から矢のような後詰の催促を受け取った家康は信長に援軍を依頼するものの、越前一向宗門徒の掃討に忙殺されていたため援軍が遅れることになり、結局は援軍の望みが断たれることになった。

掛川城 − Kakegawa Castle

江戸末期の東海地震で倒壊した天守は140年ぶりに戦後初の木造で再建された

室町中期、懸川城[a]現在の静岡県掛川市掛川にある掛川城と区別して『掛川古城』とも。は今川義元の祖父・義忠の重臣であった朝比奈泰煕(あさひな・やすひろ)によって遠江国佐野郡にある子角山(ねずみやま)丘陵に築かれた城であり、朝比奈氏が代々城代を務めた。そして泰煕の子・泰能(やすよし)は手狭になった古城から現在の掛川城公園がある龍頭山(りゅうとうざん)に新しい掛川城を築いた。それから永禄3(1560)年に今川義元が桶狭間にて討死、さらにその8年後には義元亡き今川家を強く支えていた母の寿桂尼(じゅけいに)が死去して甲斐武田氏と三河徳川氏による駿河侵攻が本格化すると、当主の氏真は駿河国の今川氏館を放棄してここ掛川城へ逃げのびた。しかし家康に執拗に攻め立てられた城主・朝比奈泰朝(あさひな・やすとも)は後詰のない籠城戦に堪えられぬと開城を決意し、主と共に小田原北条氏の庇護下に落ちた。家康は重臣の石川家成を城代とし、その後に武田氏と敵対すると、ここから近い高天神城諏訪原城で激しい攻防戦が繰り広げられた中にあっても武田氏滅亡まで徳川氏の属城であり続けた。そして天正18(1590)年に家康が関東八州へ移封されると、秀吉の直臣である山内一豊(やまうち・かつとよ)が入って大幅な拡張を施し、三層四階の天守を建てて近世城郭へと変貌させた。

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参照   [ + ]

a. 現在の静岡県掛川市掛川にある掛川城と区別して『掛川古城』とも。

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